粉川哲夫の【シネマノート】
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2000-05-31

●ひかりのまち(Wonderland/1999/Michael Winterbottom)(マイケル・ウィンターボトム)

◆『マイ・ハート・マイラブ』や『ハピネス』のように、最初ばらばらに描写していって、最後に一堂に会させるという形式だが、「呉越同舟」といったパターンで会わせることが目的ではない。最初から、親戚関係にある3姉妹とその周辺の人々を描き、彼や彼女らが最後にクロスすることがあったという作り。ここには、ウィンターボトムの家族観が出ている。家族とは、偶然の出会いを保証したようなもの。
◆モリー・パーカーの夫(ジョン・シム)が『イレイザー・ヘッド』のヴィデオを買って来るシーンがある。なぜ、『イレイザー・ヘッド』なのか? モリーが妊娠しているからか?
◆ロンドンの街を動的に撮っているのがいい。こういう街には、映画のような出会いが起きえる。ちょっぴり淋しいが、時には偶然の劇的な出会いがある。
◆「赤 金曜日」、「青 土曜日」、「赤 日曜」というようなテロップが出るが、たしか、「緑」は出なかった。3原色ではなくて、2原色の街?
◆具体的な街を「描く」というよりも、それ自身に語らせること。16ミリの手持ちカメラでの実写(エキストラなし)は、効果的。
◆街がファミリーを作る? そうでない街もある。ロンドンは、以前は、人を孤立させる街だった。人々をファミリアルにする街への変貌?
(映画美学校)



2000-05-27

●ミュージック・オブ・ハート(Music of the Heart/1999/Wes Craven)(ウェス・クレイヴン)

◆ロビーに女性の大群。そこで待っていたら、すぐに入場。が、この一団は、われわれの招待とは別枠の招待者で、ホールの一階に別の列が出来ていた。並び直してから30分後入場。「先生」と「マスコミ関係者」とに分けて受付するので、大混乱。ぜいたくなパンフとCD(グロリア・エステファンの主題歌が入っている)をもらう。席に着くと、すでにこの音楽をやっていて、繰り返し聞かされる。が、それからが大変。「特別ゲスト」のアイザック・スターンの到着が遅れているとかで、待つこと40分。
◆アイザック・スターンなんてどうでもいいよと思いきや、8時になって登場した彼はなかなかの魅力。80歳になるのに、折りたたみ椅子を片手でぶら下げて登場。「ゆっくり話しましょう」といった体で、「こちらから話はないので、何でも質問してください」と言う。司会のアスミック・エースの竹内さんがあわてて、「わたしに質問させて下さい」と仕切り直し。話がうまいし、椅子に座っているので、この分だといつ終わるのかなという気にさせながら、スターンは、ぱっと終わる。さすが。
◆映画は、しかし、全然ダメだった。夫が出て言ってしまった、どちらかというと甘え心の強い女性(メリル・ストリープ)が、たまたま出会った昔のクラスメート(エイダン・クイン)のすすめでハーレムの小学校の課外授業の職を得る。ここではヴァイオリンなんか不要だという学校と説き伏せて、ヴァイオリンを教えはじめる。しかし、その後の展開は、「解説」にあるような「困難」は、ほとんど見られない。むしろ、夫が別の女のところへ去ってしまった母子家庭で彼女が二人の息子にどう対応するかとか、再会した古い級友(いまは作家)との愛、大きくなった息子たちが勝手に投書し、知り合ったコロンビア大の教師との関係、学校での父兄とのやりとりが、ストリープの手慣れた演技で見せられる。
◆10年続いた課外講座が市のボード・オブ・エデュケーションから廃止に追い込まれるという困難があるが、それもすぐ解決(本当は解決はしなかったのだろうが、映画ではそう見える)。アイザック・スターンの援助のもと、カーネギー・ホールでチャリティコンサートをやるところで終わるが、なんかこの映画自体がチャリティ・プログラムみたいな感じ。竹内さん、こりゃ、ダメだぜ。
(朝日ホール)



2000-05-25

●ユリイカ (EUREKA/2000/Shinji Aoyama)(青山真治)

◆クロの度胆を抜く大声に疲れさせられる無駄なイントロと退屈な監督・プロデューサー・俳優インタヴュー。おまけにそのあと、メディア向けの写真撮影まで。こんなのは別枠でやるべし。これで、30分以上消費。
◆青山監督は、「でっかい木のような映画を作りたいと思った」と挨拶で語ったが、本作は、なるほど「ウドの大木」である。
◆見終わって、『報知』の「おもしろ映画採点」のコメントがすぐ浮かんだ――マチドウシイ最終シーンが待ちどうしい。役所広司に咳止めドロップを。
◆坂道を下るバスの背を見たとこ、これは、バス全体を何かに見立てているなという感じがしたが、案の定、無関係に乗っているはずの乗客・運転手を巻き込むバス全体の事件が起きる。乗客の一人がピストルをぶっぱなし、逃げる客を撃ち殺したのである。そして、駆けつけた警察の刑事(松重豊)が犯人を撃ち殺す。松重はうまい。が、この映画では全然活かされていない。後半で、役所が、事件で失語症になった兄妹(宮崎将・あおい)としばらく暮らしたあと、バスを買って二人(と従兄――斉藤陽一郎)を乗せ、旅に出かけるとき、松重は、「やっぱり行くのか」みたいなことを言い、自分も悩みがない分けではないような態度を示すが、中途半端な使い方だ。
◆バスは、メタファーとして、「家」であり「国」であり、とりわけいまの日本を示唆しているのが見え見えである。だらだらと長い映画で、先が読めてしまうには、それだけ凡庸であることを意味する。だいたい、イメージをメタファー的に使うのは古いのだ。これは、黒沢清にも見られる。プロヂューサー・仙頭武則の好みか?
◆斉藤が、ねそべっていると、アルバート・アイラーの『ゴースト』が聞こえ、外で物音がする。役所がバスを買って来たという。二度と乗りたくないバスに再び乗ることが治療になるという確信からなのでが、それに宮崎兄妹が乗らないはずはない。乗らなければドラマにならない(その程度のドラマだ)のだから、先が読める。こういう設定ほどつまらないものはない。
◆後半から、役所は(昔の「結核モノ」――主人公が咳をし始め、最後に大喀血する――のように)咳をし始め、それが段々ひどくなる。来たなという感じ。なんで、こういう月並みな設定をするのか? なによりも、煩わしくてしたかがない。案の定、やつが喀血するのと引き替えに、宮崎あおいが声を出す。
◆文部省選定映画(!?)以外、わたしは、映画で犯罪者を警察に連れて行くような設定はするべきではないと思う。バス事件のショックから(ということなのだろう)人を殺すことに興味をもってしまう松島将が、連続通り魔の犯人であることを知ったとき、役所は、昔の生徒思いの先生のような態度で(ナイフを取り上げ、腕を切りつけ、今度は自分を切らせる)松島をさとし、それから警察に向かうのだが、こういうのは全然だめだ。
◆青山は、意外と「まとも」が好きなようだ。バスの旅の行き着くところも、海と「天孫降臨」の場を思わせる山の頂上。逆に言えば、ここまで行けば病気は直る。しかし、妹はここでしゃべるようになったかもしれないが、兄は警察に行っても何も解決しない。
(テアトロ新宿)



2000-05-23

●ムッソリーニとお茶を(Tea with Mussolini/1999/Franco Zeffrelli)(フランコ・ゼフレッリ)

◆ぎりぎりにやってきた図体の大きなおヒトが隣の席にどか~んと座る。そして、10数分間、汗の拭きどうし。そのたびに腕があたり、そして(なぜか)生のウナギの臭いを発散させる。う~、映画の印象が大分変わる。
◆よくあるスタイルだが、フランコ・ゼフィレッリが楽しんで作っている感じ。役者たちも、シェール(ユダヤ系の女性を臭く演技)、ジュディ・デンチ(『恋におちたシェイクスピア』なんかうよりずっといい――ノルと何でもやってしまう一途の芸術女性を演じる目つきが迫真)、リリー・トムリン(あいかわらずボケ役)、ジョーン・プローライト、マギー・スミス(誇りだけ高い女を好演)と贅沢。
◆ゼフレッリの故郷フィレンツェへの愛とノスタルジア。登場するムソリーニは、歯の間に少年ぽい隙間のあるいが栗頭の粗暴な男。が、元外交官夫人のマギー・スミスが、黒服隊の日増しに高まる暴挙への抗議に訪れると、「侍従」のすすめで彼女の虚栄心をたくみにくすぐって懐柔する。
◆富豪のユダヤ系アメリカ人を演じるシェールは、金にあかせて有名絵画を買い漁るが、土壇場で美男のイタリア人に騙される。
◆視点は、この町で育ったルカの目。彼は、遊び人のイタリア人と、この町に住み込んでいる上述のイギリス人・アメリカ人の共通の友人の子(ベアード・フォレス)の目。彼の父は遊び人で、彼を面倒を彼女らにまかせる。
◆イギリスがイタリアの敵国になり、やがてアメリカも参戦し、彼女らは、軍の監視を受けるようになるが、ここでちょっぴり反戦・反ナチのプロットが入る。
◆フォレスが、プローライトに育てられ、彼女の作った「イギリス式」の朝食を食べるシーンで、イタリアパンで目玉をぬぐうところがいい。高慢で偏見の女であるイギリス女マギー・スミスが、シェールを見下し、彼女がフォレスのためにとった大げさなアイスクリーム(バカンス・サンデー)を、「アメリカ人は何でも下品にする」、「アメリカ人にはピクニックはわからない」というくだりも面白い。
(UIP)



2000-05-18

●グラディエーター (Gladiator/2000/Ridley Scott)(リドリー・スコット)

◆早い時間から列が出来ている。9階に行ったら、「最終列は8階です」と言ったのが、「チカイ=地階です」と聞こえ、一瞬驚く。パンフレットの編集かなんかに関わったらしい人が、すぐそばに居て、「ハガキに・・・・って書いてあったけで、ちょっとそういうノリの映画とはちがうんだけどね」と普段より多い観客を冷ややかに批判している。わたしも、そう願いたい。
◆かなりアップが多い狭い視角の画面。背景は、どうやらドリームワークスお得意のコンピュータ・ジェネレイテッド・ワークス。ハイスピード・シーンも、フィルムのそれとは全然ちがう(ズレの残像が見える)。それは、それでいい。もう「被写体実写」の時代ではない。
◆冒頭から、闘争・戦争を「勇壮」には描いていない。むしろ、その残酷さや無慈悲さを強調する。激しい闘いの背後で、つらそうに見守る皇帝マルクス・アウレリウス(リチャード・ハリス)。ただ、こういうのって、戦争を不可避なものとして合理化する確信犯的予備工作のような気もする。戦争に反対なら、それを描かないことも肝要。
◆ゲルマニアの戦地には、息子コモドゥス(ホアキン・フェニックス)と姉ルッシラ(コニー・ニールセン)も来ている。沈鬱な父アウレリウスとは反対に、コモドゥスは、遊び半分。マキシム将軍(ラッセル・クロウ)の功績で激しい闘いに勝利したある夜、アウレリウスは、マキシムに、おまえを本当の息子のように思っていると告白し、後継者になるように言う。そして、そのことを息子にも告げる。父親が来るまえ、コモドゥスは、部屋にあるソクラテスの胸像に見入っている。父の決意をきいた息子は衝撃を受け、涙ながらに、「何をやってもあなたは、一度もわたしを認めてくれなかった」と言う。すると、父は、痛切な面持ちで、「おまえがいたらないのは、いたらぬ父を持ったからだ」とつぶやく。このへん、なかなか両者のつらい感じがよく出ているのだが、次の瞬間、息子は父を強く抱き締める。一見それは、父への愛の仕草のように見えるが、父は、首の骨を折られたのか、息絶える。ソクラテスの盲目の胸像がこのシーンを見ている。この演劇的なシーンは、愛憎、野心と無心、狂気と愚鈍とがわかちがたく表現されているシーンとして印象に残る。そういえば、リドリー・スコットは、『ブレード・ランナー』でも、ルトガー・ハウアーに同じような心理を表現させていた。
◆歴史上、「暴虐帝」と呼ばれるコモドゥスは、この映画の「悪役」であるが、そうならざるをえなかった悲劇をひきづっているところをフェニクスはさりげなく(クリストファー・ウォーケン風の屈折のなかで)表現している。彼は、単に「狂った」皇帝ではない。コロセウムでの奴隷の「剣闘士」(グラディエーター)たちによる死闘の見世物を復活し、元老院を温存し、姉と近親相姦的な関係にあり、最後は、卑劣なやり方でマキシムを倒そうとして、逆に倒される。が、この人物には、それなりの考えがあったのではないかという気にさせるところがある。コモドゥスは、戦争への動員で統合されて来た国民の関心を見世物的な消費経済へ向け直すことによって統合しようとした。 が、情勢はもっと実際的な支配を求め、歴史は彼を「暴虐」の皇帝にでっち上げ、彼の死後、ふたたび「軍人皇帝」の時代が再来する。
◆フェニクスは、メイクで「兎口(みつくち)」に見えるのだが、コモドゥウスはこの映画の最初からハンデを背負って登場する。
◆アメリカ映画は、卑劣さに対する抵抗と闘い、独力で困難を切り抜ける人物に喝采を上げるのが好きだが、この映画は、その意味で純粋にアメリカの映画である。妻子を無残に殺したコモドゥウスへの復讐というテーマもアメリカ的。
◆クロウは、ゲルマニアを脱出して故郷にもどり、妻子の無残な死体を発見し、それから南スペインで奴隷になり、やがてローマに移送されるが、この辺の距離感と時代の推移が全く描かれない。ヴァーチャルな映画だから、それでいいというわけ?
(丸の内ピカデリー1)



2000-05-17

●チューブ・テイルズ(Tube Tales/1999/Amy Jenkins, Steohen Hopkins, Menhaj Huda, Bob Hoskins, Ewan Mcregor, Armando Iannucci, Jude Law, Gaby Dellal, Charles Mcdougall)(エイミー・ジェンキンズ、スティーヴン・ホプキンス、メンハジ・フーダ、ボブ・ホプキンス、ユアン・マクレガー、アーマンド・イアヌッチ、ジュード・ロウ、ギャビー・ラデル、チャールズ・マクドゥガル)

◆『タイム・アウト』で募集した地下鉄をテーマにした物語を9人の監督(初経験者もいる)が撮ったというが、みなイギリスらしいサビのきいた短編小説的な作品になっている。
◆地下鉄のなかで誰もがなにげなく意識している不安や願望。つきあいたくない上司に会ってしまったら? 混んだ車内で若い女の太腿を見て勃起してしまったら? 吐いてしまったら(美人の女性が吐いてしまうのだが、それが猛烈)? ドラッグをもっていて警官(実は、検札係)ににらまれたら? 夢みていた女性に出会ったら? 幼い子供とはぐれたら? 子供にとっては、地下鉄駅の構内は夢の迷路。
◆最後の物語は、銀行の車を襲って金を奪った男女が地下鉄駅に逃げ込むが、警官に撃たれるが、このプロセスをシュールに描く。地下鉄の着いた先は、たぶんあの世。死に別れた人たちに再会。「現実」の世界では、駅前の広場にパトカーと救急車が止まり、男が担架に乗せられている。傍らで、宗教団体がパフォーマンスをしている。ちょっと宗教ぽい終わり。これで終わって欲しくなかった。全体がここに収斂してしまうような感じがするから。
(メディアボックス)



2000-05-16_1

●アメリカン・パイ(American Pie/1999/Paul Weitz)(ポール・ウェイツ)

◆開映まぎわに飛び込んで来て、わたしが30分もまえに来て取った席の(たまたま空いていた)席にちゃっかり座ったおばさん。それはいいんだが、サロンパスのような臭いを発散させていて、映画を見るのに影響する。困る。
◆"get-in" (ペニス挿入)がテーマの、れっきとしたB級映画だが、これが、アメリカン・パイのようにいい味。青年期の性の悩みをずばりテーマにしている。こういうカラッとしたものは日本では決して出来ない。
◆この映画は、この作品に登場する若い俳優たちにとって、『セント・エルモス・ファイヤー』のような「登竜門」になるだろう。
◆台詞もこなれている。「そんなのスペース・シャトルじゃない、ただのセックスだ」。未経験の相手(実は、そう言う本人も童貞であることがあとで判明する)に、「no fucking sectionをつくらなけりゃな」。"feel like?"だけで「どういう感じ?」。「アメリカンパイの味だ」→「自家製の方?」(それとも「出来あい」の方かという含み)。男を拒否するために女が、「あっしは、postmodern feministよ」。友達の母親を指して、あれは"MILF"だ。これは、"Mome I Love For"の意味。"E-date"とは、インターネットでメールをやり取りするだけのデート。"big O" とは、ビッグなオルガスムのこと。「"joke"だと思ったら、'jerk"(アホ)ね」。
◆男が女の方に近づく。ハイスピードの画面にロマンティックな音楽が流れる。が、近づいた瞬間、標準のスピードにもどり、音楽もストップ。女が味気ない顔で「あんた何よ」といった表情をする。どうということのないシーンだが、おもしろい。視点を女の側に置いていることも、このシーンでわかる。男たちは笑われている。
◆他の同級生がビールの入った紙コップに精液を排出し、去るとそこに来た男がそのビールを飲むといった、ウンチ大好きの幼児に近い感覚がかなり描かれるが、若者とはそういうもの。
◆いつもかっこうよくてもてもてのエディ・ケイ・トーマスは、ねたまれて飲み物に下剤を混ぜ、突然便意をもよおす。トイレに近づくと悪い仲間が女便所に案内し、知らずに大便器の方に入り、出そうとした瞬間、気になる女の子たちが入ってきてします。我慢しきれず、排出し、その噂が全学にひろまる。このシーンで、トーマスは、まず便座に敷くペーパーを探すが、容器にはストック切れになっていて使えない。すると彼は、トイレットペーパーを何枚も何枚もちぎって便座に載せる。この潔癖症の表現の細かさ。
◆わたしはかねがねブロウ・ジョブほど女性が自分を卑下する行為はないと思っていたが、この映画を見ていて、ふと、これは、女性がソトレート・セックスをせずに済ませる方法の一つであることなのかなと思う。
◆着替えをしたいという女の子を部屋に呼び、その姿をこっそりコンピュータに接続されたストリーミング(コンピュータの画面には、'Broadcast In Progress"あるから、ストリーミングではないかもしれない)で流し、友人宅で見るというシーンがある。画像はややきれいすぎるが、できないことではない。
◆この青年たちの親は、みな子に気を使っている。明らかにユダヤ系と思われる父親(ユージン・レヴィ)は、息子(ジェイソン・ビッグス)が "got-in"するように、ポルノ雑誌やコンドームを買ってあたえたり、涙ぐましい協力をする。台所で(母親が作ってくれた)パイを触っているうちに欲情し、それにペニスを突き立ててしまったところを見てしまった父親は、「君が一人で食べたことにするよ」と慰める。
(ヘラルド試写室)



2000-05-16_2

●ロスト・サン(The Lost Son/1999/Chris Menges)(クリス・メンゲス)

◆同じ試写室のハシゴなので、近くのスターバックスでコーヒーを買い、飲みながら散歩する。急に暑くなった。ビルの前庭にベンチがあったので、座り、ワードパッドを出してメモをとろうとしたら、周囲にいるのは、ホームレスと(リストラで職を失ったような感じの)おじさんばかりだった。
◆復讐ということがハリウッド映画ほど「あたりまえ」のものになっているところはないが、ヨーロッパ映画も、もはやそれへの抵抗を放棄したらしい。この英仏合作の映画では、少年の陵辱(子供を誘拐して少年愛好者に売る)が一つの大義名分になっているが、憎しみをあらわにするスタイルは、イギリスやフランスのものというよりも、アメリカの流儀だ。
◆誘拐され、陵辱された少年が、ダニエウ・オートゥイユによって救出されたたとき、オートゥイユの銃弾で倒れた人身売買人の体の上に小便をするシーンがある。復讐の極み。
◆ナターシャ・キンスキーの夫であり、かつて警察時代にオートゥイユの上司であったカルロス(チャラン・ハインズ)の顔を見ると、こいつはただものではないなという印象を受ける。これは、映画の常道だが、先が読めてつまらない。
◆オートゥイユは、キンスキーの両親から、息子のレオン捜索をたのまれ、最終的に、メキシコでストリート・チルドレンを売春組織に「輸出」しているギャングとその手口をかぎつけて殺されたことを確認する。そのとき、母は、オートゥイユに、「(ギャングを)殺してくれたのね?」と尋ね、「そうだ」と応えると、「ありがとう」と言う。なお、葬儀のシーンがあるが、ヘブライ語で祈り続ける父親がかぶっている帽子からも、彼らがユダヤ系であることが示唆される。「眼には眼を」といわけ?
◆冒頭と、失踪したレオンが残したビデオのトップに出てくるジャワ影絵のうな図柄は、『眠れる美女』から取られているらしい。
◆刑事がなかよくしている娼婦は、必ず最後には死ぬ。これは、フランス映画の定石だった。
◆レオンが救出したが、ショックで失語症になってしまった子供を保護している女性(カトリン・カートリッジ)は、かつてスティーヴン・バーコフの『審判』に出ている。
(ヘラルド試写室)



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●ミッション・トゥ・マーズ(Mission to Mars/2000/Brian De Palma)(ブライアン・デ・パルマ)

◆全体として、アップが多い。カメラがさっと動くとき、デジタル特有のズレが見える。要するに、言われているほど金がかかった感じはしない。事故の起こり方、「決死」の救出、宇宙人との出会い、等々、みなどこかで見たパタンー。だが、そんなことをデ・パルマが知らないはずはない。むしろ、リミックスとして撮ること、これまでの宇宙もの、ヴァーチャルものの集大成であることが、この映画の基本的スタイルになっている。
◆宇宙人(プログラム的には『アンツ』なんかの流用という感じがする)との出会い(宇宙人の目から涙の滴が落ちるのは愛嬌)で、彼女(?)が、地球上の生物の誕生から人間の出現までを1、2分間で説明するプレゼンは、わたしのように使いにくい装置でいつもプレゼンをやっている者には、うらやましい。ホログラフィーのように空中に3DのVR映像を浮かび上がらせて次々に何万年もの歴史変化を展望する。終わった瞬間、この宇宙人も消えるが、これは、本当の宇宙人は姿を見せず、ここに現われたのは、VRによって構築されたものにすぎず、本当の宇宙人の姿は隠されているという設定としても読める。
◆エコロジー・サービスもある。火星に取り残されたドン・チードルが生き延びるのは、火星の基地に作られた「植物園」のおかげだった。
◆闘うというイメージがほとんどないのがいい。この手の映画によくあるテクノロジーの空想的な使い方もほとんどない(時代設定は2020年)むしろ、テクノロジーの無力さ、計算された技術の限界、あてのなさの方が印象づけられる。それに対して、ただ、その基地に招待され、プレゼンを見せられ、そのあとゲイリーシニーズが乗った宇宙船が火星から飛びだしていくだけのシーンだが、宇宙人の持つテクノロジーが人間のものをはるかに凌駕していることが示唆される。
◆シニーズは、最初から妻の先立たれたばかりという設定。ドラマのなかで、ティム・ロビンスは、妻(コニー・ニールセン)を含む他の隊員たちを救うために自らの命を犠牲にし、妻と別離。別れと出会い。出会いは、火星で一人生き延びていたドン・チードルとの出会いであり、宇宙人との出会いである。
(イマジカ)



2000-05-11

●レインディア・ゲーム(Reindeer Games/2000/John Frankenheimer)(ジョン・フランケンハイマー)

◆半分ぐらいの客。だいたいこういうときは、作品に問題があることが多い。噂が流れるのだろう。先程も、階段のところで待っていたとき、前の女性がケータイで電話していて、「お客が少ないですねぇ~どうしたんでしょう」なんてしゃべっていた。この電話を受けた人は、「レインディア・ゲームって、ウケないみたいですねぇ」と誰かにしゃべるだろう。それで4、5人は見なくなる。
◆案の定、フランケンハイマーらしくない映画だった。大体、雪の多い地帯を舞台にするのは彼には向いていない。やはり都市でしょう。だから、最初の刑務所(Iron Mountain Prison)のシーンは悪くなかったが、外に出たらダメになった。
◆もし後ろの方から見たら、2度見るとき興ざめするような映画というのは、ビデオの時代には生き残れない映画である。この映画は、2度も逆転があり、初めてだとつきあえるが、その話を未見者には話せないし、といって、「とにかく見てごらんよ」と言えるほどの逆転でもない。
◆ディテールがダメだと思う。彼の作風だと、「ほんとらしく」撮らなければならない。たとえば氷の張った池で氷の下に落ちた女(シャリーズ・セロン)を、ベン・アフレックが、救いに飛び込み、水中で自動小銃を連射して氷を割り、外に2人で脱出する――なんてのは、ジェイムズ・ボンドじゃあるまいし(そういう強い男の設定ではない)、全然リアリティがない。
◆カジノの強盗の仲間に案内人として無理矢理引き込まれたアフレックが、本物の銃を渡されず、水鉄砲を渡されていて、自分で冗談半分にそこにラム酒を入れて、元気づけに口に放射して飲んでいたのだが、それが、彼を拘束している連中の一人から殺されかかったときに、相手が点けたタバコの火に向かってラム酒をかけ、相手を火ダルマにしてしまう――というのも無理。わたしは、火吹きをやり、あの灯油の臭いに耐えかねて、あれこれ強い酒を試してみたが、ぼっと燃え上がるようなものはひとつもなかった。うんと熱すれば燃えるが、常温で放射しても火はつかない。ウォッカの特殊なものだとOKとの話もあるが、普通のではダメ。
◆ゲイリー・シニーズの「悪役」演技オンパレードというところだが、最後で花を持たされたわけでもなく、シニーズを活かしきってもいない。
◆ひとつ興味をもったのは、この映画でも嘘つき、嘘をつくことがドラマの核心にあるということ。アフレックと同じ房にいた男(ジェイムズ・フレイン)が刑務所内の「騒乱」に巻き込まれて「殺され」る。二人は、3日後には出獄することになっていた。出獄の日、アフレックは、フレインが獄中から文通していた女が迎えに来ていて、(彼の姿がないので)「淋しげ」にたたずんでいるのを見て、フレインになりすます。この「嘘」が物語を展開の一本の糸となるのだが、その「嘘」に別の「嘘」がかぶさってくる。いずれにしても、嘘つきというキャラクターが、『ビーチ』でも『リプリー』でも、主人公になる。これは、偶然ではなく、嘘つきがファッショナブルな時代だからではないか?
(渋谷東急)



2000-05-06

●イメージフォーラム・フェスティバル2000 Cプログラム(Image Forum Festival 2000 C Program)
◎『物語以前』(2000)(鈴木志郎康)

◆いきなりヴィデオとは違った色合いの画面が出てきて、目を引く。フィルムのフィルム性が明確に現われたオープニングのシーン。
◆ケイタイで話している女子学生。かたわらの男子学生が、いいかげんに電話を切れとせかす。わたしには、電話を使いたいのでせかせているように見えたが、むしろ、女が電話をかけているいること自体に男は不満らしい。
◆いきなりドラマ仕立てで始るので、鈴木さんの映画らしくないなと思っていると、鈴木さんのナレーションが入り、「物語という概念を概念のままあつかう」映画なのだという。そうか、冒頭から出てきた「物語」は、相対化されていたのか。
◆そう言われてみると、次々と出てくる「物語」制作の実例(すべて鈴木さんの学生の「演技」)は、微妙に位相が違う。物語らしい物語。物語作りに失敗する物語・・・。
◆ひとつ気になるのは、最初の「物語」。男がケイタイを貸せと言っているが、これは非常に「物語」的である。日常的には、めったに起きないのことである。というのも、若者は、いま、みんな自分のケイタイを持っており、他人のケータイを横取りする必要はないからだ。つまり、これは、最も作られた「物語」である。
◆鈴木さんの映画は、映像の位相を限りなく日常性に近づけようとする。つまり「物語」とは反対の方向だ。
◆女子学生が話をしているシーンで、背景のスクリーンに、衣類を整理している女性の姿が見える。ある意味で極めて日常的な映像で、その前面の「物語」制作のプロセスと対比されている。
◆ふと、トリン・T・ミンハの『姓はヴェト、名はナム』を思い出した。ミンハは、虚構性の強度をあつかっただけだた、鈴木さんは、物語性の強度とその本質を問題にしている。
◆どうやっても、何らかの物語性が生まれてしまう映画において、それを極限まで排除するのは、映画そのものを壊してしまうリスクを生む。こういう危険なテーマをかかげなければ、鈴木志郎康映画の一本として見えるはずの本作が、今回は、「安易」で「破綻」しているように見えるのは、物語というもののパラメータがすべてにからみつくからだ。これまでなら、鈴木さんの学生が卒業制作の一貫としてやっていることをフィルムに収めても、また、過去の作品のカットを引用しても、決して「安易」とも、「投げやり」とも見えなかったはずだが、今回は、そう見られる恐れがある。しかし、そういうことは、鈴木さんは、十分知っているはずだから、その「心底」までさらけ出してしまった鈴木さんの勇気に驚くのだ。
◎『職業 映画監督』(我妻まや)

◆映画を撮れなくなってしまった福居ショージンの日常を、この映画を撮りおえたころ「些細なことで別れてしまった」我妻が映像にしている。そこで、福居は、相当なダメ男を演じているが、その語り口や身ぶりは、いかにもの(つまりよくある「映画」のひとこま風に演出された)もの。
◆福居正臣(ショージンと改名したらしい)は、以前、『 Pinocchio』賞を取った直後のころだったと思うが、スナックのようなスペースでラジオホームランがらみの送信パフォーマンスをやったとき、彼がいて、えらそうにしゃべっているのを耳にしたことがある。そんな印象がこびりついているわたしの目からすると、彼は、なかなかしたたかで、見栄っぱりであり、この映画は(我妻本人は気づかなかったとしても)、ほとんど彼の暗黙の「演出」でつくられたのではないかと思ってしまう。
◆映画で見るかぎり、福居はアル中であり、表情にもその感じが濃厚に出ている。少なくとも彼がここで映画について言っていることは、すべてくだらない。黒沢明を賛美する場面では、あわれさを感じた。批判なく黒沢を賛美し、自分もああなりたいなどと言ってしまうのは、もう末期症状である。しかし、こういう映画を作らせたのだから、まだ完全に枯渇しているわけではない。
◆エレキを弾くシーンがあるが、映画では、彼の演奏をアレンジしているのだろうか? 聴こえるサウウンドは、なかなかよかった。
◆福居が言ったセリフを画面で文字にして出すのは、悪くない技法。
◎『ダンスとしてのフィルム』(1998-1999)(万城目純)

◆雅楽の使用はいただけない。
◎『胎内朔』/『春山妙美信女』(1999)(小池照男)

◆観客をマインド・コントロールしようとしているかのようなショットがかなりある。
◎『De-Sign 11 (Flow)』(2000)(ビジュアル・ブレインズ=風間正+大津はつね)

◆例によって一時代ズレた映像処理技法を駆使したスタイル。啓蒙的だが、今回は、社会を遠く離れ、タオや気功や宇宙の世界に焦点を当てる。
(パークタワーホール)



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