「ヤッピー」のいた時代 [編集部命名]

強烈な原作が存在する作品の映画化は、通常、原作を素材程度に使って成功するか、あるいは、原作に縛られて失敗するかのいずれかである。が、たまに例外がある。
『アメリカン・サイコ』は、ブレット・イーストン・エリスの原作にもとづくが、この小説は、一九九一年の発刊後まもなく、その「残酷」な描写をめぐって、ごうごうたる非難にさらされることになった。とりわけ主人公の、女性に対する「無慈悲」な態度が女性たちを怒らせ、不買運動をもまき起こした。
しかし、いま女性監督のメアリー・ハロンによって映画化されたこの作品を見ると、歳月の効果もあってか、原作のねらいがはっきりとし、かつての批判者も、あらためて(多くは初めて)原作を手に取ってみようという気になるのではないか。
映画では、原作のもっていたはずの二重性と虚構性が、鋭くとらえなおされている。もっとも、読者自身の能動的な想像力に依存する小説にくらべると、映画は、半分居眠りしてシートに腰を下ろしているだけでも、向こうから情報と情感を投射してくれるから、この映画も、原作以上に「暴力的」で「反フェミニズム」的な作品だという不当な判定をうけるかもしれない。だが、いささかでも今日のポスト・フェミニズム/ゲイイズムの空気を吸って生きている者であれば、この映画の冒頭から苦笑が身の内からわきあがってくるのをおさえることができないだろう。
クリスチャン・ベールが見事に演じる主人公パトリック・ベイトマンは、ウォール街ではぶりのいい証券マンであり、まさにヤッピーを絵に描いたような男である。「ヤッピー」という言葉は、もう死語になりつつあるので、解説が必要かもしれない。「若々しく」(Young)、「都市に住む」(Urban)、「専門職」(Professionals)の各語の頭文字から作られた言葉だが、七〇年代末からニューヨークをはじめとして、この「新階級」が台頭した。情報化への産業構造の本格的な変化のなかで、彼らは、弁護士、医者、証券マン、メディア関係者として急速に地歩を築き、マンハッタンに進出してきた。その結果、それまでアーティストや活動家やあやしげな「不逞の輩」もたむろできた場所が、ヤッピーのテイストに合わせて「優美」になっていった。都市論でジェントリフィケーションと呼ばれる現象である。ちなみに、九〇年代のバブル経済によって華麗化し、「安全」になったニューヨークは、まさに『アメリカン・サイコ』の世界から始まったのである。
七〇年代に輝いたこの街のラディカルさな空気を吸う機会があったわたしなどは、それがヤッピーの侵入によって次第に失われていくのを苦々しい気持ちで見ていたが、ブレット・イーストン・ハリスは、その鬱積を想像力のなかの暴力によって晴らした。ベイトマンのファッション、インテリア、道具、食べ物、酒のブランドへの嫌みなこだわりと他人への性格の悪い対応は、ことごとく、ヤッピーへの批判的なまなざしで抜かれている。
ベイトマンとその仲間たちが、凝ったデザインの名刺を子供っぽく競うシーンがあるが、ヤッピーは自分しか愛することができず、裏を返せば淋しい存在であった。彼らは、クリストファー・ラッシュが概念化した「ナルシシズムの文化」の住人であり、「ミーイズム」の居直りであった。
映画を見ながら気づいたことがある。ヤッピーは、基本的に、最後の「メール・ショーヴィニスト」(男性至上主義者)なのだなということだ。「ヤッピー」は、女性にも適用されたが、本当は、0.男性だけにあてはめられるべき概念だったのかもしれない。監督の男性批判が強調されてもいるのだろうが、ベイトマンらは、女性が好きだが、それはあくまでも性的対象としての女性であり、男性同士で張り合うか、「体育会」ノリの雰囲気で固まるほうを好む。つまり、いまにして思えば、ヤッピーとは、フェミニズムやゲイイズムが社会に浸透していく動きのなかで生まれた二〇世紀最後の反動だったのだ。
(週刊金曜日、2001.4.13/359号, p.42)
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