【読者コメント】

2002.08.28 澤登浩聡

「・・・ハリウッド映画は歌舞伎のようなもので、型の競い合いですから、内容 が どんなに現にあるものとつながりを持っているように見えても、そちらにた ぐりよせるのは無理で、スクリーンのなかで〈感〉を〈動〉かすしかないのでは ないでしょう。」という文章をいただきまして、思わず考えさせられました。映 画によって現実をひきよせるのは無理でも、映画が現実にこぼれおちてくること は可能かもしれないなどとおこがましいことを考えていましたが、よく考えてみ ますと、我々の生活そのものがハリウッド映画のパロディみたいなものだなあ と・・・。

 「ウインド・トーカーズ」を見て参りました。近頃、なぜか戦争映画ばかり見 てしまいます。8月のせいでしょうか? それで思ったのですが、最近のアメリ カの戦争映画にはひどく共通点があるような感じがします。「ブラック・フォー ク・ダウン」「ワンス・アンド・フォーエバー」についても見終わった後に共通 して感じたことなのですが、近代が舞台である戦争映画なのに、アメリカという <近代国家>がすっかり抜け落ちて、アメリカ人という<部族>とそれ以外の <部族>が闘いあう部族紛争の映画になっているということです。この三つの映 画共に、帰する所は「仲間のために闘う」という地点です。もっともアメリカの 心理学者の調査では、兵隊が闘う一番の動機は、やはり「仲間のために」とうい うことらしいですので、そういう意味ではドキュメンタリー性があるのかもしれ ませんが・・・。「ウインド・トーカーズ」では結局、国家の命令に忠実だった ために心的外傷を負っているニコラス・ケイジが、仲間を助けるために死に、お そらくはナバホ族の祈りの中で精霊として再生するのだと思います。(多分これ が原題の意味だと思います。) 粉川さんがよく仰る「戦争のロジック」は近代 国家のロジックではなくて、部族紛争のロジックで語られていると思います。こ れは、よくも悪くもイデオロギーが抜け落ちてきたということなのでしょうか、 それとも新しいイデオロギーなのでしょうか?

 先週の金曜日にシネ・リーブルの特集上映で、アンリ・ベルヌイユ監督の「ダ ンケルク」をひさびさに再見したのですが、あの近辺の戦争映画では、「最前線 物語」なんかもそうだと思いますが、戦争の不条理な風景が全面に出ているもの が多いような感じがします。何かコントロール不可能な人間より大きなものとし て戦争が描かれること多かったのではないでしょうか。対して最近の戦争映画か らは、そういう不条理な感覚を感じることが希薄になってしまったような感じが します。ひょっとして凄まじい戦闘シーンの地響きと轟音が何かを洗い流してし まうために、「戦争のロジック」が確立してしまうのでしょうか?

【筆者返信】

澤登浩聡様

内容の濃いコメントをありがとうございます。最近ぼくが活字化のために文章を書くことに興味を失ってしまったのは、ウェブに書くと澤登さんのような反応をもらえるからでもあります。

アメリカ映画自体が戦争なんだという気がときどきします。これについては、すでにコッポラの『地獄の黙示録』について言われましたし、彼自身も認めましたね。資本の投下しかた、普及するなかでの影響なども(侵略)戦争そのものです。

アメリカの国家のスタイルは、民族的な多様性と対立をかぎりなく残しながら、それらをすっぽり国家というカプセルのなかに入れることではないでしょうか? 民族的な対立や民族ごとの「たすけあい」は、個々の市民の反感や敵意が国家に向けられないためにも国家権力には役立ちます。

『ウインド・トーカーズ』の場合は、ぼくは、ジョン・ウーの(市民としての)アメリカでの、あるいは(映画人としての)ハリウッドでの位置のようなものが感じられ、興味深かったのです。彼は、まだアメリカ市民ではないのでしょう。おそらく、市民になりたいのではないですか? ハリウッドでは、アメリカ人の映画人よりもよりハリウッド的であろうと努めていますね。そういう、生活上、職業上の事情みたいなものが見えたような気がしました。

『サイン』でおそろしく「右翼的」な方向を示した(とぼくは思う)シャマランの場合も、似たような事情があるのかもしれません。

粉川哲夫(2002-08-28)