安楽死から癒しへ

    昨年一〇月末にこの映画の試写を見たあと、一カ月たらずしてベルリンに行くことになった。わたしは、東西の壁があった時代と崩壊直後のベルリンを訪れているが、一九九〇年以後、ベルリンに行く機会がなかった。で、着くなり、早速あたりを歩き回ってみた。泊まったホテルも旧東ブロックにあったので、東から西へ向かってベルリンを再見物することになったわけだが、驚いたことに、壁の痕跡がほとんど拭い去られていた。それは、まさに、壁の崩壊以前に心臓発作を起こして昏睡に陥ったこの映画の母親クリスティアーネ(カトリーン・ザース)が、一九九〇年六月になって目覚めてから経験する驚きに似ていなくもなかった。
    クリスティアーネは、一九八九年の時点でも東独の「社会主義」政権を信じていたので、息子のアレックス(ダニエル・ブリュール)が、末期症状のホーネッカー政権に抗議するデモに参加するなどということは思っても見なかった。だから、街頭で警官ともみあう息子を発見したときにはショックを受けた。信じる政権の警官たちがデモ隊に加える暴力もショックだった。いずれにせよ、彼女は、この現場で昏倒してしまう。
    ドイツ人もいろいろだと思うが、どちらかというと、旧東ブロックの人のほうがシャイで言葉少ない。アレックスと姉のアリアネ(マリア・シモン)は、医者の注意もあって、昏睡から醒めた母親にショックをあたえないように気づかい、東西ドイツが合一したことをひた隠しにする。その様は吉本喜劇的なドタバタで笑わせる。なにせ、アレクッスは友人のビデオオタクに頼み、旧東ドイツの官許テレビのニュースを再編集して、それをいまのニュースであるかのように見せるメディア操作までして母親に事実を隠そうとする。
    ベルリンには、いま、「壁の博物館」というのがあり、そこには、東ドイツの人々が脱出に使った二重底の車や気球などが飾られているが、現物の壁は置かれていない。ここには、どうやら、壁=いまわしいものというトラウマがあるような気がする。つまり、ドイツ人にとって、東の記憶は早く忘れたいのだ。ベルリンは、いま、西ヨーロッパのなかでは住居費が安い都市の一つで、中心部では次々に改装や新築の工事が進行しているが、それは、ある意味では、東的なものを拭い去る消去の儀式のようにも見える。
    そう考えると、この映画は、ドイツ人にとっては、一つのセラピー(精神療法)であり、ここでは、東的なものが非常に愛情深く「安楽死」させられていることに気づく。この映画がドイツで好評だったのは、そういう理由にもよると思う。
    アレックスたちの努力にもかかわらず、クリスティアーネは、ある日、部屋を出て、自分の目で新しいベルリンを見てしまう。それに対してアレックスがとった対応は、東が西に合併されたのではなく、西が東に合併されたのだということを彼女に信じさせることだった。
    ここで面白いと思うのは、これは、意外に真実かもしれないからである。これまでの通説では、「資本主義が社会主義に勝ち」、「西」が「東」を併合したことになっている。
 しかし、旧東ブロックを支配していた「社会主義」が所詮は資本主義の官僚主義的な部分を代表していたにすぎないこと、また、いま、「併合」した旧東ブロックの諸地域で(中心部は人工的に活性化されているとしても)いわゆる「シュリンキング・シティ」(ある種のゴーストタウウ化)現象が拡大し、かつてはまがりなりにも維持されていた「公共圏」がズタズタになりはじめていることを思うと、とても「西側の勝利」と言って喜んではいられない。
    この映画は、「東による西の合併」を納得し、満足したクリスティアーネが再び眠りにつく1990年10月6日(東ドイツの建国記念日)で終るが、それ以後の歴史を生きのびている現代のドイツ人は、東から発生したというより、西から発生した問題に悩むことになるわけであり、まさにこの映画のような「癒し」を必要としているのである。