映画の「罠」の悦び

  死刑を宣告された元大学教授の男デビッド・ゲイル(ケビン・スペイシー)が、処刑の直前になって50万ドルでニューヨークの雑誌にインタヴューを許す。インタヴュアーに抜擢されたのは、「勝ち組」意識丸出しの女性記者ビッツィー(ケイト・ウィンスレット)。彼女は、上司の命令で同伴することになった助手を邪魔がりながら、二人でテキサス州のオースティンに向かう。デビッドは、死刑廃止の運動に関わっていたが、運動の同志で恋人のコンスタンス(ローラ・リニー)を暴行し、殺害したという容疑で逮捕され、死刑を宣告されたのだった。それには、彼の強度のアルコール依存症や、教え子の女子学生バーリンを強姦したという容疑の「前歴」も影響していた。しかし、どこかに冤罪の臭いもする。彼は、テレビで死刑問題をめぐって市長を徹底的にやりこめたこともある。映画は、ビッツィーの調査にもとづく推理ドラマ風の展開を見せて行く。
  しかし、この映画は、ジャーナリストが「冤罪」か有罪か追求していくだけのドラマではない。ここでは書かない「意外」な結末にこの映画の鍵がある。しかも、その「意外」さは、サスペンス効果のために用意された隠しプロットではない。最後に驚かせ、「なるほど」と納得させて一巻の終わりになるサスペンス映画ではなく、ハリウッド映画のなかではめずらしく「政治的」な映画であると言える。
  その結末は、見る者が社会的現実に向き合うための基本的な問いを呼び起こす。それは、見る者が、とりわけ制度や権力というものに対して(暗黙にであれ)どういう見解をもっているかを試す。
  あらゆる制度に反発を感じているわたしのような偏屈プチアナキストからすると、制度や権力の裏をかいたりすることは、どれも「快挙」に感じられる。わたしは、この映画をそういう観点から見、屈折した解放感を感じたのだが、そうでない見方もあるだろう。死刑制度賛成論者の側からすれば、この映画の結末は面白くないはずだ。死刑制度自体は、結局、なんの打撃も受けないにもかかわら
ず、このドラマに立ち会う者は、そのなかでこの制度そのものが根底から「異化」され、笑殺されるのを目撃するのである。
  制度や権力の裏をかくということは、「非合法」活動を遂行することではない。無力な個人や少数者が「非合法」に闘うことが有効だった時代はあったかもしれないが、今日の国家は、個人や少数グループが行なったと称して、国家自身には本来出来ないはずの「非合法」活動を「合法的」に行なうような手口をあみだしてさえいる。だから、権力との闘いは、合法的でなければならないと同時に、制度や法律のほころびを突くような超ラディカルな着眼とアイデアに満ちていなければならない。その点でデビッドは、ただの哲学教師ではなかった。
  女性記者ビッツィーは、金網越しにデビッドと面会を重ねるうちに、事件の核心を理解するようになると同時に、「勝ち組」になることと自分のことしか考えていなかった彼女の態度そのものを反省して行く。彼女が、死刑制度への疑問をいだき、裁判制度や冤罪への理解を深めて行くプロセスは、一見、「健全」な社会派ドラマのパターンのように見える。しかし、アラン・パーカーは、そういう市民派的な「善良」さや社会批判がもはや意味をなさないと主張するかのように、そのプロセスを最後にぐさりと「異化」する。
    映画評は、ストーリー紹介という安易な形で、映画を見ないで済ませる手助けをすることがある。この欄ではわたしは、見てほしい作品についてしか書かないのでストーリー紹介をしないことが多いが、映画を見てもらえれば、今回はいつになくもってまわった書き方になっている理由がわかるだろう。