粉川哲夫の【シネマノート】
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●プランケット&マクレーン (Plunkett and Macleane/1999/Jake Scott)(ジェイク・スコット)

◆あまりサエない最初のクレジットタイトルだったので、警戒した。ここがダメだと、大抵、いい作品ではない。実際にそれほどの作品ではなかった。ジェイク・スコットにとって最初の映画らしく、色々の要素が混在してはいる。
◆ジェイク・スコットがCMやミュージック・ビデオの出身だから言うのではないが、やはり、ミュージック・ビデオのスタイルではある。
◆イギリスの階級制の実感がないとわからないところがあるような気がする。基本的に、貴族からは奪う(奪い返す)べしであるが、もっと複雑なイギリス的階級意識の常識を前提にしている――むろん、その綾はわたしにはわからない。
◆聖職者の親を持つマクレーン(ジョニー・リー・ミラー)は、素姓として貴族とは一線を画す。薬屋をやっていたが、破産して、ロワークラス出身のブランケット(ロバート・カーライル)に出会う。二人は、どちらの階級にも属さないから、いわば〈トランス階級〉。この「脱」階級に惹かれる女(リヴ・タイラー)は貴族。彼女ももとの階級をトランスする。
◆音楽は、一見、ダサく、アンバランスな感じがする。ただ、マクレーンという「悪漢」←『乞食オペラ』の主人公マックヒース→ブレヒトの『三文オペラ』のマックという経緯を、ジェイク・スコットが意識しているらしいことを考えると、この使い方は、ある種、ブレヒトにおける「ソング」の使い方であると言えないこともない。歌の内容で説明・批判しているようなところとか、中断的に入れるやり方。
◆怪傑黒頭巾のように突如現れたカーライルが、縄をピストルで立ち切って絞首刑にあったミラーを助ける終末は、まるでアメリカ映画のとってつけたハッピーエンド。
(徳間ホール)



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●ハーモニーベイの夜明け (Instinct/1999/Jon Turneltaub)(ジョン・タートルトーブ)

◆イントロは悪くない。中盤まではなかなかいい。が、ちょっと拍子抜けする結末。これで、それまでのリアリティが薄まった。これが出来るのなら、この映画のようなドラマはおこらなかったのでは?
◆アンソニー・ホプキンスは、人類学者としてルワンダの密林に入り、ゴリラを観察するうちに、「仲間」となった人。が、ゴリラの密猟者を殺し、本国に送還される。その精神鑑定にあたるのが、キューバ・グッディング・Jr.。ホプキンスが、「文明」を呪う、60年代的なグルの雰囲気で通し、グッディングは、黒人でそういうタイプに「ありがち」の栄達主義の若い学者。こういう人って、感じがいいんだけれど、非常に「合理主義」である。インド人にも多い。それが、やがて、ホプキンズとの出会いのなかで崩れていくのだが、そういうのも「ありがち」。
◆考えてみると、この映画の登場人物は、みんな「ありがち」なタイプ。拘置された刑務所の専任精神科医は、こういう施設で、もう「変える」ということに絶望しているタイプ。看守長(ジョン・アシュトン)は、いかにもという「悪辣」な顔。そして、いつもいじめられ、小便を垂れ流している気の弱い男。まあ、こういう「ありがち」なキャラクターをちらいばめたような作品では、ドナルド・サザーランドは、しなやかな演技をする。彼は、グッディングの上司役。
◆この映画のダメなところを拡大すると――サザーランドが警察の依頼でホプキンズの鑑定者をさがしていることを知ったグッディングが、そのポストにアタックする。その際、すばやくホプキンズのことを調べてしまって、次にサザーランドと会ったときには、彼について空で言えるくらいになっているという設定。だが、彼が空で語るシーンは、明らかに、映画のなかで(観客のために)ホプキンズのことを説明するためということを兼ねている。こういう安いやり方は、もうダメなのだ。
◆グッディングの訪問を受け、タバコを吸いながら、心を静めるかのように後ろを向いたまましゃべるホプキンズの娘(モーラ・ティアニー)。が、こういうポーズは、やはり安い。両方の人物の表情を見えるようにする「ありがち」な構図だから。
◆しかし、ホプキンズの台詞のなかには、印象的なものも多い。「ファミリー」であるということは、「みんないっしょにいること」、「見守られているということの安心感」なのだという暗示。彼は、だから、刑務所の囚人を「ファミリー」とみなす。「わたしは動物になったのではない、1万年まえの人間にもどったのだ」。(グッディングを押さえつけて)「わたしは君から何を奪っているか?」と問い詰める。Gが「自由」と答えると、「違う、君のイルージョンだ」。「所有権(dominion)を放棄せよ」
◆問題は、この経験がゴリラの長老に「見守られた」彼の経験からきているのだが、その際「長老」の存在は、結局、家父長的な制度の肯定につながらないかということ。彼の言うゴリラ社会では「長老」の存在が、権威主義的・独占的な家父長制には硬直しなかったのだとすれば、それはなぜか? この問には、ホプキンズは答えていない。
◆この作品については劇場パンフレットに書く予定。
(東宝東和試写室)



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●破線のマリス (Hasen no Malice/2000/Satosi Isaka)(井坂聡)

◆始まりは、テレビのホワイトノイズ。そして、maliceの辞書的意味の説明。中村敦夫がキャスターで、民主党の鳩山が応えている。
◆原作通りなのだが、イントロが、『ブロードキャスト・ニュース』のパクリのように見えてしまうのは、マズい。
◆黒木瞳のアパートの本棚に、『テレフィシュ』は『視覚の革命』の背表紙が見える。
◆黒木は、局から10分の距離にあるマンションから自転車で通う。が、黄色い安全服(?)はなさけない。もっとイキな服装をしてもらいたい。
◆テレビ局にとって、「真実」よりも効果が最優先されるのはあたりまえである。黒木は、そういうことをあたりまえだと考え、少しも疑いを持たないテレビウーマンとして設定されている。彼女は、陣内が批判したように、テレビの世界の論理がすべてである。過失致死の殺人を犯しても、それをテレビニュースとしてどういう「結構」をつけるかをまず考える。
◆省庁がからんでいるらしい事件のトーンが重く描かれているのもかかわらず、それは途中でどこかにすっ飛んでしまう。
◆観客には、陣内が犯人ではないということがすでにわかっているのに、黒木は、執拗に陣内=犯人説を追い続け、過失致死事件に追い込まれる。
◆結局、描きたかったのは、黒木がほとんどテレビ教のマインドコントロールにかかっていて、事実をにることができないということなのだろうか? そして、そういう親にしてこの子ありで、彼女の」子は、ビデオストーカーのようなことを疑問なくやっている。
◆原作では、下北沢は、陣内が帰宅途中に飲みに立ち寄る場所だが、映画では、陣内は下北沢に住んでいることになっている。
◆この作品については、『週刊金曜日』(3/17日号)に書いた。
◆陣内の目が、同じ日に見た『トイ・ストーリー2』のウッディの目と似ていることに気づいた。
(東映第1試写室)



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●トイ・ストーリー2 (Toy Story 2/1999/John Lasseter, Ash Brannon, Lee Unkrich)(ジョン・ラセター、アッシュ・ブラノン、リー・アンクリッチ)

◆ウッディの顔、このシリーズのキャラクターの目つき、雰囲気が全く好きになれないのだが、アニメとしての、あるいは、映像ドラマとしての今回の出来は、見事というほかはない。目つきは、いまの技術を活かすためから生まれた要素もある。
◆子供が愛したおもちゃが、ある時期になると、捨てられるということへの愛惜。それを(いつか自分もそういう運命にあるという)おもちゃの恐怖と悩み、人間への不信と嫌悪としてドラマ化している。奥行きがある。
◆おもちゃの自問と確信:「おもちゃはいずれ捨てられる。おもちゃは、ミュージアムのものか、それとも子ともたちのものか? おもちゃは、子供をしあわせにしてこそおもちゃだ」。
◆おもちゃの骨董化という現象も押さえている。おかしいのは、おもちゃを骨董化する最たる人種として日本人があげられている点。ウッディは、1950年代のヴィンテージ製品として、日本の「コニシ・トイ・ミュージアム」に売られそうになる。その手引きをするのが、オタクっぽいおもちゃ屋アル・マクウィギン。
◆CGの歴史を意識した知的な引用とユーモアも随所にある。たとえば、ウッディーの腕が壊れたので、日本に高く売るつもりのおもちゃ屋は、「修理屋」を呼ぶ。すると、現れた老人は、あの――ピクサー・アニメーション・スタジオが1997年に作って評判になった"Geri's Game"の――老人なのだ。
◆ここに登場するおもちゃのメインは、アンティクになりうる時代のもの(1957年のLIFEの表紙を飾ったという設定)。これが、デジタルアニメで活き、キャラクター商品として「蘇る」という二重の人工的歴史化。なかなかしたたかな構造。
◆すこし前まで、アニメのニューウェーブは、口の動きを言葉に合わせられるようになったことだった。『トイ・ストーリー2』では、それがあたりまえになり、今度は、目つきの微妙さに移ってきた。目の「表情」の変化を表すために、(『トイ・ストーリー』でわたしが嫌悪をおぼえた)どんぐり目が有効なのである。
◆バビーガーにレビューガールをやらせたり、今様のプラスティック製ドール、兵隊おもちゃにはそれなりのドラマを与えるなど、おもちゃ史・おもちゃ百科としての面白さも網羅している。
◆ランディ・ニューマンの"You get a friend in me"という曲はいい。
(ブエナビスタ)



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●マン・オン・ザ・ムーン (Man on the Moon/1999/Milos Forman)(ミロス・フォアマン)

◆アンディ・カウフマンのやったことは、嘘、やらせ、仕掛けというよりも、70年代のアメリカのパフォーマンスへの関心のなかでとらえると面白い。ハプニング、一回性こそが、彼にとっての関心だった。同じことのくり返しを期待されて、『偉大なるギャツビー』を1冊読んでしまうパフォーマンス。
◆旧式の安いプレーヤでレコードをかけるというパフォーマンスは、いかにも70年代的。
◆アンディが、ダニー・デビートに見出されるきっかけとなるパフォーマンスは、プレスリーのものまね。デビートのオフィスには、『オー・ゴット!』のポスターがかかっている。
◆トランスセンデンタール・メディテーションへの傾倒。
◆プロレス舞台に出た最初の女性という設定で出てくるコートニー・ラブは、愛する人間としての雰囲気を非常に情感的に出せる役者だ。
◆アンディが、女性とのプロレス・パフォーマンスを始めた背景には、当時台頭しつつあったフェミニズムへの彼なりの批判と対応があった。
◆アンディは、ガンの治癒を願って、フィリピンに行く。素手で内臓を抉り出し、病を直す術師がいることを知ったからである。が、彼は、そのからくりを見てしまう。それは、逆に、パフォーマンスへの普遍性への確信だった。(わたしは、1960年代にその術師が日本のテレビに出演してその「術」を見せたのを見た)。
◆アンディは、ユダヤ系なのだろう。葬式のシーンで、父親は、ユダヤ帽をかぶっていた。
◆「ぼくは、世界を信じるなと言っているんだ」。
(日劇プラザ)



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●どら平太 (Doraheita/2000/Kon Ichikawa)(市川崑)

◆モノクロっぽいカラー。要所要所でカラーがあざやかになる。凝っている。ドラマは、どちらかというとテレビ的。
◆台詞のやりとりがモノローグ的なのは、意図的か? 少し古いという感じする。相手を見ないでしゃべる。一方が終わると、他方が続ける。さすが、役所広司はそういうスタイルを少しはずしている。相手がしゃべっているときにしゃべり出したり。
◆侍映画を見ると、いつも、ああこれじゃ、いまの日本で人と人とが電車のなかや路上や知っている空間のなかですら、シャイでぎくしゃくした応対をたがいにすることの要因がわかるような気がする。だが、これは、侍の時代がそうだったからなのか、いまの日本がそうだから、侍映画に反映するのか、はわからない。
◆役所が、戦略的に取り込んで杯をかわしてしまった石倉三郎と石橋蓮司の小悪党が、そのからくりに気づき、親分の菅原文太の前で杯を返すと、役所も、「それじゃおれも返さないわけにはいかない」と返すのだが、それを割るとき、手形でポンと真っ二つに割る。すると、菅原が、(相手が悪いと思ったにせよ)ころっと手の平を返したようになる。
◆こういうところは、西部劇でもなかったわけではないが、割り合い日本的なのではないか? 技術や小手先に弱いというか、一つ事で全体をはかってしまう。まあ、この映画は、「上位」の使い方にしても、老中たちのやり取りにしても、城の定例「会議」に出て来ないとか、現在に「日本」を暗に嘲笑しているシーンがたくさんあり、面白い。
◆浅野ゆう子はある種のアウラを出し、好演。宇崎竜童も、屈折したキャラクターをうまく出していた。なぜ歌手はみな演技がうまいのか?
◆都市を「壕外」(悪場所)と通常の場所と分けるのは、都市論的にもう古いが、この映画は、「悪場所」を否定している――では、どういう都市を好ましいと見るのか?
◆平太の度量・気質からすると、「悪場所」をつぶして「善場所」にするのではなく、「善悪」をのりこえた祝祭空間にするはずではないか? そのへん、この映画の妙に「道徳主義」的なところである。
(東宝本社)



2000-02-22

●NYPD 15分署 (The Corruptor/1999/James Foley)(ジェームズ・フォーリー)

◆チョウ・ユンファは出ているが、大作ではない。
◆冒頭、チャイナタウンがスタティックに映り、いきなりその中央の店が大爆発する。中国人社会に入った白人(マーク・ウォールバーグ)が、人種の壁を克服して「仁義」のようなものを打ち建てていく過程が見られるが、それは、チョウ・ユンファの包容力に支えられている。最初から、格がちがう感じで、『ブギー・ナイツ』で力演したウォ-バーグが痩せて見える。むろん、ドラマがそういう設定なのであって、ウォ-バーグの演技がダメというわけではない。
◆チャイナタウンでは、いつも狭いアングルで、「全体」を見せないのは、意図的?
◆中国系の役者(みな悪党役)たちは、みな悪くない。チャイナマフィアの大物、リック・ヤングのうさんくささ。007の悪党みたいな「いかにも」ではあるが。
(ヘラルド)



2000-02-21

●マグノリア (Magnolia/1999/Paul Thomas Anderson)(ポール・トーマス・アンダーソン)

◆ぐんぐんたたみかけるように期待をかりたてながら進んでいくテンポが実に新しい。愛、不信、チャレンジ、成功と失墜、そして死――人生とは? これは、まあ、「傑作」の一本と言ってよいだろう。
◆カメラを移動し、あたかも偶然映ったように見せる操作の巧みさ。
◆これは、人間の弱さの物語である。そして、それは、おびただしい数のカエルが空から突然降ってくるという珍事のまえで、うやむやになる。自然の偉大さのまえでは、人間の不幸は些細のものであると言わんばかりに。
◆アンダーソンは、この作品をある種の「ミュージカル」のつもりで作ったと言っているが、たしかに、音の使い方、アクセントの置き方は音楽的であり、ミュージカル的である。
◆マルチなキャスティングをしており、いくつもの線があるが、警官ジム(ジョン・C・ライリー)は、全体をつなぐ機能を果たす。最初に行った黒人の女の家で、その女が男を殺して隠しているのを暴く。注意分嵩と優しさ。が、あやしい人影を追って、ピストルをなくす。テレビの有名司会者の父(フィリップ・ベイカー・ホール)との「不倫」で悩み、ドラッグにのめり込むクローディア(メローラ・ウォーターズ)とのあいだにほほえましい恋がめばえる。
◆親子関係が一つの核になっている。ジェイソン・ロバーツ(妻を捨てた男、いまは富裕だが、死の床にある)とトム・クルーズ(女に持てる術の教祖)。マイケル・ボウエン(天才児の息子に寄生する親)とクイズの天才(ジェレミー・ブラックマン)。
◆ここでは、誰も自分の意志を成就しない。ロバーツは、息子に会えるが、会ってよかったかどうかはわからない。クイズの天才少年は些細なこと(本当は「些細なこと」なんてない)――番組の前に小便に行っておかなかったこと――で失敗する。警官もピストルを失う。
(ヘラルド)



2000-02-19

●タイムレスメロディ (Timeless Melody/1999/Hiroshi Okuhara)(奥原浩志)

◆頻繁に案内ももらうので見に行った。映画のと思われる音楽がかかっているのだが、なんとも耐え難い音楽だった。実験的というのではなく、要するにダメな音楽なのだ。
◆普段とは感じの違う客。映画が始ってメモを出したとき、紙の音がかすかにしたら、隣の男がキ~ッとこちらを見た。それだけ敏感な客ということ? 実験映画系? だから、今回はメモをとるのをやめる。
◆流れを中断する編集はいい。だが、音楽が全然だめ。自然音をうまくつかっているのだが、作中でピアノを弾いたり、バンド演奏をやったりするシーンがあるのだが、いくら設定が素人だとしても(一人は調律師の設定)、魅力が全然ないのだ。
◆最初、レンターカーの店で、2人の男が出会う。一人(近藤太郎)は、酒がはいっているからと言われ、さめてから契約してくれと言われる。もう一人(若松武史)は、行き先を訊かれたことにからんでいる。そのうち、横柄な調子で近藤に行き先をたずね、横浜だと近藤が答えると、「じゃあ、行き先は横浜だ」と言う。困った男。「乗っけてやるぞ」といわれ、運転させられる近藤。
◆若松は、車中、くどくどと人生論を語る。その調子は、立松和平調。が、ひとつも面白くない。そして、横浜に着くと、妻に電話して、突然態度が変わり、妻のところへ戻ると言って、去る。夫婦喧嘩していたらしいのだが、そのよくわからなさが、全然面白くもない。
◆青柳拓次と市川実日子とが演奏なかまらしい(二人が演奏を録音しようとしているシーンが冒頭にある)。青柳がアルバイトしているビリヤード場がたまり場で、二人はよくそこでごろ寝する。常連客に中年の陰のありそうな男(木場勝己)がいる。
◆何の商売をしているのかわからないが、ボートを持っていて、青柳と市川をときどき乗せてくれるらしい(楽しげなシーンがフラッシュバックで出てくる)。二人にとってあこがれの存在のようにも見える。
◆木場を見張り、近づいてくる男たちによって、木場の過去が暗示される。やばい世界にいたが、海難事故を装って、自分の戸籍を消したらしいということ。本当に事故で、それを機会に闇にもぐったのかもしれない。いずれにしても、過去があばかれる。
◆昔の仲間との出会いのなかで、自分で転んで、頭をぶっつけ、その晩、近藤たちと飲んで、翌朝死んでいることを発見される木場。そういうのもいいが、なんか面白くない。
◆こうなると、本人所有のボートで沖へ運び、近藤たちが木場を海中に返すのだろうということが容易に想像されす。その通りになり、つまらない。
◆所属先のない気分のようなものは出ているが、プロの役者をまぜるやり方をした以上、経験の少ない他の役者が、幼稚に見えてしまう。もっと、実験的にした方がよかったのではないか?
◆ただ、こういう映画が、こちらが考えたり、思い込んだりしなければ、全く輝きを示さないので、ある意味では、考えることを触発する。見終わって、何か不満が残り、神保町まで歩いてしまったが、店はほとんど閉まっていて、満たされなさが皿に倍加された。
(ぴあ試写室/半蔵門)



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●スリーピー・ホロウ (Sleepy Hollow/1999/Tim Burton)(ティム・バートン)

◆ヘラルドの試写室に30分まえにいったが、入れなくて、一般試写でみせてもらうことになった。1時間まえぐらいに行かないとダメという状況が続いたらしい。東経大の石神君は、応募して一般試写会の券を獲得したが、行ったら、入れなかったという。どうも、この映画に関しては、宣伝部の仕掛けがあるように思う。
◆冒頭、カツラをかぶり、馬車に乗ったマーチン・ランドーが出てきたので期待したら、あっさり殺されてしまった。クリストファー・リーもニューヨーク市長役で出ている。キャストの使い方は「ぜいたく」。大物に、めったにやらないようなことをチョイ役でやらせる。
◆クリストファー・ウォーケン(日本では、彼が出ていることは、公にしないということに、ヘラルド宣伝部が決めたらしい)も、劇画的な騎士の亡者を演じ、ジョニー・デップは、最初、まだ容疑者に拷問があたりあまえの18世紀末のニューヨークで「科学的」捜査の必要を唱える若い捜査官として姿を現わすが、次第にそういうことはどうでもよくなる。こういう荒唐無稽なところがこの映画の面白さ。
◆アッパー・ニューヨークの村という設定だが、ハドソン河沿いの景色、ひとけのない村のたたずまい、首なしの騎士が出没する村・・・の映像がすばらしい。「実写」とコンピュータ映像との中間をいくような人工的な色合い。全体として、ひとつの新しいジャンルを作った感じ。わたしは、これを新「擬古文」スタイルと呼びたい。
◆色々仕掛けは凝っている(たとえば、最初の方では、デップが「科学的捜査」の草分けになるのかと思わせるが、そんなくだりはどうでもよくなる)が、それをどんどん捨て去って行くいさぎよさ。
◆時代は18世紀から19世紀に移る世紀の転換点。最初と最後にマンハッタンが移る。処刑は陰惨だが、きらびやかな雰囲気のマンハッタン。なんか、この辺に、いまのマンハッタンとの類似性を感じた。郊外の方が面白いというのも、暗示的。
◆【追記】デイヴィッド・クローネンバークの『デッドゾーン』のなかで、交通事故で意識を失ったウォーケンが演じる主人公が、長い眠りから覚め(なぜか予言の超能力を得ている)、昔の恋人に再会するが、彼女はすでに人妻になっている。その再開のシーンで、ウォーケンは、かつて意識を失う直前に小学校で生徒に出した宿題が「スリーピー・ホロウ」の一節だったこと、そして、自分はいま、あの人物のようになりたいということを彼女に語る。「彼は、独身で借金もなかったから、誰も気にしなかった」。ティム・バートンは、このシーンを覚えていてウォーケンを起用したのだろうか?
(よみうりホール)



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●アメリカン・ビューティ (American Beauty/1999/Sam Mendes)(サム・メンデス)

◆「夢」でごまかさない大人の映画観客がそだっているのだろうか? アメリカでは、このところ、甘さを廃したドラマが多い。これも、その一つ。
◆視点は、すでに死んでいることが最後にわかるレスター(ケビン・スペイシー)の物語る意識。こういう手法に接すると、意識の構造のことを考える。死んでいる地点から回想という形で語るということは、どのような時間性か? ある意味での予感の拡張。
◆「最近のアメリカでは、夫婦関係も親子関係も、醒め切ってきた」というような一般論でこの映画を見るのはやめよう。
◆メディア意識も高い。いつもDVを回している隣家の息子リッキー(ウェス・ベントレー)。父親はナチに心酔しているらしい軍人(クリス・クーパー)。息子は、父親に隷属しているポーズをとりながら、ドラッグを売って金儲けしている。
◆レスターとアネット(アネッット・ベニング)の夫婦関係はさめきっている。レスターは、娘(ソーラ・バーチ)の友人アンジェラ(ミーナ・スバリー)を想いながらしばしばマスターベーションをする。このへんも、夫婦仲が冷えきっているからそうしていると考えるのは単純。この映画では、すべての人間がポスト・マスメディア的状況にいる。肉の関係よりも情報と想像力の関係の強度にリアリティをおぼえる者と、それに反発する者。妻の方は、不動産会社の経営者に惹かれ、不倫をするが、そのバネは情報で塗り固められたその男(ピーター・ギャラガー)のリアリティだ。
◆そして、問題の「小悪魔」的な娘アンジェラも、もてもて女という嘘(情報)で塗り固め、武装していたことが暴露する。娘だけが、ポストマスメディアティックな世界から距離を置き、「パパなんか死んだほうがまし」と思っているが、そのパパは、肉体的に死にはしたが、情報的には死なない。この映画は、そういう死ねない時代の死ねない人間の話でもある。
(UIP)



2000-02-16

●ロゼッタ (Rosetta/1999/Luc et Jean-Pierre Dardenne)(リュック&ジャン=ピエール・ダルデンヌ)

◆なんか憑かれたようにハアハア言って動物にように走りまわっている娘ロゼッタ(エミリー・ドゥケンス)の姿が印象的。
◆しかし、いくら、アル中で色情狂の母を持っているとしても、彼女が首になったり、仕事を得たい一心で、たまたま沼に落ちて足を取られた知り合いの男リケ(ファブリツィオ・ロンギオーヌ)(ワッフル・スタンドで働いていて、彼女に好意を持っている。仕事の世話もした)がおぼれるのをしばし望んだり――気をとりなおして救助する――するのは、正当化できない。だから、変な女の子の話になってしまう。
◆やることなすこと、みな、どこかノイローゼ的なのだが、そういう症例映画をねらっているようなところもある。自分で工夫した魚捕り装置で魚を捕るが、すぐに捨ててしまう。大体、魚を捕ってどうすのか、という感じ。
◆食べ物も、ワッフルばかり。フレンチ・トーストを食べるシーンがあるが、それは、リケが作ってくれたもの。動物のように黙々と食べる。水を水筒に入れて持って歩き、ミルクを飲むような感じで飲む(幼児退行の身ぶり)。しばしば腹が痛くなり、ドライヤーで暖めて直している。神経性の痛みか? もっと悪い病気なのか?
◆カメラは手持ちで、ロゼッタとともに揺れるので、目がまわる。それ自体は悪くない。それが何であるかを明示するような撮り方はしない。「全体」がつかめないように撮っている。湿気の多そうな、冷え冷えした空気がただよってくる。
◆音は、生音がほとんど。それは、効果的。特にバイクの音があたかもせりふのように、多様に使われる。リケがワッフル・スタンドでごまかしをやっていることを雇い主にばらし、自分があとがまに座るが、そのあと、リケがロゼッタのいるキャンプ場(キャンピングカーに住んでいる)にバイクで来て、ロゼッタのまわりを無言でバイクを走らせるシーンはユニーク。
◆リケは、音楽をやっていて、そのテープをロゼッタに聴かせるが、その演奏のアンバランスな感じがおもしろい。



2000-02-15

●サマー・オブ・サム (Summer of Sam/1999/Spike Lee)(スパイク・リー)

◆前の席で座って本を読んでいたら、偉そうなしゃべり声が聞えてきた。「日本の映画評論はオカマと女でしょ・・・このあいだ蓮實がさぁ、・・・と対談して、『アメリカでフィルム・スタディをやってる者で世界に通用するのは一人もいない』って言ったんだ。それをマーク・ノーネスに話したら、それをすぐに英語に翻訳してインターネットでばらまいたんだ。偉いやつだよ。「世界」ってどこにあるんだ。蓮實なんて、フランスでもベルギーでも通用しやしないじゃないか・・・」。誰かなと思って、顔を観たら、大声の主は、四方田犬彦だった。四方田って、東大で蓮實の弟子だったんじゃなかったっけ? マークとはしばらく会っていないが、彼もこの日本村にいるのかな?
◆冒頭に、ジミー・ブレズリン(Jimmy Breslin)が出てきて、「いまのニューヨークは、経済が上昇に次ぐ上昇をとげ、街もきれいになったが、これは、そうでなかった古きよい時代(と言ったように思う)のお話です」というようなイントロをしゃべる。1977年といえば、わたしがニューヨークにいた時期で、むろん、「サム」による連続殺人の話は知っていた。ただ、この事件は、マンハッタンの事件ではなく、郊外の事件であり、被害者はみな白人だったので、わたしのテリトリーでは大してホットな話題ではなかった。
◆映画のなかでちらりと出てくるWINSのニュースは、ひどくなつかしかった。しょっちゅう天気予報をやっていて、厳冬のころにはそれを聴いてその時間の天気を確かめて外に出るというようなこともあった。
◆「よき時代」のCBGB。
◆スパイク・リーは、Eye Witness Newsのキャスター役で出てくる。これは笑わせる。
◆物語は、キザなビニー(ジョン・レグイザモ)を中心に進むが、以前、彼が卑劣な役を演じていたのが頭に印象づけられていて、こいつが「サム」なんじゃないかという気に襲われた。冒頭、犬の泣き声に、ベットでのたうちまう相当狂った小太りの男の姿が映るのだが、それにもかかわらずそういう思いが高まるのである――つまり、「サム」のことを終始間接的にしか映さない手法がそうさせる――これはなかなか効果的。
◆スパイク・リーは、この映画でも、集団的に結束した人間と、そこから疎外された個人との間で起こる魔女狩り的なプロセスに関心を寄せる。殺人犯は捕まっているのに、それと知らずに無関係な弱者を血祭りにあげようとする集団。そしてそういう集団には、必ず「誰とでも寝る」と批判されるような女がいる。この映画で犠牲になうのは、パンク・ロッカーのリッチー(エンドリアン・ブロディ)であり、女は、ルービー(ジェニファー・エスポジート)。
◆ウディ・アレンと同様に、スパイク・リーの場合、イタリア人に対する目がアンパターン。『ドゥー・ザ・ライト・シングス』と変わっていない。ベン・ギャザラが、「よそ者は来ない」ブロンクスのレイトン・アヴェニューのイタリア系のコミュニティのボス役で出ている。この人は、ユダヤ系の役もやる。



2000-02-14

●イグジステンズ (Existenz/1999/David Cronenberg)(デイヴィッド・クロネンバーグ)

◆シベリウス的な響きの音楽で始る。寒々しい雰囲気とクロネンバーク的ハッタリの開始。
◆クロネンバーグの基本テーマであるテクノロジーと身体の問題がふたたび現れる。
◆入れ子構造になっていて、どこを「真の」現実とみなすかがあいまいにされている。登場人物たちは、脊髄に直接接続したゲームマシーンでヴァーチャルな世界に飛翔するのだが、冒頭のワークショップ・シーンがリアリティの「起点」であるという設定で始るが、最後には、それがあいまいになる。つまり、すべての世界が、ゲームのなかにあるのかもしれないのである。このへんの錯綜した構造設定はなかなかいい。
◆父ビッグ・モローの面影のあるジェニファー・ジェイソン・リーは、クロネンバーグの他の映画の主役女優と共通性がある。クロネンバーグ好みの女性。
◆これは、くり返しなのか――そうであれば衰退――継承なのかわからないが、ジェニファーの身体にささった弾を抜くシーンは、あたかも俗流フロイト的な意味で「セクシー」に、意味ありげに(裂け目からモノを抜く)映す。クロネンバーグ調といえばそうなのだが、斬新さはない。
◆脊髄に直接穴を開けて、何かを接続するというのは、ガラスをこする音のように、通常の人間には、耐え難い要素を持つ。これをクネンバーグは、いつも、あえてやるわけだが、くり返しになると、その「霊験」もあらたかではなくなる。
◆「realist underground」というラディカル・グループ
◆しかし、ゲームなんかに関しては、感覚が古いという感じがする。
◆『キネ旬』(4月下旬号)で飯野賢二がクロネンバーグをバカにしているのを読むのは、かつてのクロネンバーグ・ファンとしては腹が立つ。
(徳間ホール)



2000-02-09

●スリー・キングス (Three Kins/1999/David O. Russell)(ヂビッド・O・ラッセル)

◆ジョージ・クルーニーは、50年代の映画スターの甘さと声(ジョージ・マリー・クルーニーから受けついた?)を持っていると同時に、街っ子というか職業芸人というか、ちょっとハスっぱな感じを持っているところがいい。だから、カッコマンも出来るし、本作のような、ただのとっぽいタマではない役もできる。
◆スタートしてしばらくは、単細胞的な「マッチョ」的冒険アクションか、植民地主義的反アラブ愛国映画なのかと思ったが、やがて、そんなに見下げたものではないことがわかる。
◆撃たれると、内蔵のなかで弾が移動する映像を見せる(むろん、冗談)とか、シュールな映像に飛ぶ飛び方がニュニーク。手持ちカメラの使い方もいい。『ワイルドバンチ』のあのハイスピード撮影に匹敵すると言ってもいいような秀逸なスローモーション・シーンもある。
◆最初、戦争肯定路線であるかのように見せかけて、次第に、湾岸戦争時のテレビ報道も(現場のニュースキャスターを)茶化し、米軍が民衆の頭越しにサダムと取り引きしてしまった大国のご都合主義も批判する。それが、理屈ではなくて、アクションを通じて。
(渋谷東急)



2000-02-08

●ヒマラヤ杉に降る雪 (Snow Falling on Cedars/1999/Scot Hicks)(スコット・ヒックス)

◆今日ほど映画の終わるのを待ち望んだことはなかった。隣のおじさん(油で揚げたような顔をしている)の下半身がひどく臭いのだ。小便と汗の臭い。上半身からもフケと垢のたまった臭いがする。長く風呂に入っていない人の臭い。この日、女性客(一般というよりも、半分業界人という感じ――ただ、境界人が知り合いや妹をつれてどっと来てしまったという感じ)を動員したらしく、ものすごく混み、かなり早くいったのに、席がほとんどなかった。ところが、このおじさんの隣だけがぽっかり空いていたのだ。敬遠した人が多かったのだろう。わたしは、最初気づかず、座って、後の祭り。
◆冒頭、ほとんど対象物が見えないくらいぼやけた濃霧のシーンが、いかにも、記憶の世界に入って行く雰囲気をもりあげる。静謐な音は入念な演出。
◆工藤夕貴の成長ぶりがめざましい。立派な国際女優になった。この映画では、(地の面もあるが)戦前の日本人の顔をしている。
◆鈴木杏が達者な英語でぴちぴちした演技をしている。これも、工藤のあとを追ってハリウッドに進出か?
◆登場する人物の記憶のフラッシュバックが錯綜する(ハツエと、かつてもアメリカ人の幼友達→恋人イーサン・ホークとのが一番多い)が、煩雑な感じはない。非情に音楽的ですらある。
◆音への配慮。警察官が海で死体が発見されたカールのことを妻に告げに行くシーン。時計の音がコツコツ聞えるだけの静かな家。妻がショックに言葉を詰まらせる。子供の泣き声が空虚に響く。
◆テーマ的には、そう新しくないし、同じような話があったような気がする。弁護士役のマックス・フォン・シドーがたくみに老け役をやる。彼の「名演説」でシメ。彼は言う、「わたしのような歳になると、すべてを死の方から考える。火星から来たかのようにすべてが異様に見える。人々は、あいもかわらず欲望をむき出しにしている・・・」
◆イーサンが去ったあと、収容所で出会った日本人と結婚した相手(リック・ユーン)が無実の罪に問われた。この裁判で逆転無罪が決まったとき、日本人の一団が、裁判長に向かって一礼をするシーンがある。ちょっと差別的な感じがしないでもないが、日本人のサガのようなものを感じで複雑な感じがした。純朴さと無責任な一体性とが混濁している。
◆裁判のあと、一人立ち去ろうとするイーサン・ホークに工藤がかけより、「抱擁してもいいわ」という。これは、裏切った彼が、事件の知らせを聞いてかけつけた(取材もかねて)彼が、謝罪の意味をこめて「抱擁させてくれないか」と彼女に言ったのを工藤が断ったのにつながる。彼は、彼女と結婚しようとしていたが、彼もまた、反日の雰囲気が高まるなかで、そして日本との戦争で片腕を失ったことによって、日本人である工藤から離れた。
◆この光景を見ていた弁護士に彼は。「ふっきれたんだ」と語る。このとき彼は、no chanceという言葉を使ったと思う。弁護士は、「すべては偶然が支配している。except chamber of human arts」と言う。これを字幕では、「人間の心の中」とか訳していたが、そうなのか? 直訳すると、「人間的なたくらみの部屋」。
(日本劇場)



2000-02-03_2

●火星のわが家 (Kasei no wagaya/1999/Taku Oshima)(大嶋 拓)

◆ニューヨークでジャズシンガーをしていたが、神経性の疾患で声が出なくなって一時帰国している娘役の鈴木重子が、映画初出演ながら、非情にうまい。自然体の演技。鈴木は、本学的なジャズシンガーであうが、ファイナル・クレジットのバックで流れる主題歌(It's time to love)は歌っているが、劇中で安易にジャズを歌うようなシーンはない。
◆鈴木は、毎日精神安定剤をのんでいるという設定を意識してか、ややぼーとした感じの性格を出している。
◆ロックミュージッシャンとして有名だったちわきまゆみも、初出演とは思えない演技。子供のころ、可愛がられる妹に嫉妬して育った姉の役。「ろくでもない男と結婚して、不幸だ」と思っている。
◆飯を食うシーンも、しっかりしている。
◆昔一度花を咲かせた人間(日下武史)のありがちなさまをたくみに描いている。久々のインタヴュー依頼で張り切っていたら、来ることになっていた人間の代理が来た。あらかじめ渡した資料は全然読んでいない上に、日下のことも全然予備知識がない。こういうのも、よく
ありがち。わたしも経験した。
◆脳出血で体の片側が不自由になる演技を日下は実に巧みに演じている。相当研究した跡がある。この映画、病院やリハリビのこともよくリサーチしている。
◆出版先が見つからない自伝を、下宿している学生(堺 雅人)がコンピュータに入力し、CDROMの電子本にしてくれるシーンがあるが、そのプロセスも嘘がない。
(シネカノン)



2000-02-03_1

●ミフネ (Mifunes Sidste Sang/1999/Soren Kraugh-Jacobsen)(ソーレン・クラウ・ヤコブセン)

◆クレイジーさは、ユニーク。
◆クレステン(アナス・ベアテルセン)は、自分が百姓の出身であることを隠して金持ちの娘と結婚した。そのくせ、セックスでは女上位である。この映画のなかで、たびたび百姓差別の表現があるが、デンマークでは、百姓は低い階級とみなされているのだろうか?
◆タイトルは、クレステンが三船敏郎のファンであることから来ている。彼、いつも木刀での素振りをやっている。
◆売春婦をやっていたリーバ(イーベン・ヤイレ)とその仕事仲間との連帯が面白い。電話のセクハラに神経をやられて、メイドに転業し、クレステンと出会うのだが、セクハラ電話の主が、実は、自分の弟――その子を養育するために売春婦になったのに――という逆転がある。この弟にとって、ビデオが自分を映す鏡の役目をしている。
◆クレステンの弟の方は、障害児で、UFOを信じている。最初差別していたリーバーの弟と、ひょんなことから仲良しになるシーンも説得力のある描き方。
(松竹試写室)



2000-02-02

●クッキー・フォーチュン (Cookie's Fortune/1999/Robert Altman)(ロバート・アルトマン)

◆女性の多い一般試写。隣も女性。よく体を動かし、ときどき背伸びするように両手を上に上げるので、気になる。うしろの人が見えなくなるでしょう? 一番前の席なんだから。
◆アルトマンの道楽のような作品。ブルース、南部、黒人と白人、演劇的環境を加味して、リラックスしたテンポで撮る――楽しんで撮ったにちがいない。
◆利己的なグレン・クローズ、昔アバズレだったリヴ・タイラー、トロくて、姉ローズの言いなりになっているが、最後に仕返しをするジュリアン・ムーア、憎めない、なまず料理がうまいチャールズ・D・ダットン・・・登場する人物がすべて活かされている。
◆クローズが演出する『サロメ』は、要になっているが、このような設定では、別に『サロメ』の必要はないような気がする。
◆クローズがつまらぬ小細工をして身を滅ぼすが、あまり深刻味がないのが、アルトマンの余裕。カリカリした世界でなく描きたかったのだろう。
(安田生命ホール)



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