日本人は、シャイであるとか、忘却の民であるとか言われるが、本当は、ズルくて、したたかなのではないだろうか? さもなければ、この狭い列島に閉じこもって、やがて「天皇制」と呼ばれるようになる幻想的なアイデンティティを維持し続けることはできなかったはずだからである。
そうせざるをえなかったのは、それだけ、支配権力の統合力が早くから「整備」され、強固な国家体制を形成してきたからである。へたなことを言おうものなら、ろくな目にあわないばかりか、命まで失いかねない管理の貫徹。それは、すでに江戸時代にひとつの完成段階に達していた。そして、それは、明治以後の「近代国家」形成のプロセスで「洗練」され、「合理化」された。
しかし、このような歴史解釈をいくら積み重ねても、日本軍が中国大陸で行なった残虐行為に対して、当事者自身が沈黙を守り続けてきたことの言い訳にはならない。なぜ、「やった」と自白することが、最初の謝罪であり、最低限の自己責任を果たす方法なのだということがわからないのだろうか? わかっているからこそ、沈黙し、耐えているのだというのは嘘だろう。だから、わたしは、ここにズルさとしたたかさの伝統を感じるのである。
とはいえ、いま、この伝統がくずれはじめたようである。松井稔監督によるドキュメンタリー『リーベンクイズ 日本鬼子』の公開は、そのことを裏書きしてくれる。ここでは、七三一部隊の細菌兵器開発や人体実験、さらに民家を襲い百万単位の民間人を虐殺した三光作戦に実際に関わった「皇軍兵士」一四人が、「憎むべき自分」たちのやったことを歴史上初めてカメラのまえで克明に語っている。同じような経験をしながら、それを心に秘めたまま沈黙を守りつづけている者が、いまでも三万人いるといわれるが、この一四人の軍人たちは、沈黙の伝統を破壊した。
この映画で語られていること自体は、専門書もあるし、神吉晴夫『三光』、本多勝一『中国の旅』、森村誠一『悪魔の飽食』などのベストセラーを通じても、一般に知られている。また、この映画に出演している人々は、これまでもさまざまな集会で語ったり、文章にしたりしているので、ここで全く新たに暴露される事実はそう多くはないかもしれない。しかし、重要なのは、それらが、当人自身の口から語られたということである。ある者は苦渋をおさえながら、ある者は憑かれたように語る。彼らの声と表情は、どんなに達意の文章よりも、生々しい事件映像よりも衝撃的である。
軍隊とは、人間を殺すことができるように調教するシステムである。その調教では、熟練者による「試し斬り」(犠牲者は中国人)が強制される。最初はショックで腰が抜けてしまう初年兵も、ビンタを張られて無理矢理銃剣を生身に突き立てているうちに、次第に人を殺すことに無感覚になる。
だが、武器をかまえる相手を殺すのではなく、無防備の農夫の家に火をつけ、中の者をあぶり出し、飛び出してきた女子供を銃剣で突き刺すというようなことがどうして可能になるのだろうか? 「三光作戦」(「焼光」=焼き尽くす、「殺光」=殺し尽くす、「槍光」=奪い尽くす)は、まさにそういうことを国家の「政策」として遂行したのである。強姦は一応軍法で禁じられていたが、「三光作戦」のなかでは、強姦も日常茶飯であった。そして、その証拠が残らないように強姦した女性を殺す。こんの映画のタイトル「リーベンクイズ」とは、輪姦された女性の最後の叫びからとられている。その中国語の意味は、「日本人は悪魔だ」と。
この映画は、すでに海外で大きな反響を読んでいるが、日本人にとっては、クロード・ランズマンの『ショアー』がドイツ人にあたえる意味よりもはるかに大きな意味をもっているだろう。何もしないで「平和」が守られてきたかのように現状を批判する「平和ボケ」という奇妙な言葉の流行する日本。「ボケ」といっしょに「平和」も解消してしまうのか?