粉川哲夫の【シネマノート】
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●オーディッション (Auditon/1999/Taksshi Mitsuike)(三池崇史)

◆親子(石橋凌と沢木哲)で飯を食うシーンが、皿のなかのものを食べ終わったシーン(同じテーブルの親父はウィスキーを飲んでいる)から映すというように、ディテールを省略した撮り方である。これは、家族生活を描くことには興味がないのだということを暗示するが、同時に、ディテールで勝負する作品ではないということでもある。
◆結局、これは、ホラーである。たぶん、村上龍は、家庭に安住している人間(うまくいっている親子)への憎悪のようなもを出しているのだろうが、映画では成功していない。
◆椎名がオーガナイズされた道具(ステンレスワイヤーと鍼)で石橋をさいなんでいくのは、「いかにも」のサド。
◆石橋蓮司がいるダンス教室のたたづまいはなかなかいいが、石橋の役はただのマゾ。
◆オーディッションに応募したある女性(椎名英姫)の履歴書に、1965年生まれと書いてあるのがちらりと見える。歳は24歳でという。とすると、この映画の時代設定は1965+24=1989年ということになる。しかし、映画の風物は、90年代のもの。おかしいんじゃない?
◆椎名は、90年代以後の女性らしく、「シバタ」を「スバタ」との中間音で発音する。要するに1965年生まれの感じはしないのだ。
(2000-02-02、シネカノン)



2000-01-31_1

●ダブル・ジョパルディ (Double Jeopardy/1999/Bruce Beresford)(ブルース・ベレスフォード)

◆卑劣な役柄のブルース・グリーヌッドがなかなかいい。まだ「幸せそう」(夫の方は実は借金だらけ)なきらびやかなパーティ(ファンド・ライジング・パーティ/金集めのパーティ)で、知り合いがうっかりトマトsースを服にこぼしたのをちゃんと見ていて、スピーチで「ジョーク」に使う抜け目なさ。まあ、要するにイヤな奴だ。
◆アシュレイ・ジャッドは、そういう奴を信じきっているウブな女として登場し、あyがて、それを脱皮し、根性を見せる。
◆女性刑務所で出会った南イタリア系の顔をした女(ローマ・マフィア)の存在感。
◆普通のハイスピード撮影とは一味違う感じの――言うなれば「デジタル・スロー」な――スローモーションが面白い。これは、やっと探し当てた女友達(アナベス・ギッシュ)のところに電話したとき、預けた子供が「パパ」という言葉を発し、夫生きており、しかも信用していたその友達といっしょに住んでいることに気づいた直後に出てくる。
◆保護観察官(トミー・リー・ジョーンズ)の目を逃れて、息子探しをするジャド。それを生真面目に追いかけるジョーンズ。フェリーの上で、つかまり、車のドアノブに手錠で拘束されるが、車を動かして、海中に墜落。ジョーンズが海中に飛び込み手錠の鍵を外す。九死に一生を得たという感じで水面に浮上する。こういう月並みなシーンは無かった方がよかった。
◆カンディンスキーの絵が手がかりになって夫を捕まえるジャド。反逆する夫。この辺は、スリラー的。
◆もっと、別の展開も出来たのではないかと思わせる作品。
(UIP)



2000-01-30

●ワールド・イズ・ノット・イナフ (The World is not Enough/1999/Michael Apted)(マイケル・アプテッド)

◆イマジカの早朝試写を逃し(というより、イマジカは好きではないので敬遠しているうちに流感にかかってしまった)、最終試写も、『グリーン・マイル』と重なり、先行オールナイトで見ることになった。1:50AMからの回だったので、混んでいなくて、よい環境で見ることができた。家族連れで来て、子供も奥さんもバラバラの席に座るので、嘆いている夫がいた。面白い。
◆ピアース・ブロスナンのボンド、007式地政学、いずれも水準をいっている。だが、敵役(ロバート・カーライル)のアウラが不足。石油王の娘ソフィー・マルソーも、裏のある役であるにもかかわらず、屈折に乏しい。M役のジュディ・デンチは、ただ仏頂面をしているだけ。
◆タイトルが出るまでの約10分間に新型水上艇によるチェイス、追い詰めた敵(アラブ系の女)が気球で逃げ、それが爆発するというドラマ度の高いシーンを惜しげもなく展開するいさぎよさはいい。ところかまわず乗り物を乗り入れ、一般人が右往左往するというパターンは、あいかわらず。こういうパターンは、いつから始まったのか?
◆最初のクレジットタイトルのどろっとした感じのCGIは、ひとむかし前のSGIが得意とするメルティングとモーフィングに似ている。
◆ビルバオ(スペイン)→ロンドン→アゼルバイジャン→カザフスタン→ストックホルム→イスタンブール(トルコ)と場所を移動するが、石油の国際利権の地政学をおさえたような雰囲気を作っているのは、007シリーズの伝統にのっとっている。
◆もう、映画のなかでの爆発は時代遅れだと思うが、例によって、爆発シーンがメインになっている。爆発のためにプロットを設定し、シーンを展開する。主役は爆発である。
◆黒海で原子力潜水艦の事故を起こさせ、それによって石油のパイプラインの経路を変えさせようという野望。ソ連終焉以後の東欧で、プルトニュームの流失、ロシアマフィアの暗躍、元KGBの分化と独走・・・といった「らしき」感じをかき集めている。
◆ソフィー・マルソーが、父の政策を否定し、住民支持であるかのごとき政策変更(歴史的な場所での石油採掘の中止)をし、住民とその運動に取り入るシーン。
◆感覚を失っているカーラールが、平気で(非情な表情で)熱いものをつかんだりするが、一考に「怖い」感じはない。
◆ボンドが首をギリギリ締められていく装置に取り付けられるが、このシーンも全然スリルがない。
◆感覚を失ったカーライルと、多感な若い女ソフィ・マルソーとの悲しい(キスをしても感覚がないのだから)愛を描きたかったのだろうが、あまり成功していない。こういうトーンは007向きではない。
(新宿文化)



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●アンナと王様 (Anna and the King/1999/Andy Tennant)(アンディ・テナント)

◆ジョディ・フォスターの抜群の演技力。ポストコロニアル的批判であろうが、西欧のオリエンタリズムであろうが、何があるとしても、この映画のメロドラマ的完成度は高い。
◆一応、アジアへ(必ずしもタイへではない)気を使って作られているので、タイでも、『王様と私』のときのような悪評は取らないだろう。
◆1862年のバンコックへ、アンナ・レオノーウェンズが10歳の息子を連れてやってくるシーンから始る。圧倒的な人の群れ。異国へ西欧人が入るシーンとしては、特に新鮮味はない。
◆個人宅を提供するという約束に反して、宮廷内に住むようにと命じられたアンナが異議をとなえると、王が、「ものごとには時期というものがある」(Everything has its own time)と言う。
◆王家が窮地に陥ったとき、アンナの機転で、女たちを動員して花火を打ち上げ、英国群のラッパを鳴らし、あたかも英国軍が救援にかけつけたかのようなカモフラージをして、反乱軍を一掃するというシーンがある。マンガのような設定で、唯一、この映画でリアリティを欠くシーンだが、19世紀半ばのシャムならが、そういうこともありなんと思い、許容する。しかし、こういう問題は、現実にどうだったということではなく、画面内のリアリティの強度の問題である。この「非現実的」なシーンによって、(どの道夢物語だとしても)それまでのリアリティがそがれたと思うのだ。
◆敬意や畏れの入り混じった気持ちを持って接する相手に対して出てくる緊張と当惑のような感情・身ぶりを、ジョディ・フォスターは、見事に表現している。英国との関係を結ぶために初めて開いた晩餐会(アンナがそのプロデュースを依頼された)で、王からダンスの相手を指名されたときに示すアンナのとまどい表情にも、そのいうまさが現れている。
◆王家が危機に陥ったとき、「白い象が出現した」という神話的事件の偽情報を流し、反乱軍を撹乱しようとする作戦が取られる。結果的に、「白い象」はアンナだったという含みは、この話にはあるのだろうか?
◆"I Love You." の代わりに、"How can I not love you?" という言い方もあるのね。
(フォックス試写室)



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●うずまき (Uzumaki/2000/Higuchinsky)(ヒグチンスキー)

◆役者は下手(フィーファンがいいが、主役の初音映莉子がひどい)、物語も深みなく、設定もお粗末だが、不思議な魅力のある映画。それは、すっとぼけたヘタウマというか、学生映画的というか、プロの映画が避けることを平気でやっているところから来るのか?
◆驚いている表情→その感情を触発した対象、という順でカメラが動く月並みさ。
◆ナルト竹輪のうずまきから、内耳の三半規管のうずまで、うずに注目したのは、原作のユニークさだから、映画はそれを追っているだけ。
◆フィーファンを筆頭に、メイキャップが目立つ。そう意図して撮っているようには思えないが、そうともとれるところが、この映画の不思議なところ。最初、フィーファンは、化粧をする高校生なのかと思ったが、出演者のどの顔も、メイキャップの跡がくっきりと見えるので、解釈を変えた。
◆最後の方で、体がねじれてしまう現象が出てくるが、ねじれとうずとは違う。このへんもいいかげん。
◆この映画でいいのは、瞬間瞬間。フィーファンが、初音を自転車に乗せて、かなりのスピードで駐在所の前を通過するシーンとか、大杉漣が、味噌汁のなかのナルトをいくつむいくつもたいらげていくシーンとか、うずまきのコレクションを捨てられてしまった大杉が、「もう何もなくてもいい」と言いながら、自分の目をうずまき状に回す(ここでCGIの効果をうまく使っている)シーンとか、色々ある。
(東映試写室)



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●グリーンマイル (The Green Mile/1999/Frank Darabont)(フランク・ダラボン)

◆いかにも南部の黒人奴隷の伝統が残っていそうな雰囲気の畑を、男たちが銃や農耕具をもって誰かを追いかけているシーン。犬の声。画面がスローモーションになり、記憶の回想であることを暗示する。タイトルが出ると、しわだらけの目の周辺のアップ。悪夢から目覚める老人。
◆一目で老人ホームとわかる。朝食の時間。ホテルであれ、大学であれ、集団に食事を供する場の典型的な雰囲気。テーブルがあり、そこにジュースやさまざまな食べ物が並んでおり、それを自由に取る。
◆ホームの娯楽室。みんなはいっせいに見ているように見えたクイズ番組を、「くだらない」と言って切り替える老人がいて、次に出てきたのが、ジンジャー&ロジャースの『トップ・ハット』。が、それを見ていたあの老人が、「失礼」と言っ涙をこらえながら席を立つ。追いかける老婆。物語は、彼が彼女に昔を語るという形式で始る。
◆すぐに時代は1935年に飛び、その老人の若い姿を演じるトム・ハンクスの姿が見える。老人→トム・ハンクスと来ると、『プライベート・ライアン』を思い起こさせるが、この映画でも、 最初に出て来る老人は、また、特殊メイキャップでトム・ハンクスが演っているのだろうか?
◆スティーヴン・キングの作品には、ある種単純な勧善懲悪主義とともに、現実には決してありえないのだが、超能力を身につけたいという誰しもが思っている願望をくすぐる抜群のセンスがある。
◆いじめられる役としてフランス語なまりの死刑囚で、ねずみを飼いならしてしまったドラクロア(マイケル・ジェター)がおり、いじめ役に、冷酷にも(予想通りドラクロアのねずみを踏みつぶしてしまう冷酷な所員ウェットモア(ダグ・ハッチンソン)である。
◆「手当て」を通じて病の「毒素」を自分の体内に吸収することによって病を癒してしまう超能力を持ったコーフィ(マイケル・クラーク・ダンカン)が、一旦吸い込んだ「毒素」を口から一気に吐き出すシーン(口から無数のゴミとも虫とも見えるものが一斉の空中に舞い上がる)は、見事。
◆最近は、刑務所員をよく描くのが流行りなのか? イースウッドの『トゥルー・クライム』もそうだった。この映画でも、そういう感じを協調するかのように、デイヴィッド・モースをはじめとしていい役者をずらりとそろえている。
◆刑務所員のうち、唯一冷酷で浮き上がっているのが、ダグ・ハッチンソン演じるウェットモアである。
◆トム・ハンクスの「尿路感染症」は、この映画に鍵になってはいるが、それに苦しむハンクスの演技がちょっとわざとらしい。それにしても、なぜこんな病気にかかったのだろうか?
◆WEIRDという雑誌を読んでいる死刑囚。
◆コーフィーが、処刑前の最後の望みを訊かれて(食べ物はミートローフ、マッシュポテトとポールの妻が作ったサヤのつけ合わせ、グレヴィー・ソースをたっぷり――この辺泣ける)、「自分は映画をみたことがないので・・・」と言い、映画をトム・ハンクスを含む数名の所員といっしょに見るシーン。映写機から放射される光が、この黒人の大きな体をシルエットにする。そ してこのとき上映されたのが、『トップ・ハット』なのであった。こういうシーンは、物語の哀れさよりも、映画的記憶を強く刺激することによって、涙を誘う。古い映画を見るということは、死んでしまった愛する人に再会するのに似たところがあるので。
◆コーフィーの無実であることを知りながら、処刑を執行せざるをえない刑務所員たちの諦めと苦悩。
◆物語を語り終えた老人が、述懐するのは、「死ねない」ことの呪いである。彼は、あのコフィーを脱走させることも出来たろうと考える。が、それをしなかった。その呪いであるかのように、彼の体は超能力を吹き込まれ、普通の老人のようには死ねない。生を見据えていかなければならない業。これは、未来の人間の業でもある。そんな側面をも意識したキングの脚本は、この映画に深みを与えている。
(日本劇場)



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●オール・アバウト・マイ・マザー (All About My Mother/1999/Pedro Almodovar)(ペドロ・アルモドバル)

◆屈折といい、日本では絶対に作れない奥行きがある。臓器移植、ゲイ、シングルマザー、エイズ、ドラッグ、老人問題・・・・は、ジャーナリスティックな出しかただが、それに終わっていない。生の皮肉、死の身近さ、それにもかかわらず生きるとは・・・
◆ゲイのキャラクター(特にアントニア・サンファン)がみな非常にいい。
◆役者がみんな、ひとくせある。セリア・ロス(マヌエラ)は、どこかで見ている(思い出せないが、強烈な印象をもった女優だった)。女優を演じるマリサ・パレデスは、『ライフ・イズ・ビューティフル』で見ている。ペネロペ・クルスは、『ハイロー・カントリー』で見た。アルツハイマー症の父親役の役者も、名優の一人。
◆『イヴのすべて』と『欲望という名の電車』が「引用」的に使われているが、洗練されているとは言い難い。むしろ、少しダサい感じ。つまりかなり表面的な「引用」なのだ。特に『イヴのすべて』は、本人がヤク中で出演できないので、たまたま(もと演劇をやっていた)セシリア・ロスが代役で出て、熱烈な反響を受けるとかいう程度のことにすぎない。
◆構造的に、演技ということがこの映画の核になっている。移植コーディネータのマヌエラ(元女優もやっていて、ボリス・ヴィアンの芝居を演った)が、移植についての教育映画で、息子を失った母の役を演じる。「実際に」息子を失う。『欲望という名の電車』のステラの役をひょんなことから演じる。マヌエラの元夫であったゲイのロラ=エステバンは、女装し、女性を演じている。マヌエラの友人のアグラードも、プラスティック・サージェリーをして胸をふくらませ、女装している。マヌエラが介護するシスター・ロサ(ソーシャル・ワーカーだったが、ロラと関係をもち、妊娠し、エイズにかかる)の父は、アルツハイマー症で、いつも「自分」ではない。母親は、事実を認めないことによって、世間を「演じている」。
◆息子の誕生日にトルーマン・カポーテの『カメレオンの音楽』を与える母マヌエラ。
◆この映画でも、深刻なシーンには雨が降る。息子が車にはねられた夜もどしゃ降りであった。
◆最後の方で、シスター・ロサの葬儀のシーンで、ものかげから忽然と現れる女装の男。これが、ロラ=エステバンが初めて姿を現わすシーンだが、なかなかアウラがある。顔を見せるのは、マヌエラと喫茶店のようなところで会うシーン。
(ギャガ試写室)



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●真夏の夜の夢 (A Midsummer Nights Dream/1998/Michael Hoffman)(マイケル・ホフマン)

◆久しぶりに愚作を見た。舞台でなら、「妖精」のかっこうもいいが、入念なメイクでやられると(しかも芝居の中の話としてではなく、あたかも「妖精」たちの世界があり、それにわれわれが立ち合っているかのごとき設定で)、耐え難い。
◆最初のトスカナ地方らしい、パーティのために、集団で大量の料理を作っているシーンはよかった。
◆ミッシェル・ファイファーは、シェイクスピアには向かない。
◆シェイクスピアの演劇の基底には、結婚と財産・資本の継承の問題、愛が仕掛けられるものであるという認識論がある。『真夏の夜の夢』では、「妖精」は、善意の外皮をまとった資本である。資本の戯れとパラドックス(ボタンのかけ違い)のドラマ。この辺の政治経済学的認識がミケル・ホフマンの演出には全くない。
◆メンデルスゾーンの『(真)夏の夜の夢』を使っていたが、こういうところも安易。
(フォックス試写室)



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●ロルカ、暗殺の丘 (Death in Granada/1996/Marcos Zurinaga)(マルコス・スリナガ)

◆ロルカとは無関係の、ロルカを利用した政治スリリラー。
◆どこがロルカと関係あるのか? ロルカ(アンディ・ガルシア)の詩の朗読、1934年のマドリッドでの舞台演出(表現主義的なカラフルなデザイン)

◆基本的に、なぜロルカが危険視されたのか、また、なぜ彼の死の秘密を探ろうとするリカルド(イーサイ・モラレス)を危険視するのかが、あまりコンヴィンシングではない。むろん、「共産主義者」であるとか、あのロルカだとか、映画外の前提を使えば説明にはなる。しかし、映画はそれをその場で経験させなければならない。
◆息子の身を案じた父親が手を回したのか、グラナダへおもむいたリカルドにつきまとうタクシーの運転手がおり、彼が危険に陥ると助けに来る。こういう設定自体がダメだし、その役をジャンカルロ・ジャンニーニが演っているのだが、彼のような大物がこういう役をやると、目立ってしかたがない。
◆マルセラ・ウォラーステインとモラレスとのラブシーンは、なかなか扇情的。
◆「藪の中」のような作りだが、次第に事実を追っていくと、ロルカの銃殺に自分の父親も一枚かんでいたらしいことがわかる。
◆最後に「ラウル・ジュリアに捧げる」という文字。これは、誰?
(シャンテ・シネ)



2000-01-26_1

●遠い空の向こうに (October Sky/1999/Joe Sohnston)(ジョー・ジョンストン)

◆アメリカの典型的な「教育」映画だが、新しいことにほとんど無前提なところからチャレンジして、成功するという話は、悪くない。
◆Based on a true storyという文字が出る。
◆みな50年代の雰囲気をよく出している。夫と妻、父と子の関係は、絵に書いたように古い。夫は、家事はせず、息子に対しては、模範であることが要求され、多くの場合、そうであるというようなパターン。が、映画では、元優秀な炭坑夫だったが、いまは酒で身をもちくずしている父親の姿もちらりと出て来る。
◆こういう映画を見ると、やはりアメリカだなと思う。親からは色々規制されるが、人里離れた場所があるということと、そこで火薬を使ったロケット発射の実験をやることがゆるされたということは、日本では考えられない。まず、近所の住人が騒ぎ出す。
◆アイデアが次々と生まれ、それを助ける人が出てきてさらに先に進み、そそて、それに手を差し延べる組織と出会う――わたしもこういう経験を体験しているので、その愉快さはよくわかる。若者が一番、生きがいを感じる瞬間だ。
◆産業エネルギーが、石炭からガソリン、電気へ移行するまさに転換期を経験している場所ウェスト・ヴァージニア州の町コールウッド。そこで、次の産業のエネルギー基盤となるロケット技術が花開く。その推進力は、ソ連のスプートニクを越えたいとか、一発当ててやりたいとかいうような野望ではなく、空にロケットを飛ばしたいという若者たちの夢(アメリカン・ドリーム)だった。こうしたパターンは、アップルを起こしたスティーヴ・ジョブズにも、ジオメトリー・エンジンを開発したジム・クラークにも、またストリーミング技術を一般に使用可能にしたロブ・グレイザーにも共通している。しかし、新しいことの発見と実現ということは、別にアマリカン・ドリームにかぎらず、どれも同じような情熱に支えられていると思う。ただ、そういう努力への社会の報い方が、アメリカは優れていると言わざるをえないということだ。
◆ホーマー・ヒッカム(ジェイク・ギレンホール)が、「こんな死にかけた町へは二度と戻らない」と叫ぶシーンがあるが、これは、このような町に閉じ込められた者の実感だと思う。「故郷」がいいなどとは、故郷を離れて成功した者だけが言える言葉である。
(UIP試写室)



2000-01-20

●Bullet Bullet バレット・バレー (Bullet Bullet/1998/Shinya Tsukamoto)(塚本晋也)

◆モノクロの速い映像の快感はある。だが、塚本のナルシシズムとマゾヒズムに1時間以上つきあうのは苦痛。
◆またしても携帯電話。もっとも、この作品は、1998年の作を手直ししたものだとのことなので、素の意味では、携帯もまだ新鮮味があったのかもしれない。
◆台詞がダメ。みな、他人事のようにしゃべる。入れ込み方が薄い。それがねらいだとは思えない。
◆若者に対する潜在的恐怖がある。
◆いいのは、ピストル自殺した恋人(鈴木京香の台詞なしの出演)
の謎を探るべく、無差別にやくざや不良外人にピストルを売ってくれと頼み込むあたり。
◆ネットやチャットで情報を集め、ピストルを自作するプロセスも悪くない。設計図を引いて町工場に持って行くのだが、その図面は一見ピストルとは無関係。だが、シリンダーの部分はピストルそのもの。ただし、これが実際の使用では相手にかすり傷を負わせる程度の力しか持たないというのは、塚本のマゾ志向か?
◆映画が「らしさ」をえがかなくてもいいが、この映画で塚本自身が演っている中年男は、どちらかというと、孤独にヘンタイをやっているようなタイプ(その点で、独力でピストルを作るのは合っている)で、こういうのと、真野きりなが演じる街っ子とのあいだには、ほとんど接点はなく、こういう女に出会えば、いじめつくされるのがおちのような気がする。
◆どの映画にも共通していることだが、やくざや暴力集団を、限りなく開かれた関係のなかで描いているものは少ない。そのくせ、やっていることは薬やピストルの売買といった「国際的』規模の事業なのだから、おかしいい。暗い闇の部分を残した形で、前面には数人しか出さないような描き方の方が効果が出る。
(メディアボックス)



2000-01-12_2

●シビル・アクション (A Civil Action/1998/Steven Zaillian)(スティーブン・ザイリアン)

◆最初の方でアムトラックの音が聞える。アメリカの田舎の雰囲気。ニューヨークのパトカーのサイレンのような効果。
◆イントロでジョン・トラボルタ演じる弁護士のドライなやり口をパッパパと紹介する。
◆金儲けにならないことは一切引き受けないはずのこのヤッピー弁護士(ジョン・トラボルタ)が、宣伝のためにやっているラジオのトークショウにかかってきた電話がきっかけで、工場廃水が原因で子供が死んだ現場を訪ねる。遺族たちに会った感触は否定的だったが、帰り道、問題の川を見ているうちに、「こいつはいけそうだ」と直感する。その直感は、もうかるというものだったが、その後の展開は、そうではなかった。しかし、彼は、会社側が差し向けた老獪な弁護士(ロバート・デュバル)と接するうちに、商売抜きでこの訴訟にのめり込んでいく。
◆デュバルのキャラクターが不可解。超越的であるようで、機能主義(裁判は勝てばいい、「真実なんか探してもむだだ」)的なことも言う。普段は、資料のびっしり詰まった書庫ですごしている。ボールを壁に投げるのが趣味。古びがかばんを愛用。
◆この映画、キャサリン・クラインにしても、その役のキャラクターだけではないという雰囲気で登場する。トラボルタにしても、ただのヤッピーではないし、といって、アクティヴィスト・タイプの弁護士に変身したわけでもない。煮え切らないといえばそうなのだが、このあたりの描き方は独特。
◆まあ、みどころは、トラボルタが住民と接するうちに、ぽつりぽつり真相を語り出すプロセスだろうか?
(UIP)



2000-01-12_1

●アメリカン・ヒストリーX (American History X/1998/Tony Kaye)(トニー・ケイ)

◆冒頭、女のあえぎ声。エドワート・ノートンが(たぶん)フェルザ・バルクとセックスをしていて、自室で起きていた弟(エドワード・ファーロング)が、侵入者の物音に気づき、兄を起こす。
◆過去を示すモノクロ(やや緑がかった)映像がフラッシュバックで映されるが、それが比較的長い。そのため、ダレた印象を与える。
◆必ずしも単純な時系列でフラッシュバックするのではないが、ノートンが殺人を犯して刑務所に入るまでの出来事は生き生きしている。だが、刑務所で、ひとつにはひょうきんな黒人に感化され、そして、刑務所の抑圧的な環境に驚き、考えを変えていくプロセスは、性急であり、説得力に欠ける。刑務所の抑圧的な生活の描き方もステレオタイプ的である。ノートンは、トイレで白人のグループに強姦されるのだが、まるでそういうことを描くために設定したようなシーンに見える。
◆刑務所に入ると、彼に好意的な黒人が、「刑務所では黒人がえらいんだ」と言うのが印象的。そういう環境で、シャツを脱ぐと、胸に大きなハーケンクロイツのイレズミが見える。まわりの黒人が、こいつ何だという顔で見、あきらかに警戒するシーンが面白い。ネオナチは、白人至上主義であることがはっきりしているわけだから、当然の反応であり、いかにもアリガチなシーンだが、非情に映画的にうまく撮れているシーンだった。
◆ネオナチのシンパで、ノートンの愛人だった女ステイシーを演じるフェルザ・バルクは、その狂信的で偏狭なキャラクターを巧みに表現している。
◆消防士の父が消化活動中に黒人に撃たれて死んだという過去が、ノートン一家の人種差別をエスカレートさせ、ネオナチに同化させ、兄を崇拝する弟ダニー(エドワード・ファーロング)を巻き込んでいくという設定。次第にわかることは、すでに父親に人種差別的傾向があったということで、この映画、家族環境の重要さを示唆しているのだが、それほど突っ込みがあるわけでもない。
◆この映画の重要な線の一本として弟の存在がある。彼は兄の影響でネオナチに深入りし、悲劇的な結末を迎えるのだが、この結末も事故という感じが強くて、説得力がない。もっと狂信的にのめり込み、自分から招いたような悲劇にした方がよかったのではないか?
◆久しぶりにエリオット・グールドの姿を観た。わたしには、『ロング・グッドバイ』(1973年)の印象が強いので、老いた彼を見るのは、淋しい感じがする。しかも、この映画では、母親に好意を寄せ、またノートン兄弟に同情する善意のユダヤ人として登場するが、食事中、ノートンの差別的な態度によって、すごすごとこの家を去っていく哀れな役。
(ヘラルド)



2000-01-11

●九ノ一金融道 (Kunoichi-kinyudo/2000/Shunichi Kajima)(梶間俊一)

◆最低の中ぐらいの出来。
◆冒頭、アスファルトが映り、それからハイヒールの足元、逃げる靴音(アスファルトにしては固すぎる音)、ふり返る恐怖の表情、走る、追う影は女。突然前方にヤクザっぽい男たちが現れ、女は立ちすくむ。このイントロ部分はそれほど悪くなかったが、追いついて来た女(清水美砂)がしゃべり出すところからダメになる。清水は決してダメな役者ではないのに、残念である。
◆タンゴ調の音楽が全く合わない。軽快なコメディを目指したのだろうが、切れ味が悪いので、しゃれにならない。もっとドキっとするような側面がなければダメ。
◆話とテーマは非常に今風なのに、登場する世界がどれも小さくまとまり、それらだけですべてを済ませようとしているために、全体がおとぎ話になってしまった。
◆「九ノ一金融」が、清水美砂を中心とする「秘書」役の斎藤洋介、転がり込んだ形の「助手」北原雅樹、借金のカタでソープ嬢になった女(小野砂織)、元夫(高杢禎彦)のチームは、これでもいい。が、対抗する悪徳金融会社が石橋蓮司の組長と、そのグルの信用金庫課長(酒井敏也)と支店長ぐらいというのはリアリティがない。零細町工場(せんだ光雄)が清水にハメられて会社を取られてらーめん屋に落ちぶれるが、そこに清水たちが集まって和気藹々とやるというのもテレビ的。
◆はんこを偽造したりして信用金庫課長をハメるようなシーンは、グループの連帯のうようなムードがよく出ていた。ダマしにダマす映画にした方がよかった。
◆石橋はどれも同じのこなれた演技、斎藤は渋い味、夏木マリがご愛敬で、役者の条件は悪くないのだが、やはり、清水にはこういう役は無理だったか?
(東映6F試写室)



2000-01-07

●リング0 バースデイ (Ring 0/1999/Toshiyuki Mizutani)(鶴田法男)

◆速い画面で個物をパッパと映すのはいい。
◆ここでも、携帯。駅の階段に座って、変な夢を見た話をしている麻生久美子。
◆シリーズのうちでは、いちばんまとまっている。しかし、まとまりの悪い前3作が当った(本当かね?)のだから、本作は当らないだろう。
◆貞子のために恋人を殺されたとして、仕事(新聞記者)にかこつけて貞子の足跡を執拗に調査していく女性(田中好子)の線、生き延びた貞子(仲間由紀恵)が入団した劇団を中心に与える影響の流れ、静岡の実家の線。
◆劇団の稽古シーンでリール式のテープレコーダーが出てくるが、時代設定は1960年代だったからいいのかな?
◆貞子の霊が暴れだし、劇場は破壊されてしまうが、そのような惨事にもかかわらず、貞子と劇団の仲間たちは、殺された演出家の死体まで乗せて車で伊豆かどこかへ逃げる。出来すぎている。
◆階段を上がっていくと、貞子の母の写真が見える。その家のあやしげな雰囲気は、ちょっと黒沢清の『CURE キュア』を思わせた。
◆前2作にくらべて映像の出来はよい(落ち着いている)が、その分、「怖さ」や今受けするビデオぽい感じはない。全体にメロっぽい傾向が強くなった(演出家との「恋」や「父親」が貞子を殺そうとするような場面)。
(東宝8F試写室 )



2000-01-03

●ブレア・ウイッチ・プロジェクト (The Blir Witch Project/1999/Daniel Myrick, Eduardo Sanchez)(ダニエル・マイリック/エデュルド・サンチェス)

◆「魔女」探しに森に入った3人の男女が謎の失踪を遂げるという設定の是非・「真実」はどうでもいい。映像は、それ自体の「真実」性で語られるべきもの。すべてが「現実」で無数の「現実」性があるという考えをしよう。
◆カメラで撮るということのメディア性をよくつかんでいる。
◆集団(といっても3人だが)が、どうのようにして極限状態に追いつめれれるかを観察した映像としても面白い。映画を見ていて感じる緊迫感・スリルは、もっぱらそういう側面から生まれた。
◆「意識」や「理性」や「良心」や「正気」は、いまやカメラのライブ映像のなかにしかないのかもしれない。だから、「冷静」に話をするには、カメラを回しながらしゃべるのがいい。カメラに映っているという意識(メディア・テクノロジーの力を借りた自己意識)のなかにわずかに残っている「自己」。
◆いま「正気」とはどこにあるのか、という問いとの関係で見るといい。『報知新聞』のこらむでは、わたしは、「正気」と書くところをまちがえて「真実」と書いてしまった。いわく、「カメラのなかにしか『真実』がない時代の子供たちのスリラー。集団心理の実験としても巧妙」。
◆映像スタイルは、別に新しくはない。キムタクのCMでも使われているスタイル。だが、これを映画館で見せてしまったところが、企画として新鮮だったのだ。
◆「公式」発表では、映像と音はすべて実名で出演している3人が取ったということになっている。が、それもどうでもいい。実のとこと、3人が撮ったものばかりではないだろう。少なくとも、音はHi*カメラの音ではない。シーンが変わっても、(Hi8のホームビデオとモノクロの16ミリカメラという構成――それらの映像が交互に使われている)音の距離間・音質は一定である。ということは、音は別取りだということ。
◆カメラを持ちながらヘザーという女性が泣き出すシーンがあるが、当然揺れてよいはずのカメラが決して揺れない。
◆映画のなかで、「なぜ撮影するんだ」という非難が男性(最初マイク、やがて穏和だったジョシュも)から向けられる。カメラの存在は、それがフィルムやビデオに記録したかどうかではなく、それが存在することにこそ意味がある。カメラがあるということだけだ(それにフィルムやヴィデオが入っていなくても)その場の雰囲気が緊張したり、また逆に華やいだりする。これは、カメラの存在そのものがわれわれの意識そのもののなかにあるからだ。
◆偏見に満ちた検事役でサム・シェッパードが出ている。ずいぶんフケているので、最初彼とわからなかった。
◆この作品については、『週刊金曜日』(1月21日・299号)に書いた。
(東劇)



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