父親の「復権」がはじまった?

最近のアメリカ映画に出てくる夫婦や家族は、少しまえまであった危機感が薄れ、安定指向が強くなっている。とりわけ父親の復権が目立つ。が、復権する父親は、かつての権威や権力をとりもどすのではなくて、もっと対話的・知的な力によって復権するのである。国家と家族は密接な関係をもっているから、映画のこうした傾向からアメリカの今後を透かし見ることができるかもしれない。
M・ナイト・シャマランは、『シックス・センス』で映画の新しい領域とスタイルを引き出し、また、それまでタフなだけの男を演じてきたブルース・ウィリスを演技派俳優に引き戻したが、『アンブレイカブル』は、その流れのなかにある。
一三〇人の乗客が死んだ列車事故で、ただ一人生き残った男デヴィッド・ダン(ブルース・ウィリス)の謎をめぐって展開するこの映画については、これから見る読者のために書けないことが多すぎるのだが、この映画でも、父親の復権が、重要なテーマとしてある。
デヴィッドの息子ジョーゼフ(スペンサー・T・クラーク)が、父親を見直すくだりは、おそらく、同年代の子供を持つアメリカの(そして日本の)父親が体験したいであろうシーンであるが、同時にシャマランは、その危険性についてもぞっとするようなショットをはさむ。自分の父親はスーパーマンなのだと信じこんでしまった息子が、そのことを試すために銃を向けるのだ。
クラークは、『グラディエーター』で、端役ながら記憶に残る演技を見せていたが、ここでは、繊細な、母親となかなか打ち解けない孤独そうな少年を演じている。ジョーゼフのような息子像は、まさに『シックス・センス』でハーレイ・ジョエル・オスメントが演じたパーソナリティに直結するものだが、ジョーゼフの場合は、超能力者ではない。だから、それだけ、観客の側からすると自分の息子を同化しやすくなる。
アメリカでは、幼児虐待のニュースが絶えることがない。それだけ、数が多いというだけでなく、このことへの関心が高まっているということであるが、社会全体に「ジコチュウ」(自己中心主義)の度合いが強まっているなかで、親も子も、他人や家族とのコミュニケーションへのかぎりない欲求と、その裏返しの痙攣的な自己満足としての暴力との背中合わせのなかで生きている。が、シャマランが描く親子は、そういう世界を脱している。
この映画では、もう一人の子供の生い立ちが描かれる。列車事故の直後にデヴィッドに近づいてくる謎めいた黒人イライジャ(サミュエル・L・ジャクソン)。彼こそが事故とデヴィッドの謎を知っている人物であるが、映画は、彼が、デパートで急に産気づいた母親から生まれるシーンからはじまる。そして、急に場面はデヴィッドの方に移り、事故の話に進む。そしてまた、彼の生い立ちが・・・。
イライジャは、骨がもろいというハンディキャップを負って生まれてきた。家に引きこもりがちの彼は、コミック雑誌に熱中するが、くり返しの骨折に落ち込む彼を励ますために、あるとき母親は、コミック雑誌の高価な稀覯本を買い、それを公園のベンチに置き、そこまで取りに行かせる。
その回想シーンのなかで一度も父親の姿はないのは、偶然ではない。七〇年代に子供時代を送ったアメリカ人の多くは、ある日父親が母のもとを離れて行くのを経験している。デヴィドは、そうした世代の申し子でもある。
コミック雑誌、ゲーム、コンピュータにのめり込む十代。父親なき単親家族。これは、八〇年代から九〇年代にかけて、アメリカ映画でくりかえしとりあげられた世界である。ここでは、新しくやってきたステップ・ファーザーによって暴力を加えられる子供もいた。
その意味では、くり返し暴力をふるわれ、文字通り骨折した子供たちのことを考えると、イライジャの身にふりかかる骨折という出来事は、当時のアメリカの子供たちが経験してきたことでもある。そういう少年がやがてどのような大人になるのか、それがこの映画の見どころでもある。

(週刊金曜日、2001年2月9日号、42ページ)