粉川哲夫の【シネマノート】
  HOME      リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)


1999-12-22

●シュリ(Shuri/1999/Kang Je Gyu)(カン・ジェギュ)

◆最初にナレーションが入るが、この物語は、「冷戦の悲劇」だという。なるほど、米ソが「冷戦」を闘っていたころ、諜報や暗殺の任務を負った政府の秘密部員たちを登場人物にした映画が数多く作られた。が、それらは、同時に、「冷戦」下におけるある種のコミュニケーションであり、そこにどんなに憎しみや怨恨が込められていても、作品が作られることによって、両者のバランスが保たれた。今回、アメリカ映画を見て育った世代の映画作家によって作られたこの作品は、非常にハリウッド映画的なタッチの仕上がりになっている(武闘訓練のシーンは、近年のハリウッド映画では見られないほどの、実戦さながらの力がこもっているが)。ということは、朝鮮半島における南北関係は、必ずしも暗くはないということでもある。
◆前述の武闘訓練のシーンは、体のぶつかり方やスピードが半端ではないので、逆にそこから映画的なユーモアすら感じてしまうのがおもしろい。この映画の新しさとは、そういうところだだろう。意図はともかく、それを越えてしまって、ハリウッド式の「映画」になってしまったところ。
◆いわゆる「反北」の映画ではない。エンターテインメントと見せかけて「北」の非情さを煽り立てようとしているわけではない。もはやそういう時代ではないし、両国はもはやそういうレベルにはいない。
◆「祖国統一万歳」という言葉の不気味さをうまく使っている。チャットでモニターにこの文字が出てくると、ハッとする。
◆「チーズとコーラとハンバーガーで育った者にはわからない」、「北では飢え死にしているのに、南では(飽食して)ゲロを吐いている」
◆ハリウッドにとって、「冷戦」はかっこうの題材であり、その意味で、「冷戦」は、ハリウッドに多くの利益をもたらした。南北の緊張を、いま、この映画のように使えるようになったということは、少なくとも「南」は、確実に後期資本主義の道を歩んでいるということである。
◆アメリカにとって、「冷戦」は、むろん、軍事産業やテクノロジー産業に多大の利益をもたらした。「冷戦」が終わったということは、それらが、別の方法を見いだしたということでもある。ミリタリーは、「自然保護」やバイオテクノロジーや暗号の分野にこっそりと方向を変え、テクノロジーは、電子テクノロジーを中心に再編され、民間レベルを電子の「戦場」とすることによって、それ自体で生き延び、栄える方法を見いだした。
◆最後は、英語の歌で結んでいる。完全にハリウッド方式。
(ギャガ試写室)



1999-12-21_2

●フェリシアの旅(Felicia's Journey/1999/Atom Egoyan)(アトム・エゴヤン)

◆50年代の歌が聞える。部屋の個物をなめるように映すカメラ。なんでこんなに50年代的なのかというのは、やがてわかる。
◆テレビを見ながら料理をするボブ・ホプキンス。テレビには、モノクロの映像。フランス語なまりの英語で料理を作って見せている美しい女性。これまた50年代的。しかし、それは、50年代的なレトロの番組ではなくて、昔のテレビ番組のビデオであることがわかる。
◆彼は、食品工場の経営者に近い存在で、社員が作る食品を味見する。彼の周辺には家族や恋人の気配はない。50年代の記憶に頼って生きているという雰囲気。
◆海のシーンになり、フェリーでアイルランドからイギリスに来ようとしている若い女性フェリシア(エレーヌ・キャシディ)。通関を通る。わけありの顔をしている。バスでバーミンガムにやってくる。「イギリスで働く」と言って去っていった恋人を探して、工場をたづねる。どこにもいない。その途中でホプキンス(50年代の車を運転している)に会う。若干、彼がねらいをつけた感じの出会い方。彼は、少女趣味か? しばらくして、途方に暮れて歩いているフェリシアにまた会う。待ちかまえていた感じ。やがて、わかるのは、彼が、この手のやり方で少女を車に乗せ殺してきたらしいこと。
◆料理番組のビデオに映る太った少年は、彼の昔の姿だった。母に熱愛された少年。彼女の料理番組に出演し、当時は人気者だったという設定。彼が使っている調理器具も、彼の母がテレビで宣伝したもの。
◆いよいよフェリシアがホーキンスの家にやっかいになるころ、彼が少女愛の人であることがわかる。
◆マザコンの男と男に騙された若い女との出会いなら、ラブロマンスもつくれる。が、そうしなかったのは、原作や監督の選択というよりも、イギリスの感覚。でも、女を薬で眠らせたのち、庭に穴を掘るのは、ヒッチコック風ではないか?
◆ヘラルドの環境:隣の初老の女性はアレルギーらしく、体を始終かいている。顔を見たら、大きな白マスクをかけていた。
(ヘラルド試写室)



1999-12-21_1

●SLAM(SLAM/1998/Mark Levin)(マーク・レビン)

◆教育的な傾向がないでもないが、パワフルな映画である。舞台は,冒頭にワシントンの尖塔を映しているように、同じワシントンでもその闇のエリア。白人の姿はなく、黒人だけの街。ストリート賭博と、監獄(足に鎖をつけられた黒人の姿)に直結した街。
◆アメリカでは、この5年ぐらい、さまざまなスタイルの「朗読」が流行っている。それらは、「ラント」と呼ばれることもあれば、依然として「ポエットリー・リーディング」と呼ばれることもある。この映画のタイトルをなす「 SLAM 」も、ある種の詩のリーディングであるが、ラップやヒップホップなどとも交錯している。
◆ディテールがしっかりしている。ディテールに多重な意味素をこめている。ジョシュワが殺人事件にまきこまれて、刑務所に護送されるときいっしょになる中国人ワンは、護送車のなかで、「冷房ぐらいつけろ」とわめく。刑務所についてからは、刑務所員につばを吐く。まわりは黒人でアジア人は自分一人なのに徹底してラディカル。が、当然、あとで所員のリンチに遭う(連れ出されるシーンと悲鳴だけの表現)。
◆ジョシュワの隣の房で黒人が、スチールのテーブルの下に入り、テーブルの天井をたたきながらラップをやっている。それに会わせてラップする。このシーンは最高。
◆刑務所内の描写も、『アメリカン・ヒストリーX』のように型どうりではない。「自分のことだけを考えろ。タバコ1本で首を切る連中だ。無事出られるかどうかはお前次第だ」という忠告をする黒人の刑務所員もいる。この刑務所では、2派が対立しており、受刑者はそのどちらかに属さなければならないのだが、ジョシュワは、周囲との対立を避け、自主独立でありたいと思う。が、ボス格ノホッファーは言う、「闘わなけりゃだめだ、ここは刑務所なんだから」。
◆夢みたいなシーンだが、2つのグループから攻撃されそうになったとき、ジョシュワは、突然スラムをはじめる。意表をつかれた相手は攻撃の意思を失う。このシーンも、なかなかいい。このすがたを離れたところから見ていた女性がいた。更正プログラムで詩を教えていたローレン・ベル(ソニア・ソン)である。
◆ローレンの授業の雰囲気がいい。彼女は、もと売春婦だったことがやがてわかる。ジョシュワの弱気に活をいれるためにタンカを切るシーンでこのことがわかるが、こういうパターンはいかにもで、いただけない。
◆ジョシュワの才能にほれこんだホッファーは、手をまわして保釈金を用意し、ジョシュワを出獄させる。この辺、空想的な感じもするが、アメリアという国はこういうこともありの国だと思えばよい。
◆最後のシーン:スラムの会で熱演し、アンコールを求められたジョシュワが、I need get some air.と言って尖塔の方に歩いていき、かれのシルエットが白い尖塔に映ったところで、ソレガアップになり、終わる。おしゃれで暗示的な映像。このままワシントンの体制の方へ入っていくという意味のもとれるが、そういうことではないだろう。
(メディアボックス)



1999-12-20

●救命士(Bringing out the Dead/1999/Martin Scorsese)(マーティン・スコセッシ)

◆ブルックリンの夜の闇ににじみ、溶け出したような映像で始る走る救急車のシーンからして、『タクシードライバー』の思いをもう一度という感じがしないでもないが、悪くなかった。ケイジの、いつも悩みを身に背負っているような表情の、自虐的な雰囲気がぴったりだ。こちらは、デニーロと違って、暴力に爆発することはない。
◆映画にとって重要な要素の一つはファンタジーである。現実にあるかないかは」別にして、そおういう設定を内的にリアルに描きだすこと。ケイジが急行したアパートで、患者は息絶えていた。救命士としてのくやしさとむなしさをケイジは完璧に表現する。が、おもしろく、感動的なのは、それから後のシーンである。自分の親不孝を責め、ヒステリックになっている娘(パトリシア・アークエット)にケイジが、Do you have music?と言う。え?!と驚く女に、「故人が好きだった音楽をかけてやりなさい」と言う。ところが、シナトラの歌うSeptember Songをかけたら、「故人」の心臓が動き出すのである。
◆「辱めを受けた瞬間をおれに見られた患者は、成仏できないで、あたりをうろついている」――ケイジのナレーションのスタイルは、『タクシー・ドライバー』のそれに似ている。トラヴィス(デニーロ)は、売春をさせられている少女の姿(現実に見たと受け取っても、トラビスの妄想だととtってもよい)につきまとわれている。ケイジは、命を救えなかったホームレスの少女の幻影につきまとわれている。
◆彼が患者を運び込む病院は、「聖母マリア病院」ということになっているが、雰囲気は、70年代末のセントヴィンセント・ホスピタルを思わせる。仲間のジョン・グッドマンが、「レイズのピッツァを買っていたから食えよ。一切れ1・5ドルもするんだぜ」というシーンがあるが、Rye's Pizzaは、支店もあるとしても、「本店」は、セントヴィンセントからすぐのところになる。
「ニノのピッツァはよかったなぁ。上に聖母像が乗っていた」という話も出てくる。これは、どこにあった店か?
◆この映画の受け取り方に関する示唆のようにも、また、実際にそうなっていたようにも思えるのが、「救急車 Amburance」の文字が裏返しになっていること。これは、ミラーに映ったとき、本来のつづりになる。
◆終盤になって(1時間45分ぐらいたって)、ダレる。アークエットが、精神の限界に来て、アラブ人の経営する秘密クラブへ行き、ドラッグを打ってもらってベットにねているのをケイジが救い出したり、マフィア同士の抗争があったりするシーンだ。こういうのは、つやけし。
◆ニコラス・ケイジは、パトリシア・アークエットに、「この街は、弱い者だけじゃない、あらゆる者を殺す」と怒りをぶちまける。これは、わたしが70年代にニューヨークにいたころに実感であった。『ミーン・ストリート』も『タクシードライバー』も、同じニューヨーク観にもとづいて描かれている。しかし、この映画の「プレス」で、この物語が、「1990年代前半の」と但し書きしなければならならないように、いまのニューヨークにはあてはまらない。残念ながら、いまのニューヨークは、あっけにとられるほど健康である。このへんが、ニューヨークに対するスコセッシの古さを露呈することになっている。
◆ただ、この映画を特徴づけているようなアグレッシブな要素は少しも衰えてはいない。犯罪率の低下という公式数字の裏で、ニューヨーク・ヴァーチャル・ディジタル経済の躍進の裏で、血を流さない情報戦争が闘われている。ここには、まだ(情報戦の)「救命士」はいない。
(ブエナビスタ試写室)



1999-12-15_2

●新選組(Shinsengumi/1999/Kon Ichikawa)(市川崑)

◆市川崑の作品としては実にわびしい。テレビで上映するのなら何とか見れるが、劇場で見るのはつらい。
◆祇園祭りの雰囲気を出した絵柄(たくさんの提灯)と鉦太鼓の音からナレーションに入り、タイトルとともに、いきなり池田聰の今風の歌が出てくるあたりは、何かを期待させる。黒金ヒロシの絵を厚紙に描いて切りぬき、ジャワ影絵のように使った手法も最初は、おもしろいように見える。「影絵」の人物が切り合いをする瞬間、カラーの「写実]映像で刀身が光るといった手法も悪くない。しかし、じきにわびしさが感じられてくるのは、絵のせいか。荒い描き方が活きていない。
◆土方歳三が若々しく描かれているのは、新鮮だった。(実際に若かったのだが、普通はふけたイメージがある)。
◆清川八郎の老獪な戦略にかなり焦点が当てられている。
◆クロージング・タイトルとともに流れる主題歌に、「ぼくたちは立ちつくす、星のない夜に・・・」という一節。そういうことか。しかし、新撰組なんて、所詮、やくざの党派にすぎない。わたしは、何かの「ため」、組織や国家の「ため」に生き、死んだ者に同情はしない。
(メディアボックス)



1999-12-15_1

●ICHIGENSAN いちげんさん(Ichigensan/1999/Isao Morimoto)(森本功)

◆ビデオのテストパターンが出て、ジューネーブの公的な建物の前でメガネをかけたヤッピーっぽい西洋人がテレビ・レポーターをしているシーン。ナレーションが入り、ここから時代と場所がバックする。モノクロの映像で「僕」の少年時代(本好きだった)を紹介しながら、京都竜安寺の石庭の縁側で想い出にふけっているように座っている「僕」の姿に収斂する。これがプレ・タイトル・シーン。
◆この主人公「僕」(エドワード・アタートン)の「現在」から入る必要から、最初のシーンが作られたのだろうが、冒頭のシーンは、魅力がない。石庭のシーンから入ったほうがよかったのでは? モノクロの少年時代の映像をパッパと見せ、それが石庭のシーンに収斂し、物語が始まるという風に。
◆タイトル、クレジットの背景は、ピアノと雨に濡れる葉のアップ。これは、いかにも「外人好み」の撮り方。ただし、監督の森本は、オーストラリアで仕事をしてきた人であり、撮影監督もオーストラリアのピータ・ボロッシュだから、当然かもしれない。
◆雨に濡れる葉のクローズアップから「僕」の額のクローズアップへ移るシーンもコンヴィンシング(納得的)ではない。石庭のシーン→葉→額(うつらうつらしている「僕」)への移動は、時間の経過を出そうとしているのだろうが、額のアップから、仲間と雑居している狭い下宿のシーン、中村京子(鈴木保奈美)とその母が受け付けのようなところで何かを頼んでいるシーンが続くが、それらを意識している「僕」がどこにいるのかを曖昧にしている。それは、わざとであろうが、そういうやり方が成功しているようには思えない。
◆最初のシーンもそうだが、全体に表現がもってまわっている。あとになってからそのシーンが「そういうわけなの」とわからせる手法だとしても、そういうもってまわったやり方に意味がなければ、仕方がないと思うのだ。中村親子がしゃべっていたのは、「僕」がアルバイトをしている語学学校の受け付けで、盲目の娘・京子のために「対面朗読」してくれる人を頼みに来たのであることも、「僕」が京子の家を訪ねたときにはっきりわかるが、もっと直截にわからせてもいいのでは?
◆「僕]役のエドワード・アタートンは、あまり魅力のある役者ではない。日常会話のトーンがナレーションのトーンと同じなのはまずい。
◆鈴木保奈美は、『Lie lie lie』では、大人っぽい役をやったが、ここでは、アタートンの大きい身体つきと(役柄の年齢よりふけて見える)雰囲気のせいか、非常に小柄の小娘に見えたのは、不思議だった。
◆京子と「僕」が鴎外の「舞姫」について語り合うシーンがある。原作は、逆「舞姫」を骨格とし、それに小泉八雲のスタイル(サウンド・スケープ・タウンとしての松江、音・嗅覚への関心)と盲目への関心(耳なし法一)をもブレンドした「秀才]的な作品。わたしは、こういうお利口に作られた作品は嫌いだ。
◆保直美が「僕」に強制的に読ませるドボルジェの『背徳の手帖』(渋澤龍彦訳)には、駿々堂のカバーがかかっている。
◆そっけない指導教授や卒論で誤字の指摘のようなことばかりされるとか、ラーメン屋で隣の客から変な英語で話しかけられ、日本語で返すと急に冷たくされるとかのシーンは、実際にありがちな「現実」だが、映画ではもっと鋭く描いてもよかったろう。
◆「僕」は、フランスのテレビ局の取材を手伝い、やくざの取材などをしたことで、テレビの世界に入っていくことになるのだが、なんかみんな外国向け日本観光案内風なのだ。こういう描かれ方だと、実の所は、ヤクザドラマの撮影のアルバイトかなんかをやったということじゃないのと言いたくなってしまう。
◆基本的に原作は、人(「らしさ」や「ありがち」が好きな)の気をひきそうな題材をうまくブレンドしてつくってある。
◆京子との最後のシーンは、丸山公園の夜桜。桜は散る――終わりはあっけない。これも、あまりに月並み。おまけに、最後の英語のタイトルソングが全然よくない。
◆大学の教授や学生・授業についてかなり批判的。また、「外人」に対する日本人のステレオタイプ的な反応についても揶揄されている。しかし、その揶揄がいまではステレオタイプ的な気がする。
◆この監督は、においをいかに表現するかということに興味があるように思えた。これは、わるくない。
◆タイトルソングは、Moonlight Dream。これは、よくない。
(メディアボックス)



1999-12-14_2

●ストレイト・ストーリー(The Straight Story/1999/David Lynch)(デイヴィッド・リンチ)

◆このタイトルでは、「ストレイト家」(the Straight)の物語であるという意味は伝わらない。配給会社は、どんな意識で邦題をつけるのだろうか? ムードだけでいいのだろう。
◆何でも自力でやろうとする習慣も、いまのアメリカでは希薄になってきた。73歳のアルビン・ストレイト(リチャード・ファーンズワース)は、仲たがいして10年も会っていない病気の兄(アリー・ディーン・スタントン)に会うために、アイオワ州ローレンスからウィスコンシン州マウント・ザイオンまでの560キロを時速8キロのトラクター(自分で溶接機を使って作ったワゴンを繋いでいる)で行く。
◆スタインベックの『チャーリーとの旅』やロバート・ルイス・スティーヴンソンの『旅はロバをつれて』を思い出させないでもない。
◆旅の支度で娘(シシー・スペイセク)に買ってこさせたもののなかに大量のソーセージがある。これは、単に保存食だからか? ストレイトはドイツ系?
◆途中で家出をした目の大きい女と会うが、これは、デイヴィッド・リンチ好みのタイプで、何かあるのかと思ったが、何もなかった。
◆他人の家の庭を借りて露営をしている感じのユーモア。が、これは、アメリカ的「自立」の思想。借りたら、その時間内は、他人の家の庭先であろうと、自分の自由にする。
◆墓地でキャンプしていると、そこに神父がミネストローネを持って訪ねて来るシーン。なごめる。
◆たどりついたバーでビールを頼む。うまそうに飲むのを見て、老バーテンが、「どこから来たの?」と問う。「アイダホから」とストレイトが応えると、「じゃあ、のどがわいているにちがいないな」(You must be thirsty)。
◆ひとつひとつのシーンに美学があるのは、リンチの映画。ファーンズワースとシシー・スペイセクが雷をともなった夕立を見ているシーン;ホースのノズルから放射されている水の向こう側を子供が青いボールを持って歩いて行くシーン・・・。そういえば、もっと後の方で、旅に出たファーンズワースが、坂でトラクターのブレーキがきかなくなり突っ込んだところが、防災訓練の現場であるというシーンも、非常に意識的な設定だ。
◆ストレイトは、どこかで心境の変化があったからこそこの旅を敢行する(避けてきた兄に会うということはむろんのこと)のだが、この旅は目的成就の旅であって、それを通じて自分が変わるための旅ではない。旅以前と旅以後の自分がどう変わったのかについては、リンチは、関心を示さない。
(丸の内ピカデリー2)



1999-12-14_1

●ターザン(Tarzan/1999/Kevin Lima & Chris Buck)(ケビン・リマ & クリス・バック)

◆冒頭、嵐で難破した船を必死で脱出する父母子という設定からもわかるように、家族管理教育映画である。島に逃げ、そこに平和な家を建てるが、両親は虎に襲われて・・(ここは暗示されるのも)。その直後の家へ、ゴリラの母親がたまたままぎれ込み、隠れていた幼きターザンを見つけるという設定。
◆ゴリラの夫は、異質な子供を家族にするのを拒むが、次第に折れる。アメリカにおける養子の歴史的変化の学習。
◆異分子をどう迎え入れるかという教科書、よそ者が、どう生きて行ったらいいのかという教科書・・・ハリウッド教育。
◆アメリカ人の、家父長制へのノスタルジアのようなものを感じさせる。ゴリラは家父長制なのかどうか知らないが、ここではそう描かれている。
◆ターザンが見る始めての女性であり、人間となるジェーン・ポーター(声:ミニー・ドライバー)の目は、日本のアニメのそれにそっくり。幼少時代のターザンも、テレビ・アニメ(「アルプスの少女ハイジ」のような)そっくり。ポータ教授は、「鉄腕アトム」のヒゲオヤジ。
◆フィル・コリンズのかん高い声(彼としてもかなり無理したらしい)の歌は、疲れる。非常に教化的な映画だと思うのは、この歌の使い方。非常に介入的。絵で見せて、確認する。しつこい。
◆グレン・ローズが声をつけていることもあるが、ゴリラの母が代表する「母的なもの」が強くアッピールされている。いま、アメリカで「母的なもの」をアッピールするのは難しいので、こういうズラしをうまく使っているかのよう。「どこにいても母は母」。
◆作者が力を入れたらしいシーンの一つに、ターザンが初めて人間(ジェーン)に出会ったとき、手を合わせてみる。これは、確認や同一化というものの本質をついているかもしれない。手でなぞってみること、なでること・・・。
(ブエナビスタ試写室)



1999-12-08

●ストーリ・オブ・ラブ(The Story of US/1999/Rob Reiner)(ロブ・ライナー)

◆"US"に意味をもたせており、最初のシーンで、"U"と"S"の文字を強調して出す。
◆ブルース・ウィリスとミッシェル・ファイファーとがインタヴューに応えるときのような音調で話す。これまでのウィリスは力ずくの男ばかり演じてきたが、ここではちがう。ウィリスがしゃべるとき、背後に本がびっしり並んだ書架が見える。インテリという設定。こんなのもできるのか。『シクス・センス』でもやったし。最近のウィリスはいい。
◆ただ、後半で明らかになるが、東欧から移民してきた祖母の話を小説にしたいという話を友人のエイジェントのところに持ち込むことからわかるように、彼はユダヤ系と言う設定なのだ。しかし、ウィリスにユダヤ系は無理。
◆会話のスタイル(ゲーム的な会話)、フラッシュバックの入れ方、フロイト的な精神分析への揶揄(「ベット2人には6人――それぞれの両親――いる」とかつて分析医が言ったという話から、直、その映像になる・・)は、非常にウディ・アレンに似ている。が、アレンの゚ュ脱さとユーモアはない。
◆ロブ・ライナー自身が演じる友人スタンともう一人、エイジェントの友達がいて、彼は、インターネットセックスをやっていると言う。
◆「足の付け根は存在しない。ケツは存在しない。足の一部だ」(スタンの話)

◆別居し、電話で話すうちによりがもどるかに見えるプロセスの描写はうまい。
◆しかし、「女のヴァギナがペニスを受け入れるのは、女が平和な気持ちをもつときだけだ」とか、別居後、食事に来ることを許されて、かつての自宅を訪れたウィリスが、うっかり自分の鍵を出して入口のドアを開けようとし、あらためてベルを押すといった仕草は、月並み。
◆大詰めで、ミッシェル・ファイファーが「大演説」をやって、2人のよりがもどるのだが、「泣きながら」しゃべるファイファーの目には、一滴も涙が見えない。何とかしろよ。
◆ハリウッドは、トレンドメイカーであるから、いまの動きと、これからどういう方向へ時代をもっていくかに大いに関心がある。この映画は、あきらかに、ハリウッドが、「離婚はもう古い」という認識を持ち始めていることをうかがわせる。
(丸の内ピカデリー1)



1999-12-07

●トゥルー・クライム(True Crime/1999/Clint Eastwood)(クリント・イーストウッド)

◆海のなかに浮かぶ建物の遠景。カメラが近づくと、それがサン・クェンティン刑務所であることがわかる。シーンが替わり、バーでイーストウッドが若い女性と話をしている。「一流の記者がこんなところで何をしているの?」「愛を探しているのさ」。女が帰り、刑務所の独房にカメラが移る。黒人の囚人ビーチャム(アイザイア・ワシントン)が過去を思い出している。妻のこと。カメラは、次にイーストウッドが勤める新聞社。ドライな編集長を演じるジェイムズ・ウッズ。ウッズもイーストウッドも歳をとったなぁ。
◆女(ゲイの男性にも)にもてるということと、「神など知ったことじゃない」と言うイーストウッド。これは、彼の映画に共通。そして、妻の失望を買って別居(「女がおれを誘惑する・・・おれは誘惑に弱いんだ」)。しかし、この種のパターンは、いまのアメリカでは古くなったきた。離婚しないことが、トレンディになりはじめている(→『ストーリー・オブ・ラブ』)。
◆政府であれ、会社であれ、組織的なものへの反発は,この映画でも基調としてある。が、この作品では特に、そういう組織のなかにも、その限界を意識しながらそれに従っている「良心派」とどうしようもない「官僚派」とがいるという面が強調されている。それは、刑務所所長と宣教師との対比のなかでうきぼりになる。いまひどいのは、政府機関の役人よりも、「神」の名のもとに「信仰」を強制しようとする「聖職者」たちだと。所長の、囚人、所員たちとの関係は「温かい」。最初の方で、彼は、ビーチャムに、処刑のことを説明し、「遺体(remain)は奥さんが引き取るのか?」
◆題材と設定はいいが、終わりの部分で、処刑の時間が迫るなかでのやりとりは、あえてスリルを生み出そうとして設定した感じがする。死刑囚は3種類の薬物で昏睡→全身麻痺→呼吸筋肉の停止というプロセスをたどって毒殺されることになっているが、このうちの2つのプロセスまで進んだあとで生き返るという設定は、論理的には問題ない(劇中にその詳しい説明が出てくるのは、そのためのアリバイ工作)としても、ちょっと無理な感じが残る。
◆処刑室にある電話、処刑の装置など、みなドラマ的効果をねらった意図的な見せ方をするが、イーストウッドが新聞社で使うパソコンのインターネット・アクセスは、モデムによるダイアルアップなのだ。普通、新聞社ともなれば、みな専用線を使っているはずだ。とすれば、これは、何の効果をねらったのだろうか?
◆抑えた形でジャズをうまく使う。"Little Drummer Boy"、"Why should I care?"クロージング・シーンのジャズは、"Was there something wrong?"
(ワーナー試写室)



1999-12-06

●フォーエバー・フィーバー(Forever Fever/1998Glen Goei)(グレン・ゴーイ)

◆20年まえにフラッシュバックした1979年のシンガポールを舞台にしているが、厳密な意味での1979年よりも、むしろ現代のシンガポールをひしひしと感じさせる。当時のシンガポールは、もっと「前近代]的なものがあちこちに残っていたが、映画で見える風景には、そのようなものは見えない。
◆あえて70年代的なものを見出すとすれば、終始主人公ホック(エイドリアン・パン)をいじめる金持ちの息子リチャード(ピエール・プン)との階級的な落差か? 階級差の存在は、日本などより歴然としている。それは、まず、建物の厳かさ(その一方にスラム的なものもある)が物語っている。
◆ダンスコンテストのパートナーとなるアナベル・フランシスは、いかにも超金持ちの娘然としている。気取っているわけではなくて、余裕がある。
◆ホックと友人たちとの関係は、非常にアジア的。
◆冒頭、英語のラジオの音が聞える。「WKRN・・・ロサンゼルス・・」という英語も。基本的にこの映画は、「サタデーナイト・フィーバー」のまがいのような映画を主人公が見たことが基本になっているが、アメリカの影響というのは、いかんともしがたいものなのか?
◆ホックの妹は、A Touch of Loveという英語の本に入れ込んでいる。
◆でも、この映画のなかの「アメリカ」は、ブルース・リー的な「アメリカ」かもしれない。ホックは、リーの台詞 "Don't think. Feel"にほれこんでいる。
◆しかし、家では父親はアジア的であり、食事も中国流である。だが、そのアジア性が、家庭でも始終揺らいでいる。食事の席で喧嘩になって、すぐ席を立つホック。秀才だというので父親がもっぱら期待していた弟は、突然「女性」になることを宣言し、父親にショックを与える。弟は自殺をはかり、命をとりとめる。ホックは、コンテストで獲得した賞金(バイクを買うのが念願だった)を性転換手術のためにあたえる。
◆ホックが、ブルース・リーの映画を見るつもりで行ったら、そうではなくて、偶然見てしまった「サタデーナイト・フィーバー」のまがいの映画の主役が、何度か見に行くうちに、スクリーンのなかから出てくるとう設定は、ウディ・アレンのもの。そういえば、この映画は、アレンが演出した『ボギー 俺も男だ!』(ハーバート・ロス)と、アレンの『カイロの紫のバラ』の影響が濃厚だ。
◆どの国でも起きてる「家庭の崩壊/変容」は、ここでは、いつも食事の時間に遅れるホックからはじまって、「女になる」ことを宣言する弟でピークに達するが、こうした変容も、むしろ90年代になってからの方が激しいのではないか? だからこそ、この映画がいま当るのだ。
◆80年代にシンガポールにも「ヤッピー」が登場し、シンガポール版ヤッピー読本も出たが、ジェントリフィケーションやヤッピーがこの映画での格好は、
◆おどけながらでしか真面目なことを言えないというスタイルは、香港映画でも、そして日本文化の前半にある。ある種のマジメへの照れというか潜在的批判。
(ヘラルド試写室)



1999-12-03

●ランダム・ハーツ(Random Hearts/1999/Sydney Pollack)(シドニー・ポラック)

◆冒頭のシーンは、思わせぶり。テーブル、ワインのボトル、離れたところのベット、留守電・・・。この留守電のメッセージが、やがて重要な意味を持つ。
◆何も問題なく「円満」に行っているように見える2組の夫婦。が、一方の妻と他方の夫とが不倫をしていた。「出張」で出かけた女と男は、空港のカウンターで待ち合わせ、飛行機でマイアミへ。が、その飛行機が墜落し、2人の関係が明らかになっていく。冒頭、2組の夫婦を交互に無関係のものとして映し、空港での待ち合わせも、ただ2人がカウンターの前で並んでいるというだけにとどめている。ここではっと気づく観客もいれば、気づかない者もいるだろう。この演出は悪くない。音楽はジャズ。
◆こういう状況に置かれたとき、残された男(フォード)と女(クリスティン・スコット・トーマス)はどうするか? これは、単にこのような特殊な状況の下での男女の問題にとどまらない。夫婦であるとはどういうことなのか、結婚生活とは何なのか、配偶者を信じるということはどういうことなのか、といった問いを付きつけている。
◆その際、信じることの虚しさのような一面的な結論づけをするのではなく、そういう状況に直面して、信じ合うということを軸にするのではない関係が示唆されているように見えるところがこの映画の奥行きではないか?
◆トーマスは、下院議員。選挙キャンペーンが始まろうとしている。フォードは、警察内の腐敗を追いつづけている内務調査室の巡査部長。一方は、「真実」よりも、社会的効果を意識すし、他方は、「真実」にこだわる。
◆ハリウッド映画の「ラブシーン」ほどワンパターンなものはない。変化があるとしても、ポルノ映画的な「露出度」をめぐる差異にすぎない。だが、この映画では、非常にユニークな「ラブシーン」がある。それは、妻の「真実」を追究してつきまとうフォードと、ナーヴァスになっているトーマスとが、ぎくしゃくした関係のなかで、次第に「どうでもよくはなかった」夫の真実を知るにつれ、心の孤独を感じていったトーマスとフォードが、車のなかでいきなり激しく抱き合うシーン。ここで、セックスしてしまえばつまらないことになるが、すぐに2人は自分たちのやったことに気づきたがいに身をもぎはなす――のがいい。
◆クリスティン・S・トーマスは、すばらしい演技をしているが、演じる女性は、どこかヒラリー・クリントンを思わせる。ヒラリーのスタイルは、女性政治家のパターンなのだろうか? それとも、この映画は、そういう類似効果をねらっているのだろうか?しかし、彼女が、フォードの山小屋を訪ねるシーンで、「普通」の女の顔になる。
◆ハリソン・フォードは、この映画ほど終始気難しい、笑いのない顔をしていることはない。
飛行機事故後のオペレーション・ルームのシーンで、日本語が聞こえた。何か事故に対する苦情をヒステリックに言っている。
◆エンドクレジットに、"In Memory of Christopher Ford"とあったが、この人は誰?
(ソニー試写室)



リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)   メール: tetsuo@cinemanote.jp    シネマノート