《素顔》のウディ・アレン

 バーバラ・コップルは、七〇年代のニューヨークの「左翼」活動家の世界では、非常によく知られた映画人だったが、一般には、『ハーラン・カウティ、USA』(一九七七)がアカデミー賞を得たことによって知られるようになった。この作品は、ケンタッキー州ハーラン郡の鉱山労働者の闘いをドキュメントしたもので、長期間現場に住み込み、現地の人といっしょに作っていくのは彼女の一貫した姿勢であり、『ワイルド・マン・ブルース』でも実行されている。
他方、ウディ・アレンも、つねにファミリー的な人間関係のなかで映画づくりをするのが好きであり、とりあげるテーマも、自分の身近な問題であり、自分をモデルにしていることが多い。つまり彼の映画は、ある種のパーソナル・ドキュメントであり、彼の環境をやや大げさに開けっ広げるというスタイルで作られる。ニューヨークに住むユダヤ系の、スノビッシュで利己的な、いつも精神分析医から離れることができない、そして性的には放縦な人物が繰り広げるトラジコメディ。カフカ的なアイロニーとドタバタ演劇とのあいだを動き回る飛躍は、明らかにユダヤ演劇の伝統を意識している。
ウディ・アレンは、七〇年代から毎週、ニューヨークのマイケルズ・パブというスペースで、クラリネットのスイング・ジャズ演奏をしてきた。一九七六年に、わたしは、その実演を初めて見たが、ぼそっと出て来て淡々とクラリネットを吹き、すっと消えてしまうのがなんともおかしかった。わたしは、彼の映画に入れ込んでいたので、その何とも”非人称的”な感じに感動した。しかし、『アニー・ホール』(一九七七)がアカデミー賞を取り、ウディ・アレンが一躍、ハリウッドの有名人になったことによって、マイケルズ・パブ詣が始まった。が、ウディの方は、そうした環境変化にもかかわらず、ずっとその”非人称的”なスタイルは崩さなかったようである。
『ワイルド・マン・ブルース』は、彼が初めてスイング・ジャズの「クラリネット奏者」として臨時のバンドを組み、ヨーロッパ・ツアーを行ったときにコップルが撮ったドキュメントである。当然、彼を迎えたパリ、ミラノ、ローマ、ジュネーブ、マドリッド、ロンドン等一一都市の観客たちは、一人のスイング・ジャズ・プレイヤーとしてよりも、映画作家ウディ・アレンを見るために集まった。ヨーロッパでは、アメリカよりもアレンの映画の信奉者が多い。が、アレンの演奏と対応は、淡々としたものであり、また、その演奏は、いわゆる「うまい」/「へた」の範疇に入るものとも違っている。それは、むしろ、彼が独自にあみだした独自の「祈りの形式」であるかのようである。
このドキュメンタリーの最後の方に、彼の両親の姿が映る。高齢にもかかわらず、二人はかくしゃくとしており、息子には辛辣なユーモアをポンポン投げつける。このヨーロッパ・ツアーには、あのスン・イー・プレビン(少し前までウディは彼女の義父の位置にあり、彼女を養女にしていたミア・ファーローがウディを養女にセクハラをしたと訴えた)が同行し、二人のやりとりが興味を引くのだが、「彼女をどう思う?」という質問に対してウディの母は、あっさりと「かわいいユダヤ人の娘と結婚してほしかったね」と言う。そして、そのそばで、スン・イーが聞いて笑っている。
ウディが、両親のそばでその「素顔」を見せているかのようなこうしたシーンを見ていると、逆に、わたしは、それが、彼の一連の作品のシーンとダブってしまう。ツアーの際、常用している薬を忘れるのを気にしたりしている彼は、まるで『ハンナとその姉妹』や『ニューヨーク・ストーリー』や『世界中がアイ・・ラブユー』などでウディが演じている人物そのものなのだ。
この映画は、ウディ・アレンのなかには、内向きと外向きの人物像はなく、つねに映像のなかの彼しかないということを実証したのだろうか? あるいは、この映画は、ウディ・アレン監督・主演、バーバラ・コップル撮影の「ウディ・アレン映画」なのだろうか? いずれにしても、必見の一作である。