「ウソっぽさ」のかぎりなき面白さ

  かつてアカデミー賞を受賞したこともある監督(アル・パチーノ)。いまは落ち目で、製作中の作品から主演女優(ウィノナ・ライダー)が降りてしまい、途方に暮れる。そんなとき、救いの主があらわれ、お望みのキャラクター映像をコンピュータで作れるソフトを手渡す。パチーノは、渡りに船で、このソフトを使って「シモーヌ」を作り出し、映画を完成。すると、それが予想外に受け、シモーヌが一躍国際「女優」になる。彼女は、コンピュータが作った映像アンドロイドなのに、観客は、彼女が実在すると思っている。それをパチーノが右往左往してとりつくろう。
  この映画、アメリカで公開後、意外にケチをつける人が多く、特にコンピュータにうるさい手合いからは、厳しい批評が下されている。実は、わたしも途中までそういう目で見た。映画に映るそのシミュレーションのシステムがいかにもインチキっぽいのだ。すべては分業体制で、映像処理の各分野でも多数のエンジニアやプロが分担して仕事をするハリウッドで、監督がこっそりスタジオにこもって作品を一人で完成させ、マーケットに流すなどということもありえない。。
  しかし、この映画を見ながら、途中から別の考えが浮かんできた。これは、ウソっぽいところが面白いのだ、と。技術的には、いま、才能と装置さえあれば、たった一人でも、そうとう「生々しい」ヴァーチャル・キャラクターを創造することが可能だ。アニメの作家などは、逆にアニメぽい映像やキャラクターを作るために「生々しい」感じをいかに殺すかで苦労するほど、いまの映像システムは進んでいる。
  生身の俳優がいなくても映画を作れる時代はすでに到来している。現に、登場人物をコンピュータで作り、「生々しい」感じにすることに成功した例として、映画版の『ファイナル・ファンタジー』の例がある。すべてを最初から合成しなくても、過去の映画のなかから俳優たちの身ぶりをシミュレートし、合成や変形を加えたのち、まったく新しい「俳優」を生み出すことも可能である。それをまだ積極的にしないのは、コストと手間の問題と、そういうことをすると、すでに出来上がっている映画体制を壊してしまいかねないからでもある。
  本作は、1997年の『ガタカ』(脚本・監督)でも、また、1998年の『トゥルーマン・ショー』の脚本でも非常に鋭いメディア批判を提起したアンドリュー・ニコルが脚本・製作・監督を担当している。過去の2作にくらべて、メディア批判的な感覚が後退しているようにも見えるが、この映画の「ウソっぽさ」と逆手に取りって見て見ると、意外に奥が深くなる。たとえば、この話には裏があり、本当は、「シモーヌ」は、コンピュータではなく、まさに今回映画出演のレイチェル・ロバーツのような生身の女優が存在していたのだと解釈するのである。いまの時代はもう、「ほんものそっくり」ということには関心がなく、メディアを介せば、生身の人間も、「シモーヌ」と等価な存在のようにみなしてしまう。つまり、誰もが「シモーヌ」なのであり、それを疑ってはいないのだ。だとすれば、したたかな映画作家は、バーチャルなキャラクターを作るよりも、それを「偽装」することに関心をもつだろう。
  出演者に関しては、万引きをやってしまって逮捕されたウィノナ・ライダーが「復帰」しているのを目にすることができるのも面白い。監督の別れた妻にしてプロデューサー役のキャサリン・キーナーは、『マルコビッチの穴』と『アダプテーション』とのつながりを暗示させる。パチーノの娘役を演じるエヴァン・レイチェル・ウッドは、こいつは絶対にコンピュータで作ったキャラクターには出来ない存在感のある演技を見せる。「シモーヌ」の「謎」を追ってパチーノに迫るレポーター役を演るプルイット・テイラー・ヴィンスのフェチっぽい感じもいい。