映画『ザ・コンテンダー』評

    政治が「見せ物」になり、有権者が桟敷から野次や歓声を送っているだけの受動的な存在になったのは、「小泉劇場」の時代にかぎったことではない。政治がマスメディアにのると、それはただちに「見せ物」になってしまう。これは、メディアの技術と深い関わりがあることで、嘆いたり、もとにもどそうとしても徒労である。  必要なのは、「見せ方」の仕組みやテクニックを知ることであり、「見せ物」の向こう側と手前で起こっていることを見ることだ。
    この映画は、空席となった副大統領の席をめぐる権力闘争の政治サスペンスとして「楽しむ」こともできるが、同時に、すべてを「見せ物」にしてしまう今日のマスメディアと政治慣習・機構のなかで生き抜く政治家の「見せ物」テクニックのいくつかを見ることもできる。
    すべてのはじまりは、副大統領が死去し、民主党の楽天的なエヴァンス大統領(ジェフ・ブリジス)が、周囲の期待と支持にさからって女性のハンソン上院議員(ジョーン・アレン)を候補に指名したことだった。周囲には、ハサウェイ知事(ウィリアム・ピーターセン)を推す声が強く、タイミングよく彼は車で湖に転落した女性を助けようとした「英雄的行為」がマスコミで喧伝される。
    ハンソンの任命に憤懣やるかたない共和党議員ラニヨン(ゲイリー・オールドマン)は、民主党員ながら、ハサウェイ知事を支持する若い議員ウェブスター(クリスチャン・スレーター)と出会い、ハンソンの若い時代のスキャンダルを利用して副大統領の地位を追い落とす画策をくわだてる。スキャンダルとは、ハンソンが大学時代に「乱交パーティ」に加わったことがあるというものであるが、ラニヨンの古典的な画策は成功し、聴聞会の委員長となったラニヨンは、イヤ味たっぷりの質問を浴びせ、彼女を窮地に追いつめる。
    しかし、彼女はひるまなかった。とはいえ、それは、攻撃に対する反撃によってではなく、露骨な質問に対して、「それはあくまでもわたしのプライバシーの問題」として沈黙を守ることによってだった。このへんは、クリントン・スキャンダルを経験したいまのアメリカ社会の意識を感じさせる。クリントンは、真実をひたすらつくろい、隠すことによって信用を失ったが、その回復のために駆使したテクニックは、今度はひたすら「真実を告白する」(かに見せる)というやり方であった。が、告白にはかぎりがない。とりわけ、マスメディアを通じて流れる告白は、まだその先に「本当の真実」があるのではないかという視聴者や読者の意識を過剰にあおりつづける。
    クリントン・スキャンダルのあとでは、ハンソンが聴聞会で見せる拒絶の姿勢は新鮮であり、迫力がある。それは、テレビでは日常茶飯の韜晦にも「赤裸々な告白」にも頼らない方法だからである。実際、マスメディアがかぎりなく暫定的な「真実」の暴露装置と化し、法廷が韜晦技術の競争場となってしまった現代社会のなかでは、ある種「信仰的」なまでの頑固さに貫かれた沈黙には力がある。ラニヨンの攻撃は、こうして、「女性へのイデオロギー的レイプ」、「セクシャル・マッカーシーイズム」であるという「観衆」の共感を得てゆく。
    このプロセスは説得力がある。攻撃者のラニヨンを単なる「敵」としてはとらえない演出、若い政治家ウェブスターの「成長」にも目を配るディテール、ハサウェイ知事の身辺を調査する女性FBI職員の才気等々も、多面的な見方を可能にする。
    だが、終わってふと思ったのは、ハンソンの沈黙は、キリスト教的な信仰(彼女は神を信じないと言うが)と無縁ではなく、それは、アメリカ政治の一面でしか有効性を持たないのではないか、ということだった。

週刊金曜日、2001年6月15日号