ひところまで、ハリウッド映画で描かれる父親というのは、頼りない存在か、不在に近い存在だった。幼いとき、父親が家から去って行くのを涙ながらに見た世代(スピルバーグはその第一世代)にとって、父親とはそういうものだったし、その後、フェミニズム的意識が浸透するにつれて、ますます父親の存在は影が薄くなった。
  それが、いま、変わってきた。最近の大作では、父親的なものに距離をとっているのは、『スパイダーマン』ぐらいで、『オースティン・パワーズ・ゴールドメンバー』も『スパイキッズ2』も二世代にわたる親子の(結局は)肯定的な物語であり、『コラレタル・ダメージ』、『イン・ザ・ベッド・ルーム』、『ジョンQ』、『サイン』の父親はみな子供のために身を粉にする。
  父親像は、六〇年代以後、失墜に失墜をかさねてきた。「困った存在」としての父親が普通であり、まさに『サンキュー、ボーイズ』の母親を父親にしたようなのが普通になっていた。『アバウト・ア・ボーイ』の母親もダメな親だが、その代わり、母と父との中間的存在の男性が登場し、息子をささえる。
 『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』は、無責任に家族を捨てた父親が、突然帰ってくるが、それを子供たちは、結局は受け入れる。
 『海辺の家』では、不治の病にかかった父親が別れた妻と子供のために家を建てなおす。彼は、幼いときに父親から暴力をふるわれた。その記憶の残っている家を壊し、新たな家を建てる。最初冷ややかだった息子も、やがてその作業に加わる。
『チョコレート』では、自分が原因で息子を自殺に追い込んだ父親が、刑務所の忠実な死刑執行係の職を捨て、息子にとっは許せない父親を変えようとする。
『パニック・ルーム』では、闖入者と闘のは母親だが、救いを求める妻子の電話に、別居中の夫は、予想に反し、現場にやって来る。彼は、あっさり犯人に捕まってしまうのだが、新しい女の家から救いにやって来たという点で、一時代まえの父親/夫像とは違った。
 『ロード・トゥ・パーディション』で、息子は、父親(トム・ハンクス)が組織の殺し屋であることをあとから知るが、父親との関係に障害はない。そして、父親は、組織の勝手な都合で抹殺されそうになる家族を救おうと体を張る。屈折はあるが、父親が魅力的に描かれている。これは、「時代劇」の特権だとしても、それがいま描かれるところに意味がある。
  『容疑者』は、息子と父親との関係を回復不可能な状態に置いておいて、それを深い苦渋をともないながら回復に収斂させて行く。ヤク中で殺人の容疑をかぶっている息子ジョーイ(ジェームズ・フランコ)と刑事の父親ビンセント(デニーロ)。ビンセントは、ジョーイが子供のときに家を出た。そういう父親を息子は許せない。他方、ビンセントのほうも死んだ父親に対して許し難い感情をいだいている。彼は、ビンセントが幼いときに殺人を犯し、死刑に処せられた。「死刑囚の息子」として育ったビンセント。この映画では、三代にわたる父親の許し難さが問題になっている。
  決して強い家父長的な父親が復活したわけではない。映画で父親を描く比重が変わってきたのである。
『容疑者』のクライマックスは、狙撃しようと警官隊がとりまく建物のなかで、実力ある二人の役者が、映画ファンなら暗唱してくりかえしてみたいうような名台詞を迫真的にとりかわす。そこには、二人の苦渋が染み出ているので、息子が父親を許すのが納得できるのである。これも、ある意味では「時代劇」だが、時代劇は、状況のなかでは、現代劇である。
  映画は映画であり、映画を状況と重ねあわせて見る必要はないのだが、こうした父親像の変化は、どこかでブッシュ政権以来とみに強まった自国中心主義と関係があるにちがいない。父親などいないほうがいいとは言わないが、父ー子ー母を基本構造とする家族/家庭批判が、近代主義的な国家に対する批判を内包していたとすれば、父親の「復権」をただ感動して見ているわけにはいかない気がする。