ジャズを生きる

 殿山泰司(一九一五〜八九)の姿を映画やテレビで見なくなって一〇年たつ。気難しさとやさしさと凄さとが混在したクサ〜い役者だった。
映画の外で彼の姿を見たことは何度もある。面識はなかったので、「会った」とは書かない。というよりも、わたしは、役者や俳優に対してはミーハでありつづけるので、会うことがあっても、会うことはない。
 晩年は、よく映画の試写会で姿を見た。この映画によると、彼が試写会に足しげく通ったのは、仕事がない時期だったという。そうかもしれないが、ミステリーの愛読も映画も、そしてジャズも、彼にとってはもっと積極的な選択だったと思う。
 六〇年代後半、ようやくライブのジャズが連日東京でも聴けるようになったころ、ジャズのコンサートやジャズクラブで彼の姿を見たことがある。映画には、横浜のジャズ喫茶「ちぐさ」や新宿Pit-Innなどのシーンが出てくるが、もっと前から殿山はジャズに入れ込んでいた。
殿山が好んで自称したという「三文役者」は、一面で、依頼には何でも応じる非芸術家というイメージがつきまとうが、彼自身の側からするとちょっと違っていたのかもしれない。むしろ、ジャズのジャムセッションのように、その場のノリと出たとこ勝負のパフォーマンス性を重視する姿勢こそが、「三文役者」の真骨頂であったように思える。
 この映画には出てこないが、近々再上映される大島渚の『愛のコリーダ』(修正をぎりぎりのとことまではずした版)で、酔いつぶれ、下半身丸出しで路上にぶっ倒れているスケベ老人を演じて殿山を見ればわかるように、こういう演技は並の三文役者にはできない。表現に対する確固とした姿勢と演技する根性があってはじめて、ああいう猛烈な演技ができる。
竹中直人には、一部こうした根性を共有するところがあるが、殿山の蓄積された「暗さ」や「ねばり」がないので、殿山の言いまわしを一所懸命まねているとはいえ、基本的には、殿山とは大分違う、いささか明るすぎるキャラクターが表現されることになった。だが、竹中のいつもの媚びた感じの演技を彼としてはかなり抑えており、全体としては是認できる。
 実在の人物がモデルのキャラクターを演じるということは、たぶん、その言葉つきをまねるというようなこととは関係がないのだろう。その意味で、半生のパートナーであったキミエを演じた荻野目慶子が抜群にいい。「正妻」を演じた吉田日出子も力演だが、型の作り方が、映画的というよりもテレビ的である。
 新藤兼人としては、乙羽信子をはずすことはできなかったのだろうが、乙羽の対談映像か何かから取ってきたと思われるショットをたびたび挿入し、彼女があたかも作中の殿山(竹中)に語りかけるような構成にしているのが、この画面だけ大分他とトーンがちがうので、流れをさえぎってしまう。最後の、殿山の葬儀のシーン以外は、雨の日に傘をさして釣りをしている自分の姿を遠景から撮らせるといったように、終始引いた感じで自分を描いているように、乙羽の方も、一歩後ろに控えさせた方がよかった。殿山と乙羽が共演する映画のシーン(『裸の島』、『愛妻物語』、『どぶ』、『銀心中』、『人間』、『母』、『鬼婆』、『悪党』、『落葉樹』など)は頻繁に出てくるのだから、それ以上、乙羽を出す必要はなかった。
 殿山が、晩年、注文が少なくなり、ちゃぶ台の上に乗った電話の鳴るのを、ミステリーを読みながら待っているシーンがある。皮肉なことに、病に冒され半年の命(キミエは本人には言わなかった)となったときになって、矢継ぎ早に注文が来るのだった。これも、殿山なら、人生の皮肉というよりも、「ジャズのノリならあたりまえだな」と言ったかもしれない。
(週刊金曜日、2000年11月24日、341号、p.42)