「検閲」はづづく

『ピンク・フラミンゴ』といえば、女装の怪優ディバインが主演したカルトムーヴィ、ナンセンスと露悪趣味の極みを追求しつづけたジョン・ウォータズを世に知らしめることになった悪名高き映画・・・等々、形容される言葉はかぎりない。
しかし、この、すでに22年もまえにニューヨーク近代美術館が、「アメリカ喜劇映画200周年記念」の作品の一本に選定したような古典的作品が、日本では、いまだに公的には無修正の形で公開することができないのである。
この作品をわたしが最初に見たのは、1976年のニューヨークでだった。住んでいたチェルシー地区のルーミング・ハウスから歩いて数分のところにエルジンという映画とロックのスポットがあり、そこでロングランしていたのだった。観客の反応は、終始笑いどおしで、場内に不思議な熱気が充満していた。
その後、80年代になって、PARCO劇場ナイトシアターと吉祥寺バウスシアターで上映されたのも見たが、画面に修正が入っており、観客の反応も非常に「静か」であった。あっけらかんとしたある種の「露悪趣味」が活力になっているこの作品を修正しては、台なしである。
ところで、日本でも、この作品が、ニューヨークと同じとはいわないが、似たような熱気のなかで見られたことがあった。それは、80年代に、故・佐藤重臣氏が新宿に開いたアートシアター新宿でこの作品が、映倫を無視し、ほとんど無修正で上映され、ロングランしたときである。まだ「ヘアヌード」などという言葉も発想もない時代であったから、この上映は佐藤の快挙であったわけだが、自主上映という形をとったので、知る人ぞ知るのままに終わった。
この映画には、ポルノで問題になるような女性性器がまるごと露出するようなシーンはほとんどない。若い女性を拉致してきて、強姦し、地下に監禁して子供を生ませて、それを養子として売りつけるのを商売にしている夫婦というのが登場するストーリーのなかで一回だけ女性の性器が映るくらいである。強姦にあきた男が、マスターベーションして取り出した自分の精液を注射器に取り、それを女性の性器に注入するシーンである。
それ以外で「猥褻」とみなされかねないシーンとしては、男の肛門を大写しにして、それを音楽に合わせて動かす有名な「歌う肛門」のシーン。
それから、前掲の男が、その変態趣味を満たす行動の一つとして、裸の下半身をレインコートに包み、街に出かけては若い女性に自分の性器(ご丁寧にそこには大きなソーセージが結びつけてある)を露出して驚かせるのだが、たまたまその相手がトランスセクシャルで、なによとばかりの身ぶりで、いきなり自分のスカートをめくり、その男性性器を披露して、逆襲するというシーンである。
そもそも、この映画はポルノではない。セックスが取り上げられるが、重要なのは、下品さとナンセンスである。セックスや下品なエピソードは、ナンセンスを肉付けする手段にすぎない。そして、そのナンセンスは、イオネスコやベケットの演劇ではなじみの「不条理」の笑いに通じるのであって、すなわち人間の生の存在そのものの「不条理」を哄笑する笑いにまでつながっているのである。
今回の版は、これまでの修正を最小限にとどめ、付録としてジョン・ウォータズ監督の回顧談と初期の予告編を付けた「特別篇」であるが、依然として、先程わたしが記述した個所には、涙ぐましい工夫をこらしたマーキングがなされている。
いま必要なのは、こうした工夫ではなくて、観客が表現の自由への要求を出すことだ。
国際映画祭をまともな形では実現できない「先進産業国」日本。政治のダメさ加減を批判するまえに、このような現状を批判し、打破すべきであるし、表現のこうした瑣末なレベルに変化が起きなければ、大文字の政治が変わることはないだろう。
(週刊金曜日,1998年7月31日・229号,42p)