〈イフ・ストーリー〉の活用

歴史に〈もし〉を仮定するのは、ただの遊びだという考えもあるが、実のところ、歴史は〈もし〉だらけであり、埋もれた歴史の事実は〈イフ・ストーリー〉によって現代にとっての意味をふたたび獲得する。
その際、〈イフ・ストーリー〉は、まことしやかであればあるほどよい。というようりも、〈イフ・ストーリー〉は、つねにまことしやかであり、「本物」以上に本物でなければならない。
ピーター・ダンカンのオーストラリア映画『革命の子供たち』は、まさに〈イフ・ストーリー〉の傑作である。ニューズクリップなどを巧みに用いているので、東欧の共産主義の歴史もスターリンも知らない歴史忘却の「子供たち」がこの映画を見たら、ひょっとして・・・だったの?!と信じかねないほどうまくつくられている。
特にオーストラリアの戦後の細かな歴史的事実をよく押さえているので、オーストラリアの観客にとっては、一層真実味があるあhずだ。五〇年代の「白豪主義」のオーストラリアは、六〇年代から急速に多民族と多文化の社会に変化するが、その背景には、産業構造の変化とそれにともなう労働力の導入があった。カウンターカルチャーが生まれ、ベトナム反戦の動きも激しかった。他方、オーストラリアには、「組合の方が国家よりも先に生まれていた」という組合主義の伝統があり、組合運動は、根づよく、他の西欧諸国よりも柔軟な運動を展開してきた。
そうした本来の反国家的な伝統がオーストラリアにあるので、ことあるごとに、たとえば国歌を変更すべしとか、英国王室との関係を絶つとかいうような議論が沸騰する。わたしも、最近、ABCラジオのインタヴューで天皇制についてのコメントをしたが、日本ではボツにされそうな発言がそのまま放送された。八〇年代以後、商業的なレベルでも知られるようになったオーストラリアの映画や音楽のめざましい展開の背景には、六〇年代以後のこうした「左翼」文化の蓄積があるのである。
この映画の〈もし〉をずばり書いてしまうのは、映画を見る楽しみが半減するのでやめるが、要するに、五〇年代のオーストラリアに熱烈な左翼活動家の女性ジョーンがいて、彼女がスターリンの子ジョーを生む。事の重大さに、彼女はその事実を語らず、子供は知らずに成長する。彼は、左翼の親といっしょに幼いころからデモに行ったりして、人々といっしょに何かをやることには親しんでいるはずなのだが、なぜか、次第に単独の行動を好むようになる。しかも、檻に入るのが好きで、制服の女性に弱い。デモに行くのも、婦人警官に捕まえてもらうためであり、留置場の檻に入りたいためのようだ。やがて、彼は、婦人警官と結婚し、組合でスターリン的な独裁者になっていく。そして・・・。
この辺は、いかにも俗流のフロイト主義的アプローチのように感じられるかもしれないが、それよりも、このようなこっけいな設定と展開を通じて、マルクス主義革命を信じ、そのために〈身を投げ出した〉一人の真摯な女性がその〈胎内〉からスターリン主義者を〈生み出して〉しまった皮肉をまさに肉感的に描いているところを見るべきだろう。そして、その〈身内〉のスターリンを彼や彼女が、そして社会が、どう始末をつけたかが見ものであり、この映画のもっともアクチュアルな(今の現実にわれわれをさし向けるという意味で)ところだ。
肉感的といえば、この映画に登場するスターリンは、しばしば映画で実在の人物が演じれらるとこちらが気恥ずかしくなるようなつくりものになってしまうことが多いのだが、かつて『アマデウス』でサリエリを名演したF・マーリー・エイブラハムが演じていて、そういうことがない。五〇年代からソ連が〈脱構築〉された九〇年代初頭までの左翼史を生きた一人の女性活動家を演じるジュディ・デイビスも、その晩年の老け役も含めて、いい感じを出している。
(週刊金曜日,1998年4月3日・213号,60p.)