粉川哲夫の【シネマノート】
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1999-08-26

●双生児(塚本晋也/1999)

◆冒頭は、神経を逆なでするよう(この試写室の音響装置の悪さとあいまって耐え難い)な音楽と、蛆・血膿の死体・ねずみのアップ。
◆登場人物が一様に眉を剃っているのは、暗黒舞踏の影響? アングラ演劇からのアイデアとおぼしきものも少なくない。そもそも出演者の一人である麿赤児はかつて舞踏・アングラの象徴的人物だったな。
◆ドラマの構造は、単純。「貧民」世界と、それを排除する世界との相克としてのドラマ。筒井康隆演じる大徳寺医院の筆頭は、いつもアルコールをしませた脱脂綿で手を消毒している。「貧民」のところには疫病の巣だという。が、りょうは、その「貧民」の出身なのだ。
◆りんを演じるりょうが抜群にいい。アメリカの映画界なら、すぐに「大女優」になれる。
◆救いを求めて来た疫病患者を締め出し、コメディア・デラルテの衣装のような防毒マスクをするシーンは、ペスト流行のヴェネチアをあつかったニコラス・ローグの『赤い影』の1シーンを思い起こさせる。
◆「文化財クラス」の日本家屋を使った撮影は成功している。カメラがガラス面をなめるとき、あきらかに古い時代のガラスを思わせる表面の凹凸が感じられる。
◆大徳寺医院の跡取りの雪雄(本木雅弘)が捨てられた双生児のかたわれであることがいずれわかる捨吉(本木の2役)と対決する井戸のシーンが、ちょっと普通のリアリズムになってしまう。
◆「君(りんに向かって)は、わたしが認めなければ何者でもない。君は、自分が何者か知らないんだから」という雪雄のせりふは、支配する者の尊大さをあらわにする。
◆「貧民」と支配階級との一時的な交換があるが、それは、じきに奪いかえされる。
(東宝本社試写室)



1999-08-23_2

●金融腐食列島(1999/原田眞人)

◆ぐんぐん迫っていく映像のリズムはいい。フォン・トリアーの『キングダム II』にあやかろうと輸入したイメージ・リグのおかげか?
◆最初にモノクロのスチルで戦後史をスケッチする。瓦礫の銀座、天皇、マッカーサー、・・・NTT株上場、阪神大震災・・・戦後史を捉えなおそうという意気込みは感じられる。が、冒頭の音楽は大仰。
◆「誰もが怯えていた男」――諸悪の根源として佐々木英明(仲代達矢)を出し、それが失墜するまでを描くわけだが、こういう一点集中的なシンボルに権力を求める権力の捕らえ方は古い。あの東浩紀クンだって、「検索権力」なんてことを言って言る時代だからね。
◆地検が会社にガさ入れに来るシーンがあるが、なぜテレビや映画のこの手のシーンは、みな時代劇のようなのだろうか?
◆役所広司が勇敢な発言をすると、すぐに社内から支持のメールがたくさんくる――これは、いかにも日本的。同じフロアーのテーブルから来るのだから。
◆いまの40ー50代は、そんなに「健全」で「建設的」なのか?
◆若林麻由美が演じるブルームバーグ・テレビジョンのアンカーは、あまりに安手。スタッフも数人。ACBの不正融資を暴くのがもっぱらこのテレビ局だけというのは、いかにも日本のマスコミのダメさかげんを示唆してあまりあるとしても、ちょっとおとぎ話的すぎる。
◆結局、この映画も「外圧」批判の眼を頼りにしている――外資系のテレビや海外帰国子女的な眼の利用。
◆役所は、最高権力者の佐々木英明(中代達矢)の娘(風吹ジュン)を妻にしているという点で、エリート階級に半分属している。こういう中間的な存在からでないと、権力への反抗が起きえないという設定は、日本の歴史的体質である。変革は、結局、つにに上(上よりちょっと下、しかし上のことを熟知している部分)からしか生まれないのが日本の歴史パターン。
◆佐々木の孫役の三浦春馬(?)が抜群にいい。
◆日比谷公園にいるホームレスは、井川比佐志に似ていて、何度も目立つ出方をするので、『ブルワース』のアミリ・バラカのような役をするのかと思ったら、それっきりだった。
(東映7F試写室)



1999-08-23_1

●パッション・フィッシュ (Passion Fish/1992/John Sayles)(ジョン・セイルズ)

◆ジョン・セイルズの作品だし、社会性があり、まじめで、役者(メアリー・マクドネルもアルフレ・ウッダート)も力演で「感動的」なのだけれど、なんか言いたくなるのは、わたしがひねくれているからか? たぶん、受け入れるしかないという形式でつくられているからだろう。申し分がないというのは、一種の強制なのだ。
◆すべてうまくいっていた者が怪我をしてどん底に落とされたときの反応を絵に描いてように見せるが、それが、いずれは変わっていって、「まともな」人間つきあいをするようになるだろうという予感をさせるところに、この手の映画の矛盾がある。映画は、心境の変化や人生観の変化を描くのには、嘘なしには不可能なのだ。
◆わたしは、たとえば、メイ・アリス(メアリー・マクドネル)が、級友だったレニー(デイヴィッド・ストラザーン)と知り合い、彼には子供がたくさんおり、そこから愛情関係に進むのではないが、距離をとりながら微妙な親しさが生まれるところとか、シャンテル(アルフレ・ウッダート)が町で知り合った一見しつこい黒人シュガー(ヴォンディ・カーティイス=ホール)との関係、彼女を訪ねてくる(危険なにおいのする昔の夫)、娘を連れてくる父・・・そういう個々の人間との関係が、それぞれ、断章風に描かれ、彼らの関係はこれからどうなるのかな、と思わせながら終わるようなところがいい。
◆しかし、岩波ホールで上映されるこの映画は、不治の傷を負った一人の女の「生き方」みたいな路線で見られるにちがいない。むろん、ジョン・セールズの作風のなかにも、そういう要素がある。しかし、セイルズのものとしては、そういう傾向性が比較的抑えられた作品である。
◆つまらないと思うのは、たとえば、ルイジアナに引っ込んだアリスが、最初に雇ったロシア人の家政婦が、わたしはなかなかおもしろい取り合わせだと思ったのだが、結局は、「ロシア人」=強引・ぶっきらぼう・英語ダメ("No eat, no TV")といったステレオタイプを表現し、最終的におさまるシャンテルを浮き立たせるための手段でしかないところ。
◆同じことは、「この治療だって保険会社に言われたからやっているだけ」といいながら、結局は、積極的に「生きる」ようになるという、「健全」な「教育映画」的な路線のつまらなさ。結論を決めておいて、そこへ向かって進む場合、それ以前の過程は、結論を活かすための手段に成り下がり、それ以前の表現は、観客をだますことになる。現実生活でそういう意識変化のプロセスを体験したり、(他人のそれを)目の当たりにしたりすることはあるわけだが、それらは、まだ誰も(予想はできるとしても)結論はわからないというかぎりで誰が仕掛けているものでもない。
(徳間ホール)



1999-08-18_2

●マトリックス (The Matrix/1999/The Wachowski Brothers=Andy & Larry Wachowski)(ウォシャウスキー・ブラザーズ)

◆前回30分まえで満員だったので、40分まえに行く。それでも、10数名来ている。口コミで過熱している。
◆第1回監督作品の『バウンド』とはうってかわった作り。ただし、いまにして思えば、『バウンド』にも、本作のような〈イン・スペース〉な感じがあった。ただ、それは、「生身」の身体が「直接」表象した想像や幻想の産物に見られるような〈イン・スペース〉感覚であって、サイバースペース特有の全面的な〈イン・スペース〉感覚ではなかった。
◆21世紀、人間とAIとの対立が起こり、人間が地球を破壊、都市は廃墟と化した。生き残ったのはAIで、元の世界を再現(それが「マトリックス」)し、人間をエネルギー供給源(カプセル内に人体からエネルギーを作る)にして、人間の姿をして生きている。そうしたなかに、わずかに、生き延びた人間の子孫たちが数名いた。その1人がネオ(キアヌ・リーブス)である。彼は、ヴァーチャルな世界(表面上は「普通」の都市世界だが、それらはすべてヴァーチャルな電子的産物で、「人間」はすべてアンドロイド?)にまぎれこみ、ハッキングをやりながら、このヴァーチャルな世界(マトリックス)の果て、それを支配する者を探している。当然、それは、マトリックスの脅威となり、エイジェント(アンドロイド)に追われる。他方、彼とは別に生き延びた集団があり、海底のホーバクラフトのなかに住み、マトリクスの支配の解体をねらっている。
◆モーフィス(ローレンス・フィッシュバーン)率いる闇の集団とネオとを引き会わせるのがトリニティ。キャリー=アン・モスが、非常に魅力的に演じている。冒頭、彼女がエイジェントたちの追跡をかわしてビルの屋上から屋上へ逃げるシーンがあるが、うっとりさせる。
◆モーフィスは、「救世主神話」や「選民」思想を信じており、ネオをその救世主だと信じている。この映画の核となる救世主信仰は、『スターウォーズ』にも似た(その外見とはうらはらの)古さ(その意味では、ローレンス・フィシュバーンは適役)を感じさせないでもないが、これは、むしろこのごろはやりの「ダーク」なセンスと考えた方がよい。だから、この映画でも、救済そのものは描かれず、むしろ、誰かが誰かを信じるということ(要するに「愛」)によって、その人物が次第に奇跡的な力をつけていくという(これもある意味ではコンベンショナルではあるが)プロセスを見せることに重点が置かれる。
◆われわれの日常が、すべてバーチャルなもので、本当の現実は、砂漠や廃墟で表象される空虚だけだという考えは、決して新しくはない。古代哲学でもひととうり論じられている。時代によって、そのヴァーチャリティを構成する技術が、錬金術であったり、魔術、薬物であったりし、現代は電子テクノロジーであるという違いはあるだけだ。
◆いつの時代も、最新のテクノロジーは、現にあるものをそれによって再構築しようとする。現代は、それがサイバーテクノロジーであり、ヴァーチャルな世界が、サイバースペースなのである。他方、その一方で、現在のテクノロジーを越えるテクノロジーがあるのだという主張が並行して現れ、ヴァーチャルな世界の連続性に真憑性が加えられる。
◆世界は見方(認識論)次第である。いまわれわれが知覚している世界は、習慣の産物である。だから、その習慣・知覚の仕方を誰かに植えつけられた、あるいはたえず植えつけれれているという論法はなりたつ。そこで、そうした知覚操作の向こう側とこちら側とお行ったり来たりして見ると、この映画のような世界が生まれる。
◆『メッセンジャー』では自転車便が、この映画ではFedEXが携帯電話を配達する。
◆全体として、緑とセピアがかった画面。
◆使われている個々のCGI技術そのものはそれほど新しくはないが、それらの連関、全体としての効果的な使い方、使い方のコンセプトは、非常に新しい。
( ワーナー試写室 )



1999-08-18_1

●ほんとうのジャックリーヌ・デュ・プレ (Hilary and Jackie/1998/Anand Tucker)(アナンド・タッカー)

◆エミリー・ワトソンの演技が圧倒的だ。境界的人間の目つきを終始失わない。
◆このままいくと近親相姦的なレズ関係に行くのかなと思っていたら、そうはならず、ヒラリーはいい相手が出現し、結婚してしまう。
◆天才の悩み、天才を持った家族の悩みはこんななまやさしいものではないが、でも、ジャクリーヌが、ヒラリーに、彼女の夫とセックスさせろと言うくだり――そして、それが果たせないと、森のなかへ裸でつっ走っていく激情――の表現はすばらしい。
◆ジャクリーヌが最初の入賞のあとで贈られたチェロとの闘いも描かれる。チェロが人格をもったかのように、歯ぎしりし、うめき、彼女を苦しめる。彼女も、それを冬のモスクワのホテルのベランダに放置してさいなむ。しかし、夫になるジェイムズ・フレインとの出会いを作ってくれたのがそのチェロだというので、彼女は、ふたたびそれを大切にする。
◆イタリアのホテルで2人でベットに上で懐中電灯を照らしながら起きているシーンから一転して、「Hilary」というタイトルが出る。ここから、ヒラリーに接近した視点で彼女の話がえがかれ、その後、同じホテルの場面にもどり、今度は「Jackie」というタイトルが出て、彼女の物語が詳細にたどりなおされる。しかし、全然ちがう人格から見ているというような決定的な視点の変換は感じられない。
◆ヒラリーを演っているレイチエル・グリフィスは、『革命の子供たち』でも、『エイミー』でも、手堅い演技をしていた。
(ヘラルド試写室)



1999-08-17_2

●シュウシュウの季節 (XiuXiu:The Sent Down Girl/1998/Joan Chen)(ジョアン・チェン)

◆中国語のタイトルが「天浴」。英語タイトルは、「シューシュウ:下放の娘」。邦題の無意味さとなげやり(これが普通になってしまった)は何とかしてほしい。
◆監督ジョアン・チェンの経歴がすべて投入されていることを感じる作品。中国的な「大映画」のロマンティシズム、ハリウッド的な構成力とドラマ性、「文革時代に成年に達した最後の世代」としての思い。
◆文革のとらえ方は、本土を逃れ出て、外で成功した者に特有の全面否定のパターンを踏んでいるが、それが、単なる文革批判に終わっていない。主人公のシュウシュウ(ルールー)が「下放」を通じて出会ったラオジン(ロプサン)との屈折した関係が次第にメインとなる。シュウシュウは、四川省北部のチベット自治区に近い壮大な高原に長期間テントを張り、ラオジンから馬の放牧技術を習うが、彼のことはバカにしている。ラオジンも、遠慮して仕事以外のつき合いはしない。
◆下放まえの成都で、シューシューが、学校で体操をやらされるシーンがある。戒厳令解除まえの台湾でも体操が義務づけられていた。みな、戦前の日本の影響ではないか?
◆都会の娘が、何もない草原のなかで生活するときのとまどいが、たとえば水の不自由、風呂に入れないことなど、肉感的にえがかれれいる。
◆ラオジンは、昔、喧嘩がもとで、去勢の罰を受けた身。いつも銃をたづさえている。その彼が、シュウシュウを「純愛」するとなれば、最後に銃がファラス(phallus)的役割をするのは予測できるが、本当にそうなってしまうので、少しがっかり。
◆文革の末期、人々が、自分の足を銃で撃って障害者になり、故郷(都市)に返してもらうようなことをしたり、役職にある者が、故郷に返すコネをつくってやるというような口実でシューシュウーのような娘にセックスを迫ったり、といった描写はリアル。
◆シューシューが、経験する救いようのない経験のシーンのあと、カメラが、草原の何もない空のシーンにパッと転換するのは、なかなかうまい。
(ヘラルド)



1999-08-17_1

●プリティ・ブライド (Runaway Bride/1999/Garry Marshall)(ゲーリー・マーシャル)

◆冒頭、広野をウェディングドレス姿で馬を走らせる女性のシーン。その女性は、すぐに、ジュリア・ロバーツだとわかる。Runaway Brideというタイトルが出て、すぐに都市のシーンへ。ニューヨークだ。携帯電話を使っているリチャード・ギア。ここからしばらく、気のきいたテンポのはやい会話が展開し、彼のやっていることを活写する。
◆英語名は「出奔の花嫁」だが、邦題は「プリティ・ウーマン」にあわせて「プリティ・ブライド」。これは、「花嫁」に対する両国のスタンスを示唆する。いまやアメリカの都市では、brideというのは、自律の足りない女を意味する幾分「差別的」な含みを持つ。だから、この映画でも、ニューヨークから数百キロも離れたメリーランド州の田舎の女を選んでいる。しかも、ジュリア・ロバーツという、全然田舎くさくない役者(しかも「男」まさりの女性の役で)を選ぶことによって、「花嫁」への揶揄を相対化している。ところで、ジュリア・ロバーツは、最近、誰を演っても同じのサンドラ・ブロックみたいになってきた。
◆リチャード・ギアは、ニューヨークのUSA Todayのコラミストで、いつも痛烈な女性批判のコラムを書いている。だから、街で、しばしば女性に毒づかれたり、ときには老女に肩をこづかれたりもする。これは、映画のために作られた話で、こういうことはいまのアメリカではなかなか起こりみくい。女性をくさすということが難しいのだ。また、だからこそ、このような映画がウケもする。しかし、ギアのあの甘いフェイスから想像できるように、その批判は深刻な対立にまでは激化しない。
◆昔の婚約者の話から、マギー(ロバーツ)は昔、グレイトフル・レッドなんかに入れ込み、ロック仲間の「クイーン」的存在だったらしい。田舎娘ではあるのだが、その世界では「スター」街道を歩んできたのだ。こういう人は、基本的に感覚が違う。そのうえ、機械工作に強く、ジャンクを流用したトラッシュ・アート的なこともこなす。のちに、彼女の作品は、ニューヨークのギャラリーに並ぶ。
◆田舎を訪れたギアは、ホテルに(自分でエアチェックしたと思われる――ラベルが手書き)マイルス・デイヴィスのカセットを持っていく。それを見つけたマギーは、「天井裏の物置にあったので」とか言って、マイルスのLPを渡す。最近、ジャズを使う映画が増えてきた。たしかに、ジャズの何度目かの復興。
◆基本的にラブストーリーとタイミングのズレを楽しむ喜劇。対立で話が始まるのだが、終始対立や緊張を感じることのない映画。ちっと平衡感覚に狂いを感じてとまどう。
◆『ノッティングヒルの恋人』のときも感じたが、ジュリア・ロバーツには、どこかレズっぽい感じがあるので、この映画では、彼女がいつも結婚式をRun-awayする秘密として、彼女がレズだったというオチがあるのかとも考えた。しかし、そういうひねりはなかった。
(ブエナビスタ試写室)



1999-08-13_2

●エリザベス (Elizabeth/1998/Shekhar Kapur)(シェカール・カプール)

◆この映画のためではないと思うが、胸に白の十字架を大きくプリント(縫いつけ?)した男がわたしの席の前に座った。ヤナ予感。
◆16世紀中葉のイギリスがカソリック派とプロテスタント派とのまっぷたつに分裂しそうな危機にあり、そういう時代を乗り越えるキャラクターとしてエリザベスが登場したというNHK大河ドラマ的教養主義の性格を持ちながら、そういうところに堕ちなかったのは、スケールの大きな非テレビ的な画面とアップの画面とをダイナミックに交錯させた映像のパワーに負うところ大。
◆教養的に――この時代の外交は、婚姻外交であった。女は、婚姻の道具であり、エリザベスは、そういう中世的因習に公的に逆らった最初の女性だったということ。
◆上位の者に深々と頭を下げる人々、口に手を当てて笑う女たちの姿を見て、日本は、まだ中世の因習を継承しているのだと思う。
◆ケイト・ブランシェットが演じるエリザベスは、くりかえし、「良心に従って」という言い方をする。カソリック/プロテスタントといった宗教への信仰ではなく、もっと合理的な良心の強調。良心と「人民」(ピープル)は近代的概念。
◆この映画では、プロテスタント信者が残酷に火あぶりにされるシーンから始まり、また、ローマ法王がエリザベスの暗殺を指令するシーンがあるように、カソリックには批判的。
◆エリザベスの前半の治世を暗殺の歴史として描く。暗殺の仕方を撮るシーンは、『ゴッドファーザー』で、2代目のアル・パチーノが息子の洗礼の儀式に立ちあうシーンと、彼の指令で次々と暗殺が進むシーンとを重ねていくやりかたを明らかに真似ている。
◆暗殺計画を、みずからもスコットランドのメアリー女王の母(ファニー・アルダン)をベットに誘い、殺す側近ウォルシンガム(ジェフリー・ラッシュ)。そのクールで大胆な性格は随所で強調される。
◆いまのイギリス女王も同じ「エリザベス」。だから、むかしのエリザベスを礼賛すると、いまのエリザベスには、皮肉と映る。そういう仕掛けも、この映画がうけた遠因。
(ヘラルド試写室)



1999-08-13_1

●オースティン・パワーズ・デラックス (Austin Powers The Spy who Shagged Me/1999/Jay Roach)(ジェイ・ローチ)

◆一言で言えば、大画面のテレビ。CMが入るような断片風。しかし、こういう映画が『スター・ウォーズ』を押さえたというのは、よくわからない。映画として全くちがうものだからである。そもそも、テレビの客がテレビ=映画に金を払うだろうか?
◆技法的におもしかったのは、女のしゃべりがいきなりテープの早回しのようになり、マイヤーズがかたわらのリモコンをさわると、彼を除いた世界が早送りになるシーン。女がフェムボットだったというオチがつく。
◆テレビショーのシーンがあり、そこで、イーブルの息子が出演して、自分の親の悪行を語る。最悪なのが受けるというわけ。そして実物が登場。あとはドタバタ。このシーンと、本拠の島にいるイーブルとの関係がどうなっているのかは、問題にならない。そういういいかげんなつくりなのだ。
◆「おもしろい」といっても、ギャグのネタはチンコとかウンチの話。実に子供っぽい。唯一「知的」なのは、誰にでもわかる造語法の妙か? Zip it→だまれ、fembot→女性ロボット、I'm late→遅れている→出来たらしい、Shaggedrick (←shagged )→セクシー、either way(any wayを古く言う)等々。
◆しかし、「ユー・ガット・メール」という声でコンピュータ・スクリーンが開くとか、 www.shut.comとか、スターバックのコーヒーの揶揄、イーブルの出身地がシアトル(マイクロソフトの本拠)、「うはははは」というダークな笑い(のパロディ)、むろん『バック・トゥ・ザ・フュチャー』のもじり・・・テレビ/ビデオ世代にはフィットするセンスなのだ。
◆バート・バカラックのI'll never faill in love again, 1970をエルビス・コステロが歌うサービスあり。
◆日本のマスコミが、ある意味では人道的処置から遠慮しているような「タブー」(障害者、小人、デブ等々)をあっけらかんと破るところは単純ではない――最近のアメリカの危険さでもある。
(ヘラルド試写室 )



1999-08-10_2

●スパイシー・ラブ・スープ (Spicy Love Soup/1998/Zhang Yang)(チャン・ヤン)

◆一般試写で、中年以後の女性客が多かった。後半、玩具にはまる夫婦のシーンで、後ろの人が興奮してわたしの椅子の背を激しく蹴る(というかずっと足をかけていて、それを激しくバイブレイトさせる)のだった。たまりかねたわたしは、後ろを向いて、やめるように合図したが、目がスクリーンに釘付けで、わたしが振り向いたのがわからない。隣の女性が気づいて、肘で合図して、ようやく止った。しかし、足はずっと背にかけっぱなしだったので、その後も、悩まされた。
◆一期一会的な「縁」によってどんどん主役が移って行く手法。最初の人物がトイレに行ったときにすれちがった人物が次のパートの主役になり、その人物がふと目にしたテレビのなかの人物が次に主役になる・・・というやり方。発作的リンクの方法。
◆中国映画や演劇には、啓蒙の伝統がある。そのせいか、この映画は、さまざまなカップルの話を見せて楽しませるだけでなく、さまざまな愛の形態を見せて、ガイドを与えるような(そういう見方もできる)ところがある。
◆映画は、必ずしもドキュメントではなく、願望的表現が少なくないが、この映画には、日本でポピュラーなカルチャーやライフ・スタイルが随所に見いだせる:シャワー、歩道橋、カセットレコーダー、アイドル(女子生徒はみな日本のアイドル的なのがもてる)、ジーンズ、バッグを前にかけるスタイル(もともとはニューヨーク発だった)、ゲームセンターなど。
◆カセット・レコーダー(AIWA)を使って声や音、はては自分のラップを編集してラブレターを作る中学生。娘が一人いる初老の未亡人がテレビで相手をさがしたら、候補が殺到する。手土産を持った4人の老人が彼女のアパートでかちあい、いっしょにマージャンをやり、友達になる。
◆おもちゃに入れ込む夫婦は、エスカレートしてキャンピング用品を家に持ち込む。そのそろえ方は、情報誌のガイド通りにやった感じが出ていて笑わせる。
◆離婚をしようとしているが、子供が婚姻証明書を隠してしまって、役所で断られ、証明を取りなおす夫婦の話もある。子供が料理を作り、二人に食べさせる。「家族でいっしょに食事をしたことなんてずっとなかった」と女は言い、大人が涙するが、それでも、二人は別れる。夫=父が出ていく日、「パパァ」と言って泣く子供が悲痛。
◆ウェディング姿の最初のカップルの写真を撮っていると、そのうしろを通りかかる女性。ここからカメラマンがこの女性に興味を持ち、近づいていく話がはじまる。蒲芳路という街の看板は、中国語以外に、ハングルや蒙古語で書かれている。
と中国のカルチャーが混在している。
(徳間試写室)



1999-08-10_1

●シャンドライの恋 (Besieged/1998/Bernardo Bertolucci)(ベルナルド・ベルトルッチ)

◆なんか段取りの悪い試写。挨拶があってから数分も上映が始まらなかった。映写室に連絡しなかったのだろう。それと、音が大きすぎる。
◆非常に図式のはっきりした映画。「ヨーロッパ的なもの」と「非ヨーロッパ的なもの」との出合い。それが「悲劇的」でも「楽天的」でもないところが、いまの時代のヨーロッパ。しかし、もう一点新しいところがないと、ベルトルッチとしてはなさけない。
◆冒頭、アフリカの民謡(プロテスト・ソングにも聴こえる)のようなものを歌う裸のアフリカ人。その歌は、激しく、挑戦的である。音がきついので、特に挑発的に響く。
◆軍隊の姿が目立つ街路。片足がなかったり、車椅子に乗ったりしている子供の姿。軍事政権側のポスター。あざやかな壁画。
◆学校で教えていると、軍が来て、逮捕される男。自転車に乗っている女シャンドライ(サンディ・ニュートン)。何ごとかを伝えられて(ショックのあまり)小便を漏らす。軍事政権の弾圧を受けて夫が投獄されたのだ。
◆投獄された夫を置いてローマにやってきたシャンドライ。食事の身ぶりも荒々しい。看護婦の勉強をしながら、家政婦として働く。
◆シャンドライが住み込みのメイドをするのは、親の遺産(ピアノ教師をしてはいるが、ほとんど気休め)で生活している旧「ヨーロッパ」のにおいを残すキンスキー(デイヴィド・シューリス)のところ。いつもピアノばかり弾いている。曲は、大半がクラシック。
◆キンスキーが急速にシャンドライに惚れてしまうが、夫がある身であることを知って、身を引く。そして、密かに彼女の夫を出獄させるためにアフリカ人コミュニティの神父に働きかける。これは、明らかに、旧「ヨーロッパ」的なチャリティ(慈善)の思想。
◆シャンドライがそばにいるときに、キンスキーがピアノを弾き、それが、次第にアフリカン・ビートに変わっていくシーンがある。ピアノ=ヨーロッパという構図。しかし、だからといって、彼は、ワールドミュージックに転向するわけではない。
◆キンスキーは、生活のためなのか、シャンドライに会ったからなのかわからないが、ある日、遺産の骨董品を売り払い、がらんとした空間での生活をはじめる。やがて、ピアノも売り払う。その前日に、教え子たちを招いての「コンサート」のあと、彼は、果物を使ってジャグルをやる。彼の快活さが突然あらわになる瞬間である。ここには、シャンドライとの接点があるかもしれない。
◆最後のシーンは、男と女の話としては、効果的。夫が来る朝、それまで拒否していたキンスキーを受け入れ、彼のベッドのなかにいるシャンドライ。夫がタクシーで到着し、ベルを鳴らす。
(ヘラルド試写室)



1999-08-09

●ブルー・ノート (BLUE NOTE - A Story of Modern Jazz/1998/Julian Benedikt)(ジュリアン・ベネディクト)

◆クラブ・カルチャー(BNは「サンプリング・ソースの宝庫」と言われる)を一旦通過した時点からのブルー・ノート・ジャズ創立者アルフレッド・ライオンとフランシス・ウルフの回顧。古いフィルム、ウルフのスチル、現在のインタヴューを組み合わせたドキュメンタリー。
◆ナチの強制収容所行きの列車を思わせる映像がくり返し出たり、マックス・ローチに黒人問題についての言及をさせたりして、単なるジャズのノスタルジックな回顧に終わらないようにしている。
◆ヨアヒム・ベーレントは言う、ジャズはユダヤ人、移民者、外国人によって創られた。
◆わたしにとっては、出てくるミュージシャンのほとんどが、ジャズ喫茶で聴き、(なかには)自分でもそのレコードを買った「青春」のアーティストたちばかり。わたし自身は、ルディ・ヴァン・ゲルダーの人工的な音(それがサンプリング世代には逆に受けた)が好きになれず、BNのものはそれほど買っていない。しかし、アート・ブレイキーにしても、リーモーガン(「サイド・ワインダー」)にしても、通いつめた喫茶店ですっかり耳にしみ込んでしまった。最後に買ったのは、トニー・ウィリアムズのLife Timeとグレチャム・モンカーIIIのSome Other Stuffだった。
◆映像で見ると、バド・パウエル(太っている様子からしてBNに入っている50年代の彼ではない)は、やはり相当狂っているし、セロニアス・モンクは、本格的にユニークだ。ロリンズは、いつも巨匠である。この映画には、こうしたミュージシャンの決定的な映像は乏しいが、インタヴューで語られる話は、みな魅惑的である。
◆ハービー・ハンコックが巨匠になり、ホレス・シルバーが円熟した紳士になっているのを見るのは、つらい。が、BNでロン・カーターを聴いたことはあまりなかったが、映画で見る彼の哲学者風の相貌を見るのは悪くない。
◆臨席の女性は、きゃしゃな初老のひとだったが、上映中、いいところで、手の指の間接をポキリとさせる。かなわない。
(ヘラルド試写室)



1999-08-06

●ラスベガスをやっつけろ (Fear and loathing in Las Vegas/1998/TerryGilliam)(テリー・ギリアム)

◆ギリアムは、ドラッグ・カルチャーに対して批判的なのだと思う。ティモシー・リアリーらがまき散らした甘ったれた思想をパロディ化している。
◆しかし、ギリアムにいつも欠けているのは、ゲイ・カルチャーである。彼には、60年代のドラッグ・カルチャーとゲイ・カルチャーの関係への意識が抜けている。ラウル・デュークとドクター・ゴンゾーとの関係にもゲイ的関係があったはずだ。さもなければ、つまらない野次喜多道中である。
◆ハンター・S・トンプソンの原作は、ドラッグをもっと肯定的に描いていた。
◆ジョニー・デップの大げさな身ぶりは、彼が演じるラウル・デュークを完全な道化に、共感よりも嘲笑を誘う存在にしているように見える。
◆最後のシーン:車で去る二人。ハイウェイが左に遠く延びている。手前に看板があって、そこに「You are leaving Fear & Loathing」と書かれている。ということは、この場合のyouは、彼らであると同時に、観客自身でもあり、つまりは、この映画世界をギリアムは、Fear and Loathing(恐れと嫌悪)として提示しているという意味でもある。まあ、わたしは慣れてしまったが、流しに向かって吐くシーンとか、醜悪であることはたしか。しかし、「これでもか、これでもか」と「恐怖と嫌悪」を観客に突きつけようとしたのだとしたら、それは、映画の見せ方として古いのである。
(メディアボックス)



1999-08-03_2

●メッセンジャー(馬場康夫 /1999)

◆試写室(東宝8階)の装置のせいとは思えないが、とにかく音の立体感・距離感が薄く、飯島直子の声がきんきんしていて、最初いらいらした。が、映画の出来がいいので、次第にそのことを忘れていった。
◆いまの「競争社会化」や会社の倒産・再統合の状況を意識した作品。
◆ホイチョイプロダクションは、新しい「ネットワーク」(ただし、物流システムとしての)に関心をもっている。『波の数だけ抱きしめて』のときは、微弱電波をつなげていくという方法に力点を置いてこの映画を作った(しかし、この方法は、最初わたしが提案したのだが、その意図は、規制を脱したラジオを流行らせようというわたしの策略であった――そういう言い方をすると、みんなが飛びついたからである――現実問題として、ミニFMは、小単位であることがいいのであって、同じものをつなげてエリアを広げてもしかたがないのである。ミニFMのネットワークとは、そういうそれぞれ孤立・自律した小単位同士の想像のネットワークであって、情報という質量のない物質を流通させる「ネットワーク」ではない。だが、今回は、宅配であるから、物流の話であり、それを流通させるネットワークであるから、ホイチョイにとっては、得意の分野である。
◆自転車便の成功は、タクシー無線(80チャンネル)を流用したナヴィゲーション・システムと連動させ、配送プロセスを厳密に流動的なゾーン化を実現したことにある。三軒茶屋にいるAが預かった品物を六本木に届けるとして、たまたま渋谷にいたBを246に移動させ、そこのAが品物をパス、Bがあとを引き受けるというようなやり方。
◆メッセンジャーが自転車で配達品をパスしあうシーンは、『ポストマン』のシーンに酷似している。
◆飯島直子は、いい線をいっている。クリュッグのシャンパンしか飲まないとか、俗なキザを絵に描いたようなキャラクターも、そこそこ演じている。
◆京野ことみが矢部浩之に渡そうと、封筒に携帯をいれて自転車便に託すのは、面白いアイデア。
(東宝試写室)



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●アナザー・デイ・イン・パラダイス (Another Day in Paradise/1998/Larry Clark)(ラリー・クラーク)

◆アメリカでそうしてこんな映画ができるのかと思わせるくらい質が高い。
◆ズシンと来るR&Bのひびきのなかで若い男女が裸で抱き合っている。セックスしたあと、外の飛びだし、夜中のコミュニティ・スクールに忍び込み、いらいらしながら次々とドアを開けようとする若者ボビー(ビンセント・カシーザー)。ドアーが開いた部屋はゲーム機と自動販売機がずらりと並んでいる。カジヤでこじあけてコインを奪う。夜警に見つかり、警防で殴られて、カジヤを腹に突き刺して倒す。アパートに逃げ帰ったボビーの血だらけの姿に驚いて、女、ロージー(ナターシャ・クレッソン・ワグナー)が、友人の「伯父」、メル(ジェームズ・ウッズ)を呼ぶ。
◆こいつが傑作な男で、痛み止めだと称してヘロインをスプーンであぶり、ボビーに注射する。こういうのって、若い者にはえらく感激なもの。フラッシュ・バックで、子供のころ父の暴力に苦しんだボビーには、こういう感じの年上があこがれの「父」のように感じらあれてくるのは時間の問題。メルの方も、ボビーをかわいがる。しかし、彼は、仕事の相棒にしようという魂胆。この男、いかにもという感じの、アクの強さ丸出しのユダヤ人。
◆ウッズは、「卑劣」な奴を演じるのがうまいが、メルは勝手な奴だが、卑劣ではない。
◆メルの情婦シド(メラニー・グリフィス)は、ドラッグ中毒で、いつも皮下に注射をしている。若い二人をかわいがる。やさしく、あけすけで、しぶしぶメルの相棒をつとめているように見えるが、メルたちが盗品の薬物の取り引きで危なくなると、ショットガンを引っさげて飛び込んできて、敵を撃ち殺すような強さをもっている。このシーンは、『グロリア』のジーナ・ローランズが路上でピストルをぶっぱなすシーンに匹敵する。ある種、メルにとっても「母親」役なのだ。
◆ファニーな奴が他にもいる。「牧師」(ジェームズ・オティス)は、最初銃の売人として姿を現すが、メルたちが撃たれたとき駆け込む先が彼のところで、そこは山中の独立区のようになっている。
◆この映画では、どいつもよくタバコを吸う。
◆ボビーが一番多いが、鏡のなかの自分の姿を見るシーンがかなり多い。
◆ボビーが、走査線とホワイトノイズだけのテレビを見ているシーンが2度出てくる。
(シネマライズ)



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