逃げることのいま

  映画を見て、戦争や殺人や愛を体験することはできない。それは、別の次元の体験だ。だから、当人にとっては悲惨以外のなにものでもない悲劇を映画で見て、「感動」することができる。その悲劇事態は、「感動」とはほど遠いものであるとしても。むろん、だから、戦争も「エンターテインメント」になりえる。そんなことにいきどおってもしかたがない。
  しかし、戦争や非道な事件に対していささかでも抵抗や批判の意志を表明しようとすれば、その作品をみなぎる情感は、日常生活では体験できない度合いの虚しさや悲しさだろう。いや、悲しさは、ブレヒトが言ったようにカタルシスの道具になりえるから、より重要なのは虚しさを「異化」(ブレヒト)することだろう。つまり、日常感じる「虚しさ」とは一味違い、深くこたえる虚しさを表現すること。
  ナチの暴虐に関してはいかなる言い訳も無効だから、ナチを悪役に仕立てれば、そこそこのドラマはできあがる。しかし、ナチが行なったことを単に非難するだけでなく、それを見、読んだらナチ自身が虚しさと悲しさと悔恨の念をいだくような作品を作ることはむずかしい。クロード・ランズマンの『ショア』はそんな要素だけを集約したようなまれな作品だった。しかし、その虚しさはつらすぎる。ナチの不条理のまえでは、どんな虚しさも虚しすぎることはないにしても、これでは、映画を作ることはできない。ナチをネタにして「売れる」映画などもってのほかだと言うこともできるが、人生、それではもたない。
  『戦場のピアニスト』の主役ウワディワフ・シュピルマンは実在の人物である。ワルシャワで活躍していたユダヤ系ポーランド人のピアニストだった彼は、仲間の助けと偶然によって、親兄弟はアウシュヴィッツに送られたが、からくも生きのび、市街に潜み、転々としながら、しかもナチの将校に助けられるという数奇な運命をたどった。
  ポーランド系のユダヤ人であるポランスキーも、両親とともにクラクフのゲットに入れられ、両親は強制収容所に送られたが、彼は、脱走し、助かったという経験を持つ。このことは、彼の他の作品にも反映しているはずだが、明確な形で自分の体験を重ねあわせたのは、この作品がはじめてである。ポランスキーがずっと胸に秘めてきたテーマがここに集約されている。
  『暗い日曜日』、『この素晴らしき世界』、『バティニョールおじさん』など、近年、単にナチを「悪役」として対置し、その敗北にカタルシスをおぼえさせるのではない映画が何本か公開された。が、『戦場のピアニスト』のユニークさは、たんに結果だったとしても、この映画の主人公が徹底して逃げ、非暴力でありつづけたことではないかと思う。
  むろん、ナチの非情さは、随所に描かれている。ワルシャワのゲットーで、ナチの親衛隊員が老人をいじめるシーンや、地面にこぼれたスープをなめるユダヤ人の姿は誰しもいきどおりをおぼえるはずだ。しかし、映画技法的にいえば、ここには、観客の感情変化を想定した撮る側の操作があることは否めない。
  戦争が末期に近づき、連合軍の爆撃で廃墟と化したワルシャワの街の風景の虚しさは、戦争というものが持つ不条理を見せつける。だが、この虚しさもまた、見方を変えれば、未来派が主張したように、「美」に転化しかねない。実際に、この映画の廃墟は「美しい」。
  だが、エイドリアン・ブロディが演じるシュピルマンは、戦争の表現に対してそういうものとは異なる次元を示唆している。この男は、運がよかったのだと言ってしまうのは簡単だし、実際に、彼はひたすら逃げ、ナチに対して「抵抗」したわけではないように見える。しかし、わたしは、時節がら、あえて、このひょうひょうとした「抵抗」の方法に深く興味をおぼえてしまった。