*魔女*のカメラを死守する

この映画の評価は、二つに分かれる。肯定する側からすると、新鮮でアクチュアルである。否定する側からすると、「こんな退屈な映画はない」。両者のあいだには、当面、和解の通路はなさそうである。が、肯定派のわたしとしては、ここで否定派の説得につとめたい。
作品の仕掛けは至極単純。女性一人、男性二人の若いグループがメリーランド州の「森に*魔女*がいるとい噂を頼りに、Hi8のビデオカメラと16ミリのムヴィーカメラとDAT録音機を持って森に入る。が、歩けども、魔女の姿はなく、そのうち、地図も失い、道に迷ってしまう。監督、撮影、録音を分担してやるはずの三人の関係は次第に険悪なものになり、不可解な出来ごとが起こり始める。
映画は、監督役の女性ヘザーが常時回していたという設定のビデオと、折にふれて撮影されたということになっているモノクロフィルムとを時系列につないだ形になっている。この形式は、「モキュメンタリー」(疑似的なドキュメンタリー)の傑作『コリン・マッケンジー/もうひとりのグリフィス』(一九九六年/ニュージーランド)と似ているところがあるが、基本的に違うのは、映像にっとって「事実」とは何かという認識である。
『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』の場合、ドキュメンタリーないしはその疑似的形式というよりも、たまたま残された映像という形をとってはいるが、それが事実の記録であるかどうかはどうでもよい。この点、「モキュメンタリー」は、事実とのズレを巧みに操作することによって皮肉やユーモアのある映像を生み出す。だから、観客は、多少なりとも、問題の事実を知っていなければならないのであり、最低限、「事実はあったのだ」というある種の信仰をいだいて映像を見る必要がある。
ほとんどメモ代わりに撮ったような本作の「ビデオ」部分(なお、この映画は、基本的にすべてビデオで撮られ、あとから効果を加えて「フィルム」部分を作り、完成した全体を最後にフィルムに焼き直すというやり方で作られた)は、カメラアングルがぐらぐら揺れ、映画の「大作」をゆったりと「鑑賞」するような態度で向き合うことはできない。しかし、不安定なカメラワークを堂々と「通常」の映画館に持ち込んだゴダールの『勝手にしやがれ』から四〇年すぎたいま、この程度の「粗い」カメラワークに目くじらを立てる必要は全くあるまい。
メディアには、記録の機能とともに、妄想(パラノイア)をかきたてる機能がある。カメラが向けられている、カメラを操作しているというだけで、意識が変わってくることがあるのはそのためだ。ビデオカメラが回っているだけで、あるいは、PAにつながったマイクがあるだけで、その空間が和んでくるとか、逆にピリピリしてくることは日常、経験できることである。
この映画のなかでも、道がわからなくなったとき、カメラを回している女性ヘザーに向かって、すでに空腹と不安で相当パニック状態になっている(という設定の)男性が、「何でこんなときにビデオを撮ってんだよ」とヒステリックにどなるシーンがある。逆にカメラがあることによって、あわや殴り合いになるのではないかという瞬間が回避されたのではないかと思われるようなシーンもある。
いま、われわれの周囲には使い捨てのカメラから監視カメラ、さらにはスパイ衛星まで、いたるところにカメラがあり、映像が撮られている。その結果、人は、撮る/撮られるということに慣れ、無意識の「俳優」になった。カメラの前では、何ごとも「演技」である。こうして人は、カメラの存在と引き替えに「狂気」を楽しみ、「狂気」を正当化するためにカメラの存在を死守するということにもなっていく。
カメラは、いまや、「正気」と「良心」をわずかに保証する機能をもたされた。だが、そのカメラが、「魔女」の仕掛けでなかったという保証は全くないのである。
(週刊金曜日,1月21日・299号,42ページ)