粉川哲夫の【シネマノート】
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●隣人は静かに笑う(Arlington Road/1998/Mark Pellington)(マーク・ペリントン)

◆映画としての緊張感はかなり高い。楽しめる。そしてちょっぴり「現実」のアクチャルな部分に触れたような気にさせられる。
◆テロが個人の憎しみや復讐から行われるという定説をくつがえす。もっと組織的な犯行であること。「戦争でもおびただしい数の子供や弱者が死ぬのだから、権力を倒すための闘いで死ぬ者が出ても仕方がない」――という「変革のための闘い」の論理への疑問提起。
◆ジョーン・キューザックのいつも笑みを絶やさない(が、平気で人も殺す)キャラクターがぴったり。笑っているやつというのは、本当は怖いのだ。
◆ハッピーエンドばかり見せられているハリウッド映画の観客としては、この映画の終わりには「大人」を感じる。ヨーロッパ映画ではあたりまえのやり方だが――ただ、ヨーロッパ映画も最近は、ハリウッド的になってきた。いずれにせよ、納得のいく結末。
(ヤマハホール)



1999-02-24_1

●愛の悪魔(Love is the Devil Study for a Portrait of Francis Bacon/1998/John Maybury)(ジョン・メイブリー)

◆フランシス・ベーコンとの関係で見ると、彼の絵と実体験との関係がインストラクティヴに理解できるが、そういう面よりも、アーティストや創作者がもっている悪というものをあつかっている映画として見たほうがおもしろい。
◆ベイコンに扮するデレク・ジャコビーは、そういう食えない側面をかなりうまく表わしている。
◆最初、彼の元「恋人」ジョージが自殺したアパートの錠に鍵を差すアップのシーンから始まるが、これは、なんか月並みなメタファー。それから、乱れたベットに腰を下ろし、恋人のシャツのにおいをかぐが、この映画は、その点では、あまりにおいのただよってこない映画だ。
◆レンズ効果と、モーフィングのような映像効果を使って、ベイコンの作品と映像との接合をはかる技法は、まあまあ成功している。
◆「肉体を失った羊・・・」身体論的なテーマは、確実にテーマになってはいる。
◆「(肉体を越えようとするが)いつも皮膚の壁にさえぎられる」→だから、彼は、貪欲に食べ、セックスするのか?
◆「娼婦は切り花を嫌う。いずれ死ぬのを知っているからさ」
◆色彩感覚:劇場のエンジのシートに2人だけが座っているのが浮かび上がる。ベイコンがいつも来ているストライプのシャツ(赤・黒・紫・ブルー)。
◆「さあ、街というギムナジウムへ行こう」とつぶやきながら、化粧をし、カジノに行くベイコン。
◆「ピーター・レイシーは、タンジールで死んだ」という台詞の意味。
◆この映画の最後に、In Memory of Danniel Farsonとある。映画では、この人物をカール・ジョンソンが演じている。
(TCC)



1999-02-22

●エブリバディ・ラブズ・サンシャイン(Everybody loves Sunshine/1998/Andrew Goth)(アンドリュー・ゴス)

◆五反田駅から6、7分歩いた大崎広小路にあるKSSの試写室。久しぶりに歩く五反田駅周辺には昔の雰囲気が残っている。その間にスターバックスのような店が出来、かえっておもしろい。ダブル・エスプレッソをテイクアウトして、飲みながらKSSへ。
◆KSSの試写室の映写機は、かなり上質と見え、画面がやたらきれいだった。
◆背景にホモラディック(潜在的ゲイ志向)な男関係を置き、そこにヤクザ的な忠誠とバンドの仲間意識をからめ、そうした拘束に取り憑かれ、ますますスターリン主義的になっていくテリー(ゴールディ)、そのなかで揺れ動くレイ(アンドリュー・ゴス)、追いつめられるレオン(クリント・ディア)。最初超然的な悪党の顔をしているが、最後にはテリーに愛想をつかすバーニー(デビッド・ボウイ)――ゲイとして登場するが、なんかすっきりしない役をしている。
◆ゴスが実にいい雰囲気(目がセクシー)を出しているが、設定とクラブ的な雰囲気にもかかわらず、映像のつなぎが甘い。一つのショットから次のショットへの移行のリズムが甘いのだ。
◆クレアとのからみは、凡庸。この女性、いかにもクラブなんかにいる感じの女だが、、劇中ではそういう設定ではなく、レイが本当に愛した女ということになっているらしく、彼女の家の雰囲気は知的につくられている。
◆もし、中国マフィアとの摩擦(それだけがテーマではないにしても)を描くのなら、この女が中国人マフィアの回し者であったいった設定をしてもよかっただろう。
◆ゴールディが、金歯だらけの口とともになかなか粗野や感じを出していていい。
◆クラブでのダイス・ユニットは、お粗末。
◆いくつかの〈仲間〉関係(ヤクザ、友人、バンド)のフーガ。
(KSS試写室)



1999-02-19_2

●ガメラ3(金子修介)

◆これは、『報知』のコラムを書くために見た。自分だけの興味では見に行かなかったろう。
◆全面協力した自衛隊のハッスルぶりからして、この次は映画ではがまんできなりそう。そのアブナさを評価して4星。実弾の音はちがうね。
◆全面協力した自衛隊のハッスルぶりは、じきに映画の外に飛び出しそう。そのアブナさを評価して3星オマケ
◆予想したほどはひどくなかった。前回よりも「怪獣」の登場を極力抑え、その周囲状況を描こうとしている――地球を大切にしなかったからガメラやギャオスが生まれとというエコロジー的なテーマ(日本は世界のなかでも「マナ」――根源的エネルギー――の消費がひどかったのでガメラが生まれた云々)や、日本の神道や神話的フォークロアを意識したストーリー展開(高松塚古墳の壁画には南の図が欠けている――それは朱雀の円だろう云々――という指摘はおもしろかった)があり、ただの「怪獣」ものではない。
◆しかし、こういう作りは、近くは、『Gozzila』でなじみのものであり、映像技法も、特別新鮮なものはひとつもない。NASAのまねのようなコントロール・ルームが出てくるが、なんかなさけない感じ。
◆この映画では、防衛庁=自衛隊の本格的な協力が見られる。これは、「画期的」なことではないか? パトリオットの発射シーンがあるが、これは、自衛隊が本当に演習規模の協力をして撮られたものだろう。その点で、この映画は、自衛隊の大宣伝映画でもある。今後、この手のタイアップ企画がどんどん作られるだろう。
◆怪獣が人間の居住地点を襲い、自衛隊が鎮圧に出動することがあたりまえになっているという設定は、自衛隊の出動にこれまでつきまとっていたものが吹っ切れたことを示唆する。
◆もう一つ目立つのは、テレビのニュースショウの使い方である。実際にある番組のキャスターを使い、「真実」味を出している。が、こうして見ると、テレビニュースなんとものが、単なるショウにすぎないことがよくわかる。(そういえば、最近のアメリカ映画には、ラリー・キングがよく出る)。
◆手塚とおるが、コンピュータ・オタク的でニヒルな役をこなしていた。この人物といっしょに行動する内閣情報調査室所属の女・朝倉を演じる山咲千里も悪くない。
◆この手の映画を見るたびに思うのは、アメリカ映画には、巨大なものがその国(この手の作品ではなぜ国家意識が強くなるのだろうか?)を滅ぼすという設定が標準になるが、日本の場合は、逆に、それが国を救うという前提がなされる傾向がある。
◆いずれにしても、こういう作品を見ると、日本は、あいかわらず「神風」信仰を抜け切っていないのだなと思う。日本経済の不振は、ギャオスのせいかな? ガメラに救ってもらっては?
(東宝試写室)



1999-02-19_1

●微笑みをもう一度(Hope Floats/1998/Forest Whitaker)(フォレスト・ウィティカー)

◆他人のことや下積みの人間のことを知らなかった女が、夫に捨てられて初めて他者性に目覚めるのだが、サンドラ・ブロックのあのノホホンとした表情からは、その深刻さは感じられない。
◆Toni Point Showという太めの女性が司会するテレビ番組で夫の不倫が暴かれるところから始まるが、クリントンの不倫事件以後、テレビは、こぞって不倫暴きのような番組をつくるかもしれない。このテレビ出演がきっかけで別居をはじめることになったバーディ(サンドラ・ブロック)は、「自分を変える何かを学べると思ってテレビに出た」と言う。
◆シカゴで家庭をもっていたが、出身は、テキサスの小さな(旅行客も来ない)町。そこで、彼女は、かつて「学園の女王」であり、夫は、アメフトの花形だった。要するに男は男、女な女という環境で育ち、家庭を持ってからも、彼女は、専業主婦をやっていた。それが、テレビ出演で一挙に変わる。
◆母(ジーナ・ローランズ)、アルツハイマーで入院している父、娘、同居している姉の息子――保守的な環境設定。家事以外に写真を撮るぐらいしかなにもできない女がどう生きていくか、という問い。
◆心理描写のシーンの合間に入るソング(+ギター)が月並みでダサい。
◆ジーナー・ローランズは、重厚な演技をしているが、剥製が趣味の老人という設定にしろ、まああたりまえのキャラクター。バーディに思いをよせる級友のジャスティン(ハリー・コニック・Jr.)は、シャイな田舎男。みんあ好い人ばかり。健全な映画です。
◆『素晴らしき日』の役どころと似ているが、バーディの娘を演じるメイ・ホイットマンがやたらにうまい。父親が自分を連れにきたのかと思ったらそうではなかったとき、車で去ろうとする父親を追って泣き叫ぶ演技など並の子役の域を越えている。ちょっと自閉的なファニーな役のキャメロン・フィンレイは、ユーモアのセンスが抜群。
(ワーナー試写室)



1999-02-16

●エネミー・オブ・アメリカ(Enemy of the State/1998/Tony Scott)(トニー・スコット)

◆据え置きカメラ(ソニーのデジタル)で湖の映像を撮っていたザビッツ(ジェイソン・リー)が、NSAの行政官レイノルズ(ジョン・ボイト)の指令で「通信プライバシ0保安法案」(Telecommunication Privacy Security Act)の反対者の下院議員殺害の現場を知らずに録画してしまったことから、彼が身の危険にきづき、コピーを作って逃げ出すシーン、そしてスパイ衛星を初めとするありとあらゆる監視装置を駆使して追いかけるNSAとレイノルズの部下の動き――このシーンは、なかなか映像的な迫力がある。
◆地上を映すスパイ衛星が空をななめに横切っていくショットになると、必ずバックでモールス信号が流れる。ところが、わたしは、少しモールス信号を解するので、それが、毎回「CQ、CQ、CQ」と言っているのがわかってげんなりした。追いかけるのに「CQ、CQ」はないだろう。
◆この映画の姿勢は、登場人物を「あなたのそばにいる」ようなリアリティで撮ることだろう。たとえば、ジーン・ハックマンが、ボイトに脅され、指を銃で撃たれる。一種の見せしめ的な拷問である。血を流れる手を苦痛の顔でおさえながら、あるとき、「なにか食うものはないか」と言う。これは、彼が、糖尿病で、血糖値が下がるのでこう言ったのだが、この手の映画では、こういう言い方をする場合、必ず何か魂胆があるものなのだ。しかし、この映画ではそういうことはない。その意味では、この映画の登場人物は、みな、それぞれ「一個の人間」としての「顔」が見える――それが映画としていいかどうかは別としも。
◆ジョン・ボイトも、家で女房に手を焼いているらしいシーンを見せる。
◆最近のセキュリティ・システムは、みな、NTTの回線をつかっている。ということは、NTTの回線をハックすれば、その信号をリークできるということである。この映画で、ウィル・スミスの行き先を自在にチェックし、その映像を捕まえるのは、決して空想的なことではないのである。
◆最後は、ウィル・スミスの詭計にひっかかって、ボイトの一党とマフィアとが、いっしょになって銃を撃ち合って自滅してしまうのだが、NSAのスゴ腕がこういうマフィアの《身体主義》と同じレベルに落ちてしまうのは、真実味がない。強引に映画を終わらせている感じ。
◆ジーン・ハックマンの老「スパイ」(元NSAの工作員)は、いい味を出している。
(ブエナビスタ試写室)



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●フェアリーテイル(Fairytale A True Story/1997/Charles Sturridge)(チャールズ・スターリッジ)

◆なんかあまりぱっとしない。思わせぶりな映像が随所にある。
◆2人の少女が撮った写真に「妖精」たちが映っていた。映画では、その微小な妖精がちが実際に映像として出てくる(ここは、お粗末になる寸前のぎりぎり)。ところが、彼女らの父親(写真家)のテーブルの引き出しに妖精たちの姿を切り抜いた紙型のようなものがあることが示唆させるシーンがある(出歯記者が家に忍び込むシーン――しかし、すぐさま彼は不思議な力を受けて、家から放り出される)。実際には、66年後の1965年、妖精を見た少女の一人だったエルシーが、テレビ番組で仕掛けを告白している。
◆少女が妖精を写真に撮ったというこの「コティングリー妖精事件」で、アーサー・コナンドイルがその写真の真実にお墨付きを与えたということの背景に、彼のたくらみがあったはず。推理小説の巨匠が、根っからこんな事件を信じたはずはない。これは、意図的に彼が片棒をかついだ一大ショーでもあった。ただし、それは、儲けや名声のためではなく、意気消沈している世の人々を元気づけようとする彼の「チャリティ」精神と彼自身の不幸(一人息子の死など)をまぎらすためだった――という側面。こういう方をもっと積極的に描いたほうがよかったのではないか?
◆それにしてもも、コナンドイルを演じるピーター・オートゥールは、ずいいぶん老け、痩せてしまった。
◆人々は、第1次世界大戦をはじめとする悲惨な現実に直面して、夢の世界に飢えていた。心霊術や人智学、ハーヴィエ・カイテルが演じるフディーニの「魔術」が受けた背景の一つもここにある。映画は、フディーニの「からくり」をちらりと見せることによって、この事件の性格を示唆している。おそらく、いまも、夢が必要な時代かもしれないとすれば、この映画を見た子供たちが、はて、妖精はいるのかもしれないと思うほうが、そうでないよりもましなのだ――と製作者たちは考えたのかもしれない。
(メディアボックス)



1999-02-15_1

●大阪物語(市川準/1999)

◆映像や音のあつかい方は、月並みでない(ことを心がけている)が、「大阪」とは関係ないように見える。
◆冒頭、田中裕子と沢田研二が舞台で漫才をやっているシーンで、二人の芸を映さず、観客の反応に焦点を置く。
◆全体は、池脇千鶴の「私」体の語りで進む。最初のイントロ部分で、彼女とその弟がアサイド(観客の方を向いて話しかけること)をやる。
◆つまり、この映画の観客と「物語」の登場人物とは、対話的な関係に入らされるのだが、その映画のなかで、漫才ー観客という関係があり、その観客の姿をわれわれ(映画の)観客が見るという形をとるとき、ふだん映画を見ているのとはちょっと違った感じ(違和感)を味わう。
◆台詞が発せられるとき、それを聴いている者の存在が前提されている感じがする。つまり、台詞がつねに一定の距離を分泌しているのだ。
◆最後に尾崎豊の「風にうたえば」が使われるが、この70年代風のフィーリングをもった曲は、なんかそぐわない。というのも、池脇のしゃべりかたが、大阪弁でも、確実にいまの「くぐもる」ような若者言葉であり、90年代を感じさせるからである。
◆あいりん地区的な要素に接近しそうになりながら、カメラを流しただけに終わるところが、及び腰。
◆それにしてん、沢田は、どう見てもこの映画には合わない。女にだらしがないとしても、ある種「どうしようもない」(知的な了解を越えているような)という感じがつきまとわなければならないのだが、沢田にはそれがない。知的すぎるのだ。
◆彼は、学生時代に、「デモなんて・・の川流しのようなもんや」といって学生運動を軽蔑していたという話が、池脇の口から語られる。つまり、年令的には団塊の世代が想定されている。
◆「天神」とは、空が神なのだということだ、というのも、沢田の口癖だとされる。
◆大阪の天神祭りは、スピノザ的な祭りなのか?
◆父を探して大阪の街を池脇が父の昔の知り合いをたどって歩く。アップで撮られたミヤコ蝶々の語りに至って、この映画が意図的に作ってきた「青臭い」距離が崩れる。
◆しかし、全体としては失敗作でも、色々示唆的なところのある作品だ。新人の南野公助はなかなかいい。
◆交通事故に遭って、家族と再会した沢田が、回復するように見せておいて、次のシーンで、池脇の「それからひとつきしておとうちゃんは死んだ」というナレーションが入るところが、カミューの『異邦人』の冒頭のくだりのようにはっとさせる。
(メディアボックス)



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●プラクティカル・マジック(Practical Magic/1998/Griffin Dunne)(グリフィン・ダン)

◆あまり出来のいい抱く品ではないが、奇妙な味のある映画である。魔術の力をさずかってしまった女系家族の話。
◆魔術も笑わせるが、女性同士(姉妹・母娘・祖母と娘・孫、PTAの仲間等々)の関係がおもしろい。陰口をたたきあっているかと思うと、妙な連帯をしてしまう。
◆最後の方の、ひょんなことで殺してしまった男の霊(ニコール・キッドマン演じるジリアンにとりついている)を取り除く儀式は、文字通り、女たち(それまで、オーウェンズ家の女たちを「魔女」として差別したいた近所の主婦たちもいっしょに)が連帯して男を消す儀式なのだ。
◆ある意味でフェミニズム映画である。
(ワーナー試写室)



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●スモーク・シグナルズ(Smoke Signals/1998/Chris Eyre)(クリス・エア)

◆まず、邦題が、「スモーク・シグナル」というように複数のSを省略していないのがいい。それにしても、なんでSを抜かすのだろうか。"You've got M@il"も、『ユー・ガット・メール』というように、原題の雰囲気しか伝わらない題にしている。
◆ナレーションは、トーマス(エバン・アダムス)の声。彼は、この全編のMCであり、物語のなかでも、トリックスターである。
◆明確な区切りなしに1970年代と1990年代とを行き来する映像。
◆リザベイションの視聴者むけのマイクロ・ラジオ局がおかしい。
◆(ビクターが母に)「必ず帰ってきなさいよ」「約束するよ。紙に書いて契約しろって言うの?」「インディアンは、契約にだまされてきたからね」
◆路上で出会った仲間の女(いつも車を逆向きに運転している)が、車に乗せてやると言われ、トーマスが、「インディアンはバーター(物々交換)だ」と言って、「物語を交換しよう」というのは、おもしろい。それだけ、物語ということが物にひってきする力をもっていること。
◆トーマスとビクターが、父の死を知らせてきた女性スージー(イレーヌ・ベダード)を訪ねたシーンで、彼女がいきなり「カフカ!」と叫ぶ。これは、父が飼っていたイヌの名前。
◆In Memory of Lou Rosenfeldという表示が最後に出る。これは、誰?
◆息子のビクターが持ち帰った父の遺灰を母に渡すと、彼女は、それを自分の頭より高くささげて、一礼した。この身ぶり、貴重な物や高貴なものをもらったときに示す日本の身ぶりに似ていないか?
◆父が、隣の子を家事場から助け、(自分にもやさしくなかったとは言えないが)その後、家を飛びだしてしまったのを、心の傷にしているビクター。
◆ビクターの母が作るパンは、「世界一うまい」と、ビクターは言う。これは、きわめてアメリカ的な言い方である。
◆ジャンクに一番まみれてしまったネイティヴ・アメリカンの姿は、ここでも、瞥見できる。ジョニー・デップの『ブレイブ』ほどではないが。
(ヘラルド試写室)



1999-02-08

●永遠と一日(Mia Eoniotita ke mia mera/1998/Theo Angelopoulos)(テオ・アンゲロプロス)

◆この映画は、非常に記憶喚起的な作り方をしている。幻想や夢想や想像や記憶をないまぜにした映像手法。だから、観客の方も、自由な想起にふけることができる。
◆アンゲロプロスの「遺書」のような作品。いたるところに、彼の過去の作品のどこかのシーンを思い出させるシーンが出てくる。
◆50をすぎ、親や近親者・友人を亡くす歳になると、人は、自分の死を考え、自分の人生のたそがれを感じはじめる。すべての栄光もむなしく思えてきて、その30年、50年が一体なんだったのかと思うようになる。
◆ブルーノ・ガンツが演じるアレクサンドレは、作家として詩人として成功している。彼は、自分を19世紀ギリシャの民衆語詩人ソロモスに自分を比したいと思っている。
◆言葉を買うということ。ソロモンは、自分の知らない生まれ故郷の言葉を買って、自分の詩にとり入れた。金と言葉。言葉に金を払うこと。
◆アレクサンドレは、最初の方の海岸の家のシーンで、ヴェルディのレコードを少しかけて、隣家のカーテンのかかった家を見る。すると、そこから同じ章節が返えってくる。いつもそうなのだった。その顔はわからない。彼は、一度訪ねてみようと思うが、映画のなかでは具体化しない。
◆妻に多くの時間をさいてやらなかったことも悔いられる。「仕事のあいまにあなたを盗んだからいいわ」と思い出のなかの妻は言った。
◆アルバニアから流れてきたホームレス・チャイルドたちが、ちょうど70年代のニューヨークのバワリーでそうだったように、信号で停る車のフロントガラスに洗剤を吹きかけ、ボロキレで拭いて小遣いを稼ぐ。
◆彼らを捕まえる警官隊がいきなり現われ、追いかけていくシーン。それは、一瞬だが、デモ隊に機動隊が襲いかかるシーンを想起させた。
◆時間とは何かという問いが、基本にあるが、ある個所で、「時間とは手玉遊びをする子供だ」という台詞(モノローグ)があった。これは、ヘラクレイトスの時間観を思わせる。
◆雨のシーンのうまさ。
◆子供とアレクサンドレとがバスに乗っていると、大きな赤旗を持った青年が乗ってくる。それから、彼はずっとバスのなかで眠り続ける――あたかも、「共産主義」が眠っているかのように。
(東宝本社試写室)



1999-02-04

●シン・レッド・ライン(The Thin Red Line/1998/Terrence Malick)(テレンス・マレック)

◆複数のナレーション。南洋の密林と原住民。静謐な音楽と音の使用。最初の方だけを見ると、この映画は、戦争が終わり、南洋のある島に居残った元米軍兵士が、過去を回想しているのではないかという気がする。しかし、時間軸は、〈現在過去形〉である。
◆この映画では、「勇敢」な役柄は一人もいない。岩場の機銃基地を攻略したジョン・キューザックも、「勇敢」にそうしたのではなくて、恐怖にもかかわらず、命令でそうしたのであった。命令こそが戦争のロジックである。
◆恐れと不安が命令を呼び、命令が恐怖を生み出す。
◆指揮官の愚かな命令と軍のばかげた階級システムで増える死者。ジョージ・クルーニーの名が出ていたのでいつ出てくるのかと思ったら、最後に、部下思いの上官が罷免されたあとがまとして出てきて、「君たちはわたしの息子だ。軍曹が母親だ・・」てな演説をする。
◆映画に登場する日本人兵士の日本語がまともなのは、安心させる。「貴様らも死ぬんだ」と恐怖におびえながら叫ぶ日本人兵士。テレンス・マレックの目は、一応、民族差別を越え、戦争そのものの不条理を描こうとしている。
◆ジョージ・クルーニーに「かっこいい」役をやらせないという点に、テレンス・マレックの見識とこの映画の性格がよく現われている。
◆ショーン・ペンが、この物語の批判的な人格として描かれる。彼は、クルーニーの演説を聞きながら、最後に、言う。「自分を島にするんだ。善がなくても、(善の?)存在を感じたい」。戦争は組織の強引なうねりである。そこでは、個人は無視されるが、そこでいかに自分を「島」として維持し、生き残るか・・・。
◆渋谷パンテオンの試写初日、クロの司会でジム・カーヴィーゼルが挨拶し、戦争の死についてきまじめなコメントをしたら、クロが、「牧師さんみたいな挨拶でした」と言った。アホか。この舞台挨拶、段取りが悪く、2人ゲストがいたのに、花束が1つしかなく、また、日本人出演者が会場に来ていたのに、舞台にあげないのだった。
(渋谷パンテオン)



1999-02-02

●グッバイ・モロッコ(Hideous/1998/Gillies Mackinnon)(ギリーズ・マッキノン)

◆ケイト・ウィンスレットが演じる女性ジュリアの悪夢のなかで、マラケシュの路地をすべるように進む映像は、VRのウォークスルー映像のよう。
◆異文化に対する西欧人の限界を描くというのでもなく、むしろ、そういう境界線を越えた次元での出会いを感動的に描いた画期的な映画。
◆ジュリアは、『日蔭のふたり』のスーが終わりにしたがって見せていく一途な性格をひきついでいる。
◆別れたはずのモロッコの青年が、突如ボロトラックの後ろに乗って現われ、列車を追いかけくる最後のシーンの映画的美しさ。彼の首に巻きつき、はためく深紅のターバンがいつまででも心に焼きつく。
◆原作は、フロイトの「孫娘」エスター・フロイトの作とパンフレットにはあるが、いま作家としてときめくエスター・フロイトの父は、フランシス・ベーコンなどとともに有名な画家ルシアン・フロイト(1922~)であり、彼は、ジークムンド・フロイトの息子のエルンストの息子であるから、正しくは、フロイトの曾孫である。
◆*何度目かの改装でさらに椅子と椅子との間が狭くなった新橋のTCC試写室。足をかけるスペースが全くない(これもスゴイものがある)から、後ろから背中をド突かれることがない。
(TCC)



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●ラッシュアワー(Rush Hour/1998/Brett Ratner)(ブレット・ラトナー)

◆ジャッキーも健闘しているが、なんといっても事実上の主役は、クリス・タッカー。(こういう味方は、日本的ではないらしい。日本の紹介では、みんなジャッキーのことが中心になっているが、アメリカでは、タッカーに注目が集まっている)そのラップが染みついているようなしゃべり方と身のこなしがなんともおかしく、新鮮。
◆茶髪の悪役サンは、ちょっと竹中直人に似ている。ジャッキーの弟子という(誘拐される)領事の娘がいい。いきなりラップを歌ったり、『ムーラン』みたい。
◆音楽はラロ・シフリン。
◆マリュワナを吸っていて、クリスにとがめられると、「これは、(普通の)タバコだよ」「なにがタバコだ?!」「おれは、目が見えねぇからな」というやり取りがおかしい。
◆*後ろの席(新宿東急)の学生が、前かがみになって、わたしの耳もとの近くでしゃべっているので席を替わろうとしたが、あきらめた。案の定、上映中、何度も背中をド突かれた。
(新宿東急)



1999-02-01_1

●ワン・ナイト・スタンド(One Night Stand/1997/Mike Figgis)(マイク・フィギス)

◆深刻ななかにユーモアとやさしさがただよう。おしゃれなエンディング。
◆それぞれの役者を存在感をもって描くのは、フィギスのスタイル。ある種のリアリズム。ナターシャ・キンスキーは、口数の少ない謎めいた女の感じを出し、ロバート・ダウニー、Jrは、ゲイの感じをよく出し、ミンナ・ウェン(なかなかいい役者だ)は、中国系の女の貪欲さを表す。いずれも、ある種のステレオタイプなのだが、こういう仕上げは腕がないとできない。さりげないシーンで多くを語らせ、余分な説明はしない。キンスキーもスナイプスも、やけにタバコを吸う。タバコ会社がスポンサー?
◆二人がソホーのあたり(?)でスナイプスとキンスキーを襲う強盗の男女は、ニューヨークでお祭りなんかにどこからともなく現われるヤクザっぽい男と女(姉御っぽい)の感じがよく出ている。
◆チャーリーは、「人生はオレンジだ」と言う。「思いきり生きろ」彼は、死の床で、「懺悔はするか?」と問われ、「懺悔はない、でも、(死ぬのが)恐ろしい」と言う。
◆スナイプスが作るCMの映像。
◆クレジットにエレン・スチュアートの名が出ていたので、パンフレットを見たら、入院まえのチャーリーがパフォーマンス・ショウを演る場所が、ラ・ママ・シアターなのだった。
◆この作品は、「Steven Whitsonにささげる」となっていたが、この人物は誰か? おそらくエイズで死んだのであろう。
◆"Extreamly Love You"というジャズ・ヴォーカルが効果的に使われている。歌っているのは、サラ・ヴォーンだろう。
(シネマ・カリテ1)



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