ラストと言わず現代へ

粉川哲夫

    劇中で話される日本語がしっかりしているのが新鮮だ。これまでハリウッド映画のなかの日本語はひどいのが普通だった。そのことをよく知っているクエンティン・タランティーノのようなしたたかな監督は、『キル・ビル』であえて変な日本語をユマ・サーマンやルーシー・リューにしゃべらせ、笑わせてくれた。
    日本語がしっかりしている分、日本的なもののとらえ方もはずれてはいない。ただし、ここで描かれている時代と人物を史実と照らし合わせるような見方はしない方がよいだろう。この映画は、監督エドワード・ズウィックが日本への総合的な想いをつづった叙事詩(オデッセー)のようなものだ。
構成は完璧にハリウッド映画である。有能な職業軍人としてアメリカ西部で先住民族を虐殺した経験を持つオールグレン大尉(トム・クルーズ)という主人公。明治政府の新軍隊を教育するために彼が来日するという旅。反政府勢力の個性的なキャラクター勝元(渡辺謙)や氏尾(真田広之)との劇的出会い。政府の要人大村(原田眞人)とその同調者バグリー大佐(トニー・ゴールドウィン)という典型的な悪役の存在。オールグレンと勝元の妹たか(小雪)との屈折したロマンス。オールグレンの異文化への目覚め。山場の戦闘シーン。ハリウッド映画の基本はすべておさえられている。だから、ヒットはまちがいない。
    日本人がこの映画を見るて誇りをいだくとかいう話もあるが、それは好き好きである。わたしは、この映画で一番興味をおぼえたのは天皇の描き方だった。映画に天皇が登場すると、日本映画ですら、およそリアリティを欠いてしまう。ところが、ここに登場する明治天皇(中村七之助)は、明治から平成まで近代天皇制のなかの天皇たちが一貫してとってきた曖昧さと優柔不断さを表現しているのである。
映画のなかで、近代主義者の大村らの提言を受けて、天皇は近代式軍隊の創設し、廃刀令を実施する。これに対して、ある種「尊皇派」の勝元は、大村らに反抗し、政府の要所に攻撃を加える。彼は――西郷隆盛的な位置にいたのだろうか――御前会議に突然姿をあらわし、天皇への忠誠を表明すると同時に、西欧近代主義への屈従を思い改めるべきことを直訴する。そのときの天皇の困惑の入り混じった態度が興味深い。天皇は、自分は民が西欧の民と同じような生活レベルになることを願っているというようなことを言う。
    勝元が示したかったのは、近代化の名のもとに旧文化(ズウィック流に解釈された「武士道」)から離れることのできない武士たちがスクラップにされ、日本の伝統が捨て去られていることへの憤りだった。政府から招かれながらも、次第に勝元に惹かれてゆくオールグレンは、そこにアメリカの先住民がこうむった歴史を重ねあわせていた。しかし、天皇は、勝元の問いに確かな答を出さない。心のなかではその通りだと思っていたのかもしれないが、それは、微妙な表情のなかにしか読み取れない。
    わたしは、このシーンを見て、ふと、一九七五年一〇月三一日に史上初めてテレビでライブ公開された「公式記者会見」の席上、『ロンドンタイムズ』の記者中村浩二記者の、天皇の戦争責任に関する質問に対して昭和天皇が見せた対応を思い出した。<そこで天皇は、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答が出来かねます」と言ったのだった。>(字余りで削除)
    天皇の機能や天皇が人間としておかれている境遇は、明治以来今日にいたるまで本質的には変わっていない。だから勝元の蜂起は、五一五や二一六の事件ともダブるし、全共闘運動のなかから生まれた「反日」の運動ともどこかで重なる。アレクサンドル・コジューヴが予見したように、ポストヘーゲル主義に彩られた現代においては、天皇の曖昧さと無責任は世界の首脳たちの機能のなかにも見出せる。その意味では、勝元らの蜂起は、今日の両義性をおびた「テロリズム」ともつながっているのである。

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