「楽園」の今

リチャード(レオナルド・ディカプリオ)は、コンピュータとゲームにどっぷりつかったアメリカでの生活に決別して、タイにやって来た。静寂のなかにかすかに「自然音」がきこえてくるシーンから始るイントロで、ディカプリオのナレーションとともに、リチャードのバックグラウウンドが速いショットで紹介される。
海と岩の見える背景に稲妻が走る美しいシーンのように、通常の意味で、また西欧人が「エキゾティック」だと思うようなシーンが次々に映し出されるが、映像のうしろに覚めた目がある。ここでは、西洋人のアジア崇拝や秘境願望は、微妙に相対化されている。
リチャードらが発見した「楽園」コミューンは、自給自足の生活をしているように見えるが、多くのものを町から買っている。メンバーは、世界中から集まっているが、すべてキリスト教徒である。リーダーは女性(ティルダ・スウィントン)で、彼女は、結局、メンバー一人一人よりも、「楽園」という場の存続のためであれば、メンバーを犠牲にしたり、処刑することも辞さないスターリニストであることを自己暴露する。
外部からの侵入者を監視することを命じられた(つまり、「自由」であったはずの「楽園」に階級制が生まれたのだ)リチャードが、武装した現地人の目を逃れながら森に潜伏するとき見せる挙動は、アメリカ人がベトナム戦争のときにゲリラ戦を学習しているときのような雰囲気。ただし、リチャードの場合は、戦闘のイメージがすべてゲームのそれとダブる。彼は、戦闘ゲームの主人公を生きているのだ。
だが、そんなものは、同じ島を「楽園」としてではなく、生活と命がかかった麻薬の栽培園として使っている現地人にとっては、児戯に等しい。終わり近くで、現地人の一喝で、「楽園」生活者たちの甘さが露呈させられる印象深いシーンがある。
アレックス・ガーランドのベストセラー小説にもとづくこの映画は、ヒッピー、コミューン、ベトナム反戦の60年代に美化されたことをもう一度、若い世代の感覚で別の素材と観点からたどりなおしている。
かつてサルトルは、能動的な活動をする高揚した集団のモデルを「融溶集団」と名づけた。が、七〇年代になると、内ゲバ、コミューンの崩壊、集団のカルト化、党的な組織への硬直化といった現象が、アメリカでもヨーロッパでも日本でも現われ、この概念の抽象性が露呈した。
集団的高揚などというものは、つかのまのなかにしかないし、もしそれが本当に操作されたものでないとしたら、それを制度化することはできない。制度化しようとすれば、そこには、必ず暴力がともなう。
ここから、ハキム・ベイのように、恒常的なものを拒否して、「一時的な自律ゾーン」を指向する発想も出てくるわけだが、もはや、一時的であれ、肉体的に「確か」なものや、「生活」感、「土着」感のあるものに期待する発想は、どれもだめなのだろう。
集団は存在するし、集団で行なうこともなくならない。が、集団のなかで個人が目覚めたり、集団のなかで個人が磨かれるといったことは、ますます稀になっていくはずだ。むろん、個人という観念もかわりつつある。
この映画の最後は、コンピュータがずらりと並ぶ部屋のシーンとなる。リチャードが、その1台にログインすると、「パラレル・ワールドへ、愛を、フランソワーズ」というサインの入った画像が出てくる。「楽園」の浜辺で、まだ夢いっぱいだったときにみんなで撮った写真だ。
「パラレル・ワールド」は、平行処理世界、コンピュータの世界であるが、その意味は多くのことを示唆する。「楽園」は、いまや、サイバースペースのなかで「絵空事」としてしか存在しないのか、それとも、そこでこそ逆に新たな存在感を獲得するのか?  肉とテクノロジーとの乖離を描き続けてきたクロネンバーグの新作『イグジステンズ』と合わせて見ると面白い。

週刊金曜日、2000年4月28日(313)号、54ページ