粉川哲夫の【シネマノート】 HOME リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い) |
2000-08-31_1
●薔薇の眠り (Passion of Mind/2000/Alain Berliner)(アラン・ベルリネール)
◆どこからおもしろくなるのかと思っているうちに終わってしまった。「生身」は、南フランスのプロヴァンス地方の片田舎にあり、夢のなかの自分がマンハッタンでキャリア・ウーマンをしている。どちらにも、それぞれ、さしでがましくなく好意をいだく男性、精神分析医がいる。画面が双方を交互にスイッチするうちに、どちらが「現実」なのかわからなくなってくる効果は多少あるが、特にそういう効果をねらっているわけではなく、一方はデミ・ムーアの「夢」、他方は「現実」と決めているので、深読みをする気がなくなる。
◆デミは、フランスでも「文芸批評家」らしいのだが、一回だけ出て来る(旧式の)タイプライターを打つシーンで、明らかにちゃんとした文章を打っていない雑な演技。ここで、もうダメ。
◆この映画のなかでは、"Don't forget me"という言いまわしがくり返し使われる。デミの娘も、フランスの恋人(ステラン・スカルスゲールド)も、ニューヨークの恋人(ウィリアム・フィッチナー)も、フランスの親友(シニード・キューザック)も、それぞれ、この台詞を言う。しかし、夢を見るということは、記憶の過剰さに身をまかせることであり、夢を見ないということは、何かを「忘れる」ことだ。記憶という点で構成しなおせば、もっと深みが出たはずだ。
◆キューザックが演じるややアル中ギミの女性にデミは、夫の死後(その原因は明示されない)精神的に彼女に頼っているらしい。いっそ、彼女への同性愛的な意識を押し出したようが面白くなった。
◆全体がプルースト的な円環(作家・記憶・ドラマ)になっているようなところもあるが、これも、中途半端。とにかく、駄作である。
(松竹試写室)
2000-08-31_2
●十五才 学校IV (Gakko4/2000/Yamada Youji)(山田洋次)
◆山田洋次の映画だと違うのだろうか、いつもとは一風ことなる観客が来ていた。それは、老人の夫婦のようで、映画をみながら、よくしゃべるのである。家出をして屋久島まで来た15才の少年大介(金井勇太)が、飯盒炊飯をしてたべようとするシーンでは、「あれ、うまいよねぇ」「おとうさん(夫のこと)もやったよね」とか、大介が、たまたま出会った(この映画はそれで成り立っている)老人(丹波哲郎)に連れられてカラオケ・バーに行き、へべれけに酔っ払った丹波を介抱しながら老人宅に帰って来ると、「あんなに酔っ払っちゃって、車運転できるのかねぇ」(行きは、丹波の猛烈乱暴な運転の車で出かけた)「あの子(少年のこと)は運転できねぇもな」といった会話をするのである。わたしは、山田洋次の映画らしくていいと思ったが、たまりかねが客の一人が、「静かにしなさいよ!」とどなり、静かになった。ただし、それは、全体の三分のにが過ぎてからだったが。
◆山田の映画は、精緻な映画ではない。アバウトな映画である。使われる方言は、テレビドラマ以上にいいかげん。九州へ向かう長距離トラックの運転手役の麻実れいは、演技自体は悪くなかった(ちょっとトビすぎ?)が、感情のこもる台詞で、東京弁になってしまうのだった。彼女の長男役の大沢龍太郎は、なかなかいい演技をしている。学校へ行かず、時代劇のビデオやジグゾーパズルにのめり込み、ほとんの家族とも口をきかない自閉症的役柄。ただ、大介との交流が、こんなにうまくいってしまう予定調和が、山田流なのだが。
◆妻(秋野暢子)が会社に電話してくると、いままで同僚と和気藹々とやっていた小林稔侍(大介の父)が、「なんだ、お前か」と言う。よくありがちなパターンだが、いまの時代もそうなのだろうか?
◆山田映画の問題点は、啓蒙とか、いかにものパターンでドラマを作ることだが、たとえば、最初に大介が乗せてもらった長距離トラックの運転席で、赤井英和と同上者の梅垣義明とに会話をさせ、それを大介が聞いているというシーンが「犯罪的」。つまり、これは、2人がたまたま会話し、大介がたまたま聞いているというシーンではないのだ。それは、そういう形式で、観客にドラマの背景や映画の趣旨を説明してしまうという魂胆が込めれれている。喧嘩が実は、第三者に見せる、聞かせるためのものであるというようなことは、現実によくある。しかし、そういう屈折した状況を描いているのではなく、そういう形を利用しているのすぎないのだ。
◆一見心情を吐露しているようで、意外と、核心がいいかげんなのも、山田映画の特徴。登場人物たちは、泣いたり、起こったりして、自分の感情・心情をあらわにするように見える。が、決して極限には至らない。日本社会というのは、実は、こうしたあいまいな情感で平均をとっている。この映画でも、すべての登場人物が、本当のところはわからない。その典型が、大介が屋久島で出会う女性(高田聖子)。明るく、元気で、親切だが、こういうシチュエーションなら、絶対に大介の側には少なくとも起こったであろう性的な情感が全く表現されない。逆に言えば、高田は、終始、新興宗教の信者かなにかのように、そうした感情を最初からシャッタウトしているようなのだ。そういえば、寅さんだって、本心はよくわからなかった。
(松竹試写室)
2000-08-24
●スペース・カーボーイ (Space Cowboys/2000/Clint Eastwood)(クリント・イーストウッド)
◆老年用の『ハックルベリー・フィンの物語』。マーク・トゥエインは、この物語で「庶民的アメリカ」のスタンダードを作った。言語的にも文化的にも。「アメリカ」の潜在的スタンダードを知りたければ、この物語を読むのがいい。同様に、クリント・イーストウッドは、この作品によって、彼が取り続けてきたものが、マーク・トゥエイン的な「アメリカ」精神だったことを認識し、また、われわれに知らしめた。
◆ここで描かれているのは、実際にありえない話だとしても、実際にあった話を映画化した『パーフェクト・ストーム』のようなうそっぽさが感じられないのは、イーストウッドが、映画=夢の古典的原則を具体化しているからだ。たとえ、それが、「古典」だとしても、古典を見る楽しみはある。イーストウッドの映画の見事さはここだ。むろん、『パーフェクト・ストーム』だって、所詮は「夢」を描いているにすぎないのだろう。『M:I2』だってそうだ。ただ、これらは、「夢」というより、薬物効果なのだ。自分で眠って見る夢ではなくて、注射や直接投与で神経システムがふだんと異なる動作をした結果としての感覚変化にすぎないのだ。
◆単純とはいえ、月に飛んで行ったトミー・リー・ジョーンズが、月の砂の上にうずくまる姿を映し、その瞬間に「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」を流すというスタイル――わたしは好きだ。
◆国家のためではなく、仲間のため。仲間の利害のためではなく、仲間の一人ひとりの自尊心のため、個人は強くあるべきだという信念、女性にもてることが価値だと思っている男性(ゲイもフェミニストも、存在する余地はない)――こういう発想は、イーストウッドでは一貫した基調だが、これがストレートに「右翼」的発想につながらないのは、問題の個人をそのつど具体的な場面に限定し、ヴィヴィッドに描くからである。個々の場で自分の力を十分に使っている個人がないがしろにされるとき、イーストウッドの怒りが爆発する。
(丸の内ピカデリー1)
2000-08-23
●バッドムービー (Bad Movie/1997/Jang Sunwoo)(チャン・ソヌ)
◆暴走続、ホームレス、ストリート・パンク、ホストクラブの有閑マダム、お触りバーの中年、口のなかにトイレットペーパーをかぎりなくつっこんで自殺しようとする青年――これらが、複雑にからみあい、不思議な現実感を生み出している。
◆「脚本も計画もなし」に撮ったというようなナレーション/テロップが出るが、ホームレスのズボンの尻ポケットに無線機のアンテナがちょっと見えるように、しっかりしたアレンジのなかで作られている。むしろ、作中でも言われる「チャンポン」がスタイルとして選ばれ、具体化されているのだ。チャンポンは、でたらめには出来ない。
◆往年のパンク・シーンへワープする感じ。日本には、パンクの模倣者はいたが、根っからのパンクはいなかった。この映画は、パンクを演じているが、演じることが実在するソウルのパンク(カルチャー)を呼び出したようなところがある。現実に、若干の距離を撮りながら、「本気」のクソリアリズムよりはるかにリアルに迫る。いわば、ブレヒト的「異化」を地でいっている。
◆ミュージックがいい。こちらは、本格パンク。ケータイの会話を使ったラップもいい。
◆地下鉄の自動改札を、しゃがんですり足で通ると、切符なして通れるとか、こういう街っ子の具体性を押さえ、集積しているところがいい。
◆ジャンケンして、負けた者が、通行人に小銭を「借りて」来る。韓国でもジャンケンはあるのか。
◆若者たちは、なにかというと、いきなり相手の頭を叩く。これは、日本のお笑いでよくあるスタイルだが、韓国の方が頻繁に相手をなぐる。身体文化。
◆ラディカル・チープカルチャー。ゲーム・アニメのパロディなんか見事。
(シネカノン)
2000-08-22
●ダンサー (The Dancer/2000/Fred Garson)(フレッド・ガルソン)
◆舞台挨拶は、大抵、マスコミへのおひろめを兼ねる。すでに記者会見をやっているのだから、そちらで済ませれば試写に来た観客は迷惑しないのだが、観客が(たくさん――出来れば叶姉妹も)いる風景が欲しいので、こういうやり方になる。挨拶にかりだされたゲストは花束贈呈に辟易している。今回、ベッソンの表情には露骨にそういう気分があらわれていた。それにしても、司会のクロの馬鹿でかく、かん高い声は何とかしてくれ。
◆耳は聴こえるが口がきけない妹インディア(ミア・フライア)と兄、その周囲の仲間という設定は、破綻がない。こういう設定では、子供を使うのと同じように、一応の「感動」に持ち込めるからである。実際、インディアがブロードウェイのオーディッションを受けるシーンは、なかなか見せる。素早い映像の転換も、初監督の仕事としては有望である。ただし、ミアのダンスがうまく見えるのは、映像の速い展開に依存している。ちょっと凝視しようとすると、カメラはインディアから他に移っている。
◆盛り込みすぎて失敗したところもある。インディアのダンスを偶然見た「サイエンティスト」のアイザック(ロドニー・イーストマン)が、迷っていた自分の研究のインスピレーションを受け、彼女の身体の動きに反応して音を出すシステムを作る。だが、このシステムは、10年まえならSGIのONIXのような超ワークステーションでわざわざ「サイエンティスト」が「研究」して構築しなければならない代物であったかもしれないが、いまでは、「モーション・キャプチャー」というよう名前で、既製品が売られている。アイザックが、学生で卒論のテーマを探していたというのなら、これでもいい。が、大げさな研究所で創造するようなものではない。
◆このシステムを使えば、インディアの手話を声に変えることも実際に可能だ。が、(わたしもこの手のパフォーマンスを何度もやっているのでわかるのだが)このようなシステムを映画や舞台で見せるとき、観客の側からは、いま聞こえている音が、目の前のパフォーマーがリアルタイムで出しているのか、それとも、プレレコーディングの音に合わせて動いているのか、がよくわからない。特に、映画のように、クラブで見せ物風にダンスを見せる場所では、なおさらである。
◆場所をニューヨークに設定しながら、あまりニューヨークらしくないのは、実際にはモントリオールで撮ったためでもある。映画には、微妙に空気が映り込むものなのだ。それと、いまのニューヨークでは、この映画のような、ヒップホップ調の音楽はもう古い。オーディッションでもそういう音楽が流れていたのは、信じられない。
◆最初、ボクシングの司会者のような口調でクラブのオーナーが、DJとダンスとの対決を宣言するが、ここに出て来るDJも古いタイプだ。スクラッチを競うようなスタイルは、10年遅れているのではないか?
(丸の内プラゼール)
2000-08-21
●いつまでも二人で (With or Without you/1999/Michael Winterbottom)(マイケル・ウィンターボトム)
◆北アイルランドのベルファーストを舞台にしたのはなぜだろうか? 北アイルランド紛争の時代が終わりつつあるという時代認識がウィンターボトムにはあるのだろうか? 夫ヴィンセント(クリストファー・エクルストン)は、元警官だったが、やめて、妻ロージー(デヴラ・カーワン)の父親の仕事(ガラス屋)を手伝っている。ロージーは、美術館の受付係。2人は、目下、必死に子供の製作中だが、なかなかうまくいかない。かげりが出そうな気配もある。そこへ、ロージーの昔のペンパル、ブノワ(イヴァン・アタル)がふらりとやってくる。彼は、ここへ来るまえは、イギリスにいたらしい。フランス人がイギリスで働いていて、うまくいかなくて、ベルファーストへ来るというのは、けっこう皮肉なことではないか?
◆スクリーンに2画面を出したり、遊び感覚と余裕。
◆美術館の上司は、スコットランド系で、さぼりに厳しい。陰で、「早く帰れ、スコットランドへ」という皮肉の歌うロージー。やがて、それがブ切れて、館内マイクで思う存分、この上司への不満をぶちまけ、からかい、職を捨てる。このあたりは、いかにもウィンターボトムらしいが、全体としては、小品指向が強く、限られた場所と人をしっかりと撮ろうとしている。この手の話は、えてして、単なる「三角関係」の話になりがちだし、それぞれの反応が読めてしまうものだが、この作品では、それぞれが、みな、自分に忠実に生きている。そして、その結果として、ドラマが起こる。
◆普通でいくと、ロージーは、ブノワに傾いて行って終わりになるところだが、ここではそうならない。アーティストよりも元警官を選ぶ。このへん、なんか意味深ではないか?
(メディアボックス)
2000-08-18_2
●アンジェラの灰 (Angela's Ashes/2000/Alan Parker)(アラン・パーカー)
◆タイトルは、アンジェラ(エミリー・ワトソン)の名前が冠されているが、フランク(ジョー・ブリーン)のナレーションではじまることでわかるように、すべては、彼の目で描かれている。としても、いつも雨が降っているアイルランド、リムリックの貧民街の雰囲気は実にそれっぽいリアリティを出している。画面は全体に緑がかっており、ぬるぬるした地面やスエた臭いを実感させる。
◆アイルランドからブルックリンに移民したが、食いつめ、カソリックに忠実な子沢山で、生活に窮し、再びアイルランドに一家で送還されるというもの面白い。もどったアイルランドでは、父親(ロバート・カーライル)が北アイルランド出身だというので、差別され、折から(1930年代)の不況で仕事がない。ようやく仕事が見つかっても、給料を酒代にしてしまう父。家族は飢え、教会のチャリティにすがるだけでなく、他人の食い残しを拾うありさま。その一方で、子供が生まれ、すぐに病気で死ぬ。悲惨な話であるが、半世紀まえにはこういうことがよくあったし、いまでも、世界のどこかで起こっている。
◆一貫した流れは、そういう家庭のなかで、長男ががんばる話である。が、立身出世物語にはなっていないところがいい。石炭の運搬を手伝って、ひどい結膜炎になってしまうとか、始めて郵便配達の職についたとき、叔母が(借金して新しい服と靴を買ってくれるシーン、他の配達夫がいやがる結核の女性の家に郵便を配達するが、門の前で転んで泥だらけになり、それが縁でその女性を愛することになるくだり(女性はやがて死ぬ)、地域に金を貸している老女のもとで(文才があるので)督促状を書くアルバイトをするが、ある日、その女性が急死しているのを発見し、あり金をいただくと同時に、金貸台帳を川に流し、住人の借金を帳消しにするくだり・・・・。
◆カソリックということもあるが、日常化された信仰心は、50年まえの日本でもまったくなかったことに考えさせるものがある。すくなくとも、映画の誇張だとしても、こういう要素は、西欧社会のなかに大なり小なりある。それは、人間関係を支配してている。日本には、そういう面から見たら、徹底して不信仰であり、誠実さや愛がない。これでいいのか?日本人は、今後、どこで自分を再出発するのか?
◆この映画には、なぜか吐くシーンが何度も出る。最初は、カーライルがパブで酔っ払って吐く。次は、聖体拝礼の祝いの朝食を食べて吐いてしまう。借家を追われ、祖母の世話で転がり込んだ家の主ラマン(母はいやいやこの男の性の従女になっている)の便器のなかの小便を街路に捨てにいかされたフランクが、その臭いに嘔吐する。
◆よっぱらった父が職を求めていった事務所で、酔っ払っていることを叱責されるときの台詞――「ギネス・ファミリーを潤す金はやれない」。
◆ひどい教師と冷酷は神父とが対比されるが、フランクの文才を励まし、「君の頭は宮殿なのだ」と励ます教師がいる。
◆監督パーカーの育ちが重ねられているので、アメリカへの憧れと賛美が基底にある。音楽はすべてジャズが使われている。
(東宝試写室)
2000-08-17_2
●シベリアの理髪師 (Sibirskij Tsiryulnik/1998/The Barber of Siberia/1999/Nikita Mikhalkov)(ニキータ・ミハルコフ)
◆巨匠がフランス・ロシア・イタリア・チャコ合作の潤沢な資金で製作した余裕の道楽。スタイルは、かなりスラプスティック調。アメリカからロシアに来た女ジェーン(ジュリア・オーモンド)が車中で若い士官候補生と出会う。再び偶然の出会い。愛し合うようになるが、運命のいたずらで男はシベリアへ。が、女は男の子供を身ごもる。母は子供とアメリカに帰り、その子が士官学校に入学するころ、過去を回想する。よくある形式だが、さすがは巨匠。決して飽きさせない。
◆茶めっけのある、セビリアの理髪師を歌うのがうまいアンドレイ・トルストイ(オレグ・メンシコフ)、ラドロフ将軍(アレクセイ・ベトレンコ)のように、酔っ払うとハチャメチャになるロシア人気質が、フェリーニ的な愛とゆとりの目で描かれる。
◆一見(ミハルコフ自身、アレクサンドル3世を魅力的に演じている――実際の皇帝は、こんなに魅力的ではなかったらしい)王政や軍制をノスタルジックに是認しているように見せながら、ちゃんと批判をしている。シベリアの強制収容所も、スターリン以前から歴然と存在したこともわかる。
◆「シベリアの理髪師」というたいそうな伐採装置を発明したアメリカ人(リチャード・ハリス)の存在、アメリカのマサチューセッツ州の士官学校の軍曹も、批判的に描かれるが、それは、結局、フェーリーニ的な「愛」に包まれて描かれていることがわかる。
◆終盤、ジュリアが、ようやく出獄後のシベリアの家を見つけ、訪ねるが、彼に会うことは出来なかった。馬車あで一人広野を走るジュリア。遅れて家に戻り、そのことを知ったアンドレイが追う。はるかかなたを走る馬車。このへんのテンポと空間性は、旧作『愛の奴隷』を思い出させる。
(ヘラルド試写室)
2000-08-17_1
●ことの終わり (The End of the Affair/1999/Neil Jordan)(ニール・ジョーダン)
◆『情事の終わり』のリメイクだが、どうして同じタイトルにしないのだろう? が、「情事」という言葉は、いまでは、フィジカルなセックス関係しか意味しなくなっているので、使えののだろう。
◆それにしても、こういうアプローチを見ると、日本人というか日本社会というか、日本の習慣のなかには、神との対決も自分との対決も非常に希薄だとう印象をおぼえる。
◆問題は、モーリス(レイフ・ファインズ)とサラ(ジュリアン・ムーア)との「情事」ではない。自分の友人スティーヴン(ヘンリー・マイルズ)の妻を愛してしまったということ、しかも、それをヘンリーのために探偵を依頼するという形で自己監視させるという二重性である。つまりは、知りすぎてしまうことの「罪」が問われている。
◆モーリスは神を信じない。ということは、人間には意識できないということは何もないと信じることである。彼は、サラと自分との逢引を探偵にさぐらせている。それは、伝えるかどうかは別にして、自分たちに対するスティーヴンの意識、他者の意識を認識するということである。自分のなかにはむろんのこと、他者のなかにも不分明なものはない。これは、意識とは「明晰判明」なものであるとするデカルト「主義」(デカルトの――ではない)的な思想である。
◆西欧人というか、西欧社会というか、とにかく西欧的な習慣のなかでは、ユダヤ・キリスト教が、神との対話・対決という形で、自分をとことん追求することが定着する。
(ソニー試写室)
2000-08-11_2
●サン・ピエールの生命 (La Veuve de Saint-Pierre/1999/Patrice Leconte)(パトリス・ルコント)
◆ラディカルであるということは、こういうことかもしれない。組織の外にいて「過激」なことをやるのは、それほど難しいことではない。そして、えてしてそのような「過激」な行為は、権力には何らの痛打も与えず、むしろ、権力に新たな弾圧のチャンスをあたえてしまう。
◆ジャン(ダニエル・オートゥイユ)は、19世紀のフランス領のサン・ピエール島の軍隊長であるが、彼は「パリ時代から一風変わっていて」、個人の尊厳や信念に忠実に生きることを実践している。彼の愛妻マダム・ラ(ジュリエット・ビノシュ)は、啓蒙・慈善・博愛といったいずれ一般化する「新思想」を生きているような女である。彼女は、「デブなのかただでかいだけなのかを確かめに行って」船長を殺してしまい、死刑を宣告された漁師ニールを自分の家で仕事をさせたり、文字を教えたりする。夫は、自分の仕事は、「死刑までのあいだ、受刑者の健康を維持させることだから」といって、ニールに対する妻の好意を積極的に支持する。
◆映画の時代は1849年に設定されている。パリでは、1848年の革命で成立した共和制が第2帝政に逆戻りしようとしていた時代である。おそらく、ジャンとマダム・ラは、共和主義者だろう。彼らは近代の人である。サン・ピエール島には王政主義者もいるが、共和制的な発想が黙認されるようなゆるやかな余裕もある。基本は王政主義だとしても、中央政府の意向に従っている。中央では共和制は形だけになっているとしても、遠隔の地サン・ピエール島では、逆にその型が守られる。これは、よくあることで、日本の明治維新も、ある時点に限ってみれば、本国ではとうに衰退してしまったようなことが過激に推進されるというようなことが起こった。
◆組織が完成されてしまえば、ギロチン(受刑者の苦痛を軽滅するために作られたという――「近代的」な処刑装置なのだ)を本国から取り寄せる必要などない。また、留置場がないので、ギロチンが本国から届くまで、死刑囚を軍隊長ジャンの家に預けるなどということもありえない。
◆マダム・ラと囚人ニール(エミール・クストリッツアー)とのあいだには、性愛の芽生えがないわけではない。夫も、妻の気持ちの揺れを知っている。そういう三者が、自分らの場を意識しながら、つかのまつくりあげるドラマと空間が感動的。祭りで使う移動家屋が坂で暴走するのを止め、乗っていた女性を助けたニールを村人は、次第に好意的にみるようになる。そして、一人の女がニールの子を身ごもる。制度がまだ固まっていない段階では、夢のようなことが起こる。二人の結婚。
◆ギロチンを乗せた船が沖に着いたが、座礁して、島に着くことができない。船を動かし、ギロチンを運ぶ仕事を村の支配者は募集する。が、誰も志願しない。ところが、ニールが、「妻子を養うのに金がいる」と言って、その仕事を志願する。その切実さと、そのとたんにいままで志願しなかった村人たちが、どっとその仕事に殺到する皮肉が胸を打つ。
◆映画の形式は、マダム・ラが、(あとでわかるのだが、夫の銃殺を)建物の窓から外を見下ろしているというシーンから始る。窓の外は見えないので、荘厳な音楽がなにか不釣り合いに感じられる。こういう始りは、意味があるのだろうか? それにしても、囚人をかばったことが、「反逆罪」にとわれ、銃殺刑に処せられるオートゥイユが、真っ白な絹のシャツで撃たれるのはいい。そういうときは、わたしも見習いたい。
(シネカノン試写室)
2000-08-11_1
●溺れゆく女 (Alice et Martin/1998/Andrw? Tw枋hinw?)(アンドレ・テシネ)
◆タイトルが全然ちがう。
◆母とタクシーダオライバーの、母のボーイフレンド(明らかにアラブ系)との生活は貧しいながら楽しげだが、10才のマルタンに転機が訪れる。実父が彼の世話をするということになり、会ったこともない父の家に行く。腹違いの兄たちは、比較的親切。が、詳しい生活描写はない。特に父親との深刻な対立のシーンもない。
◆本編は、成人したマルタンが、いきなり、屋敷の門から飛びだし、森を抜け、農家の納屋で卵を盗み、がつがつと食い、逃げる。なぜ、という感じだが、殺人とか、ショック名ことを体験したのだろうということはわかる。と同時に、なんで、そんなことを意味ありげに隠すのかという気もする――要するに、表現方法が気にいらない。
◆パリに住んでいる義理の兄バンジャマン(マチュー・アマルリック)を訪ねていったら、「性的関係はない」が同居している女アリス(ジュリエット・ビノシュ)に遭う。パンジャマンはゲイで、彼女は、彼との距離を置いたつきあいを好んでいる。マルタンは、急速に彼女に惹かれていく。
◆このへんになってきて、スタイルにある種の一貫性があるなと思うのだが、マルタンは、通り掛りに「モデルにならないか」と女に声をかけられ、バンジャマンから、「あやしい商売じゃないか?」といわれながらも、その事務所に行く。そして、またたく間に、町中に写真が出るほどのトップモデルになってしまう。つまりマルタンの人生は発作的であることに特徴があるのだが、映画のスタイルは必ずしも発作的ではなく、また、彼の発作性を肯定するわけでもない。
◆CMの撮影でスペインのグラナダへ行ったが、アリスに妊娠を告白されると、急に落ち込んでしまい、仕事を放りだして、海辺の家を借りて、だらだらとすごす。金が次第に底をついてくる。そして・・・
◆ビノシュがもったいない。
◆この映画では、ワインよりもビールを飲むシーンが多い。アリス、バンジャマン、マルタンが始めて会い、仲良くバーに行ったときも、ビールを注文していた。マルタンが有名になって、シャンパンを飲むシーンはある。ビノシュが、マルタンの秘密を解明するために故郷の村に行ったときも、レストランで取ったのは、シチューのような食事とビールだった。
(東宝試写室)
2000-08-10_2
●ハリウッド・ミューズ (The Muse/1999/Albert Brooks)(アルバート・ブルックス)
◆おもしろいが、シャロン・ストーンも、マーチン・スコセッシも、ジェイムズ・キャメロンも、えらく安っぽく見える。「ミューズ」を感じさせるような女として登場するシャロンは、ただのおばさんに見える。スコセッシなどは、「今度ね、ヤセ男を使って『レイジング・ブル』のリメイクを作るんだ」なんてセリフを言う。やめてほしい。その点、いいかげんを地でいっているロブ・ライナーなどははまり役だった。
◆おもしろいのは、脚本家(アルバート・ブルックス)とユニバーサル・スタジオの製作者(Mark Feuerstein?)とのやりとり。訳もツボを押さえていた。flat--->めりはりがない、you lost edge--->キレがない
◆たしかに、もの書きが壁にぶちあたったら、シャロンのひょうな女に遭い、ひっかきまわしてもらうのがいいのだろう。が、その意味では、ひっかきまわし方が甘い。もっと破天荒でいい。シャロンが、精神病院を逃げ出した多重人格者だったという線はもっと使えた。ブルックスの妻役のアンディ・マクダウエルと仲良くなり、彼女を菓子屋にするのも、子供にも安心して見せられると思う親を意識したようなPGレイト・レベルのプロット。
◆ハリウッド映画にせよ、小説にせよ、こういういいかげんなヒラメキで出来上がるものだし、創作とはそういうものだから、シャロンが、思いつきをサジェストし、ブルックスが、「あ、そうか}とインスパイアされるシーンは、なかなかいいんだが、レベルが低くすぎるのだ。もっとあっといわせるような思いつきを出しなよ。笑いがテレビのホーム・ドラマ以下だ。70年代に『サタデー・ナイト・ライブ』の脚本を書いたブルックスはどこへ行った?
(ギャガ試写室)
2000-08-10_1
●U-571 (U-571/2000/Jonathan Mostow)(ジョナサン・モストウ)
◆寒さと孤独と不安を起こさせるような雰囲気の水中のぼんやりした映像からはじまり、それが突然眼球のアップに収斂する。潜望鏡から見た水中の映像という設定。すでにここで、この映画におけるマシンと人間との関係が示唆される。
◆この映画で描かれる戦争のロジックは、戦争とは機械的なものだということ。人間は、それに従うか、従いそこない死ぬかのいずれかである。人情やヒューマニズムはすべてこのロジックにははいらない。
◆最初の方で比較的長くUボートのドイツ軍がイギリス海軍の攻撃で故障を起こし、機械と格闘するシーンが続く。ここでは、アメリカ映画にありがちないかにも「敵」を蔑視したり、憎悪したりする描写はない。きわめて「客観的」である。
◆ドイツ軍が、救助を求めて漂流する「敵」軍のゴムボートに出会い、自動小銃で皆殺しにするシーンがあるが、そこでも、射撃を命令されてためらう若い軍人に対し、上官は、「ヒトラー総督はそうせよと命じている」と言い、命令をくり返す。つまり、彼らは、非情だからそうするのではなくて、命令だからそうするのであり、それは、別にアメリカ軍においても同じなのだ。
◆一転してダンス音楽とシャンペン・グラスの音がきこえる華やかシーンになる。海軍の制服を来た若者たち。艦長になれなかったマシュー・マコノヒーが上官に不満をもらし、「君はまだその器ではなかったのだ」とさとされるシーンが挿入されるが、この伏線の意味がやがてわかる。この映画は、危機に瀕したとき、部下から「どうします?」と聞かれて、"I don't know"と言ってしまった(とたんに部下の態度が引く)(人間らしい)マコノヒーが、戦争のロジックに習熟するプロセスが主要なテーマとなるからである。
◆ベンチャー・ビジネスの時代になって、ふたたび、軍のロジックが見直されているような気がする。そういえば、IT革命のイニシエーターと言われるジム・クラークは、軍の出身だ。
◆マコノヒーが、ぎりぎりのところで考えた戦略は、海底180メートルのところまで奪取したUボートを潜水させ、沈没したと思わせ、急に浮上して最後に残された1発の魚雷で水上の駆逐艦を倒すというもの。この戦略に成功したとき、ベテラン軍曹(ハーベイ・カイテル)は、「今後、どこにでもついて行く」というような忠誠の言葉を吐く。
(ギャガ試写室)
2000-08-09_2
●スリ (Suri/2000/Kuroki Kazuo)(黒木和男)
◆いま「イケてる」場所とみなされている隅田川沿いのエリアを舞台にしている。最初の20分間は、いまの東京を活写する映画が生まれたと思わせる。が、長くはつづかない。魚眼レンズを使った鈴木志郎康風の映像など、おもしろい視角もあるが、全体としては、NHK調。
◆中心はアル中で腕がにぶってしまった初老のスリ海道(原田芳雄)。彼をつけ回しながら、決して捕まえない刑事(石橋蓮司)。この2人を軸にするだけでも、相当味のあるドラマが作れるのに、この映画は欲ばって色々入れすぎて、テーマが拡散してしまった。アル中の更生会――そこに1度だけ出席した原田に好意をいだいている主催者の風吹ジュン。彼女も、過去は半端じゃなかったらしい。が、この会に出て来るそれぞれ「個性的」な連中が生み出すドラマが、原田とは無関係に動く。原田が育てた娘(真野きりな)は、「動物愛護センター」(実際は、捕まえた野犬を拘置し、時間が来ると毒殺して焼却する施設)で働いているが、育ての親の影響でスリの特技があり、通勤途中に、痴漢を誘導しながら、痴漢から金をスリ取る。
◆真野のボーイフレンドは、原田にあきがれ、弟子入りするが、秋葉原のスケボー広場で「スリーカード・モンテ」をやっているところへ、街のヤクザ(川島郭志)に脅され、暴行を加えられる。川島は、実は、真野の兄で、原田に育てられたが、なぜか、原田を憎み、家を出て、やくざになった。このあたり、必然性の説得力がない。だから、終わり近くになって、せっかくアル中を克服して、手の震えをおさえ、満足のいくスリ・パフォーマンスを実行しようとした原田をつかまえ、さんざん暴力をふるったのち、指をつぶすというくだりがあるが、全然納得がいかない。ただただ、不愉快な印象のもを残す。大体、元世界ジュニアバンタム級チャンピオンだった川島のどこに出演の意味があるのか?
(松竹試写室)
2000-08-09_1
●宮廷料理人ヴァテール (Vatel/2000/Roland Joffe)(ローランド・ジョフィ)
◆どこかすっきりしない作品。デッサンで見る実在のヴァテールは、繊細な詩人のような顔をしているが、ジェラール・ド・パルデューは、いかつい男。大体、ド・パルデューは、料理人の役には向かないはず。ティム・ロスの演じ侯爵も「イジワル」男の演じ方がワンパターン。
◆華麗な料理とスペクタクルな宴のシーンがふんだんに出て来るが、少しも華やいだ気持ちになれないのは、基本に王室批判があり、ルイ14世の体制がいかに陰惨で非人間的な要素を持ち、ヴァテールはその犠牲者であるということがあるから。最初のほうのシーンで、国王が糞をしているが、これも、王室批判。
◆ジュリアン・サンズ演じるルイ14世(太陽王)は、王というよりも、トーク・ラジイオのスターのハワード・スターンそっくり。
(ヘラルド試写室)
2000-08-08
●17歳のカルテ (Girl, Interrupted/1999/James Mongold)(ジェイムズ・マンゴールド)
◆精神病院に入れられたスザンナ(ウィノナ・ライダー)の目を通して、病院のさまざまなイデオシンクラシを持った仲間たちが描かれる。みな、弱さを隠すために攻撃的に出たり(アンジェリーナ・ジョリー)、嘘をつきまくったり(クレア・デュバル、ブリタニー・マーフィ)、暴れたり(エリザベス・モス)するというワンパターンの因果関係が前提されているように見えるところもある。が、出演者は、みなファーストクラスの演技。
◆60年代という造反の時代が、女性だけの精神病院という「特殊」な場で描かれている側面。薬依存と官僚主義的な病院批判。この病院は、ある意味で造反者の拘置所なのだ。スザンナは、元活動家だったような暗示もある。サロンのテレビには、徴兵のTVニュースが流れる。スザンナは、「フランスの労働者のタバコ」だといって、ゴロワーズを吸う。明らかに、彼女は、「五月革命」を知っている。スザンナとカナダへ逃げようという青年。女性患者たちが、アンジェリーナの扇動で、別棟の使われていない部屋に行き、夜中に乱チキ騒ぎをするシーン。60年代的「無礼講」。
◆ここでも、『オズの魔法使い』の話が出て来るが、アメリカでは、『オズの魔法使い』は基礎的な民話なのですな。
のパワフルな演技、の
(ソニー試写室)
2000-08-07_2
●オータム・イン・ニューヨーク (Autumun in New York/2000/Joan Chen)(ジョアン・チェン)
◆このタイトルは、有名なソングにもあるが、今回は、てっきり日本で安易につけたと思ったら、そうではなかった。しかし、考えてみると、この一見甘ったるいタイトルには、autumn=秋・晩期・黄昏などの含意が込められているのかもしれない。メインになっているウィノナ・ライダーとのはかない愛とは別に、この映画では、見捨てた娘との再開、娘への責任の再行使というテーマがある。だから、最後のシーンは、いまでは子を持った娘(ヴェラ・ファミーガ)とリチャード・ギアがセントラル・パークでのんびりとボートに乗っているシーンになる。
◆トライベッカに設定されたレストランのオーナーシェフを演じるリチャード・ギアが、自分で朝食を作るシーンがある。マシュウルームとトマトを入れたオムレツはうまそう。レストランの仲間たちと食べる昼食は、サラダ風の冷たいパスタだった。大きなボウルに野菜をたっぷりいれ、そこにアルデンテのパスタを移し、かきまぜる。すでにテーブルについている仲間たちにギアみずからとりわける。うまそう。
◆アメリカ映画のハッピーエンドは有名だが、ウィノナ・ライダーをどたんばで生き返させるほどの単純なハッピーエンドは卒業した。それと、エイズ以後、アメリカの観客も、死との共生に慣れてきた。いまハッピーであるのは、安らかな死であり、そして、80年代にはまだあたかも当然のように考えてきた離婚や嫌いになったらあっさり別れるというライフスタイルに対する反省、幸せにしてやれなかった子供(たち)への「つぐない/あがない」である。
◆ウィノナ・ライダーの年令不詳な感じが最高に活かされている。夭折する人間がよく持っている、年令を越えた落ち着きや魅力を鮮やかに演じている。
(みゆき座)
2000-08-07_1
●ホワイトアウト (Whiteout/2000/Wakamatsu Setsuro)(若松節朗)
◆「リアリズム」を見て欲しい作りなのに、友人の遭難死に対して涙する織田裕二の目には、オーバーな悲しみのゼスチャーとはうらはらに、一滴の涙も見られない。同様に、「過激派」に占拠された発電所を、パイプを伝って逃れ、気づいた「過激派」が放水バルブを開け、大量の水に流されて外に押し出されるというとんでもないパニックに出会いながら、おざなりにメイキャプされた「傷」と芝居がかった疲労の演技のはかは、ほとんど消耗の跡が見られない。要するに「スーパーマン」映画なのだ。なら、「ヘンシーン!」の身ぶりぐらいしろよ。
◆「過激派」集団が、一分のスキもなく、着々と発電所を占拠し、「要塞」化してしまうプロセスのシーンは、(ためらいもなく人を撃ち殺してしまう――アメリカ映画にアリガチのシーンを黙認するとしても、少なくともテンポは)悪くない。電力企業に恨みをいだいている元会社員がこの集団に入ったというくだりも黙認しよう。そして、クールな技術知識でこの「要塞」をコントロールし、企業と警察を手玉に取るくだりも、悪くないと言おう。が、最後に、身の代金を巧みな方法で手に入れたあと、逃げ出そうとするボス(佐藤浩市)のくだりは、反動的である。これだけ、精緻な占拠をくわだてたなら、よほどの対抗ドラマがなければ、その行為を敗北に追いやることは難しい。そんなクダラナイ理由で占拠したんなら、話につきあって損した、という気持ち。
◆作られた「田舎者」を演じている中村嘉葎雄は地元警察の署長。アメリカ映画でFBIと警察とが対立して見せるように、地元警察と本庁とが対立するが、中村のねちっこい、経験に裏打ちされた鈍重な思考が勝つ。しかし、このキャラクターのどこにそんな能力があるのか? これもアリガチなパターン。
◆松嶋菜々子が演じる、銃など撃ったことのないかぼそい女性が、急に、反動も見せずに軽々と自動小銃をぶっぱなすんだから、驚く。
◆たぶん、こういう映画は当たるだろう。それだけの宣伝もされる。しかし、こういう「リポビタンD」CM的なガセ映画に観客が集まるのはなぜか? 『M:I2』も『パーフェクト・ストーム』だって、同じ。世の中、バカばかりなのか?
(東宝試写室)
2000-08-03
●五条霊戦記 (Gojoe/2000/Sogo Ishii)(石井聡互)
◆冒頭、制作の「サンセットシネマワークス」のロゴが出るが、これって、RedHatLinuxのロゴに似すぎてない?
◆浅野忠信が、絶対に傷つかない空想性がいい。つまり、彼は、そもそも「この世」の者ではないのだ。
◆鄭義信の少進坊主は、マンガ的。
◆隆大介弁慶には、血だらけになってリングをのたうちまわっている格闘技の闘士のような感じがある。ダサく、人間を恨みながら、人間を捨てきれない。そのへんの揺れが、赤子を生む女を助けるシーンによく出ている。
◆存在のよりどころを異にする3つのキャラクター。遮那王こと源義経(浅野忠信)がよって立つのは、修験道の一種。不動明王を信じる弁慶。死者の刀を拾い、売買し、功利のみを信じる鉄吉(永瀬正敏)。「すべて神仏は無用。我が信ずる神は我のみ」とする浅野に対して、神仏に未練を残している弁慶。両者のはざまで唯物的に生きる永瀬。
◆義経と弁慶との闘いは、テクノロジー合戦。弁慶は、あの7つ道具を身につけている点で、古いのか、新しいのか? 浅野は剣のほかは、「見えない」技術を駆使する。
◆500年まえの闘いが、現代の映像の闘いとしてワープしているという(少しホメすぎ)の片鱗を感じさせるシーンもあった。
◆わたしは、「阿闍梨」が出て来る話は、どこかではしょりがあると思っている。論理的にあぶなくなると「阿闍梨」が現れて解決してくれたり、ちゃんと描くと手間がかかる場合に、「阿闍梨」の説法などで省略することが多い。舞踏家勅使川原三郎の阿闍梨は、成り立ての2代目坊主のような感じで、そういう省略機能すら発揮せず、かえって余計な感じを与える。阿闍梨は便利なメタファーだが、ぶちこわしのメタファーともなる。
◆この映画では、義経のニヒリズム(彼の価値観はこの世にはない)も、弁慶のポシティヴィズム(反逆しながら人間を肯定する)も、相殺してしまう。日本の中世は、かくして、ニヒリズムを徹底的に経験することも、ポジテヒヴィズムを開いていくこともできずに、あいまいな擬制、歴史のとり繕いのなかへ迷い込んでいく。映画の大詰めは、そんなことを考えさせた。
(東宝試写室)
2000-08-01
●金髪の草原 (Kinpatsu no Sogen/1999/Isshin Inudo)(犬童一心)
◆「ボケ老人」を老人として出さず、そう思い込んでいる姿で出すという着想が成功ししている。ただ、「青年」ボケ老人を演じている伊勢谷友介の台詞まわしと演技がどことなく頼りない。この頼りなさは、ほかの映画では活かせるようなユニークさがないでもないが、全体として、映画の力をそいでいるような気がする。トボけた感じは悪くないが。
◆風貌と口調(「何をしてるんでフか」)が小娘的なヘルパーの池脇千鶴が、老人の「求婚」にとまどいながら、最後に、それを受け入れるプロセスは感動的。老人に自殺(ただし、彼は、空を飛びたかっただけかも)させたりしないで、そのまま結婚にまで持ち込むか、「これが夢なのか、現実なのか確かめたい」と言って屋根に登った老人と一緒に空に舞い、ストップモーションで終わるとかいう結末のほうがよかった。(パンフレットには、伊勢谷と池脇が空中で浮かんでいるショットがあるから、そういう終わり方も想定されていたのではないか?)
◆この映画でも、メシを食うシーンは全然ダメだった。
(映画美学校)
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