あなたの中の宇宙人

   ニューヨークのグランド・セントラル駅の雑踏で黒人が物乞いをしている。彼が、ふと前方を見ると、そこに突然黒いサングラスをかけた髭面の男(ケビン・スペーシー)があたかも天から降ってきたかのように立っている。ところが、そのそばで通行人の女性がひったくりに遭う。それを見てその男は助けようとするが、犯人は逃走し、まるで彼がひったくりをしたかのような感じになり、警官に取り押さえられてしまう。しかし、名前や住所を訊かれた彼が、「プロートです、地球から1000光年離れたK-PAXから来ました」などと言うものだから、ただちに精神病院に送られてしまう。
    その病院で患者とスタッフの信頼を得ている医師マーク・パウエル(ジェフ・ブリッジス)が、新しい患者の到着を知らされ、透視ガラスごしにプロートを見るシーンが暗示的。ガラスに映る彼の顔に、それを見るパウエルの顔が重なり、一つになる。二人は運命的な関係にあるという暗示か? 最初から、パウエルは、プロート普段とは違う印象を持つ。実際に、彼は変わっている。強迫観念に悩む老人(デイヴィッド・パトリック・ケリー)、外気を吸うと死ぬと思っている黒人、他人を臭いと言って嫌う元プラザホテルの従業員、自分だけ女王気取りで個室にこもる老女(セリア・ウエストン)等々の患者仲間も、すぐに彼を尊敬の目で見はじめる。そして、いままでぎくしゃくしていた病院内に奇妙な平穏さがただよってくる。
    この映画は、プロートが、宇宙人であるということを説得力をもって描く一方、後半で意外な「事実」を暴露する。それは、彼が宇宙人であることを否定することにつながる「事実」なのだが、にもかかわらず、観客は、プロートが宇宙人なのかどうかを決め難い気持ちをいだいて劇場を去ることになるだろう。
    人間の祖先は宇宙人ではないか、われわれの周囲に人間そっくりの宇宙人がいるのではないか、自分もひょっとすると宇宙人なのではないか・・・といった観念は、昔からかなり根強くある。こうした主張の真偽を判定するすべは、いまのところない。が、その真偽は別にして、いま言えることは、こうした発想の根底に、「貴種流離譚」への潜在的願望があるということである。
「貴種」とは、血筋とか家柄というような、個人が努力しても簡単には得られない力能を持った者たちに対する名称であり、最初から不動の階級差を前提にしている。事実上の階級差は激しくても、階級制を肯定するのはタブーなアメリカでは、しばしば、階級差を宇宙のなかに投射して、階級制を肯定するということをよくやる。
    この映画にもそうした趣がないでもないが、自分の能力や血筋を誇示したり、それによって権力的なことを行なうのではない主人公プロートは、そうした代替的な願望よりも、21世紀初めのいまのアメリカ社会のなかで「好ましい」とみなされはじめている個人の社会的特性とダブりあっていて面白い。
    ちなみに、「貴種流離譚」には、「貴種」への願望だけでなく、一人で立つ個人が自由に行動する(「流離」)という側面への願望も隠されている。
    アメリカでは、あのブッシュ政権のもとにありながら、他方で、消費主義、グローバル・ビジネス、肉食・飽食などへの批判と反省が少しづつ拡がりつつある。プロートは、果物しか食べないヴェジタリアンである。他者とのあいだにいつも「ガラスの膜」のような距離があり、結婚、家族、集団を嫌う。が、彼は孤立を好むのではなく、個人対個人を軸にした柔軟で自由な――「ウエブ」的な(とさしあたり言っておく)関係の拡がりには関心がある。
    かつて、ハル・アシュビーの映画『チャンス』(原作はジャージー・コジンスキーが1970年に発表した)が、80年代になって一般化する「メディア中毒」や「オタク」の積極的な側面を予見的にスケッチしたように、『光の旅人』も、ある意味で、今後確実にあらわになってくる動向の一つをさりげなく示唆しているような気がする。