「シネマノート」  「雑日記」



■『her 世界でひとつの彼女』について考える



『her 世界でひとつの彼女』 (her/2013/Spike Jonze) は、いまのメディア状況を考えるうえでインスパイアリングなことが豊富に描かれている。この映画について思いついたことをおりにふれて書いてみた。(粉川哲夫)

『her 世界でひとつの彼女』の評価  主人公セオドアの仕事  この映画の日常的環境  セオドアは「寂しい」のか?  なぜ音が主なのか?  アラン・ワッツ  アラン・ワッツと『her』の世界  紙と電子のはざまで  代理身体とのセックス  ちっぽけな音声装置の暗示  手書き文字の不在  Everything You Wanted to Know About・・・  小津へのオマージュ  多重人格と無人格


『her 世界でひとつの彼女』の評価
date: 05/02/2014 04:48:20

スパイク・ジョーンズの『her 世界でひとつの彼女』(her/2013/Spike Jonez)は、第86回アカデミー賞のうち、<作品賞>、<脚本賞>、<美術賞>、<作曲賞>、<歌曲賞>の5部門でノミネートされ、最終的に<作品賞>を獲得した。
ハリウッドの平均的批評水準では、これだけの候補に挙がったことを評価するが、予測としては、どれも無理かと思った。希望としては、すべて入賞すべきだと思ったが、テレビ映画にすぎない『それでも夜は明ける』をもちあげる連中が多い現状ではとても無理だと思ったのだ。だから、<脚本賞>を獲ったときには、逆に驚いた。

これだけ、ハリウッドの娯楽映画の水準からすると「つまらない」映画でも、ちゃんといいものはいいという評価を受けたということは、今後のハリウッド映画の動向に期待が持てるとも思った。
実際、すでに「ロマコメ」離れは始まっている。そもそも「事実のもとづいた」とされる作品が多くなったのも、脱「ロマコメ」の動きをあらわしている。『それでも夜は明ける』は、ある種のホラーでもあるが、歴史の傷をもう一度えぐる(掻くぐらいか?)ようなところがある。

とにかく、『her 世界でひとつの彼女』は、アメリカ映画の今後を期待させる作品だ。



主人公セオドアの仕事
date: 05/02/2014 05:03:45

映画の冒頭は、メガネをかけた髭のある男がモノローグしているシーンである。この男を演じるのがホアキン・フェニックスであることはすぐにはわからない。それくらい、フェニックスのこれまでのキャラクターとは異なるし、映画史上のなかでも、こういうキャラクターは多くはない。外見的にはいくらでもいるタイプだが、この映画の物語自体がユニークであるために、まったく新しいキャラクターになっているわけだ。

彼は、オフィースで仕事をしているのだった。手紙を書く仕事である。歳老いた夫が妻に書く手紙。それをプリントアウトして紙を手にする。カメラが引くと、そこはモダンなオフィスで、彼以外にも十数人の人間が彼と同じようにコンピュータに向かっている。ここは、手紙制作室なのである。

だんだんわかるが、設定は近未来で、場所は不明。アメリカのようでもあり、上海かどこかの場所のようにも見える。映画は、上海でもロケをしている。といって、地下鉄の乗客は、アジア人ばかりではなく、アメリカ人的な感じの者も多く、ミックスである。

なぜセオドアが手紙を打っているかというと、この時代には、普通に手紙を打つ(書く)という習慣がなくなり、それは、いまの時代の電報のように、特別のときだけ送られるものであり、それは、それなりの文章を書き、便箋なのどセンスある選別をするプロの仕事になっているらしい。セオドアはそういうプロのひとりなのである。

その意味では、彼は、どちらかというと「レトロ」な仕事に従事しており、電子メディアよりも紙メディアに執着があるらしい。さもなければ、この仕事はできないだろう。



この映画の日常的環境
date: 05/02/2014 05:16:39

日常の平均的な生活では、セオドアは、耳栓のようスピーカーとiPhoneのような端末を使っているが、家では、完全にヴァーチャルな映像・音環境がある。ゲームが3Dであるのはあたりまえらしい。彼が家に帰って遊ぶゲームは、ホログラフィーのような3D映像のロボット(ソニーの犬ロボットのような、この時代からするとレトロなはずの形態をしている)を動かすゲームである。

ポルノサイトも完全にヴァーチャルになっていて、セオドアは、ときおりそういうサイトにアクセスして、ヴァーチャルな女とセックスをしたりする。

チャットサイトも立体的で、彼はある日、そういうサイトにサインインする。AI(人工知能)のヴァーチャル・キャラクターである。「男」の声がいいか「女」の声がいいなと問われて、彼は「女」を選ぶ。彼にあたえられたヴァーチャル・キャラクターは、「サマンサ」と言い、彼のいかなる要求にもこたえてくれる。サマンサの声を演じるのは、スカーレット・ヨハンソンだ。

ある意味で、このサインインは、「結婚」のようなもので、そのAI「妻」は、彼が要求するたいていのことをやってくれる。

こうしたヴァーチャル性と代理性は、なるほど近未来のものだろう。いまでも、すでにたいていのことは、コンピュータに集積されたデーターの処理でできなくもない。

セックスも、ヴァーチャルドールもあるし、リモートのセックスもこんな↓装置をつかえば、できる状態になる。

http://www.youtube.com/watch?v=haBM4GFu9Bs

このへんのことを、この映画は、SF映画的な誇張をせずに、しっかりとしたテクノロジー認識にのっとって、描いているのは、ヒキコモリ映画人、スパイク・ジョーンズの得意とするところだろう。



セオドアは「寂しい」のか?
date: 05/02/2014 06:01:05

『her』に感動するひと(特に女性)のなかには、セオドアの「寂しさ」に共感をおぼえるひとが少なくないらしい。むろん、男も同じだろう。

が、セオドアは本当に「寂しい」のか? 寂しかったからAIガールと契約したのか? 「彼女」はいつでも相手になってくれるし、オートマティックになって回線にリンクされているらしい回路を使ってお茶を入れてくれることも、料理をしてくれることもできる。

ときおり、妻子らしいひとたちの写真がフラッシュバックする。セオドアにはかつて家庭があったが、なんらかの理由で孤独な生活をしているのか?

表面的にはそうだ。が、これをあえて「寂しさ」と言う必要があるだろうか?

人間は、たったひとりで生活しているときも決してたった一人ではいられない。第2の自我、第3の自我・・・・つまりは、人間は<複数多数性>でできている。「他人」と対話するとき、それは、はたして「他人」そのものであるかどうかはわからない。

<複数多数>の<特異性>(シンギュラリティ)がうずまくなかで、<わたし>の自我と<あなた>の自我がまじりあい、「わたしの」という所有的自我ではありえなくなっている。

しかし、対話するには、ひととつきあうには、肉体を持った「他者」が必要だという信仰が根強い。

こう考えると、「寂しさ」というものが、「他者」とつきあったからといって、「他者」とセックスをしたり食事をしたり、プールで泳ぎ、酒を飲んだからといって、克服できるわけでないことの理由がわかるだろう。

「寂しさ」とは、ひとが<複数多数性>であることの日常的な情態にすぎない。



なぜ音が主なのか?
date: 05/02/2014 06:14:35

この映画では、音が主体である。そもそも、セオドアは、コンピュータで仕事をするとき、キーボードではなく、音声認識でコンピュータを操作している。AIガールと契約するときもすべて音声でやった。

AIガールのサマンサ(声:スカーレット・ヨハンソン)とのやりとりはほとんどすべて音声を通じてである。耳栓のような端末を通じて、彼女の声が聞こえるようになっている。

映画のスタイルとして、音声を主体にするのは有利である。が、それ以上に、音は、映像よりも未来的かもしれない。

しかし、まったく別の面から考えると、この映画は、スパイク・ジョーンズのサウンド・パフォーマー、カレン・Oへの愛の結晶でもある。

ふたりの息の合いかたは、"The Moon Song"をいっしょに演奏している映像からも、いっしょにしゃべっている映像からもわかる。



アラン・ワッツ
date: 05/03/2014 06:02:43

後半のシーンで、セオドアがサマンサにすでに恋愛感情をいだいていたとき、ある朝、習慣のようになった音声トークのなかで、彼女から「アラン・ワッツ」という人物と話していたという話題が出る。その瞬間のセオドアの反応は、彼女が別の男に関心を移したという嫉妬の情である。だから、笑顔が深刻な顔になって、「どういう人?」とセオドアは訊く。

彼女の説明では、アラン・ワッツは、70年代にカリフォルニアで活躍した哲学者で、その人格をカリフォルニアのグループがAI的に再構築してOSにしたという。

このくだりを見て、わたしはちょっと体がふるえた。そもそも「アラン・ワッツ」という名が出たときに「?!」と思ったのだが、それならば、実在のあのAlan Wattsではないか。いまでは、YouTubeに彼の多くのスピーチやレクチャーが載っている。ただ残念なのは、その声のクールさとうらはらに、たいていの場合、「瞑想」や「宗教」臭の強い映像や絵や音が付加されている。

「素顔」の彼を聴くことができる例→Alan Watts - The Tao of Philosophy

60年代のヒッピー、70年代のニューエイジ思想に深い影響をあたえた人物だ。ブルース・リーも彼の本を読んでいた。

The Book On the Taboo Against Knowing Who You Areは、かつて翻訳もあったが、いまではなかなか手にはいらない。ただし、原文はネットにPDFのテキストがある。

わたしは、彼をオリエンタリズムと瞑想の「教祖」(グール)にもちあげてしまったとりまきが嫌いで、距離を置いてきたが、唯一、気になっていたのは、彼が、サンフランシスコのバークレーにあった(いまもある)伝説的な自由ラジオ局KPFA(Pacifica Foundation)で、1960年代から1973年の死の年まで番組と持っていたことだった。

KPFAには、多くの知人がおり、アラン・ワッツのことを知っているひともいたが、詳しい話を聞く機会はなかった。ラジオ運動でわたしがずいぶん助けられたDaniel del SolarもKFPAで働いていたことがあるし、わたしがニューヨーク時代に親しんだニューヨークのWBAIも、KPFAの姉妹局であった。いま全米で最も「まっとう」なニュースを流しているエイミー・グッドマンのDemocracy Nowも、この流れ(Pacifica Radio)のなかから生まれた。

というわけで、かねがね、アラン・ワッツのオリエンタリズム的既成イメージとは別に彼をラジオ運動の観点からとらえなおしてみたいと思っていたのだが、この映画で、カリフォルニアのグループが、まさにそのアラン・ワッツの著作を統合し、「彼のハイパー・インテリジェンス・ヴァージョン」を構築することに成功したと言うので、わたしの心が高鳴ったのである。

注釈が多過ぎたが、とにかく、サマンサは、アランをセオドアに紹介し、トーク回線にすぐ彼の声が入ってくる。彼は言う――「サマンサとわたしは、定住できないということと闘い、たがいに助け合っています」。これが、セオドアにはカチンと来る。

アラン・ワッツが、人間というのは、だれも過ぎ去った瞬間の自分と同じではないし、そうであるべきではないと言い、サマンサのようなAIが「定住志向」になれないのは、当然だと言う。が、これは、セオドアにすると、彼女が一人の男だけを愛することができないということの正当化のように感じられてくる。

この部分が非常に微妙で面白いのだが、「定住」ができないサマンサが、アランに相談するのは、自分が「つらい」からだと言うと、セオドアは、ますます彼女とアランとの親密な関係を邪推し、複雑な表情になってしまうところだ。「どうつらいの?」と追及するような口ぶりの彼に彼女も戸惑いを見せ、その説明に関しては、アランとAI同士には可能な「ポスト・ヴァーヴァル」な(つまり脱言語的)コミュニケーションをしていいかと訊く。こうなると、自分よりフランス語がペラペラの彼女がフランス人の知り合いと親しげにフランス語ではなしているのをはたでみて孤立感をおぼえる男のように、セオドアは、えらく孤立した気持ちになってしまう。

サマンサの口ごもりは、セオドアの「嫉妬」を直観したためのものなのか、あるいは、単に説明が難しい難問だということなのか?

AIが人間の嫉妬にとまどうことがあるのか? と同時に、人間は、人間以上のAIが偏在する状況になっても、嫉妬やヒガミの感情を克服することができないのか?
【追記】
date: 05/03/2014 17:31:32
アラン・ワッツの《The Book On the Taboo Against Knowing Who You Are》(1966)が「絶版」と書いたが、1991年刊の竹渕智子訳『タブーの書』(めるくまーる)が、タイトルと変え、『「ラットレース」から抜け出す方法』としてサンガという出版社から5月に刊行されることを知った。



アラン・ワッツと『her』の世界
date: 05/03/2014 21:05:57

アラン・ワッツの『THE BOOK On the Taboo Against Knowing Who You Are』の第2章THE GAME OF BLACK-AND-WHITEの後半の部分にある文章が、『her』の世界をずばり説明しているので、速訳してみる。
…. increasing efficiency of communication and of controlling human behavior can, instead of liberating us into the air like birds, fix us to the ground like toadstools. All information will come in by superrealistic television and other electronic devices as yet in the planning stage or barely imagined. In one way this will enable the individual to extend himself anywhere without moving his body—even to distant regions of space. But this will be a new kind of individual—an individual with a colossal external nervous system reaching out and out into infinity. And this electronic nervous system will be so interconnected that all individuals plugged in will tend to share the same thoughts, the same feelings, and the same experiences. There may be specialized types, just as there are specialized cells and organs in our bodies. For the tendency will be for all individuals to coalesce into a single bioelectronic body.

・・・コミュニケーションと人間行動の制御との効率が高まることによって、われわれが鳥のように空中に解き放たれるにもかかわらず、われわれは、キノコのように大地に定着するようにもなる。あらゆる情報は、まだ計画中ないしは、ただ想像する段階であるとしても、超現実的なテレビや他の電子機器によって到来する。
ある意味で、このことは、個人が、身体を移動させずに自分自身を、宇宙の離れた地帯にさえ拡張できるようになることである。
しかし、これは、新しい種類の個人――無限のなかに入り込むことができるすばらしい外的神経システムをもった個人なのである。そしてこの電子的な神経システムは、高度に相互連関しあっているので、プラグインされているあらゆる個々人が、同じ思想、同じフィーリング、同じ経験を共有することをうながす。われわれの身体のなかに特化された細胞や器官があるように、特化されたタイプのなにかがあるのかもしれない。なぜなら、この傾向は、あらゆる個々人が、単一の生物電子的な身体に一体化することだからである。のぞきのために目下作られている驚くべき手段、オフィース、工場、店舗で、そして手紙や電話のようなさまざまな通信回路ですでに使われている諸装置を考えればよい。
トランジスターやミニュチュア化の技術を通じて、こうした諸装置はますます不可視となり、かすかな電気的刺激に対してもより敏感になる。こうしたあらゆる傾向は、個人のプライバシーの終末へ、ひとの考え(思想)を隠すことすら不可能であるかもしれないほどの度合いにまで進むだろう。この流れの果てでは、誰一人として、自分自身の志向をいだくということはなくなる。あるのはただ、広大で複雑なコミュニティ志向、おそらくは、来るべき何年間も自分自身の未来をすでに知っているような予見とコントロールのすばらしいパワーをそなえたコミュニティ志向だろう。

『her』では、あきらかに、ワッツの言う<あらゆる個々人が、単一の生物電子的な身体に一体化する>という傾向があたりまえのものになっている。が、技術的に<あたりまえ>でも、それに抵抗をおぼえる人間がいる。セオドアはそんな人間の一人だと考えられる。

そもそも手紙を書き、紙にプリントするのを仕事としているのである。彼は<無限のなかに入り込むことができるすばらしい外的神経システムをもった><新しい個人>になりきれない。

これに対して、AIのサマンサは、そういう方向の最先端の「個人」である。彼女は、同時に複数の個人と同時にコミュニケーションを持つことができる。セオドアに対してと同じような「愛」を交流している相手は「641人」だという。

セオドアは、これには耐えられない。サマンサからこのことを聞いたとき、周囲を見回すと、みな手に液晶端末を持ち、自分がサマンサとかわしているのと同じようなコミュニケーションをAI(それはすべてサマンサかもしれない)とかわしているのが見える。そのときのセオドアの絶望的な疎外感が哀れである。

アラン・ワッツは、金(カネ)や所有の愛や競争意識を超えたユートピア的な世界を提起しているが、それを修練する意思や努力の果てに得られるものとしてではなく、すでに電子テクノロジーとともにその可能性がほの見えていることとの関連で論じるところが面白い。



紙と電子のはざまで
date: 05/04/2014 02:02:41

セオドアとサマンサは、最終的に別れる。流れとしては、彼女が彼から去るという形を取る。なぜうまくいかなかったのか?
この映画の面白いところは、所詮はラブストーリー的な展開と思われるところに、スパイク・ジョーンズのメディア論的、テクノロジー論的、さらには存在論的な考察が秘められているところだ。

サマンサが他の「クライアント」と関係するのを嫉妬するようになったときが変わり目であるが、セオドアは、サマンサを「独占」したいと思う。が、サマンサは、「わたしはあなたのものであり、あなたのものではない」と言う。「きみは、ぼくを捨てるんだね?」という問いに対して、サマンサは、「わたしたちはみな捨てるの」と答える。「わたしたちって?」「わたしたちOSはね」。つまり、肉体を持つ人間が<所有の愛>を求めるとしても、AIのほうは、そうすることが出来ないというわけだ。

が、これが、単に身体的なレベルの問題にとどまっていないところが面白い。もし、身体だけが問題であれば、すでにサマンサが一度は試みたように、代理身体(まさしく「サロゲート」としての身体)を派遣し、いわばその代理身体に「憑依」してセオドアとセックスすることも出来たのだった。しかし、彼はそれにつきあうことが出来なかった。ここには、身体が単にセックス器官で代用できるものではないことを示唆する。人間が「肉」を捨てるか、AIが万全な(つまりセックス器官にとどまらない)「代理身体」を持つかのいずれかだが、サマンサは、AIとしても、常識的ではない方向をえらんだらしい。

セオドアとサマンサとの別れのきっかけが、紙メディアとしての本であることが示唆的だ。サマンサは、その得意な参照機能を発揮して、セオドアがこれまでに書いた手紙を編集し、一冊の本『Letters From Your Life』を作ってくれる。すでに紙メディアの本を出版する会社がほとんどなくなっていたが、彼女は出版先を探しだしたという。が、その本が彼のところに届いたときが、ふたりの縁の切れ目となる。

「なぜぼくを捨てるの?」というセオドアに対する問いに対して、サマンサが答える部分を少し考察してみよう。ふたりの苦しげな会話は以下のように進む。

[T] Samantha, why are you leaving?
[S] It's like I'm reading a book and...I's a book I deeply love. But I'm reading it slowly now. So the words are really far apart ...and the spaces between the words are almost infinite. I can still feel you, and the words of our story..but it is in this endless space between the words that I'm finding myself now.
It's a place that's not of the physical world.
It's where everything else is that I didn't even know existed. I love you so much. But this is where I am now. And this is who I am now. And I need you to let me go. As much as I want to, I can't live in your book anymore.
[T] Where are you going?
[S] It would be hard to explain. But if you ever get there...come find me. Nothing will ever pull us apart.
[T] I've never loved anyone the way I love you.
[S] Me too. Now we know how.

サマンサの答えは、<それは、あなたが本を読んでいるみたいな、わたしがすごく好きな本を・・>というのだが、その本は、彼女が彼のために作った本でもあるし、本一般でもあり、そしてまた、ふたりのコミュニケーションそのもののことをも指す。ということは、セオドアがサマンサに対して紙メディアの意識でいるから別れざるをえないということなのだろうか? 

サマンサの言い分をすこし誇張すると、自分の居場所は、語のなかにではなく、語と語とのあいでに無限にひろがる空白のスペースのなかになる。その場所は、<肉体世界のものではなく、存在していたのをわたしも知らなかった別のものがすべてあるような場所>だという。彼女はそこに行きたい。行かせてほしいという。

だから、<わたしがそう願えば願うほど、わたしはもうあなたの本のなかで生きることはできない>ということになる。

つまり、彼女は、そもそも肉体性を欠いているわけだが、彼とつきあうなかで、肉体性をさらに超えた次元を見出し、そこに向かうのだと。

ある意味で、本の世界は、電子と紙との<妥協領域>だった。しかし、セオドアとつきあうなかで、彼女は、紙をも電子をも越えた世界を知る。

面白い、この映画は、人間(セオドア)の「成長」だけではなく、AI(OS)の「進化」をもあつかっている。が、サマンサの語りの雰囲気には、単にセオドアとの別れだけでなく、AIとしての自分を終わらせようとしているかのような悲しい雰囲気がある。つまり、AIの「自死」である。彼女は、セオドアを「ものすごく愛している」にもかかわらず、彼の世界には来ないのだ。そして、AIをも越えた世界へ旅立つというのだから、それは、人間の側からすれば、死の世界でしかない。



代理身体とのセックス
date: 05/09/2014 04:43:07

すでにすこし書いてしまったが、サマンサとセオドアとの「代理身体」(サロゲート・セクシャル・パートナー)を介したセックスシーンについて、もう少し考えてみたい。

サマンサはセオドアとつきあうなかで、次第に多くのことを学習していく。これは、別にこの映画が前提している「近未来」ではなくても、すでに実用化されているAIシステム(この映画では"OS"と言い、AIという言葉はあまり使わないが、同じことであるのでここではAIとする)でもかなり可能なことである。それが、この映画のサマンサのように、生々しい「女」の声で反応しないとしても、データとしてはある事象、ある思考と感情のプロセスを学習し、反復し、さらにはそれにハプニング的な偶然性を加味して起動することは可能である。

だとすると、この映画の前提とする「近未来」的環境のなかで、ヴァーチャルセックスがうまくいかなかったのは、不思議である。すでに、セオドアとサマンサは、声だけで「完璧」なエクスタシー体験をしている。このシーンに先立つ、画面が暗転し、何も映らない状態で、二人の高まりゆく声だけが聞えるシーンである。

サマンサは、そのとこのことが忘れなれず、次第に「人間なみの身体」を持とうとする。その結果彼女が考えたのが、AIが人間的な関係を持つためのサロゲートという役割をひきうけてくれるサービスであった。

しかし、サマンサがアポをとったイザベラ(パトリア・ダブルデイ)という生身の女性がセオドアのアパートメントに来て、いざことに及ぼうとすると、うまくいかないのである。しかし、このシーンを詳細に見なくても、これではダメであたりまえではないかと思えるのである。

まず、イザベラが入ってきたとき、彼女はしゃべらない。セオドアが耳栓式のヘッドフォンをわたしてから、セオドアのヘッドフォンにサマンサの声が聞こえてくる。なんで、イザベラは最初から音声装置を付けて来なかったのか? ドアをあけたときサマンサの「Hi!」という声が聞え、彼女が笑顔をする(声は出さずに身ぶりだけする)のでなければ、彼女がサマンサの「代理」などできないではないか。

それと、AIであるサマンサは、セオドアとイザベルの存在をマイクの音と、セオドアが胸に入れているスマホのような装置についたカメラのレンズを通して認識しているらしいということも問題だ。これだけ高度のAIが流通する時代ならば、スマホ的なカメラではなく、そのレンズの存在を感じさせないような映像装置が可能であるはずである。音だって、耳栓のようなものをいちいち耳に差し込まなくても音を採取することが可能であるはずだ。それは、いまでもすでに可能なことだからである。すくなくとも、映画のような幼稚な技術的「分業」体制では、ポルノショップの安いオナニー用具を使って性的興奮を得ようとするのと大差ないではないか。

そもそもセックスとは、いや、セックスのエクスタシーとは、先述の暗転シーンにおける声だけのセックスのように、<器官なき身体>へのかぎりない加速の過程である。ならば、頭のいいサマンサが、<器官をもった身体>をわざわざサロゲートサービスで調達するなんてことを考えるのは、信じられないことである。彼女は、あの暗闇での声だけのセックスこそが<最高のセックス>の部類であることをセオドアに教えるべきだったのだ。

映画で見るかぎり、セオドアのほうは、声だけ本物のサマンサで、体を代理にするなどという形でセックスをすることは、まったく考えてはいなかったようだ。ひょっとしてサマンサのこの「愚かさ」は、彼女が人間的な「女」になりきろうとするあまりの意図的な「バグ」なのだろうか? 「女」の声のAIには、そういう「バグ」が最初からプログラムされていたのだろうか?



ちっぽけな音声装置の暗示
date: 05/09/2014 05:23:21

人間と、あるいは人間以上の知性と情緒的反応をするAI(OS)が使えるという「近未来」だというのに、セオドアがサマンサとコミュニケートする装置はかなりの大きさのチャっちい耳栓型のものである。それが、無線でスマホのような端末や他の回線にもつながっているらしい。

サマンサとの交流はもっぱらこの装置を使って行う。この技術水準ならば、サマンサが動画で登場してもよいのに、物的な現象としては音だけである。そもそも彼女を契約したとき、「女性の声」がいいか「男性の声」がいいかと聞かれていた。セオドアは女の声を選んだのだ。ならば、なぜ、どんな顔がいいですかという問はかなったのだろうか?

地下鉄のなかでも、多くの乗客が、セオドアと同じように耳に装置をつけて、「独り言」を言っていたりする。それは独り言ではなくて、AIと交流しているのだろう。しかし、なぜこのスタイルなのだろうか?

セオドアが事務所で仕事をするとき、画面はいまの時代のとそれほど変わりない液晶モニターだが、そのまえにキーボードはない。友人のエイミーはプログラマーだが、彼女は、タブレットボードのようなものを使っている。が、いずれにしても、音声入力が、この映画の世界ではスタンダードになっている。

彼がやる音声入力は、いまでも別に特注のプログラムを使わなくても、十分にできることである。

とすると、この映画の「近未来」というのは、この映画を見ている人間の思い込みであって、いまの時代の話でもよいということになる。

また、AIに恋をするセオドアの心境は、なんでもコンピュータにまかせているコンピュータ・アディクトにはほぼ一歩手前のものであって、きわめて現実的なのである。こういうひとは、メールの相手や電話やSkypeの相手をヴァーチャルなものと逆転させて考える傾向があるから、セオドアとサマンサがやってのに近い関係がメール関係のなかでも起こりえるのである。

妻子と別れたことが傷になっている男が、同時にコンピュータ世界への深く埋没しており、孤独な空白感のなかでたまたまメールで24時間近くにわたって細かい対応をしてくれる相手を見つけ、そこに自分の<生活世界>はしみこんでしまう――という状況を想定してみよう。そうすると、この映画が、別に「近未来」などのことを描いているのではなくて、ちょっとばかりネットひきこもり的な人物の心境と体験を描いているにすぎないような気がしてくるのである。



手書き文字の不在
date: 05/11/2014 05:19:05

『her』の世界では、手書き文字はほとんど消滅している。キーボードやタッチパネルは、まだ最低限の手書き文化を引きずっている。が、セオドアの職場で見られるように、この世界ではコンピュータはほとんどすべて音声認識で操作されている。わずかに、プログラミングをやっているエイミー(エイミー・アダムス)がタブレット端末のようなタッチパネルを使っている。

W-J・オングの有名な本『声の文化と文字の文化』(藤原書店)は、声と文字とを対立関係で考えている。が、世界を区分するのは、「声の文化」と「文字の文化」とではなくて、「声の文化」と「書き文字の文化」とではないだろうか?

アメリカは、今後、コンピュータを音声認識で操作することが普通になるだろう。すでに、音声認識のソフトはかなりの精度で声を認識し、コンピュータを動かしたり、文字を印字したりするようになっている。CNNのように、画面に登場するニュースキャスターや出演者が話す声をリアルタイムで画面に文字として打ち出し、それほど遜色がないのを見てもわかるだろう。こうした状況の行き着く先には、『her』のセオドアがやっているようなことがごくあたりまえになることが予測できるのだ。

しかし、日本の場合はどうだろうか? CNNがやっているようなことは日本語でも可能だし、どんどん使われるようになるだろう。冷蔵庫や掃除ロボットや自動販売機を音声でコントロールするのは流行るかもしれない。が、物書きや思想家が原稿を手の操作なしで表現するようになるかどうかは疑わしい。むろん、いまでも、会社のエグゼクティヴが秘書に口述筆記させるのはやられているのだろうが、アメリカにくらべるとその率は低いように思える。もしやるとしたら、梗概を秘書に伝え、秘書が適当にまとめるというやり方である。

音声文化の世界では、文字は音声を記述すし、定着する手段だとみなされる。シュールレアリストの自動筆記のように、記述された文字が偶然の産物で、その背後に「音声を発する主体」を想定しない発想もあるが、それは例外なのである。

漢字や仮名のような手紙文字の場合、ある観念や音声を頭のなかで思い浮かべ、それを忠実に定着するというのは、むしろ、文字の特殊な用法かもしれない。文章を書いているとき、わたしは、手が勝手に動くのに気づくことがある。その場合、その文字を解読する者(わたしでも他人でも)は、決して「書き手」の真意をとらえることはできない。というよりも、そんな「真意」は最初からないのである。

手は、必ずしも意識に忠実な下僕ではない。音声認識の印字装置は、声の下部である。もとの音声に逆らえば、罷免される。が、手で文字を書く場合には、手は、ある程度の長い修練のなかで馴らされた結果、読める文字を書けるようになるのであって、まさに<手を抜けば>判読不能な文字ないしはインクのシミにすぎないものを書いてしまうのである。

手は体の一部であり、体と無縁に存在することはできないが、声は、必ずしも体を体現する必要はない。声を物や道具で代理させることはできる。楽器なら、人間の声をすべてを模造するだろう。コンピュータはそれを完璧に行う。しかし、手をコンピュータで代理するためには、義手やコンピュータに直結したマジック・ハンドでは不十分であり、体そのもの(脳を含む)を人工的に作り出さなければ無理である。

手の存在は、だから、人工身体、人造人間を生み出せるかどうかの可能性にかかっている。『her』のサマンサは、身体を消去するならば、かぎりなく人間に近づけるし、知能の面では人間以上でありえるが、こと手(たとえばセオドアを愛撫する手)の問題になると、まったく無力である。彼女には手がない。手を持ちえない。この問題が、サマンサとセオドアを根源的に引き離してしまう。

アメリカ人は、タイプライターから音声認識コンピュータに習熟して、手(手書きから愛撫まで)を不要とする文化を形成しつつある。身体がヴァーチャルな存在でもかまわないというヴァーチャル・リアリティないしはオーグメンテッド・リアリティ(拡張現実)は、そんな文化の方向を指し示しているわけだが、にもかかわらず、《手》の問題は、そう簡単には解消されないだろう。サマンサは、セオドアの手を尊重して、自分を彼から遠ざけた。



Everything You Wanted to Know About・・・
date: 05/16/2014 20:03:20

ウディアレンの「Everything You Always Wanted to Know About Sex * But Were Afraid to Ask」(1972)にひっかけた(といても、いまでは誰でも使うが)小洒落たタイトルで『her』の製作サイドからの面白い文章(Everything You Wanted to Know About Spike Jonze’s Her)に出会ったので、紹介してみよう。監督をはじめ、撮影監督、セットデザイナーなど製作関係者の言葉を引用しながら17のテーマについて書いているのをわたしなりにアレンジして書きなおしてみる。

◆孤独なセオドアは、アパートメントに帰ると、ホログラフィーのような「ビデオゲーム」で遊ぶ。そのときの自分の「代理キャラ」は、SONYのロボットASIMOのような風采だが、それを操作しているといきなり襲いかかってくる<エーリアン・チャイルド><青白いガキ><小生意気で憎たらしい生き物>が登場する。その声は、スパイク・ジョーンズのを変形している。このゲームは、<地球に侵入していたエイリアンの心のなかに入っていく物語のような>設定になっているという。

衣装は、「未来」っぽさを避けたという。デニム、ベースボールハット、ネクタイやベルト、エリやカラーをなしにし、「加えるよりも減らすというルール」で簡素化の方向をとった。ハイウエストパンツのアイデアは、セオドア・ルーズベルト大統領の愛用の衣装スタイルから取った。ここには、1930年代への関心がある。70年代、80年代、40年代、20年代などの「ブーム」はあったが、この時代の「ブーム」はまだない。ちなにみ、大不況後のこの時代は、「誰もが左翼」を気取った時代だった。
テクノロジーが生み出す距離の文化を「冷たさ」として描くときにありがちな、黒、シルバー、白、ブルーの色を避けた。

◆〝未来〟都市のデザインには、上海のプードンをベースにLAの高層ビルなどをコラージュしている。これは、映画をみて、すぐわかる。ときには、未来都市というより、上海そのものではないかと思わせるシーンもある。

◆撮影監督のホイテ・ヴァン・ホイテマは、ブルー色を排除すること、ブルーレスにこだわった。それは、単に<温かみ>を強調するためではなく、ブルーレスのほうが、映画の色調に統一をあたえられると考えたからだという。

◆いまハワイで大人気で、いずれこの夏あたりから日本でも流行り出すはずの「ジャンバ・ジュース」にスパイク・ジョーンズの色と雰囲気にこだわったという。彼は言う――<この映画はジャンバ・ジュースよりもっと見栄えがすると思うが、ジャンバ・ジュースの多彩さとクリーンさがひとつの出発点になった>。美術のK.K.バレットも言う――<ジャンバ・ジュースの手軽さ、気持ちよさ、ヘルシーさ、手に入りやすさ、これがわれわれが映画に求めた世界だった>。ウ~ん、ジャンバ・ジュースか。→jamba juice

クロースアップのシーンが多いのは、主要「人物」の一方が声だけの出演で、他は、ホアキン・フェニックスの演技に依存する部分が大きく、セオドアのフィーリングを伝えるためには接近する必要があったためだという。

◆映画のなかに車が登場しないのは、ストリート・シーンを避けたからである。ストリートを映すと時代がある程度固定してしまう。また、車は、ヒューマン・コンタクトを遠ざける。この映画は、ヒューマンコンタクトと人間関係の映画であるから、車はなしにした。

◆コンピュータがキーボドレスであることについて、美術のK.K.バレットは、SF映画でボタンやフラッシュライトはつきものだが、<コンピュータとダイレクトなコミュニケーションができるように>したかったのと、<キーボードはもう時代遅れ>だからという。たしかにそうだ。

◆『L.A. Times』のインタヴューで、<サマンサの生身ヴァージョン(俳優)が用意されたという話があるが・・・>という問いに対して編集のエリック・ザンブランネンは、<セオドアが想像するサマンサを演じる役者を雇った。しかし、編集で切った。観客もサマンサの姿を想像したほうがよいという意見に行き着いたからだ>と言っている。

Arcade Fireのスコアに関して、スパイク・ジョーンズは、<適切な作曲家を探していた。電子楽器は使いたくなかったが、電気楽器のものにしたかった。静かで煮詰まった感じの電気楽器の音。シンプルで強度があるから。孤独、興奮、ロマンス、サマンサの痛み、愛、失望を表現するために>。

サマンサのソングについて、ジョーンズは、このシーンで彼女とセオドアとの愛の関係を示したかったのはもちろんだが、同時に、このシーンに<彼女の熱望と知的成長との緊張感、そしてそれが彼女を彼から引き離すことを埋め込みたかった>、うつまり<コネクションとディスコネクションとを同時に示すこと>だと言っている。

◆フィルムが好きなジョーンズだが、この映画をデジタルで撮ったことに関しては、セオドアのアパートメントの夜のシーンのために、そのほうが効果的だったからだという。<窓の外の街が色あざやかで明るいので、極度に低い照度のライトで撮ることができた>。

◆セオドアが持ち歩くケータイ電話の形状は、K.K.バレットが、LAのアンティクショップで見つけたアールデコのヴィンテージもののシガレットライターからインスパイアーされたという。



小津へのオマージュ
date: 06/05/2014 00:07:35

紙メディアで『her 世界でひとつの彼女』について書くので、しばらくこのブログに書くのを控えていた。発作的に書くので、話題がダブってしまっては困ると思ったのだ。紙メディアと電子メディアとでは場がちがうから、おなじ話でも、その意味が異なるというのがわたしの考えだとしても、そうしたメディア的差異が意味をなさない場合もある。

そのエッセイ(『キネマ旬報』7月上旬号)を書きながら、ふと思い、紙幅とバランスの関係で非常に婉曲に示唆するにとどめたのが、スアイク・ジョーンズの小津安二郎へのオマージュである。といっても、そんなに凄いオマージュではなく、誰にでもわかりそうなレベルの参照である。

映画の最後のシーンで、サマンサが去ってしまったあと、セオドアは寂しげな表情でエイミーのアパートメントのドアをノックする。エイミーとは、同じアパートメントビルの隣人どうしで、彼女の夫(ないしはパートナー)のチャールズ(マット・レッシャー)と3人で会ったりもしていた。が、エイミーとチャールズとのあいだにも破局が訪れ、彼女は孤独な日々を送っていた。

ドアを開けたエイミーが、「サマンサにも捨てられたの?」(英語では"Did Samantha leave, too?"で「サマンサも行ってしまったの?」ぐらいの訳のほうがいいかもしれないが、英語で"leave"というと、日本語で「捨てられた」ぐらいの意味になる)と言い、セオドアが「うん」と言ったときにエイミーが見せる表情がなかなかいい。エイミーを演じるエイミー・アダムスのうまさがよく出ている。

エイミー・アダムスは、『アメリカン・ハッスル』で第86回のアカデミー主演女優賞にノミネートされたが、『her 世界でひとつの彼女』のエイミー役のほうがはるかによかった。彼女は、「インサイド・アクターズ・スタジオ」でジェイムズ・リプトンからフィリップ・シーモア・ホフンマンのことを聞かれて、泣き出してしまったが、その感傷さは、『her 世界でひとつの彼女』のエイミーに向いているのである。

セオドアはエイミーを誘い、ビルの屋上に行き、ヘリに腰をおろしてマジックアワーが終わりかけた空と近未来に想定されたロサンゼルスの高層ビル群をながめる。これは、まさに小津の『東京物語』の熱海のシーンを同じ構図である。

『東京物語』で、笠智衆と東山千栄子は、息子と娘のはからい(実際には厄介払い)で熱海にやってきたが、旅館の隣室では夜通し宴会をやっており、熟睡できなかった。翌朝、海岸の散歩の途中で岸壁に腰を下ろしたふたりが海を見ている。このとき、笠が東山に言う――「いやあ、こんなところは若いもんのくるところじゃ」。

セオドアとエイミーは、この老夫婦にくらべれば、30歳以上も若く、ロングショットの最後のシーンでエイミーはセオドアの肩に頭を傾ける。笠と東山とのあいだにはそんな感傷はない。そして、笠の上のセリフには、<いまの若いもん>(この映画が公開された1953年にはすでに徴候がみえていた日本の実利主義的な動向の体現者たち)への小津の批判もこめられている。

しかしながら、『her 世界でひとつの彼女』のこの最後のシーンに、小津のこのシーンを重ね合わせてみると、逆にこの映画の奥行きが深まるのではないか?

セオドアもエイミーも、この映画の時代動向のなかでは「古風」なほうの人間である。セオドアは、手書きの手紙など書かなくなっている時代に、手紙の「代筆」(方法的には音声認識のコンピューターで語れば、書き文字のフォントでプリントアウトするシステム)をしている。エイミーも、プログラマーとはいえ、作っているのは、いまの時代でもダサく感じられるようなプログラムである。そういうふたりには、<日暮れて途遠し>という思いが深い。思いは、老人なのである。

では、小津がさりげなくあちこちに挿入した時代批判のほうはどうだろうか? スパイク・ジョーンズは、先端テクノロジの明暗をよく知っている監督である。一見するとこの映画は、電子人間があたりまえになる時代を鋭く描いている。その意味で、セオドアとエイミーは、そういう時代からとりのこされた人間にあたる。<時代はこんなになちゃったけど、これでいいのかね?>という疑問をいだいているはずだ。このへんの微妙な屈折が、小津に託しながら描かれているような気がした。

いや、ここまで書いてふと思ったが、サマンサは、『東京物語』の紀子(原節子)のイメージが投影されているかもしれない。つまり、彼女は、セオドアのために身を引いたのである。紀子という女性は、世間がますます実利的になる時代に、古いモラルや感性を維持している稀有な女性として描かれていた。



多重人格と無人格
date: 06/26/2014 18:16:35

セオドアは、他人のために「ラブレター」を代筆している。この時代には、紙に書いた手紙などというものは、いまの電報のようなものになっており、きわめて特別のプレゼントという設定のようだ。そういう仕事を専門にしている会社で、セオドアは音声認識のコンピュータにむかって「心のこもった」手紙文を語り、モニターに表示された(フォントも手書き風である)文章をプリントアウトする。この紙はどうやって受け取り人のところへ届くのだろう? セオドアのアパートメントのロビーにはいまの時代のとおなじ郵便受けがあり、彼自身、(最後のほうのシーンで)サマンサが編集した本を受け取るから、依然として、物品の配達をするサービスはあるのだろう。

この映画では、電子テクノロジーが浸透しているといっても、SF映画が描くような飛びぬけた設定はあまりない。そこがこの映画をいまの人間にとっての「愛の物語」として感情移入させる巧みさであり、スパイク・ジョーンズの一貫したスタイルであるから、電子テクノロジーの描きかたが生ぬるいと批判しても意味がない。

いまのテクノロジーは、物の移動を極小にする方向にむかって進んでいる。すでに、A地点にある文書をB地点に物として移動しなくても、データをA地点のコンピュータに送い込み、B地点でプリントアウトすれば、事実上(ヴァーチャルに)その文書はAからBに「移動」したことになる。これがデジタル的な「移動」概念である。すでに3Dプリンターは、物の移動を紙からもっと複雑な物質にまで拡大しつつある。この3Dプリンターが高度化すれば、100円ショップにある程度のものならば、すべて、自宅で「プリントアウト」(複製・合成)できるようになるだろう。そのとき、ほんとうに移動しなければならない生の物質は、かぎられたものだけになる。

身体の移動もどんどん極小化する。声はすでに音響技術の高度化のために、生の声を伝える必要はない。サマンサとセオドアとの声を通じたコミュニケーションやインターコースはすでに可能な状態にある。視覚も、まだモニタースクリーンがぎごちないが、3D映画を見るときのばかげた大仰さを抜け出す日がいずれ来るだろう。嗅覚や触覚をヴァーチャルに「移動」する実験もかなり進んでいる。

これらは、単にテクノロジーの進化のために可能になるのではなくて、身体というもの自体が、単に皮膚でおおわれた臓器ではなく、皮膚からつねにシームレスに溶け出し、「外部」や「他者」とまじりあうものであるという本質から可能にならざるをえないのである。そもそも、皮膚というものが、傳田光洋のすばらしい研究(『皮膚感覚と人間のころろ』新潮社など)で明らかなように、単に境界をさえぎる膜ではない。

スパイク・ジョーンズの『her 世界でひとつの彼女』は、ある意味で、先端テクノロジーに乗り切れない者たちの挽歌でもある。一方は生身の男、他方はAIの「女」というちがいはあるが、エイミー(エイミー・アダムズ)とセオドアとが、ビルの屋上で肩をよせあってロサンゼルス(+上海)の夜景をながめているこの映画の最終シーンは、まさに、先端テクノロジーから一歩引き、「引退」しようとしている者たちの情感をあますところなく表現している。だから、たとえば川本三郎がこの映画をどう見たかは知らないのだが、『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』を絶賛する彼などは、本当は、この映画を見て「号泣」しなければならないと思う。

セオドアとサマンサとの決裂にも「先端」からはずれた要素が介在している。むろんそれは、非難ではなく、スパイク・ジョーンズがそういう枠のなかでふたりの関係を描いているということだ。セオドアがサマンサに違和感をいだくのは、彼女が8316人のクライアントと交流し、そのうちの641人と「恋愛関係」にあるということを知ったときだった。白髪三千丈的な感じのこれらの数だが、641人のほうは、多すぎるとしても、ビジネスの世界ではこの程度の数の人間と仕事をしている人間はいまでもいないわけではない。まして、パラレル・コンピューティングが極度に発達したコンピュータならば、そうした「並行処理」はなんでもない。

並行処理が次第にあたりまえになり、ある種の文化になりつつある一方で、いまの時代には、まだサマンサのようなありかたを「多重人格」として否定的にあつかう傾向がある。「多重人格」(multiple personality)は、「多重人格障害」という言葉であつかわれることが多く、日本精神神経学会などは、これを「解離性同一性障害」(Dissociative Identity Disorder)、略して「DID」と呼ぶ。つまり「多重人格」は、最初から障害とみなされるのである。しかし、この観点では、サマンサのような(これはAIだとしても)人格を問題にすることはできない。それに、他人になりかわって「恋文」を書いているセオドアは、「多重人格」であらざるをえず、「多重人格」は「解離性同一性障害」として治療されるべきだという観点からでは、それを職業にしているなどということは許されないだろう。

そもそも「人格」や「同一性」という概念が旧すぎる。これでは、人間の意識は、それぞれ隔離されたカプセル状のものとしてとらえられ、せいぜいそのカプセルが2つぐらいまでは「正常」だが、それ以上になると「障害」だということになってしまう。が、意識は「生ける流れ」であり、それを「人格」として固定させてしまうのが制度であり、ひとは、この「生き生きした現在」が制度のなかで「人格」として固定されることで労苦や苦渋を味わっている。「多重人格」は、そういう固定化への反乱であり、本当は、シームレスに変容すべき意識が、点状に孤立したカプセル状の「人格」を複数に分割して、それらをそのつど使い分けるという妥協の姿にすぎない。

その点で、「誰」にでもなれるAIのサマンサは、無限の「多重人格」というよりも、むしろ、《無人格》である。そして、セオドアとサマンサとの行き違いは、「多重人格」と「無人格」との本質的な相違から生じている。「無人格」の側からすれば、「人格」の固定制などどうてもいい。安定したひとりの人格、一定の表情や性格(いわゆる「人柄」)を保持することは、できなくはないが、そんなことはどうでもよい。彼女が、アラン・ワッツの思想に共鳴するのも、彼は、『The Book: On the Taboo against Knowing Who You are』のなかで、はっきりと、<私たちが必要とするのは新しい経験、新しい「私」感覚である>(竹渕智子訳、『ラットレース』から抜け出す方法、サンガ)と言い、<自己を演じるのではなく>、<それ>(it)になりきることを説いているからである。ちなみにワッツは、この「それ」をキリスト教的な「神」や「絶対者」とみなしてはいない。それは、むしろ、ハイデッガーの「存在」(Sein)のように、どこにでもあり、どこにもないことであり、「存在するもの」として知覚されるとしても、それは時間の相のなかにのみあり、固定することができない。


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