粉川哲夫の【シネマノート】
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2000-07-31_2

●素肌の涙(The War Zone/1998/Tim Roth)(ティム・ロス)

◆家族を社会から切り離して、広野に置いてみたらどうか? この映画には、そんな「実験室」の側面がある。なぜ家族の「モラル」などというものが維持できるのだろう? 息子と母が、娘と父親が「近親相姦」しないでいられるのはなぜか? そんなものは、家族を孤立させてみれば、すぐにあやうげなものであることが露呈するのではないか?
◆息子が吐き捨てるように言う台詞。「近親結婚で生まれたやつばかり」。孤立した場所ではそれしかない。外に開かないために近親結婚ばかりするところもある。日本はそういう国だ。
◆しかし、この映画のテーマは、かならずしもここにはない。妻(ティルダ・スウィストン)は夫(レイ・ウィンストン)を信じ、かなり大きな娘(ララ・ベルモント)と息子(フレディ・カンリフ)がいても、夫との性的関係を彼らに対して隠そうとはしない。子供は子供、親は親という確信。子供たちも、親に性欲をいだいてはいないようにみえる。にもかかわらず、娘が父親と性的関係を持っているわけだが、それは、もっぱら父親の欲望の結果でしかないかのようである。が、これだと、家庭で暴力をふるう父親とか、娘に手を出す父親の話になってしまう。事実、この映画には、そういう側面があり、だから、最後に父親は息子に刺される。
◆そうだろうか? そんな単純な映画だろうか?
◆大きな子供のまえで破水し、あわてて一家で車で病院に向かうが、息子がふざけて車の天蓋から身体を出して騒いでいるのを制止しようとして父親が車の運転を誤り、横転。車のかなで、傷だらけで子供を出産する母。最初からすさまじい感じ。
◆家から離れた丘の上の小屋で父親と娘がセックスをするシーン。娘は、「ママにしているようにして」というが、父は、「だめだ」といって、後背位からセックスする。つまり、父親は、妻と娘とのセックスを分けているのである。が、息子に問い詰められたとき、彼は、娘とのことは、すべてお前たちの妄想だと否定する。
◆ライターで弟が姉の胸を焼くシーンがある。罪や宗教の問題をあつかおうとしながら、あまり鮮烈な形では表現できていない。
◆本作は、9月2日から渋谷でオープンする「イメージ・フォーラム」のオープニング作品になる。う~ん、ちょっと弱いなぁ。
(メディアボックス)



2000-07-31_1

●仮面学園(Kamen Gakuen/2000/Takashi Komatsu)(小松隆志)

◆予想したよりよかった。高校生たちの台詞は全然ダメだが、藤原竜也、黒須摩耶、栗山千明が大人っぽい味を出した。
◆映像も、シュールな要素を加味し、悪くない。屋上から飛びおり自殺した生徒が地上にたたきつけられ、血だらけになるという映像で、地上にぶつかる瞬間、あたかも赤い画用紙かキレを広げたような映像にしているとか、藤原竜也の仮面工房の窓が赤い光を放っているとか・・・面白い。
◆いじめられた生徒が仮面をかぶって登校し、それがたちまち伝染するという設定はなかなかいい。だから、タイトル通り「学園」にしぼり込み、「いじめられ」学生の反乱とか、とにかく学校世界にめばよかったものを、ファッション界とマスコミをからめた陰謀劇にしてしまったために、リアリティが希薄になった。
◆学校の教師たちの対応・反応は、ワンパターンで、とてもいまの「いじめ」問題などには肉薄できない。
◆仮面に伝染した生徒たちが、「パーティ」を開くシーンも悪くない。ところで、いま、中学生や高校生のあいだでも「パーティ」ばやりなんだろうか? そのむかし、ゼミ生に、「コンパなんてダサイ集まりはやめて、〈パーティ〉にしよう」なんて、わたしが言っていたことがある。そのころは、まだみんなきょとんとしていたが。
◆日本にはある種の「仮面文化」があり、それほど深い考えがなくて仮面を出しても失敗しない。ただし、ここで言う「仮面文化」とは、狂言や能の「面」とは一線を画する。日本の「仮面」は、その「仮」が示唆するように、暫定的な性格をもったモダニズムに根ざしている。日本近代の知識人は、すべて「仮面」の人であった。しかし、面には、「素顔」を隠す機能とともに、素顔のもう一方をあらわにする機能もある。狂言や能にとって、面は、隠された人格を隠す覆いではない。あえて「人格」ということを言うならば、面自体が一つの「人格」であって、面なしには「人格」はないのである。
◆『仮面学園』の「仮面」は、「素顔」を隠す覆いに終わる。大詰めは、仮面をはぐプロセスである。ここには、なんら新しさはない。が、「いじめられた」生徒が仮面をつけるという思いつきと行為は、本来、まえの「いじめられた」「素顔」の自分を隠すというよりも、別の人格に生まれからるという願望と実践であった。たとえ、本人が知らなくても、そういうポテシャルがあり、映画がそういう側面を発展させたら、もっとおもしろい作品になった。
(東映試写室)



2000-07-27

●ワンダー・ボーイズ(Wonder Boys/2000/Curtis Hanson)(カーティス・ハンソン)

◆wonder boysと複数になっており、解説でもそんなことが書かれていたので、この映画に登場する人物全員が元あるいは現在 "wonder boy" つまり「神童」なのかと思ったら、映画のなかでは、特にジェイムズ・リア(トビーマグワイア)を指してこの言葉を使っていた。だから、やはり、wonderなのはboysであって、大人たちではないのである。
◆作家で大学教授のグラディ(マイケル・ダグラス)はたしかにかつては脚光をあびた作家だった。編集者のテリー(ロバート・ダウニーJr)も、いまより過去に栄光がある。しかし、この映画で強調されているのは、若い才能を目の当たりにする老年作家・教授のあせり、自分が時代に取り残されているという孤独であり、映画は、グラディがそのことを文章につづっているというスタイルで自嘲的に語っていく。
◆ジェイムズが、「先生といたかった」と言うと、グラディは、"I am a teacher, not a Holiday-in"という。わたしも、言ってみたいね。
◆グラディは、よき教師である。(ジェイムズが、実際、"you are the best teacher I have had."と言う)。彼は、かつて輝かしい才能で脚光を浴びたかもしれないが、「ワンダー・ボーイ」タイプの人間ではない。「ワンダー・ボーイ」は、基本的にジェイムズ青年のように利己的でなければならない。グラディは、彼や、もう一人の教え子ハンナ・グリーン(ケイティ・ホルムズ)のめんどうをあきずに見る。ジェイムズが置き忘れたバッグをわざわざ取りに行く。ハンナを下宿させているが、手を出すようなことはしないようだ。
◆この映画では、世代の違いということが前提になっている(その意味では世界のとらえ方は平凡である)。グラディ、彼の子供を妊娠している大学総長サラ・ガスケル(フランシス・マグドーマンド)、その夫らの世界は、「大人」の世界であり、子供たちにwonderする世界である。
◆しかし、わたしの見るところでは、ジェイムズにしたところで、それほど特異にも、天才的とも見えない。だから、この映画のタイトルはピンとこないのだ。その意味では、『グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち』のマットダイモンの方が「ワンダー・ボーイ」らしかった。
◆テリーはバイセクシャルで、最初女装の大「女」とパーティに現れるが、やがてジェイムズを誘う。ふられたことを知ったこの「女」が、グラディに車で送ってもらうとき、車中で化粧を落とすシーンがなかなかよかった。ここでも、グラディは、「親切」なのである。
◆全体に煮え切らない作り。テリーが車を暴走させてグラディの長編原稿をばらまいてなくしてしまうシーンが端的に現わしているように、リアリティがない。
◆最後のシーンは、1年ぐらいの時間がたって、グラディは「すべてを失った」が、サラと結ばれ、子供が育ちつつあるということを示唆する。木々のあいだに建った新しい家の仕事場には、愛用のタイプライターはなく、コンピュータがあり、そのモニター画面の[save]という文字をクリックして映画が終わる。
(東宝東和試写室)



2000-07-26

●キューバ・フェリス(Cuba Feliz/2000/Karim Dridi)(カリム・ドリディ)

◆現代の「トロバドール」(吟遊詩人)、簡単に言えば「ストリート・ミュージッシャン」である「エル・ガジョ」(「鶏」の意味の゚モ名、本名はミゲル・デル・モラレス)は、パナマ帽、Tシャツ(上にトロピカルなシャツをはおる)、サングラスにケースに入ったギターを握って、飄々と旅する。ふと、パフォーマーの小杉武久を思い出した。
◆ドキュメンタリーといっても、かなり構成されたドキュドラマに近い。まず、エル・ガジョの足跡は、キューバ→マンサニージョ→サンティアーゴ・デ・クーバ→グアンタナモ→カマグエイ→トリニダ→ハバナという経路で、これは、キューバ音楽の歴史をたどる形になっている。また、彼が、町にやってくると、そこに、知り合いがおり、おしゃべりをするよりも、自然に歌を一緒に歌ったり、演奏したりするのだが、これは、ある種のミュージカルのスタイルである。さらに、行く先々には、その町で有名なミュージッシャンとの出会いがあり、この映画全体で、キューバ音楽の現状がわかってしまうような作りになっている。
◆しかし、そこには、不自然さは全くなく、実際に、こういうスタイルのコミュニケーションが現存するのだろうということを思わせる。たとえば、エル・ガジョが、ギターをもって歩いていくと、向こうの戸口に太った女性が立っている。それは、サイダ・レイテで、すぐにそこでかけ合いが始る。歌の台詞はその場のインプロヴィゼーションであり、会話も含まれる。
◆サンティアーゴ・デ・クーパでエル・ガジョが出会う、「おれがおれが」をいう感じでしゃしゃり出てくる若い男は、ラップ・ミュージッシャンのファンだ。そのラップはリズムも鋭く、サエている。彼は、エル・ガジョといっしょにグアンタナモに行き、そこでこの土地の音楽「チャングイ」の巨匠に、自分とセッションをさせてくれと迫る。このあたりの新旧世代のつばぜりあいが面白い。
◆「愛の庭師が花を植えて去った」というようなセンチメンタルな愛の歌が非常に多い。エル・ガジョのベサメ・ムーチョは絶唱だった。
(徳間ホール)



2000-07-25

●キャスティング・ディレクター(Hurlyburly/1998/Anthony Drazan)(アンソニー・ドラザン)

◆デイヴィッド・レイブのブロードウェイの舞台にもとづき、台詞の多い映画になっているが、単なる演劇の映画化ではない。映画のスタイルと登場人物の特性とそのドラマとを相互にからみあわせたスタイリッシュな作りになっている。アップのシーンが多いのも、登場人物の内面への関心が示されている。
◆ハリウッドのキャスティング・ディレクターである主役のエディ(ショーン・ペン)は、ある意味で(クリストファー・ラッシュが『ナルシシズムの文化』のなかで特徴づけたような)ナルシシストである。人は誰でも自分のなかにもう一人の、あるいは複数の「私」を持っているが、ナルシシストとは、それ(ら)を外に求めようとする。ここから、自分と他者とを同化しようとすることがはじまる。
◆エディは、始終コカインを吸っている。ペンの迫真「演技」は、目のうるみ方からして、半端ではない。このドラッグは、あたかも、内部で複数化する「私」を抑え、ひたすら外部のその対を求めることを促進するかのようだ。コカインを吸うことによって、彼は、自分を「さらけ出す」。が、これは、実は、さらけ出しているのではなくて、単純化しているのだ。
◆エディは、いつもテレビをつけている。そこには、比較的アクチュアルな出来ごとが映っている。彼は、どうも、世の中の動きに怒りをいだいているようだ。
◆携帯電話の使い方がうまい。エディが執拗に電話し、それをミッキーが車を運転しながら受け、その車がエディの家に到着するシーンは、メディアとナルシシズムの構造をヴィジュアル化している。
◆エディの家に居候しているミッキー(ケビン・スペイシー)は、つねに皮肉を言っている。冷静でシニカルな態度が彼の魅力でもある。皮肉(シニシズム)とは、いわばナルシシズムの裏側のような現象で、シニシストは、皮肉を言うことによって、外部との関係に距離を取り、内面の複数の「私」を保護する。皮肉は、「内面」が外にさらされるのを防ぐ保護膜でもある。
◆妻とトラぶっているフィル(ゲイリー・シャンドリング)も、ある意味でのナルシシストだが、彼の内面が単純なだけ、同化する他者を言葉や説得によってではなくて、暴力によって可能にしようとする。
◆こうしたナルシシズムの男たちを一応受け入れる役柄として、エディの恋人でありながら、ミッキーや他の男と関係のあるダーレン(ロビン・ライト・ペン)、娼婦のポニー(メグ・ライアン)とフーテンの少女ドナ(アンナ・バキン)がいる。彼女らは、一方で彼らを受入ながら、他方で、彼らのナルシシズムをあばきだす。
◆エディ、ミッキー、フィルは、みな、言葉が多い。よくしゃべる。彼はは、すべての内面を言葉に出来ると信じているかのようだ。(最後に、「すべては流れの一部なのよ」などと悟り切ったことを言うドナの寡黙さがこれに対置される)。言い換えれば、彼らは、自分たちの内面をたがいに共有できるという信念を暗黙のうちに持っている。それは、可能か? これは、特にエディにとっては重要である。
◆エディのナルシシズムは、ハリウッド的環境への批判でもある。この環境がこういう人格を生み出す、と言おうとしている。ハリウッド映画では、「真実を描くと、ディテールがカットされる」。
(松竹試写室)



2000-07-24

●60セカンズ(Gone in Sixty Seconds/2000/Dominic Sena)(ドミニク・セナ)

◆映像のテンポは、ぼんやりする暇を与えないほど速い。
◆背景音を抑え、すべて間近から採ったような音質。ニコラス・ケイジの声も、彼自身の耳に響くであろうような感じで響く。車のエンジンの音は、ボンネットのなかにマイクを置いて採ったような感じ。その結果、世界は抽象化する。抽象化という言い方がわかりにくければ、ゲーム世界化する。
◆冒頭、(やがてわかるように)車の盗難のプロであったニコラス・ケイジの小道具やジャンクをカメラがなめるように撮るのだが、ゲームの登場人物やオブジェが、肉体世界のそれらとは異なる現実感をもっているように、この映画の世界の登場人物たちは、奥行きがない。
◆ケイジの弟は、カッコづけをしてばかなことばかりやる。口先ほどのことはない。が、彼が、兄のために朝食を作るシーンで、トーストを黒こげにしたり、イタメもののなかに山ほどの胡椒をいれてしまったのをそのまま平気で出したりするのは、非現実的である。こういう雑な表現では、この男の個性が全然表現されない。
◆役者やみな個性的な連中ばかりだが、ロバート・デュバルもアンジェリーナ・ジョリーもウィル・パットンもデルロイ・リンドーも、全然活かされていない。だから、出る場面は多くないヴィニー・ジョーンズなどが光ってみえる。それにしても、ジョーンズは、いい役者だ。
◆アメリカには、フランスのレジスタンスなどにも見られた、ある種の「コラボレーション」文化というものがある。車の盗難のプロたちが再結集して、コラボレーションするのも、演劇でとのつど組まれる「プロダクション」が仕事をするのも、そもそも、映画を作るということ自体、この「コラボレーション」文化の産物である。
◆この映画では、ケイジとジョバンニ・リビージとの兄弟の関係(弟の命が盗難車の悪党ディーラーに握られているのを救う)が一つの核になっているが、ハリウッド映画には、兄弟愛、家族愛、恋愛・・・とにかく肉体が介在する愛は、聖域で、それを否定する者は「悪」であるという構図がしっかりとある。
◆「67年型シェルビー・マスタング」によるカーチェイスは、(カーチェース・シーンにうんざりしてからしばらくたつので)悪くないという気がした。でも、車がテーマで、ケイジは、この「マスタング」に始終語りかけるくらいフェティシュな態度を示すくせに、車そのものへの映画の姿勢は雑。
(イマジカ)



2000-07-21_2

●独立少年合唱団(Boy's Choir/2000/Ogata Akira)(緒方明)

◆こういうコンタンのある作品はダメだ。コンタンがあるから、出演者の台詞も嘘っぽくなる。いや、嘘っぽいという以前に、台詞が全然下手で聞くに耐えない。ベルリン映画祭では、そういうことは問題にならなかったかもしれないが。
◆父を失った子(伊藤敦史)が山のなかの全寮制のリスト教系の中学校に入り、そこでボーイソプラノをやっている少年(藤間宇宙)と出会い、ある種同性愛的な交流をするとう流れがあるが、これをメインにすればいいものを、ここにありがちな構図を導入してしまったことが失敗である。どうやら、緒方明は、全共闘コンプレックスからまだ抜け切れていないようだ。
◆その構図とはこういうものだ。中学校には、一見運動部の教師のように見えるが、牧師であり、音楽教師である男(香川照之)がいる。彼は、運動(こっちは政治運動)に愛想をつかして山奥にやってきたということが次第にわかる。(ここには、泉谷しげるや岡本喜八も出て来るが、彼らである必要が感じられない)。時は、1970年代の初めで、運動は後退し(権力は高度成長へと向かう)、孤立化のなかで、「極左冒険主義」や内ゲバへと内部収斂していった。この映画では、香川の背景は、新宿で交番爆破をしたグループの女性(滝沢涼子)が彼を頼って逃げて来るということから明らかになる。(あとで彼女を追って来る公安刑事の演技もダメだった)。
◆藤間が声変わりに悩みはじめた、ちょうどその時期に滝沢が、追いつめた刑事の前で自爆してしまうという事件が起こり、藤間は失踪。やがてあらわれた彼は、東京に行き
彼女の同志たちに会ってきたという。すっかり「革命運動」にかぶれており、声が出なくなったと偽り、伊藤敦史を自分の「声」(小声で彼にささやき、彼が拡声器の役をする)にして、合唱団を「革命集団」にしようとする。
◆教師や父親の子供が、自分では手を切ったことをたどり直し、運命の皮肉を味わうというありがちなパターン。もうそういうのはいいじゃない。
◆香川は、しきりに、「革命なんて起こりやしない」と言うが、彼が、廃材をもらってこつこつと自力で家を建てているのは、あまりに見えすいたパターンだ。党派的な運動はダメだ――自力の運動をというやつ。しかし、家だって「政党」みたいなものじゃないか。拠点という発想そのものがダメなのに、それを全然越えていない。
◆木材の労働者なんかを集めて香川は、聖書を読む会をやっているが、その退屈さはなんだ? こんな惰性みたいなことをやってもしかたがない。
◆滝沢涼子は、下手な役者ではないと思うが、彼女が、雨に濡れた身体をベットの上で拭いているシーン(汚れた、濡れた服のままベットに乗るか?)とか、飯をかき込む食べ方が全然ダメ。これは、監督がダメなのだ。
(メディアボックス)



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●Xーメン((X-MEN/2000/Bryan Singer)(ブライアン・シンガー)

◆ブライアン・シンガーは、ユダヤ人性にこだわりがあるようだ。冒頭のシーンは、1944年のワルシャワのゲットーである。両親から引き裂かれた子供が、超能力を発揮する。彼が、アメリカに渡って現代(「そう遠くない近未来」と表現される)をむかえたという設定。この人物マグニート(イアン・マッケラン)は、ミュータントのために人類を絶滅させようとする。対するは、(この映画では出自は明かされないが)ミュータントと人類の共存をはかろうとするチャールズ・エグゼビア教授(パトリック・スチアート)。
◆この映画のおもしろさは、話は空想的ながら、現に存在する人種差別や異文化の共生の問題などとテーマがダブりあっている点。が、他面、この種の映画は、宇宙に戦争をもっていくように、地上の差別や暴力をミュータントやVRの世界に移して、いいかげんにするという機能もある。
◆ドナ・ハラウェイも言ったように、われわれは、すでにサイボーグ(コンピュータと縁を切れない)であるのだから、それが遺伝子に書き込まれて、次世代に、ミュータントが生まれても、不思議ではない。
◆この映画の作り方は利口である。この手の作品では、あれやこれやもったいをつけた「高度」の技術装置をそろえるのが普通だが、この映画の登場「人物」たちは、とにかく、それぞれがその体内に特殊能力・機能をもっているということになっているミュータントなので、怪しげな装置をもったいぶってそろえる必要がない。
◆シリーズになりうるある種の雰囲気をすでにつくっている。目が怪しく輝くストームという女性ミュータント(ハル・ベリー)がいい。
◆変身したり、超能力を発揮したりするが、それが、(「普通の人間」があまり出てこないせいか)、見ている側の意識の高揚や揺れがない。これは、つまらないという意味ではない。音楽でも聴くように見てしまうということ。
◆デジタル・ドメインの技術が投入されているので、それらしいCGIが色々出て来る。
(ラ・テアトル銀座)


2000-07-19

●カノン(Seul Contre Tous/1998/Gasper Noe)(ギャスパー・ノエ)

◆ショットとショットとのあいだにピストルの発砲音にも似た激しい衝撃音が入る。映画は、この音のように衝撃的である。
◆冒頭で主人公(フィリップ・ナオン)の人生を、1枚約3~8秒程度のスピードでスチルを切り替えながら紹介する巧みなスタイル。
◆動きの映像を極度に圧縮し、動かない画面に突然それを入れるスタイルの効果。これによって、主人公の想像・妄想・空想・夢と「現実」的な知覚との距離を0にする。娘を銃で撃つシーンは、物語的には「空想」だが、それは、*現実*に起こったのだ。
◆ヘンリー・ミラーの『南回帰線』のような呪詛に満ちたモノローグ的ナレーション。臭いと肉との接触を感じさせる映像。愚かなことに、日本では、こういう映像にぼかしをかけなければならない。ということは、この新しいレベルの映像をまともに受け入れる余地がまだないということである。
◆暴力・セックス・老い・貧困・差別・・・の根源を挑発的に観客にたたきつける映画は、近年少なかった。
◆主人公は、偏見と差別感覚に満ち満ちているが、映画は、そういう気分と傾向の亢進に注意を」うながしている。主人公がたたずむ建物の壁に、「われらが国土」(Notre Sol)と書き、丸に十文字を描いた右翼のマークの落書きが見える。主人公が入ったキャフェで、アラブ人が、「コーヒーを一杯ください」というと、店主が、「ここにはアラブ料理はないよ」と嫌味を言う。
◆主人公が、金に困り、昔の知り合いを訪ねていくと、みな、落ちぶれていて、「おれはおまえと同じように、悪い星のもとに生まれた」という。この連中の尾婆うちからした感じがいい。
◆「なんて国だろう、あわれなフランス」と主人公はつぶやくが、国家主義は、国家への愛のためからではなく、国家への呪詛と憎悪から生まれることを思い起こさせる。そういえば、終わり近くに、主人公は、「愛しすぎる罪」ということを言っていた。
(メディアボックス)



2000-07-18-2

●ツイン・フォールズ・アイダホ(Twin Falls Idaho/1999/Michael Polish)(マイケル・ポリッシ)

◆Twin Fallsというのは、アイダホ州の南部の町であるが、このタイトルは、twin(双子)、falls(一腹の子)の意味も意識したタイトルになっている。
◆一卵性双生児の兄弟であるマーク・ポーリシュ(兄)が脚本を書き、弟のマイケルが監督し、二人で主演しているのだが、制作モチーフとしては、「シャム双生児」の実在しうるストーリーを作るというよりも、むしろ、双生児である二人の関係を、もし自分たちが「シャム双生児」であったらどうか、という方向へ、想像をエスカレートする試みである。
◆ストーリーは、(作中の医師の台詞では「死ぬためにやってきた」)「シャム双生児」の兄弟と娼婦(ミッシェル・ヒックス)の出会いであるが、そうした具体性を越えた哲学的な奥行きをも漂わせた内容になっている。これは、『エレファント・マン』とは異なる面であり、身体のくっついた二人の姿を映し出す映像も、哀れみや醜悪さを感じさせるよりも、非常にシュールな印象を与えるのである。
◆だから、ブレイクとフランシスとの関係は、「シャム双生児」や一卵性双生児に対してだけでなく、兄弟や友人同士、さらにもっと広い意味での二人関係、そして最後に、一人の個人のなかにある複数の人格同士の関係にもあてはまる。
◆兄弟は、この町に来るまで、サーカスで働いていたことがわかるが、二人がギターを弾くシーン、クラブに行き、一目にさらされるシーン、ヒックスとブレイクとが愛を感じ身体をよせあっているのを、眠りながら感じているフランシス・・・は、それ以上の意味をもつ。この世界は、外化された「意識」、「脳」でもある。
◆多くの人が、同じ皮膚に包まれ、複数の人格をむりやり「結合」(「シャム双生児」化)されている。切り離したい「自分」がない者はいない。
(徳間ホール)



2000-07-18_1

●サルサ(Salsa/1999/Joyce Sherman Bunuel)(ジョイス・シャルマン・ブニュエル)

◆『ブエナヴィスタ・ソーシャル・クラブ』以来というより、『ダンス・ウィズミー』でもすでに出ていた米ーキューバ関係の変化にともなって起こった「キューバ・ブーム」の流れのなかで見るとおもしろい。
◆映画としては、メロだし、話もありがちなパターン(サルサに惹かれる女性と、妙にサルサに興味を示す祖母――実は、彼女のかつての恋人がキューバから亡命したサルサの天才的作曲家で、娘の父は、その落とし子だった・・・)なのだが、見ているだけで心が解放されるような映画。あなたは、きっと、キューバに行きたくなるだろう。
◆出演者がみないい。ヴァンサン・ルクールの指、クリスティアンウ・グゥの目、カトリヌ・サミーのさりげない仕草、エステバン・ソクラテス・コバス・ブエンテ(映画初出演)の風格。
◆エステバンがルクールに言う、「キューバ人になりたいなら、苦しみを笑いで隠すんだね」。
(メディアボックス)


2000-07-14_2

●うちへ帰ろう(The Automn Heart/1998/Davidlee Wilson)(デイヴィッドリー・ウィルソン)

◆最近のアメリカで離婚に対する考え方が大分変わってきたことを示唆する。別に一般化する必要はないのだが、冒頭で、「アメリカの夫婦の3分の2から半分以上は離婚経験を持つ」というナレーションが入るから、そういう意識がこの映画にあることはたしかである。
◆離婚が子供たちにもたらす傷、親の離婚によって子供たちから失われたものへの真摯な目。
◆女手ひとつで3人の娘を育てた母は、デバインを思わせるがっちりした身体をしている。彼女は、去って行った夫を憎み、娘たちを彼から遠ざけたことが次第にわかるが、彼女は、初めの方ですぐに倒れてしまう。そして、自分の余命を予知したかのように、それまで話題にもしなかった息子(彼女らの弟――父が連れて行った)を探すように娘たちに言う。
◆ワーキング・クラスっぽい娘たち。長女は父への恨みが彼女の骨相を作ってしまったような感じのひねくれた感じの女。子供にがみがみ言う。夫はいない。次女は、太ったおおらかな感じだが、情緒が不安定。夫は失業中。子沢山。末妹は、知識はテレビだけで学んだような女。はすっぱな感じは隠せない。その彼女らが、いまでは富豪になっている父のもとで何不自由なく暮し、ハーバードに通っている弟を探す。
◆弟は、富豪の娘と結婚しようとしている。その娘の家で、ワーキング・クラス対アッパーミドルの対立が起こるが、その娘が柔軟で、決裂には到らない。
◆アメリカでは、ワーキング・クラスはタバコをやたら吸い、酒をがぶ飲みするのか?バーで踊り狂うとシーンは、彼らの内輪な感じがよく出ている。
◆1960年代に子供時代を送った子供たちの反省・反抗・復讐(制度と習慣への)。
(メディアボックス)



2000-07-14_1

●あんにょんキムチ(Annyong Kimchi/1999/Tetsuaki Matsue)(松江哲明)

◆映像は、アマチュア的、音も不鮮明だが、在日朝鮮人の世代の相違を素直に描き、可能性を感じさせる。
◆これまでの韓国人/在日朝鮮人の「つっぱり」がない。それは、自信を暗示するとともに、状況が変わってきていることを感じさせる。
◆最初日本に出稼ぎに来た祖父が、非常な努力をして日本に同化しようとし(日本人のいるところでは、日本人以上に日本人であろうとした)、そして実際に韓国を嫌っていたということを明らかにしながら、その一方で、自分の本当の所属先は韓国しかない(酒を飲むと一切日本語をしゃべらなかった)のだとひそかに思っていた屈折をも明らかにしていく。
◆日本姓を名乗っていた在日朝鮮人で、帰化できなかった者が死んだとき、火葬は、実名でしか出来ないという事実。火葬には、公的な許可がいるからである。が、このへんに、二重国籍や亡命をに消極的な日本の国家管理の強さが出ている。
◆アプローチしていった祖父、肝の座った祖母、帰化した父、母とその妹たち、自分の妹――それぞれに違う考えをありのままに提示している自由さと余裕がいい。
◆土地(故郷)、国家、家庭、個人の違いへの意識が育っている。
(シネカノン)



2000-07-12

●英雄の条件(Rules of Engagement/2000/Willian Friedkin)(ウィリアム・フリードキン)

◆久しぶりのフリードキン。あいかわらず映像の切れ味はいい。冒頭、ベトナムのジャングルでの闘いを熱く描く。
◆撃たれた瞬間、顔や身体にバケツ一杯の血があびせかけられたようなストップモーションになる映像が新鮮。ハイスピードの使い方もうまい。
◆2、3度使うので、ややがっかりしたが、死体を映すとき、群がるハエの羽音をうまく使っていた。
◆国家とは何か、国家への忠誠と、国家を形だけ守ること、国家をはずれること・・・国家悪とは・・・?
◆じっくりと描いてきて、最後はあっけなく終わる。すでに2時間以上使っているのだから、これが限度としても(時間の経過を感じさせない)、この終わり方だと、この映画で一度は明確に問題にされている「なぜ狙撃兵を撃たないでいきなりデモ隊に発砲したのか」という疑問とその犯罪はうやむやになる。そんなことは戦闘というものを知らない者の言うことだといっても、またデモ隊のなかから発砲があったとしても、非武装の婦女子が多数いたのだから、83人を殺した無差別発砲の罪は残る。フリードキンは、それらをすべて克明に描きながら、最後は、あたかも、体裁をとりつくろうホワイトハウスの文官の事実隠蔽のために着せられあ嫌疑をジョーンズが暴くというような話になってしまう。
◆裁判に勝っても、問題は残っていることを暗示したかったのか?
◆最初のベトナムのシーンで、殺されそうになり、人間の悲しさを顔一杯に現わしているようなベトナム人の表情がいいと思ったら、ドラマの時間のななで30年近く経った設定の軍事法廷に証人として出てきたとき、全く同じ表情をしているので、がっかりした。少しは変えろよ。
◆アメリカという国は、軍隊や家庭のそれぞれの結束のなかでつくられていることはよくわかる。だから、軍の仲間内、家庭の親子関係が強力に維持されることによって、アメリカ国家は機能している。国家をただの機能と見る近代主義者は排除される。この映画では、国際的な体面をとりつくろうとする安全保障局顧問ソーカル(ブルース・グリーヌッド)がその典型である。
◆近代国家は、その逆説として、国家をのものを解消していくところがあるが、アメリカは、一方でそういう方向を進みながら、他方では、つにに前近代的要素でエネルギーを吹き返すようなところがある。だから、アメリカは戦争をやめることができない。
(ギャガ試写室)



2000-07-06

●パーフェクト・ストーム(The Perfect Storm/2000/Wolfgang Petersen)(ウォルフガング・ペーターゼン)

◆Industrial Light & Magic自慢のハリケーン・シーンは、迫力に乏しかった。闘っている船乗りたちは、なんか「リポビタンD」状態(「男」っぽい力技のためだけに奮闘するばかげたシーンに終始するCMの映像のこと――念のため)。
◆港で男たち別れそれから彼らを待ちわびている家族・恋人・友人たちのシーン、救援隊の二重遭難のシーンにはやや見せるものがある。
◆ハリウッド映画だから、むしろ、嵐の大波をサーファーのように乗り越え、港に帰還するという設定の方がよかった。嵐の凄さが非常に人工的なので、実話とは見えないのだ。
◆メアリー・エリザベス・マストラントニオの女船長はいい雰囲気を出しているが、彼女だけやけに知的で、話から浮いている。もっとも、クルーニも、こういう無茶をやる船乗りとしては、知的すぎる。
◆舞台となるマサチューセッツ州グロースターの港町では、1620年代以来、1万人が海で命を落としたという。
(渋谷パンテオン)



2000-07-04

●オルフェ(Olfeu/1999/Carlos Diegues)(カルロス・ジエギス)

◆独特のテンポとコンテンツ
◆オルフェウスの神話と、それにもつづくブラジルの詩人モライスの『黒いオルフェ』とを再解釈したヴァージョン。マスセル・カミュの同名の映画も意識している。
◆警察署長は、私恨でも警官を動員し、一斉逮捕をしたりする。公的なもののない社会。
◆リオのスラム街カリオカの丘の俯瞰。
◆マフィアに狙われると、大体、崖から落とされるということになっている。恋人を落とされたオルフェが、断崖を下って谷底に行くと、恋人が木にひっかかるように倒れている。あたりは、あたかも地獄のよう。このへんちょっと歌舞伎的。このへんは、オルフェウスの神話に出てくる「死者の国ハデス」のイメージ。
◆「神も嫉妬する音」であるはずのオルフェのギターはまあまあ。
(映画美学校)



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