粉川哲夫の【シネマノート】
Cinemanotes


1999-06-29

●ゴールデンボーイ(Apt Pupil/1997/Bryan Singer)(ブライアン・シンガー)

◆社内試写を見落とし、松竹から券をもらって一般上映で見る。がらんとした場内。スクリーンは大きく、試写室よりゆったり見れる。
◆◎相当いい。イアン・マッケランがすこしぼさっとした感じで不適合なのだが、ブラッド・レンフロはなかなかいい感じ(『ブラジルから来た少年』や『スナックバー・ブダペスト』に出てくるファシスト的な若者に通じる冷たさを鋭く表現している。
◆時は、1984年。学校でホロコーストの話を聞いた学生(ブラッド・レンフロ)が、図書館でホロコーストについて調べ、イスラエルの機関が出しているホローコースト実行者の手配資料を入手する。解説では「アウシュヴィッツ」となっているが、マッケランがいたのは、パティンの収容所である。
◆途中まで、「人は一人では生きられない」というヒューマン・ドラマ風の展開をするが、それは、すぐに崩壊する。
(新宿東急)



1999-06-18

●バッファロー’66(Buffalo '66/1998/Vincent Gallo)(ヴィセント・ギャロ)

◆社内試写のスケジュールが合わず、一般試写で見せてもらう。女性客が大半の試写会。
◆◎こいつは傑作。ハリウッド映画のパターンに飽きた人も、パターンを愛する者も、必見。ギャロの個性満開。
◆カナダからの帰り、初めて立ち寄ったバッファローを思い出させる寒々した人気のないバッファローの景色。そこは、刑務所で、ギャロが出所するところからはじまる。すべてを投げうったような風貌。薄着のまま外のベンチで所在なく眠りこけ、起き出して、出てきたあの刑務所に行く。「ここは、discharged gate[釈放の門]だから、誰も入れない」といわれる。Eagle Streetの表示。
◆☆ここのところで、カフカの短編「掟の門」を思い出す。「田舎から出てきた男」があの門に入れなかったのは、それが釈放の門だったからかもしれない。
◆刑務所の門に入ろうとしたのは、トイレに行きたいからで、それを断られて、バスに乗る。股間を押さえながら、バス駅でトイレに駆け込もうとしたら、そこが掃除中。近所のレストランに行けば、閉まっている。やっと見つけたダンススタジオでトイレに行く。隣で小便をしているデブのことが気になって、「見たな」と因縁をつけ、「ちきしょう、出なくなっちまった」。
◆両親に電話をかけようとしたがコインがなく、通りがかった女に借りる。「ありがとうぐらい言ったら」。電話では、外国に行っていたんで連絡できなかったと大層なことを言い、その女が盗み聞きして、けげんな顔。
◆なんと、ギャロは、その女性を押さえつけ、「おれの言う通りにしろ」と外へ連れだす。その命令の仕方が強引で、微に入り、細に入っている。
(東邦生命ホール)



1999-06-17

●あの、夏の日(大林宣彦/1999)

◆背中を4回ほど突かれ、ゆさぶられました、はい。
◆◎う~ん、大林さん、ここまでやるか。『時をかける少女』のようなスタイルではもうできない、『SADA』でもない――じゃあ、これでどうだ、といった居直りが感じられる。こうなると批評のレベルを越える。しかし、これを小林桂樹の「最後の作」にはしてほしくないな。
◆最初のクレジットタイトルの映像からして「個人ムービー」風――でも、いまさらアザトイ感じ。
◆独特の映画――ついていけない部分もある:小林と由太、小林/菅井きん/宮崎あおが空を飛んでいくシーン(幸い、画面合成は違和感がない)
◆大林のエコロジー趣味は見え見え――海を越えたところの島に行くと、そこには、清水が流れ、魚や昆虫がいる
◆菜の花(?)の咲く原で少年時代の大井賢司郎(久光邦彦)と宮崎おおいが裸で向きあっているシーン
◆ホラタコの多吉(小磯勝弥)の存在がブチこわし。演技もオーバー
◆こいつが海で大タコと闘う話を映像化したシーンもたまらない(マンガのタコを使う)
◆最初のシーンで、嶋田久作が、ビールを飲みながら、魚(?)を口に入れるやり方は、オランダでにしんを食べるやりかたに似ている
(メディアボックス)



1999-06-16_2

●セレブリティ(Celebrity/1998/Woody Allen)(ウディ・アレン)

◆ケネス・ブラナーのしゃべりと身ぶりが、風貌は全然違うのに、ウディ・アレンにそっくり。
◆最近アメリカ映画を聞くと、なぜか反撥が起きる。
◆パーティで、有名人の俳優に連れられて行って、「ハーイ!」とか言って近づいてくるやつが、その相手だけとしゃべり、こっちが話に加わろうとしても無視される感じなど、身につまされるシーンがいっぱいある。
◆幼児性倒性欲症
◆「ここで生き方を変えないと大変」、「シニア・シティズン・パスで映画を見るような人生はたくさんだ」という差し迫ったあせりの意識は、いつもウディ・アレンのもの。
◆ジョン・パパダキスという映画監督の試写会にケネスが行った会場のシーンで、「いまどき白黒の映画にこだわっている」という自嘲的な台詞が聞こえる――アレンのこの映画はモノクロ。
◆V・J・ラジニポールとはどんな作家?
◆アーウィン・ショーを激賞するシーン
◆"celebrity-mad society"という言葉があるらしい。
(松竹-東劇)



1999-06-16_1

●お受験(滝田洋次郎/1999)

◆滝田の日本批判的センスは1年おくれている。昔はそうではなかったのに。『コミック雑誌なんかいらない』はいまでもその批判が有効だ。
◆実業団のマラソンの仲間が、グループでしゃべっているシーンがサエないのは、集団のしゃべりを撮るやり方が定番だからだ。いまは、集団性そのものが変わってしまったので、こういうやり方ではダメなのだ。
◆滝田のシニカルな味がサエない。
◆田中裕子が、外で働くようになって、ある日、したたか飲んで帰ってくる。そのままソファーに倒れ込んだところをカメラが脚を映す。このあたり、月並みなのだが、ポルノ映画で鍛えた滝田のうまさみたいのが、ちらりと出る。しかし、その次のシーンで、二人がベットに裸で入っているので、前のシーンが月並みになってしまった。十分エロティックだったのだから、それで止めておけばよかったものを。
◆矢沢栄吉が、湘南マラソンの途中で、「おれのコースはおれが決める」とばかり、一度は放棄したはずの娘の受験面接のために、鎌倉の坂また坂を(電車の線路やトンネルまで――すぐに警察がくるでぇ?!)抜けて、学校までたどりつくくだりは、ばかげている。こういうのがダメだというところから出発した話じゃないの?
◆リストラによる失業、女性の「自立」、子供の受験などのテーマはいいが、いまやるのならもっと突っ込まないと全然映画の意味がない。テレビのニュース番組だって、もっと突っ込んだアプローチをしているぞ。
(松竹ー東劇)



1999-06-15

●STAR WARS エピソード1(STAR WARS Episode 1/1999/George Lucas)(ジョージ・ルーカス)

◆環境:午前10時という、わたしには存在しない世界に属する時間での試写。今回、FOXは、第1回目のマスコミ試写会からわたしをはずした。こういうことはめずらしい。タレントとか「メジャー」なメディアだけを相手にするというのが、今回の宣伝戦略なのだろうが、あんまり強気なことをやっていると、当たらないかもよ。
◆うしろで、映画が始まったらセキがとまれなくなった男がいた。音が大きいときはわkらないが、しょちゅうセキのアクセントの入る音を聞かせれることになった。こういう人は、退場すべきではないか?
◆◎一言:こういう作品がヒット(ポピュラリティの「標準」になる)するかぎり、いまのアメリカがユーゴー爆撃を平気ですることは避けられないだろう。
◆メモ:試写室の狭いスクリーンのせいか、映画の「予告偏」のような雰囲気が最初続いた。意外に画面がわびしいのだ。それぞれのキャラクターが、前作と関連しあっているはずだが、たとえば(テレビの走査線付のイメージが登場し、すぐ消えるキャラクター)シスの暗黒卿(Dark Load of the Sith)(?)が出てくると、なんか古いという感じがしてしまう。それにしても、このキャラクターの声は、なぜ走査線に合わせて、ゆがみ、ノイズまじりなんだろう?
◆仕組んでいるわけだが、アナキン(ジェイク・ロイド)は、ちらりと出てきたときから、光っている。
◆スター・ウォーズは、血族信仰と「選ばれた者」への崇拝を地盤にしている。
◆明らかにサムライ・ムービーからヒントを得た弟子/師匠、上下関係の崇拝。衣装も和服のまねをしている。
◆アナキンの出るレース・シーンは、よくできているが、それが、映像的にはややチープなのは、わざとゲームマシーンの映像に似せているためだろうか?
◆ダークサイドは、敵なのだが、この映画自体がある種「ダークサイド」カルチャーの感覚だ。
◆いかにもイタリア、アフリカ、アラブといった場所の雰囲気をもった映像(砂漠をラクダに似た「動物」が荷を引いていたり)が出てくるが、最後のクレジットを見たら、実際にロケしているのだった。実写映像を変形しているらしい。久しぶりに協力企業の名にSGIがあった。
◆この映画の古さは、マシーン・テクノロジーの感覚で作られていること。
◆動かなくなった車が、線のショートで動くようになる――もう、こういうの、マシーン・テクノロジーのエピソードとしても古い古い。
(FOX)



1999-06-08

●交渉人(The Negotiator/1998/F. Gary Gray)(F・ゲイリー・グレイ)

◆試写室はガランとしていた。30分まえに行ったからというようより、今日の試写はあまり情報を流さずに行なった追加試写だからだ。わたしも、今日急に情報を聞いて来ることにしたのだった。しばらくして、うしろで低音の声が聞こえた。筑紫哲也だった。ふと思ったが、今日の試写は、彼のために設けたのかもしれない。映画会社は、そういうことをよくやる。
◆「ネゴシエイター」(交渉人)という仕事のプロが本当にいるのかどうかわからないが、着眼は見事。警察ドラマが全然違った新しさを持つ。
◆それにしても、人質を取ったり、その頭を赤外線銃で狙撃したり、といった非情さは、いまの映画ではあたりまえで、その表現はますます「リアル」になっていくわけだが、こういう映像とともに、われわれの感覚も、繊細さをなくしていくのではないか?
◆四方田犬彦は、誰かとの対談で、「われわれ」という表現を絶対に使わないと言っているが、「われわれ」って、そんなに親密さを強制するところはないんだけどね。自分と似たことを考えたり、やっている仲間を「われわれ」とよぶことはできるし、いっしょになにかをやった相手と自分を含めて「われわれ」と言えるのではないか? 四方田にかぎらず、人は、そんなに個性的ではないよ。
◆出だしは、ダニー(サミエル・L・ジャクソン)の仕事ぶりを紹介するシークエンス。モノクロでぱっぱっと出す。
◆この映画の舞台は、またシカゴ。
◆J・T・ウォルシュが出てくると、「ああ、こいつがワルだな」と思えてしまうのは、わたしだけではない。しかし、この俳優は好きだ。「ブレーキ・ダウン」(97)を見たのは、カナダでだったか? この役者の急死は残念。
◆心理ドラマとしては、秀逸。おもしろい。
◆内務捜査局の内部にワルがいて、なかなかその黒幕がわからない仕掛けは、かなり成功している。
◆メディアは、この映画では、非常に抑えた形でしか出てこない。
◆コンピュータにデータを入れていたのが決め手になるが、盗聴した音声ファイルをすべてコンピュータのなかに残しておくほどドジをやるワルはいるのだろうか?
◆アドホックなチームでも、誰がボスであるかを決めさせるプロセスが面白い。それが必ずしも守られるわけでもないということをも見せているところが、さらに面白い。
◆人質を取っている犯人との「交渉」には、決して「ノー」を言うなと原則は、けっこう使えるのでは。それで思い出したが、日本が「イエスマン」だというのは、日本人が、みな「ネゴシエーター」だからではないのか? 井深/石原の「ノーといえる日本」という発想は単純すぎる。
◆ケビン・スペイシーをなかなか出さず、急に登場させるやりかた。スペイsーは、交渉人としての腕は抜群だが、妻や子供は説得できないというシーンからはじまる。この個所は、バカみたい。スペーシーは、スウィートな感じなので、こういうシーンは、雰囲気をゆるませてしまう。
(ワーナー)



リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)   メール: tetsuo@cinemanote.jp    シネマノート