つつましさというか、ある種の寂しさというか、そんなものがただよう家。短く髪をカットした牧瀬里穂が演じる真希は、まじめで、どこかに強い信念のようなものを感じさせる地味なタイプの女性。小学校の音楽教師をしている母(倍賞美津子)との二人暮し。真希は車を持っているが、家のなかにパソコンなどは見当たらない。やがて重要な意味を持つ電話器も、古い、いまではアンティークとしての値がついている型。
イントロは、真希が小刀を手にメゾチント(銅版画の一種)の製作をし、大きな手動の印刷機で1枚の作品を刷り上げるシーン。彼女は、それを街のギャラリーに持ち込み、置いてもらう。
彼女は、家のソファーの上でまどろんでいる。膝の上には大判の植物図鑑。図書館で借りたものだ。立ち上がり、冷蔵庫を開くと、スライスしたプロセスチーズがぱらりと落ちる。壁には、出そうとそこにはさんでおいたハガキ(自分のメゾチントをプリントした)がある。自転車に乗って、図書館へ。放置されている空き缶が気になり、回収ボックスへ捨てる。そういうタイプの女性なのだ。
ふたたび家のソファーで目覚めるシーン。前と同じようにして自転車で外に出るが、今度は、やっていることはすべて同じなのに街にひと気が全くない。それでも彼女は、図書館に行き、本を返す(係の人がいないのでカウンターに置いてくる)。時計は午後2時15分。たしか、この時間に何かがあった。
この日から、真希にとって、世界は、自分だけしかいない世界になってしまった。物も商店も、母の勤める小学校もあるが、時間が二時一五分までなのだ。それでも、真希は、この単調な世界に、虫や鳥の声のCDをタイマーでかけて、普通の時間をつくり、自分をまぎらせる。ときには、シャワーのノズルを庭にしつらえて、夕立を演出したりもする。
ところが、ある日、電話が鳴る。それまで、受話器をとっても、何も聞こえなかったのに、男の声で、彼女の作品を本の装丁に使わせてくれというのだった。この泉洋平は、どこかに純真さを感じさせる青年で、それを中村勘太郎が初々しく演じている。
全体として作りは古めなのだが、わたしは、このときからはじまる真希と洋平の電話コミュニケーションにひどく惹かれた。メディア論的にものすごく面白い。
真希と洋平とのあいだでしか通じない電話。二人は、毎日同じ時間に電話で話をする。次第に二人のあいだに不思議な愛が目覚める。
メディアは、通常、情報のパイプラインだと思われている。重要なのは、そこを流れる「内容」だと。が、そんなメディアは実はない。メディアは、本来、主観的なものなのだ。
かつてダグラス・デイヴィスが演った有名なパフォーマンスがある。それは、局のないチャンネルを選び、ザーという音と画面にフリッカーノイズだけが映っているテレビ受像機を壁の方に向けなおし、部屋を暗くして見るという「だけ」のものだが、「内容」だけは過剰だが、メディアと視聴者との関係は単調きわまりない一般のテレビメディアを批判しているだけでなく、「聴こえないもの」、「見えないもの」のなかで何かが聴こえている、見えているるというメディアの本質を提示したパフォーマンスだった(その過程をナムジュン・パイクがビデオにしている)。
真希と洋平の電話のシーンは、見方によっては、オカルチックな「霊界通信」として受け取れないこともないのだが、むしろ、メディアのこのような部分に触れるものとして受け取った方がこの映画が活きる。
人が、事故や病気で昏睡状態に陥ったとき、その人が何を感じ、「外界」をどのように「知覚」しているかはわからない。外からは、「意識不明」だとしてもが、本人がどうであるかはわからない。だとすれば、「植物人間」になってしまったと思われる人向かって絶えず話しかけることが無駄とは言えないはずだ。この映画は、そんなことも考えさせる。
(週刊金曜日、2001年9月28日、381号、p.41)