E.B.ホワイトの児童文学の古典『スチュアート・リトル』が書かれた一九四〇年代には、まだ公民権運動もなかったし、フェミニズムやゲイの運動も表面化してはいなかった。それは、基本的に白人優位の世界であり、ハリウッド映画は、その夢の部分を映像化した。
二〇〇〇年の映像技術を駆使したこの映画を見ると、一瞬、そのような時代に迷い込んだかのような気がする。父(ヒュー・ローリー)は家庭と家族のことを思い、「よき」父親であり、夫である。母(ジーナ・デイビス)は「美しく」、家事にいそしんでいる。家も街も清潔であり、有色人種の姿はない。
ローリーは、イギリスの俳優だが、その声は、四〇〜五〇年代のハリウッド映画の男優には不可欠だった艶があるので、ますます、この映画が一時代まえの世界を描いているように感じられる。
実際、この映画は、「よき時代」(そんな時代はあっただろうか?)へのノスタルジアと、人間の言葉を話す動物と子供との交流がもたらす可愛いらしさやほほえましさを描いているという面で見られ、受けたのだった。
しかし、ちょっと注意して見ると、この映画には、脚色のM・ナイト・シャマランと監督ロブ・ミンコフのさりげない――が、実は辛辣な――皮肉が随所に埋め込まれている。シャマランは、あの『シックス・センス』の監督である。童話だと思って甘く見ない方がいい。
そもそも、一人っ子では淋しいだろうというわけで、夫婦が養子を探しに行った斡旋所には、元気はつらつの(人間の)子供がたくさんいたのに、よりによってねずみを養子にしてしまったということ自体、えらい皮肉ではないか? ここには、この夫婦の潜在的な人間嫌いがあらわれているとも言える。
リトル家は、セントラルパークに接する五番街にある。ここは、言わずと知れた高級住宅街である。つまり、リトル家は、アッパー・ミドル以上のリッチであり、金には不自由してはいない。が、結果的に、リトル夫妻は、ねずみしか養子にできなかったのである。そそて、そのねずみが、やがてリトル家にとってかけがえのない存在になるわけだから、言い換えれば、リトル家はねずみで「家庭」を維持しているということになる。
ねずみで「平和」を維持している家庭――これが皮肉ではいと言えようか?
一〇歳のジョージ(ジョナサン・リップニッキー)が通う学校のクラスメートには、有色人種はいない。おもしろいのは、彼の学校の主催で行なわれる模型ヨットのレースで、ジョージが自作し、「出品」するヨットの名前である。その横腹には、はっきりと「WASP」という文字が見える。
ワスプとは、言うまでもなく、白人で、アングロサクソンで、かつプロテスタントである人々を指すが、いまでは、多くの場合、白人支配階級に対する蔑称であり、心ある者は、自分がワスプであるとしても、それを誇示することはしない。が、このシーンでは、これみよがしに「WASP」という文字が映し出されるのである。
ところで、この作品の舞台となっているニューヨークでは、いま(デジタル・テクノロジーの時代)、七〇年代とは逆の「高級」志向やエリート趣味が強まっているように見える。社会格差(「デジタル・デバイド」)は確実に拡がっているわけだが、それを露骨に肯定するような表現はタブーである。が、それを肯定したい意識は、「高級」やエリートを追求する人々の間では強まっている。
この映画は、ある点で、そういう差別欲求を満たす側面がないでもない。たとえば、この映画のなかで「悪役」を演じるネコたちの描かれ方。養子になったねずみのスチュアートの両親だと偽って訪ねてくるねずみのカップルは、まるで、絵に描いたような「底辺人」である。
ジョージは、スチュアートを人間以上に愛するようになるが、それは、決して対等の愛ではない。格差を変革せずに、「分限」をわきまえることが提唱される。

2000年7月28日・325号、40ページ