粉川哲夫の【シネマノート】
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1999-11-26

●カリスマ(Charisma/1999/Kiyoshi Kurosawa)(黒沢 清)

◆遅れて来た人が、すぐわきの補助椅子にすわった。強烈な臭いがする。咳もひどいので、風邪をひいて、風呂に入っていないのだろう。こういう臭いをかぐと、映像の印象も変わってくる。
◆冒頭、役所広司と警察の同僚が廊下のベンチに腰を下ろしているシーン。これをカメラは、向かいの部屋の枠ごしに覗くような形で撮っている。映像の背後に誰かがいるような感じのこのスタイルは、くりかえしあらわれ、最後の――森のはずれから、都市を見下ろす――シーンで終結する。
◆車で森のなかに入った役所が車のなかで寝ていると、近づく人影。このシーンは、夢のような描き方で、役所が死体のようになって誰かに車から引き出されるのが遠景から映される。火の大きさから、生き延びられる可能性はほとんどないはずだが、次のシーンで、役所は、顔にバンソウコウを張っただけの姿で現れる。
◆全体が夢なのかもしれない。森でキノコを見つけて食べ、ラリるシーンもある。
◆寓意的なスタイルは、『人間合格』のときよりも強まっている。森とは何か? 森で池内直人が「看護」している「カリスマ」という木は、いかにも意味ありげである。すべてに寓意的な意味をはらませるスタイルはもう古いのだが、黒沢は、本気のようだ。
◆黒沢は、『人間合格』のなかで、「ソ連はなくなちゃったんだよね」という台詞を言わせていたが、彼のなかには、「左翼」や党派の問題がつねにあり、今回も、ある意味では、革命や党派の行く末が問われてもいる。
◆森の樹木に関する議論:カリスマは、その根から発する毒素によって、森の木を枯らす・・・云々。そういう植物学者(洞口依子)は、森の水源になっている井戸にソーダーを注入しつづけている・・・云々。すべては伝聞の形で提示されるので、真実はわからない。
◆樹木を商売のネタにしようとして森にやって来た大杉漣とプラントハンターたち。これもいかにも寓意的。
◆最後の場面は、森をやっとのことで抜けた役所の目に、遠方の町が見える。それは、あたかも暴動か何かで燃え上がっているようにも見え、バックでパトカーのサイレンの音も聞こえる。携帯で電話をすると、相手(警察の上司らしい)は、「お前、何をやったんだ?!」と叫ぶ。
◆森と町とが有機的(寓意的)な関係を持っているとすれば、役所が森でやったのは、「カリスマ」よりももっと巨大な怪物的な「木」を爆破したことだった。
◆寓意的に見れば、森は「天皇」の住むところかもしれない。天皇を失った町とは、「革命」に直面した日本のことである。というのも、日本は、天皇の消滅なしには、抜本的な変革はありえないからである。 
◆しかし、その間に、森では、謎めいた軍団が生まれ、家々を訪れては、処刑していく。地面に横たえた「囚人」の頭に振り下ろされた木槌の当る鈍い音。
◆役所が破壊した怪物的な木は、池内博之が世話をしていた「カリスマ」が倒されるまで姿を現わさなかった。
(メディアボックス)



1999-11-25

●エンド・オブ・デイズ(End of Days/1999/Peter Hayams)(ピーター・ハイアムズ)

◆こういう映画を見ると、世界はやはりキリスト教世界で動いているんだなと思わざるをえない。が、いくら世紀末(キリスト教的クロノロジーの転機)だとはいえ、こうまでキリスト教(異端も含めて)の仕掛けとテーマを出されると、うんざりする。
◆冒頭のシーンからして、ヘブライ語の文字が見える黄ばんだ古書のページ、十字架ロザリオだからね。場所は1979年のバチカン。天球の観測をしている修道士が、あわてて古文書をつかみ法王のところへとんでいく。(あわてているのはわかるが、古文書をつかむ身ぶり、いささか粗雑すぎる。こんなことをしたら、古い文書がぼろぼろになってしまのでは?)あの当時、法王はパウロ一世だったと思うが、映画では、車椅子に乗った老人。まあ、冒頭のこの場面で、すでのこの映画の質が予測できる。
◆ただし、映像は全体として落ち着いている。シュワルツェネガーがヘリコプターに宙吊りになって殺し屋を追いかけるシーンでも、「超人的」な描き方はしていない。
◆バチカンのシーンから1999年のニューヨークに移ると、WVAGというコールサインのラジオの音が流れる。
◆悪魔の「霊」が自在に具体的な人間の人格のなかに忍び込むという基本構造があり、その最初が、ウォール・ストリートのビジネスマン(ガブリエル・バーン)だが、この映画では、「霊」の侵入は、SGIの「水面」効果ソフトを使ったような一律のスタイルで通している。
◆終わりの方の教会のなかのシーンで、悪魔が巨大な怪物になって現れるシーンは、ちょっとありもののソフトを使った感じでいただけない。
◆スワルツェネッガーは、一度は磔刑のキリストの格好で壁に吊るされ、最後は、教会の聖剣に身を突き刺すことによって、悪魔の野望を阻止するのだが、まるでキリスト気取りではないか。
(日劇)



1999-11-19

●ファイト・クラブ(Fight Club/1999/David Fincher)(デイヴィッド・フィンチャー)

◆エドワード・ノートンのナレーションで始まるこの映画の構成は、チャック・ポーラニックの原作に忠実である。最初に見せたシーン以後の3分間を保留して、それまでの経緯を「描写」する。
◆ハリウッド映画にしては、映像的に自由だ。自己セラピー・サークルの席にノートンがいるとき、ブラッド・ピットの映像が瞬間出てくる。これは、遊び。ノートンが観客に向かって話す「アサイド」のシーンもある。画面の切り替え、リズムも抜群。
◆明らかに『マトリックス』を意識した映像。大げさな仕掛けの大義名分を出さなくてもヴァーチャルな感性とリズムを体験させることはできるのだという意気込み。
◆エドワート・ノートンが、「癒し」のサークルをはしごするシーン。そこで出会った女(ヘレナ・ボナム・カーター)のあやしさがいい。彼女も、映画や芝居を見るように「癒し」のサークルをはしごしている女。ガンと闘う人々の集まり(これも「ファイト・クラブ」)のなかでも彼女はタバコを吸っている。
◆何をやってもリアリティを感じることができないという前提があって、それが、殴り合う――というより殴られることを経験する――集まり(クラブ)へ向かう。が、いまの時代の感性は、もうこういうレベルを越えているのではないか? その点では、思想的には『マトリックス』や『月光の囁き』の方が先を行っているように見える。
◆ブラッド・ピットは、ノートンの心的分身であることがのちに明かされるが、むしろ、彼は、メフィストフェレスに似ているところがないでもない。出現の仕方がメフィスト的。飛行機のなかでの初めての出会い。彼のシニカルな言葉。「マイクロソフト・ギャラクシー」、「プラネット・スターバックス」・・・。
◆マンションを爆破された(本当は「自分」でやった)ノートンが、困り果ててピットに公衆電話から電話する。出ないが、受話器を下ろすと、すぐに電話が鳴る。「自動コールバック・システムになっているんだ」。美容整形で分離した皮下脂肪を病院から盗んできて石鹸を作る。
◆クラブの人数が増え、ある種の「軍団」化が進み、(自分はピットではないのに)ピットとして敬われるという風になっていくあたりから、面白くなくなる。
◆ノートンが、路上で自分を殴っているシーンは面白いが、この辺から、世界が、単にノートンの「パラノイア」に過ぎないというとらえ方ができてしまうようになる。
◆『ビデオドローム』の影響もあるように思う。身体に対する関係(これは、クロネンバーグの一貫したテーマであり、殴られることを求めるといテーマは、すでに『クラッシュ』で先取りされている。『ビデオドローム』でマックスが自分をピストルで撃つことによって再生するシーン。
(フォックス試写室)



1999-11-18

●ノイズ(The Astronaut's Wife/1999/Rand Ravich)(ランド・ラビッチ)

◆それぞれ癖のある役者を配しながら、「それがどうした」と言いたくなるような単なるスルラー・ドラマ。
★となりでポップコーンを食っているのは新聞記者? 大学ノートを出して書きながら見ていた。終わって、もう長いクレジットはいいからと思って出ようとしたが、この人、スクリーンをにらんでいて通るのがはばかれる。基本的にわたしは、エンド・クレジトも全部見るが、見る気がしなくなる映画もある。
◆アップの多い画面。心理主義的指向?
◆宇宙空間で作業をしていて異変が起こり、宇宙飛行士の一人、アレックス(ニック・カサベテス)は重体、もう一人のスペンサー(ジョニー・デップ)はかなりの虚脱状態で救出される。二人とも復帰するが、アレックスは、NASAの関係者たちが大勢集まったパーティの最中に変死。それから、次々と異変が起こる。
◆パーティで仲間たちが歌っているのが「マイ・ウェイ」で、それからセックス・ピストルズのレコードがかかった最中にアレックスが倒れる。SPに愛着と持つというと、世代的には1960年代末から70年代初めぐらいの生まれという設定か?
◆夫に不可解な死のあとを追ってその妻がラジオをバスタブに入れて感電自殺する。夫は、ラジオでいつもノイズを聴いていた。
◆帰還後、心に冷え冷えした隙間をかかえているようなスペンサーが、突如、強姦的な激しさで妻に迫り、妻は双子を身ごもる。アレックスの妻も双子を身ごもっていたという。
◆すぐに想像がつくように、宇宙空間で飛行士たちは、身体が変わってしまったのだ。それが、宇宙人のしわざであるのか、宇宙人とすり替わったのかどうかはどうでもいい。解説では、DNAを変えられたというようなことが書いてあるが、映画を見ているかぎりでは、かならずしもそうとも取れない。宇宙人がそのDNA的なものを(生き残りのためか、侵略的な目的のためか)飛行士たちに投射したらしい。
◆NASAの調査員(『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』のジョー・モートン)は、事件の秘密に気づくが、NASAから妄想と見なされ、失職する。
◆スペンサーの妻(シャールズ・セロン)には、自殺経験があるらしく、それが、目撃したアレックスの妻の自殺シーン(ラジオをかかえて浴槽に浮いている)とフラッシュ・バックしてくる。
◆スペンサーは、NASAをやめて軍事産業に勤めるが、妻に始めて転職の話をする言い方がおもしろい。「ひとつだけ、君が気にいらないのは、本部がニューヨークだってことさ」。この映画では、ニューヨークの連中は、みないやらしく描かれている。実際にいまそうだ。パーティに出たスペンサー夫婦が、着てきた服を揶揄されたり、「学校で教えています」というと、「あら、どちらの大学?」とか言われ、「小学校です」と答えると、「あら、それも学校だったわね」とか言われる。
◆アレックスが心停止になったとき、「ドーパミン」(血圧昇華剤)がどうのこうのという台詞があったが、のちに、スペンサーの妻が子供を堕ろすのに、彼の雇い主の妻がそっと渡したくれた薬が「DX693」という。けっこうこういうのがあるのかもしれない。
(丸の内ピカデリー2)



1999-11-16_2

●風が吹くまま(The Wind Will Carry Us/1999/Abbas Kiarostami)(キアロスタミ)

◆映像のシャワーとしてのハリウッド映画ばかり見ていると、キアロスタミの映画はいつも新鮮。こちらが映像のなかに入って行って、自分の考えや感覚をつくりあげることを要求されるし、ただ漠然と見ていても、なにか(映画と直接関係ないことも)を思い出したり、考えたりする。
◆冒頭、黄色い地肌の大地の俯瞰が映り、車の姿が見える。オフで会話が聞こえる。車のなかには何人いるのか? 埃を立てて走るくるまをカメラが追う。やがて、車が止まると、道端に子供がいて、主役のベーザード・ドーラニー(黒の半袖シャツとジーンズ)と話す。車から4人の男が出てくる。意外に沢山いたんだなという印象。一体彼らは、何をしに来たのか?
◆家が砦のように建っていて、梯子で登るようにして入るのが面白い。ベーザートが家に近づくと、てっぺんの家の上に何人もの人が立ち、見下ろしている。ベーザートがしゃべる言葉と周囲の人々がしゃべる言葉とは違うらしく、子供が両者の通訳をしているらしい。
◆青いりんごがころころところがって、まるでピーター・フィッシリーとヴィッド・ヴァイスによる『事の次第』(1987)のように溝を伝って下に落ちる。りんごは、『桜桃の味』との関係を示唆しているのだろうか?
◆携帯電話は、ここでは、パロディ化されている。ベルが鳴ると、ベーザードは車を走らせて高台まで行く。キアロスタミは携帯が嫌いなのだろう。
◆声だけ出して、その対象を映像として出さない音声重視のスタイルは、キアロスタミの得意技。墓の発掘をやっている男のシーンでは、声だけで姿は出さず、その効果が最も発揮された。
◆この映画では、しゃべる人と黙って聴く人とがはっきりと別れている。ベーザードは、よくしゃべる。ひげをそりながらしゃべるシーンは、おかしい。
◆「人もまた、働きすぎるとオーバーヒートする」
◆丸い土(糞?)のかたまりを転がして行く虫はスカラベサクレではないか? 本では読んだことがあるが、その姿を見るのははじめて。
◆全体130分のうち、90分ぐらい過ぎて、墓を発掘していた男が落盤で生き埋めになるシーンでテンポが上がってくる。
◆ベーザードは、村を去るとき、それまで持っていた人骨を投げる。
(サイエンスホール)



1999-11-16_1

●ゴジラ2000ミレニウム(Godzilla 2000 Millennium/1999/Takao Okawara)(大河原孝夫)

◆最後のクレジットに、「自衛隊」がばっちりと出ていた。
◆ゴジラ・シリーズを見ていない者にも楽しめる作り。その分、ゴジラ・マニアには不満が残るかも。
◆ゴジラは、アメリカのゴッズィラとは違い、日本的自然の体現者である。だから、ゴッズィラのように、やっつけられることはない。もともと、(アメリカの?)原爆実験の突然変異である。この作品では、人間が自然を破壊した罰という側面が繰り返し示唆される。とすれば、ゴジラの破壊は肯定されなければならないので、その「悪辣」相手を作り出さなければならない。今回は、それが異星人ということになった。
◆冒頭、娘っぽい子がUHFのアンテナの同軸ケーブルをとめつけているシーン。父親が観測をする。わきで「早くしてよう」という態度で待っている女は何者?一見、家族のようにも見えるが、そうではない。
◆「ゴジラは人間の作り出すエネルギーを憎んでいる」のだという。だから、エネルギー施設を次々に破壊する。
◆日本の表現のひとつのパターンと見た方がいいのだろうが、必要のないところでやたらとおどけて見せる。かつてチャプリンが映画で使ったネタ。一方が棒を振ると、それが相手の頭に当るが、当人はきづかず、それが何度も続く。
◆女は、子供以外はバカあつかいするというのも、一つのパターン。OLやギャルがその犠牲になる。
◆ゴジラが暴れているわりに、人々がそれほどあわてていないのはなぜ?
◆ゴジラが暴れているという現実があるのに、一方で、のんびりと海中から謎の物体を引き上げる作業が行われている。非常事態にそんなことをするのだろうか? おまけに、それが、異星人のエネルギーというか、情報というか、異星人を再構築できる能力を持ったものであるという話の展開するのだから、おかしい。
◆ゴジラは物体を壊すが、UFOは、新宿のシティタワーの上に陣取り、コンピュータ回線からすべての情報を吸い取ろうとする。映画では、こちらを「悪」とみなしている。ということは、この映画では、物を壊すより、情報を盗む方が悪いというロジックが前提されているということ。それと、「地」から出たものを善、「外部」からのものを悪とするパターン。
◆UFOから出た触手が、ゴジラの自己再生細胞を吸収して「生命体」として変形するとき、その形が昔の「火星人」そっくりなのには、笑わされる。
(東宝試写室)



1999-11-15

●御法度(Gohatto/1999/Nagisa Oshima)(大島渚)

◆坂本龍一のピアノが響くイントロ。カラー画面は暗めのソフト・フォーカス。
◆佐藤慶二のナレーション。無声映画で使われた解説的な白抜きの文字画面が動画をときどき中断させる。ユーモラスな効果もある。
◆隣に座っている人がしょっちゅう動き、肘をぶっつけてくので、落ち着かない。この人、よく試写室でいっしょになるが、名前は知らない。プロが映画を見る態度としては、最低だ。
◆松田龍平は、松田龍平という人物そのものよりも、この作品で設定された加納惣三郎というフィクショナルな人物と、松田がフィルムというメディアのなかで作りあげたものになりきっている。松田龍平がどういう人間なのかということには、観客の関心を向けさせない。それは、完璧にフィクショナルな存在になりきっている。
◆それに対して、ビートたけしと崔洋一は、彼らがそれぞれ演じる土方歳三と近藤勇の人物像よりも、彼ら自身に関心を向けさせる。それは、彼らの「演技」が下手だからではなく、むしろ、そういう演出なのだ。そうすることによって、松田を全面に出す。
◆松田の唇、顎、手の動きはセクシャルである。が、それは、松田という若者のそれではなく、「加納惣三郎」のそれとして受け取れる。
◆『雨あがる』などにくらべると、殺陣がはるかにいい。
◆太夫を演じる神田うのとの床入りを見せず、神田の出演を、いかめしい花魁衣装を着て部屋に向かう姿だけにとどめたのは賢い。松田と神田とのからみでは、二人とももたないし、この作品の幻想性が壊れてしまう。神田は、おかげで、妖艶な姿で映像化された。
◆浅野忠信は、なかなか色気のある装いをしていたが、役どころはあまり鮮明ではない。田口トモロウとの関係は、たがいにゲイで松田をめぐって意識しあっていることはわかるが、もっと深い意味合いがあるような暗示ある。
(イマジカ試写室)



1999-11-12

●ジャンヌ・ダルク(Joan of Arc/1999/Luc Besson)(リュック・ベッソン)

◆最初、教会の懺悔を終えて、野原に飛び出したジャンヌが跳びはねるシーンは、ちょっと『サウンド・オブ・ミュージック』みたい。だが、17歳になったジャンル(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が登場すると、そうした甘い雰囲気はとたんに切り替わる。「できる」という印象。「思いつめた」しゃべり方のリアリティ。
◆ 英語であることが、この映画の基本姿勢を現している。まず、フランス固有の出来事・パーソナリティとしては「ジャンヌ」をとらえていないこと、次に、当然のことながら、国際商品としてのねらいがあること、それから、現在ヨーロッパを中心に進んでいる「前時代」への回帰の流れに属するものであること。
◆「フランス」的であることを意に介さない点は、たとえば、「これを読んでみろ」と言わんばかりにファイ・ダナウェイが古い本をジョン・マルコヴィッチに投げ、それをタイミングよく掴む「アメリカ」的なシーンにもよく現れている。
◆ジャンヌの「良心」と説明にあるが、悪魔のような格好の人物(ダスティン・ホフマン)が登場し、「おまえは事実を見たのではなくて、見たいものを見たのだ」と言う。
◆最後のクロージング・クレジットにかぶさるソング(Tell me, who I am....)も「アメリカ」的で、これは、全くいただけなかった。
(ソニー新試写室)



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