劇場時代のモンスター
子供の教育や馴化に脅しや恐怖が役立つという観念は古くなったらしい。
この映画が描いているのは、子供を怖がらせることを商売にしている会社の興亡である。夜な夜な、子供部屋のクローセットの秘密のドアーから出現しては、眠りにつこうとしている子供に恐怖をあたえ、そのときの子供たちの恐怖の叫び声を採集して、それをエネルギー源に還元、モンスターシティに供給するモンスターズ株式会社。しかし、このごろは、子供たちがちょっとやそっとのことでは怖がらなくなり、モンスター・シティはエネルギーの枯渇に悩んでいる。社員ももたもたしてはいられない。
会社にはさまざななモンスターがおり、それぞれに個性と特技を持っている。なかでもスター的な存在が、鬼熊の形相すさまじいサリーだ。ライム色の「一つ目小僧」マイクをパートナーにし、毎日仕事に追われている。初心者のトレーニング・ルームには、シミュレーションのコンピュータ・システムもあるが、サリーが実際に示す手本にはかなわない。
この会社には3つの鉄則がある。一、「人間界のものを持ち帰ってはならない」。二、「モンスターシティに人間の子供を入れてはいけない」。三、「人間の子供を愛してはいけない」。
ところが、ある日、この会社にかわいい人間の女の子がまぎれ込んでしまったころから、混乱が起きる。普通なら、その子は、あの秘密のドアーから逆に送り返されて問題解決するのだが、今回は事情がちがった。発見者のサリーとマイクがこの子をかわいいと思ってしまったからである。二人は、彼女をブーと名づけ、社内に隠す。が、奔放なブーは、たちまち会社内を大混乱におとしいれる。そしてそれは、モンスターシティーの存亡をめぐる社内の「路線闘争」にまでエスカレートしていく。
これまでのアニメと一線を画する(ドリームワークスの『シュレック』といい勝負)ピクセルの最新技術を総動員したこのアニメは、子供向きのドラマのようでいて、なかなか含蓄が深い。
結局、モンスター株式会社は、子供たちに恐怖ではなく笑いをもたらす会社に路線転換し、ハッピーエンドに終わる。字幕版でサリーとマイクの声を担当しているジョン・グッドマンとビリー・クリスタルが歌うテーマソングもいい。
ところで、もしこの映画を「大人」の目で見るとしたら、もう少し先まで進んでもよいだろう。実のところ、映画の本当のストーリは、映画が終わったところから始まる。それを考えるのが観客の仕事だ。
「規制緩和」(ディレギュレーション=本来は「脱規制」)以後のサービス産業が直面せざるをえない変化が、ヴィヴィッドにとらえられていると見ることもできる。
組織のなかで予想せざる出来事が起こったとき、組織の人間がどういう反応をするか、現状維持のために小細工や陰険な工作をする官僚的なタイプと、逆にそういうときこそ変革のために本領を発揮する創造的なタイプ。そのときトップや上層部はどうするか。かならずいるどっちつかずのやから・・・。
この映画のモンスターは、子供だけを相手にしているが、本来のモンスターの相手は大人だろう。そして、恐怖ではなく笑いや楽しみをあたえることがモンスターの役割になっているとすれば、それは、子供の世界でだけではなく、大人の世界でもそうなのだろう。
実際に、恐怖よりも笑いのほうがひとを動かせるというのは、メディア時代のロジックでもある。いまわれわれは、笑いながら――厳密には、笑わされながらコントロールされるという側面がどんどん増えているのだ。笑ってはいられない。が、怖がることはもうできない。本当に怖いものが見えないからであり、見えにくくするのがモンスターの仕事でもあるからだ。最近の「霞ヶ関劇場」では、一匹の「モンスター」の古い「おどし」芸が嘲笑と批判を買っている。
2002-02-01[FAX]
週刊金曜日 土井伸一郎様
たびたびの変更、すみません。
いま送った末尾の部分の「古い」(あるいは「ふるい」)を補って下さい。それから「嘲笑」の括弧をはずして下さい。「おどし」は「脅し」でもどちらでもけっこうです。
よろしく
【訂正版】
最近の「霞ヶ関劇場」では、目下、
一匹の「モンスター」の古い「おどし」
芸が嘲笑と批判を買っている。