粉川哲夫の【シネマノート】 HOME リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い) |
1999-01-29_2
●フラミンゴの季節(Sin Querer/1996/Ciro Cappellari)(シーロ・カペラッリ)
◆禿げ鷹が棒の先に張りつけになっていて、その下に豚がいる。この思わせびりがこの映画のスタイル。
◆ある日測量士がやって来るという構図は、ふとカフカの『城』を思わせたが、類似点は、性を通じて脱領域の関係をもっている女(アンヘラ・モリーナ)がいて、彼がすぐにこの女と寝てしまうことぐらいか。
◆パタゴニアの殺伐とした村の雰囲気はよく出ている。スペイン系の支配階級と、彼らに(かつてもいまも)土地を奪われた不遇なインディオとのあつれき(ただし、グループ間のではなく、個人間の対立として描かれる)があり、それが、ドラマを生む。
◆しかし、たとえば『おかしな二人 2』で、登場人物たちが何を飲み、何を食べているかが匂ってくるような映像が必ずあるのに対して、日常性に密着しって撮っているようにみえて、その割りには抽象的なのである。
◆この映画は、ドイツ/スイス/アルゼンチンの合作である。なぜ、ドイツなのか? 撮影監督は、ファスビンダー映画で有名だったユルゲン・ユルゲンス。
◆ところで、地図でパタゴニアから少し上にあるパラグァイは、ニーチェの妹がゲルマン・コミュニティ建設の夢を抱いて行った土地であり、その後もナチズムの残党が住んでいた場所である。(関係ないか)。
◆原題のSin Quererは、「うっかり」とか「思わず」の意味である。
◆UIPとヘラルドをハシゴするのに時間があったので、Tullysに入ってエスプレッソ・コンパナを注文して飲もうとしたら、なかに緑の輪ゴムが入っていた。
◆川本三郎氏が遠くで会釈。
◆高崎俊夫氏と久しぶりに話す。
(ヘラルド試写室)
1999-01-29_1
●おかしな二人 2(The Odd Couple II/1998/Howard Deutch)(ハワード・ドイッチ)
◆冒頭からウォルター・マッソーのジョーク。いかにもユダヤ的。全体にニール・サイモンの都会的なジョークにあふれている。
◆フロリダの老人ホームのようなところでポーカーゲームをやり、マッソーが軽い食べ物(サンドウィッチなど)をみんなに作ってやるシーンが冒頭にあるが、これは、彼らがみなユダヤ人であることをすぐにわかるようなしゃべりと作りになっている。
◆ジャック・レモンは、潔癖症とアレルギーで、「スナッ!」と大声を出すと、ノドのつまりが直る癖がある。
◆別れを惜しんで抱きつくフィリクス(ジャック・レモン)に対して、オスカー(ウォルター・マッソー)が、「そんなことしたら誤解されるぜ」と言うが、潜在的に2人には、ゲイの傾向があるのではないか? 1968年の『おかしな二人』は、まだゲイプライドが確立されていない時代に「ホモラディック」(ホモ体質)を暗示しながら作られた(ニール・サイモンの戦略?)事実上のゲイ映画ではなかったか?
(UIP試写室)
1999-01-26_2
●パッチ・アダムス(Patch Adams/1998/Tom Shadyac)(トム・シャドヤック)
◆人のやらないことをやる――夢を持ちつづける――孤立を恐れない・・・といったライフパターンへの好みは、アメリカ映画のオハコである。
◆ロビンン・ウィリアムスは、もはや「善人」しか演じることができないのか?
◆人と解放的なコミュニケーションをすることを身につける(そしてリサーチする)ということを自分に課して、友人(ダニエル・ロンドンがゲイの男を好演)と牛肉組合の大会に潜り込み、ひらめきのあるジョークだらけのスピーチをして、すっかり人気者になるシーンがある。こういうパターンは、アメリカ映画の好むところ。見ていて悪い気はしない。もし、こういうシーンを見て楽しいと思わない人は、アメリカ映画を好きになれないだろう。
◆人嫌いになっている末期患者にしつこくつきまとって、「死ぬ」という言葉を言い換える競争をし、最後に、「お前には負けたよ」と苦笑させるシーン。
◆フンと言った感じの(本当は男性恐怖の)女性を巧みに演じるモニカ・ポッター。軟化したところで、変態男にライフルで殺されてしまうのは、さもなければ、ロビン・ウィリアムスの「ほのぼの」世界で終わってしまうのにメリハリをつけるためのドラマ的操作のような感じがしないでもない――この映画はすべて「実話」にもとづいているそうだが。
◆映画は、典型が好きだが、権威主義的な医学部部長をボブ・ガットン(日本では橋爪 功の役どころ)が演るのは、あまりにはまりすぎ。
(日比谷映画)
1999-01-26_1
●クンドゥン(Kundun/1997/Martin Scorsese)(マーティン・スコセッシ)
◆せっかくのスコセッシによる(そして彼の母に捧げられている)ダライ・ラマの伝記映画だが、はたして『セブン・イヤーズ・イン・チベット』を越えているかどうか疑問。『セブン・イヤーズ・・・』自体、問題の多い作品だったのだから、それを越えていないということは、それほど評価できないということ。この作品でもダライ・ラマ・ファウンデーションが関わっているから、一連のダライ・ラマ・キャンペーンと見た方がいいかもしれない。
◆音楽は、そう悪くないが、何をやっても同じ調子のフィリップ・グラス。
◆当然、中国人はアグリーに描かれているが、特に毛沢東がソフトバンクの孫さんみたいな感じの中年として描かれているのは、興ざめ。
◆親子の別れのシーンで、西洋式の抱擁をするが、あまり気にならなかった――それだけ、無国籍風につくられているということ。
◆登場する「民衆」も、なんかボリビアかアルゼンチンあたりの素人を使ったような感じがする。撮影は、チチベット人を使ってモロッコで撮られたというが、モロッコはは高地ったのだろうか?
◆スコセッシがこの映画を作った背景のひとつには、世界にちらばったチベット人を雇って救済するという意図もあった。それはわかる。しかし、映画はもっと非情なもの。
◆だから、鳥葬のシーンが出てきて、山刀で砕いた死体を鳥に食わせるシーンで、群がる大型の鳥が、果たしてハゲワシやハゲタカなのだろうか、あれは、コンドルじゃないのかという疑いがわいてくるのである。
◆映写機、時計、望遠鏡などのマシーンへのダライ・ラマの興味は、『セブン・イヤーズ・・・』でも出てきた。
◆キャンペーン映画というのは、性愛のシーンがほとんどないのが特徴。この作品でも、そう。
◆幼少のダライ・ラマは、すでに自分を特別の存在とみなしていたという描写があるが、仏教圏では、子供を大切にするので、自然に子供は、家族のスターになる傾向がある。子供時代だけはスターになれるのが仏教圏の特徴である。
(徳間ホール)
1999-01-25
●完全飼育(和田 勉/1999)
◆森田芳光の『39』を見るつもりが、ヴォディチコとの対談が長引き、あわてて電車に乗ったせいか、場所を間違えて、敬遠していた作品の一般試写の会場に飛び込んでしまった。
◆しかし、出来は予想したほど悪くなかった。基本的に「若い娘を誘拐して調教したい、だが、同時にそれが裏目に出てその女の囚われ人になりたい」という中老年の男の願望を絵がいたにすぎない感じもあるが、小島 聖が体をはっていて、セクシーであっかえらかんとした感じを出しているのがよかった。竹中は、オーバージェスチャーをおさえ、つくりもののスケベさでないものを出していた。
◆『コレクター』のような作品があるので、あれこれ結末の予測ができるが、あっさりと終わらせている。結果的に、若い娘のたくましさのようなものが前面に出た。
◆みんなヘンタイ的な連中ばかりのアパートのこっけいさが、話の少女誘拐という設定を最初から異化している。それはなくてもよかったかもしれない。もっと、中年男と少女との偏愛的なものにしたら、月並みになっただろうから、これでよかったのかも。
(徳間ホール)
1999-01-21
●奇蹟の輝き(What Dreams May Come/1998/Vincent Ward)(ヴィンセント・ウォード)
◆天国と地獄がこんなに簡単に行き来できるものとは知らなかった。道案内人の役でマックス・フォン・シドーが出ているがもったいない感じ。設定にリアリティがない。もし自分らの子供が死んだら、夫が死んだら・・・というありがちな不安感に訴えるところが安易。これなら、まだ『ゴースト』のほうがよかった。
◆トンネル内の連続自動車事故にまきこまれて死亡した夫(ロビン・ウィリアムス)は、
◆すでに2人の子供に先立たれ、夫までもまたしても自動車事故で亡くした妻(アナベラ・シオラ)のまわりを空気のように浮遊する。彼は、しきりに語りかけるが、声は伝わらない。そして、しばらくすると、彼は、妻が描いた絵がそのまま天国になった世界にいることを悟る。このシーンは、うまくCGを使っている。ちょっと、フラクタル・デザイン社の KPT というソフトをリアルタイムで使っているような映像(ウィリアムスが草の上をはねまわると、草が描きたての油絵の上をはねまわったときのようににじむ。ここまではいい。
◆「地獄は、自分を満たせない者が行くところ」
◆「思考は現実」→VRシステム
◆「地獄には何もない。自分の亡霊がいるだけ」
(朝日ホール)
1999-01-19_2
●セントラル・ステーション(Central do Brasil/1998?/Walter Salles)(ヴァルテル・サレス)
◆イタリアン・リアリズムのような作風。真面目な映画を茶化してはいけないが、ちょっと古いなという感じ。ヨーロッパの映画祭では受けそう。
◆心ならず子供のめんどうを見て、父探しまでやるはめになるセッティングは、ちょっと『グロリア』にも似ている。
◆道端で乗せてもらったトラックの運転手は、伝道も兼ねた牧師。くだんのドーラ「おばさん」(フェルナンダ・モンテネグロ――往年のフェルナンデスを女にしたような風貌が一面ある)(学校教師だったが、失業し、街で手紙の代書をやっていた)とそん運転手のあいだに男と女の関係が生まれそうになり、安レストランで、おドーラがふだんはしたことのない口紅(トイレで行き会わせた女性にもらった)を塗って席に戻ると、男は去っている。戒律にめざめたかのように。そのときの彼女の嘆きぶりがすごい。
◆父をさがして、あちこち尋ねまわっていると、突然、目的の人物の手がかりが開けてくるというのは、イタリアやラテン系の社会ではよくあること――その感じはよく出ている。
◆この映画では、手紙というものが重要な役目をする。手紙――うわさ――くちづてのメッセージ。
◆ポルトガル語の「ありがとう」にあたるobrigadoを何度も聴いているうちに、日本語の「ありがとう」は、「有り難い」からというようりも、このobrigadoからいまの用法が決まったのではないかという気がしてきた。
(ヘラルド試写室)
1999-01-19_1
●ウェディング・シンガー(Weding Singer/1998/Frank Coraci)(フランク・コラチ)
◆80年代の郊外を舞台にしたいかにもアメリカ的なお話。しかし、みなキャラクターがいい。80年代のポプラー・ヒットをDJ感覚で並べ、楽しい。
◆「ウェディング・シンガー」という職業があることを初めて知った。歌を歌うことはもちろんだが、結婚式をもりあげるのも大きな役目。最初の方の酔っ払った客(シーンで、スティーブ・ブシェーミ熱演)がパーティをぶちこわしにしそうになるのをたくみに救うとことがある。ここでロビーというウェディング・シンガーをやっている青年(アダム・サンドラー)の優しさが浮き彫りになる。80年代というのは、優しさの時代だったのか?
◆アメリカ映画で描かれる郊外の人物たちは、概してマテリアリストである。ロビーは、そういうなかでは、一段低い階級のメンバーとして描かれ、それに、やり手の証券マン(マシュー・グレイブ)が批判的に対置される。しかし、田舎(郊外か)のヤッピーは、都会のヤッピーよりのんびりしている。
◆ドリュー・バリモアは、『ET』、『炎の少女チャーリー』、『バッド・ガールズ』とその成長過程を見てきたので、わたしには、何を演っても、隣の娘が芝居をしているような感じがする。今回は、アメリカ版広末涼子的な感じもあるが、しかし、ドリューの今回の「清純さ」は、そういうのもできるということを示したのすぎない。
◆「子供の”みんな’ってのは、両親のことだろう」
◆「ぼくとなら一緒に齢をとれる?」という言い方
(ギャガ試写室)
1999-01-14
●死国(長崎俊一/1999)
◆15年まえの過去を見せる初めのほうの映像は、「ホームムービー」か「学生映画」風。
◆おどろおどろしい内容をあつかったいるが、ホラーやカルト的な色がついていない。
◆少女時代の2人の娘同士のあいだの心理的な揺れとか、死者の言葉を口寄せする「依童(よりわら)」として育てられた娘とその両親、その夫婦の間の深い確執・・・要するに非常に「人間的」なドラマとして成功している。
◆「依童」の娘は自殺し、父親は、母親に崖から突き落とされて植物人間になる。そして、母親は、四国88カ所の逆遍路を敢行することによって娘を蘇らせる。ここで、通常は、気味の悪い怪物やゾンビのように描いてしまうものだが、長崎俊一は、わずかに、人を抱き締めると、その力のために相手を殺してしまう(自分の意志でなく)悲劇的な出来事のなかでその怪物性を描くにとどめる。だから、最後のほうで、佐藤允が演じる行者が、蘇った娘を死者の国に返すシーンは、少し浮いてしまうのである。
(東宝東和試写室)
1999-01-12_2
●パーフェクト・カップル(Primary Colors/1998/Mike Nichols)(マイク・ニコルズ) ◆「カップルで招待」というので混むのを警戒したが、それほど混まなかった。内容を察知したのだろうか? 会社が言うような「ラブ・コメディ」を期待して来たら、失望しただろう。ハリウウッドにしては、はしょりの少ない(その分テンポがダレる)シニカルな作り。随所にクリントン政権と、誰がモデルがピンと来る政治家を茶化している。
◆ジョン・トラボルタは、つとめてクリントンを真似、その声としゃべり方はそっくりだし、エマ・トンプソンもヒラリーを真似ている。しかし、映画は映画。真似る演技とそれ自体で振幅する演技とでは、その強度が違う。スゴ腕のメディア・アドバイザーを演じるキャシー・ベイツの前では、二人はかすんでしまう。
◆スタントンは、人情にもろいことを売り物にしている。計算づくなのだが、それだけでしかない人間として皮肉るのでもないところが、この映画の奥行きになっている。
ちょっと「泣かせ」、次に「なんだ、計算づくか」と鼻白ませ、そして、「半分本気なのか」と容認させるようなところ――おそらく、クリントンがモニカ・ウインスキー・スキャンダルにもかかわらず、なかなか失墜しない理由はこういうところ(それを「南部人」特有のものと言うのか?)にあるのだろう。
◆最初のほうで、やたらスタントンの前であがってしまい、階段を滑り落ちそうになったりするマリアン・ウォルシュという女がいる。これは、『34丁目の奇跡』で、おっかない顔で出てくるデパートの客をちらっと演じていた役者。
◆クレジットに「ロブ・ライナー」の名があったが、どの顔かわからなかった。
(朝日ホール)
1999-01-12_1
●富江(及川 中/1999)
◆冒頭は、『バスケットケース』にちょっと似ている。紙袋のなかには、なんか生き物が入っていることがすぐ予測できる。実際に、女の首が入っており、その首は、死体から切られたはずだが、急速に再生し、全体をとりもどす。
◆錯綜したテーマが中途半端なまま展開し、中途半端なままに終わるような印象。
しかし、タイトルになっている名の女だけに焦点を当てると、時代を越えて再生する怪奇な存在(死んでもその体の一部から全体をとりもどす)の話になってしまう。
◆女と女の愛憎という面も組み込もうとしているので、単純にはいかない。月子(中村麻美)と富江(菅野美穂)はレズなのか?
◆さらに、精神科の女医(洞口依子)を出して、いま日本でひろまりつつある精神病理学的な雰囲気にも目配りしようとしている。
◆その女がいると、集団の崩壊と殺し合いが必ず起る――という「不吉」な女が設定されている。その名は富江といい、明治以来、死んではまた再生してきたという。
◆色々暗示はあって、けっこう面白いし、映像も悪くないのだが、ずっと声と、後ろ姿だけとか、顔を見せない状態で登場してきた菅野が、顔を見せたところから、パワーが落ちる。もっと強烈な目と顔の女を期待させたからである。
◆原作にはおよばない。
(徳間ホール)
1999-01-11
●ニンゲン合格(黒沢 清/1999)
◆ほとんどすべての登場人物が「関係恐怖」を潜在的にもっている。
◆10年の昏睡から覚めた吉井豊(西島秀俊)が、テレビを見ながら言うのが、「ソ連はなくなっちゃったんだ」。
◆「10年で何をなくしたか?」――「何もなくしちゃいないよ」と豊は言う。
◆しかし、都市にはゴミがあふれ、家族はバラバラになっている。豊が入院したとき、昏睡の彼を囲んで撮った写真の世界はない。目覚めた彼を迎えに来たのは、家族ではなく、藤森(役所広司)という父に友人である昔なじみである。父親役をやるのは、今日では血を分けあった親ではなく、他人であるという示唆。藤森は、豊の両親たちの家を使って釣り堀と廃品の不当投棄業をやっている。
◆豊は、迷い込んだ馬を藤森に買ってもらって、昔あった牧場(の名残のようなもの)を立て直そうとする。それは、家族の絆の回復と自律の試みのようにも見える。アメリカ映画なら、それが形をなしたところで終わるのだが、黒沢は、それをすぐさま崩壊させる。豊をはねたことによって、一生を棒に振った男(大杉漣)が、完成した牧場をたまたま見つけ、ねたみ(いや、そういうステレオタイプ的でない屈折した表現になっている)を爆発させる。
◆父と別れた母(リリィ)の最初の引っ越し先は、「北区飛鳥山1ー6」だという。こういう地名は実在しないが、何か示唆的である。
◆極度に音楽を使わず、ナマ音で進行するが、牧場が出来たときと、家族がそろったシーンで音楽が使われる。
◆意表を突く出来事を撮る黒沢。菅田俊が息を切らしながら西島秀俊のあとを歩きながら、突然看板にぶつかって倒れる。
(徳間ホール)
1999-01-08
●リング2(中田秀夫/1999)
◆テンポ、画像の仕上がりは悪くない。しかし、まず、台詞(特に刑事役の石丸謙二郎)が下手。全体として前作の「補注」的な域を出ない。ふっと引き込みながら、結果は思わせぶりなのだ。大体、前作の『リング/らせん』にしても、どこが「怖い」のかさっぱりわからなかった。
◆ただ、この一連の物語(鈴木光司の小説・映画を含めて)のおもしろさは、日本のコミュニケーション回路・スタイルをとらえている部分があるところだろう。「1週間以内にダビングして他人に渡さないと死ぬ」というので、問題のビデオをダビングして他人にシフトしてしまうこと――これは、ある種の「無責任体制」のなせるものであり、阿部勤也が問題にした「世間」の構造である。
(東宝東和試写室)
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