魔性のロジック

最初の方で、『ブロードキャスト・ニュース』(一九八七年)の一シーンを思い出した。テレビ局でホリー・ハンターが、放映寸前のギリギリの時間に、インタヴュー映像を編集し、思い通りの効果を上げるスリリングなシーンである。主役の黒木瞳は、まさにこのハンターをまねているかに見える。
原作をチェックしてみるとここのシーンは原作に忠実である。脚本も原作者の野沢尚が書いているのだから、あたりまえかもしれないが、それなら、原作が映画を模倣していたのか?
メディアには、それ自身のロジックがあって、ある問題(ここでは、映像の編集)を映画なら映画というメディアで取り上げると、それは、映画メディア特有のロジックに従って一人歩きし、パクってなどいないのに、あたかもパクったかのような映像が出来上がることもままある。
しかし、この映画のように、メディアの特性そのものの批判にまで踏み込もうとする場合には、たまたま似てしまったでは済まないだろう。映像作家たる者、有名な映画のシーンと似た映像を提示するのなら、パロディとしてか、それを発展させる形でか、とにかく、なんらかのこだわりが必要だ。
ひいき目に見れば、そんなことは重々承知の上で、このシーンを出していると言えないこともない。なぜなら、両者のシーンは、大いに方向が違っているからである。
ホリー・ハンターは、アンゴラから帰還した兵士が、帰還を全然喜んでいないことを知りながら、ノーマン・ロックウェルの画像をバックに張り込んで、「兵士の感動的な帰郷」シーンを捏造してしまうが、そのことに疑問を感じない。
これに対して、黒木瞳の方には、ニュース映像に、犯人であることを印象づけるような全く関係のない素材映像を加えることに対する若干の迷いとやましさがある。コーナーディレクターの山下徹大も、黒木のやり口を見て、「何するんですか」という驚きの声を上げるという形で、一応の批判が表明されている。『ブロードキャスト・ニュース』には、そんな甘ったれたシーンはない。
映像とは操作の産物であり、「ありのままの映像」などというものはありえない。問題は、与える映像のリアリティ、真実性、仕組み等々をチェックさせる《参照回路》をどの程度提供するかである。
現状では、アメリカのパブリック・アクセス・テレビを除けば、ニュース・ソースや編集方法を明かさないのが普通であり、日本では特に、放送局とは、さまざまな流れが合流する「ステイション」ではなくて、文字通り「つぼね」(局)であり、そこで起こることは薮の中なのである。
映画のなかで、犯人にでっちあげられた陣内孝則が、しきりにテレビ局のやり方を批判する。それは、みな「正論」である。テレビ屋は、テレビ局のなかと自宅との間を往復しているだけで、その外を知らない。「現場」取材に行っても、あらかじめ用意された「シナリオ」とにわか学習した先入観のために、それは、ドラマの書き割りのようなものになる。どの局も、それぞれに厖大な金をかけて作るニュースが、大差ないものになってしまうのは、このためだ。装置とメディアの魔性のロジックにふり回されているだけなのである。
この映画は、一見、すべて中途半端な感じに見える。政府機関の関与を臭わせながら、それっきりの殺人事件。決定的にまちがっている黒木が、その非に気づきそうになることろで起こる事件。が、局は、彼女を切り捨て、何ごとも起こらなかったかのように生き延びる。
しかし、この映画は、そういう虚しさの提示だけでは終わっていない。最後のシーンを注意して見る者は、この映画が示唆している無言の問いを聞き取るだろう――では、一体、このような大人たちの間で育つ子供たちは、どのようなメディア観と人生観をもつようになるのか・・・彼や彼女らは、メディアを使ってどのようなことをするようになるのか・・・。??
(週刊金曜日,