恐怖のパラノイア

人はなぜ「徒党」(ギャング)を組むのか? 恐怖のためだ、というのが、『ギャング・オブ・ニューヨーク』のマーティン・スコセッシの解答である。そういえば、いま「テロ」の恐怖におののいているG・W・ブッシュのアメリカは、国家でありながら「徒党」の様相を呈してきた。その意味でも、スコセッシ渾身の力作であるこの映画は、舞台となっている1840年代のニューヨークよりも、いまのアメリカをあざやかに異化しているように見える。
ギャングは、コミュニティや集落とはちがう。人々が外からやってきて定住したからといって、ギャングになるわけではない。ギャングというと、日本では、強盗団のことを指すが、これは、1920年代のシカゴのギャングあたりがモデルになっているのだろう。が、ギャングの発祥は、1840年代のニューヨークであり、映画の舞台となる「ファイブ・ポインツ」においてであった。
1846年から1860年のあいだにマンハッタンに上陸したアイルランド人の数は200万人を越えたという。さしあたり定住するのは、港に近いロワー・マンハッタン(9・11で消失した貿易センタービルはそのヘリにあった)になる。過酷な、恐怖に満ちた船旅ののちに移民者が住む家は、ふたたび恐怖に満ちていた。なかでも、なだれを切ったようにやってきたアイルランド移民がとりあえず落ち着く「ファイブ・ポインツ」は、当時最も「悪名たかきスラム」であり、そこには7、80人がいっしょに住んでいるようなスラム・ハウスが建ちならんでいた。映画の冒頭、迷路のような廊下と蚕棚のような寝床が映るのがまさにその内部である。
悲しげな目の坊主頭の子。固い決意を秘めた表情で十字架のついたシャクのようなものをつかむ父親(リーアム・ニーソン)。ドアーがバーンと蹴り上げられると、外は雪。ニーソンが演じる神父のまわりに続々と集まってくる人々。すると、それまで人影のなかった向かいの建物のまえにシルクハットをかぶった男(ダニエル・デイ=ルイス)とその仲間とおぼしき集団が姿をあらわす。芝居がかっているが、異様な緊張感に引き込んで行くデイ=ルイスの「演説」。それは、自分たちが「ネイティブ」であり、後から侵入してきたおまえたちアイルランド人には一歩も譲らないという激しい意志と憎悪に満ちている。
映画史上でもまれな恐るべき闘いのシーンののち、デイ=ルイス演じるビル・ザ・ブッチャーは、この地帯の実権を掌握し、父を失った子は、少年院で成長し、ブッチャーの前にふたたび姿をあらわす。レオナルド・ディカプリオ演じる青年アムステルダムである。このイントロからすると、この映画は、以後、弱者を支配し、利権を独占する暗黒街の権力者対、父親の仇をはらす息子の闘いというストーリーで展開するかのような印象を持つかもしれない。だが、スコセッシは、そんな単純なドラマを作りはしなかった。
ファイブ・ポインツには、当時、アイルランド人たちによるさまざまな「自衛」的組織としてのギャングが生まれた。それは、ブッチャーのような「ネイティヴ」たちが与える恐怖からでもあったが、「ネイティヴ」たちも、外来者に自分らのテリトリーを侵犯されるという恐れにおののいていた。
しかし、いま「ネイティブ」というと、インディアンのような先住民を指すことを思うと、ブッチャーらは、先に侵入し、利権をほしいままにして新参者を排除しているにすぎないことがわる。マンハッタン島では最初から理不尽なことが起こっていたのだ。そのときから続いている恐怖のパラノイアがくりかえし昂進される街ニューヨーク。 そして、このパラノイアが、2001年9月11日以後、全世界に広まろうとしている・・・。

週刊金曜日、2002年12月6日号、No.439、p.55