身体の諸ボーダーの先へ

    ペドロ・アルモドバルは、「ゲイの映画人」として有名であるが、彼は、その映像世界を決して狭義の「ゲイ」の世界に限定しない。それは、彼が仕事と私生活とを分けているからでも、「一般」の観客を意識しているからでもない。それどころか、彼は、一九七〇年代のゲイ・ラディカリズムのなかでつかのま主題化した、既成の「男」/「女」という枠やボーダーをこえるものとしての新しいセクシュアリティに一貫してこだわってきた。
    フェリックス・ガタリが言ったように、個としての人間はみな「ポリセクシュアル」(性的に多形的)なのであり、「わたし」の身体的無意識のなかでは、「男」と「女」、「ゲイ」と「ヘテロ」、むろん「狂気」と「正常」、そして「動物」と「人間」とのあいだのボーダーすらあいまいなのだ。   社会的な「わたし」は、そうした浮動する身体をかかえながら、制度や規則のなかでそれぞれに一定のボーダーや枠のなかに自分を閉じ込めているにすぎない。
    映像は、文字よりはるかに自由な解釈が可能だから、別にこのような観点からこの作品を見る必要はない。ごく「常識的」に見れば、この作品は、似たような境遇をかかえた二組の男女の「愛」の物語である。ベニグノ(ハビエル・カマラ)は、自宅の窓から見える向かいの建物のバレー・スタジオで練習する一人の女性アリシア(レオノール・ワトリング)に思いをよせていたが、彼女が交通事故で昏睡状態に陥ると、一五年間自分の母親を介護した経験があることを彼女の父親の伝え、彼女の介護を買ってでる。彼の介護は、まるで彼女が生きているのように話しかけ(「トーク・トゥー」)、細やかなマッサージをほどこす。他方、旅行ライターのマルコ(ダリオ・グランディネッティ)は、闘牛に「失敗」し昏睡状態に陥った女闘牛士の恋人リディア(ロサリオ・フローレンス)をどうあつかっていいかわからない。彼は、同じ病院で出会ったベニグノの助けで、少しずつ介護の仕方をおぼえる。二人がいっしょに昏睡状態の二人の女性を日光浴させるシーンは、ある種「理想的」な介護の姿である。また、ベニグノがやがてある衝撃的な事件を起こし、収監されたとき、マルコが示す献身的な友情も「感動的」である。
    しかし、こうした「常識的」な見方では、この映画は、どこかで矛盾を起こす。ベニグノは、なぜ面と向かったときよりも、昏睡状態のアリシアといるときの方が最高にしあわせそうなのか?  見方によっては、彼は「ストーカー」であり、彼の愛はある種「屍姦」的なものを含んでいると言える。しかし、愛にはそういうものも含まれるのではないか?距離の愛も愛にちがいない。先妻と結婚したのは「麻薬中毒を直すためだった」と言うマルコが新たに愛するようになったリディアには、「男」と「女」とのあいだを揺れ動いているようなところがあったが、彼女の「事故」のシーンは、彼女が自分から故意に引き起こしたようにも見える。
    身体とは、皮膚に包まれた肉の境界線にとどまるものではなく、そこから外へ広く、そして内奥に深く染み出している。そうした身体の既存の諸々のボーダーをこえたところでこの作品を見ると、さまざまな意味があらわれてくる。アルモドバル自身は、このことを冒頭にピナ・バウシュが踊る『カフェ・ミュラー』の一シーンを入れることで示唆している。そこでは、踊り手の身体が、生と死、意識と無意識、男と女、老いと若さ、野と舞台、有機的なものと無機的なもの・・・のあいだを変転する瞬間が表現されている。
    この映画が、いかに繊細さを重視しているかを示唆する一シーンがある。ベニグノが収監されたセゴビアの刑務所を訪ねたマルコが、「囚人」という言葉を使うと、受付の女性が、「ここでは『囚人』ではなく『インテルノス』〈内側のひと〉と呼びます」と語るのだ。こういう繊細な感覚は、イラク戦争とともに一掃されようとしている。