越境者ゴダール

ゴダールの『映画史』については、すでに多くの批評を目にしてきたし、ビデオで見る機会もあった。しかし、これを銀幕で見ることができるとは思わなかった。その意味でも、フランス映画社が、もともとはビデオとして制作された映像を「世界で初めて」フィルムに焼き直したのは、画期的なことである。
ゴダールは、いつも越境者だった。『勝手にしやがれ』(一九五九)は、「映画」を越えた。「文学」の味がした「フランス映画」のなかから、フレームががたがた揺れる映像が登場したときには、そのくだけた破天荒さに驚き、目を見張った。
それは、まだビデオカメラが映像表現の主流に位置づけられない時期に、すでにビデオを先取りしていた。
が、問題はフィルムかビデオかということではなく、現にあるもの(それが、ゴダールにとってはフィルムだ)を越境することである。実際に、彼の映画をビデオで見ると、その面白さは半減するのである
だから、一方で、彼は、『恋人のいる時間』(一九六四)のように、フィルム映像を見るということを、人肌をなでるような感触の体験に越境させるという、フィルムでなければ出来ないことをやって見せもした。
『中国女』(一九六七)では、ドキュメンタリー、アジビラとしての映像、パフォーマンス映像をないまぜにしたかのような脱「映画」の世界にゴダールは進む。その越え方があまりに過激だったので、『東風』(一九六九年)あたりでゴダールに見切りをつけた観客も少なくなかった。
ゴダールの一般的レベルでの「復活」は、日本では、『パッション』(一九八一)あたりからである。サウンドと音楽へのただならぬ関心は、ゴダールにとってもともとのものだったが、このあたりから、彼は、映像をサウンドへ向けて過激に越境させる技法に熱中する。
視覚から触覚にいたるすべての感覚に向けて映像を越境させること。ゴダールの果敢な試みの半世紀はこのことにつきる。そして、『映画史』は、その集大成的な作品である。
映画、絵画、写真、パンフレット・・・時代を越えた厖大な映像が「引用」され、観客を圧倒する――というのが『映画史』についてよく言われる印象だが、わたしは、この作品を実に心地よい感覚のなかで楽しんだ。全四時間半におよぶ試写は、二日間にわたって行なわれたが、わたしは、これを一度に見ても、疲れなかっただろう。
なぜだろう、と考えているとき、ふと気づいたのは、この作品の感触とクラブ・ミュージックとの類似である。そういえば、ゴダールが語りながら、映像を見せていく手つきは、クラブのDJのそれに似ていなくもない。
といって、ゴダールは、ダブ、ハウス、ヒップホップといった八〇年代に浮上するポピュラー音楽の技法に身をすりよせているわけではない。ある意味で、二〇世紀後半から二一世紀にかけての文化は、ワルター・ベンヤミンが、シュールレアリすムの「コラージュ」、映画における「モンタージュ」、ブレヒト演劇における「異化」等々を発展させながら「引用」という言葉で言い表した思考と表現のスタイルのなかにある。
この強烈な流れの存在からすれば、ウィリアム・バロウズの「カット・アップ」も、八〇年代以後のポピュラー音楽に対してディック・ヘブディッジが言った「カットゥン・ミックス」も、当然言うべきことを言ったにすぎない。そして、ゴダールのスタイルが、これらと同じ流れを共有しているのも、なんら驚きではない。彼ほど、あらゆる歴史に関心を持ち、そして「博学」な批判的越境者もいないからである。
本と同じように、フィルムには、それなりの歴史的沈殿が宿る。それを追体験する場こそが映画館である。どのみち、この映像は、DVDとして発売されるであろうが、映画館で見ることができる機会は、決して多くはない。いま見るべき一本である。

2000年6月2日(317)号、60ページ