粉川哲夫の【シネマノート】
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2000-10-27

●天国までの百マイル(Hundred Miles to Heaven/2000/Hayakawa Nobutaka)(早川喜貴)

◆通常の試写会とは若干違う客層。劇場関係者と放送関係者らしき人たち。が、隣に座ったのは有名な映画評論家のS氏だが、当然、わたしのラジオパフォーマンスのような音がかすかにしたので横を見ると、氏が(まさにわたしが使っているのと同じSONYの)小さなポータブルラジオを手にしていた。音は、イヤホーンから漏れる音だった。待ち時間にラジオを聞くとは面白い。
◆冒頭、小公園のベンチに男が寝そべっている俯瞰。ホームレスに見えるが、それを見つけたホームレスが近づき、彼が枕にしているものを取ろうとする。その光景を見つけた警官が近づき、ホームレスを叱る。「俺の雑誌なんだ」とホームレス。目が醒めて立ち上がった男(時任三郎)は、ホームレスというよりも、背広を着たサラリーマン風だった。あわてて商店街を走り、ビルのなかへ。会社をつぶしてしまい、友人の会社に世話になっているが、さっぱり仕事をしないという背景を物語る一連のシーン。
◆浅田次郎の原作の基本テーマであるわけだが、「女は母なり」が基調にあるドラマ。わたしなんぞは、そういう女に興味がないので、このテーマを軸に人を泣かせようとしているのがミエミエで腹が立ってくる。が、一つのエートス、基本情念を軸にしてドラマを組み立てるテクニックとしては、この映画は、水準に達しているし、役者もそろっている。
◆そういう役をこなす上で、大竹しのぶは、定番だ。彼女は、バーのホステスをしているらしい。時任三郎は、昔、銀座のバーにいたときの客で、彼を同居させている。彼が別れた妻に払う月30万の養育費も、彼女が払っている。用事で妻に会いに行く時任に金を渡す気づかいまでする彼女。要するに「母親」なのだ。
◆大竹が、生い立ちを語るシーンがある。彼女は、父親に可愛がられるが、母が死んだあと、父親は、彼女と性関係を持つ。後妻にその現場を見つけられ、家を追われた。が、彼女によれば、「おとうさんは、あたしのなかにおかあさんを見ていたのよ」。つまり、この父親にとって娘は妻であり、妻=娘は「母親」だったのだ。
◆このエピソードは、『鉄道員(ぽっぽ屋)』での広末の存在意味を明らかにする。彼女もまた、「母親」だったのである。浅田次郎は、徹底した天皇制主義者である。というのも、天皇制とは、すべてを「母」なるものとして包み込む制度のことだから。
(シネカノン)



2000-10-24

●グリーン・デスティニー(Wo hu cang long/Crouching Tiger, Hidden Dragon/2000/Ang Lee)(アン・リー)

◆『マトリックス』の技法をこんなやり方で使えるとは思わなかった。見事。痛快。
◆チャン・ツィイーが意地悪っぽく、ミシェル・ヨーがおばさんぽく闘う姿は、妙に感動的。ツィイーの「家庭教師」役のばばあも、猛烈強い。いままで普通に見えた女たちが、身構えるとみな凄腕なのは、どこかセクシー。
◆圧巻は、竹林での闘い。竹のしなうところをうまく利用した効果。
(ソニー試写室)



2000-10-20_2

●ホテル・スプレンディッド(Hotel Splendide/2000/Terence Gross)(テレンス・グロス)

◆タイトルが象徴的。馬鹿げた儀式と規律が支配するミクロな特殊世界を描きながら、それが、近年のイギリス社会の変化(規律偏重からの脱出)、さらには、イギリスにかぎらず、抑圧的システムの何たるか、そしてその崩壊はいかにして起こるかというレベルにいたる射程を含む傑作。
◆規律のゆえに追われた女性副シェフの帰還。はからずもまた料理を作ることになると、彼女は、「療養所」の型にはまったまずい料理をやめ、イタリア料理にしてしまう。これは、70年代以降に、イギリスの街にイタリア料理店が増え、イギリスの味覚が変わったことを思い浮かべると、かえって笑える。
◆治療を日常化しているホテル。現代は治療社会だが、治療とは、病気を創造することによって持続する。
(松竹試写室)



2000-10-20_1

●BROTHER(Brother/2000/Takeshi Kitano)(北野武)

◆悪くない。今度はいい。
◆たとえば、電車を降りようとすると、開いたドアの前に突っ立っている奴がいる。「どけよ」と言いたくなるが、普通は言わない。悶着を起こしたくないからだ。が、この映画は、そういうときに、いきなりピストルを出して相手を撃ち殺してしまう。このことをもって、「道徳家」は眉をしかめる。こういう映画は、人の命を粗末にする社会傾向を助長すると。しかし、そういう「道徳家」は、映像のなかの世界と「現実」とは決定的に違うのだという教育の重要性を説くことはない。本当は、違うからこそそいうシーンに意味があるのだ。北野武が暴力を描くとき、こうした映像世界と「現実」とのあやうさをテコにしている。
◆「日本人」というものをテコにしている面もある。日本人はなぜ主君のために腹を切ったり、会社に滅私奉公したり、西欧的な発想からすると不可解なことをなぜやるのか――という問い。そして、それにもかかわらず、個々の日本人はそういう「日本人」である自分を卑下しているのはなぜか――という問い。こうした問いを、北野は、大胆に裏切って見せる。そいつが「文化」ってもんなんだよ、と。
(ソニー試写室)



2000-10-17

●ダイナソー(Dinosaur/2000/Ralf Zondag)(ラルフ・ゾンダッグ)

◆開映15分まえになってしまったので、いつも座る前の席が埋まっていた。前評判がいいので、多数がつめかけたようだ。
◆「映像革命」と言われたほどのものではない。破綻はないが、恐竜や動物たちのテクスチャーはやや粗い。アニメの水準は越えている。
◆冒頭、「最も小さなものがすべてを変えることがある」というナレーション。アメリカでは、いま「ミクロ・レヴォルーション」の発想があたりまえになっている。70年代の「スモール・イズ・ビューティフル」が制度化したのである。
◆この映像の導入部は、地上・空・海が有機的にとらえられ、映像化されていることだ。少なくとも、教育映像としてはすぐれている。
◆草食恐竜イグアノドンが肉食恐竜カルノタウルスに襲われ、1個の卵が数奇な運命をたどってキツネザルのファミリーのもとにとどく(小型恐竜アヴィラプトルがくわえ、空飛ぶプテラノドンに奪われ、そのくちばしからこぼれ落ちて森へという描写はダイナミック)。このシーンは、かつて、恐竜とキツネザルとの共生が実現することがあり、それが、人類における馬と人間との共生へと受け継がれたといった壮大な歴史を想像させる。
◆傷ついた肉食恐竜に、キツネザルの母親が薬草をもっていくシーンは、大地がひからび、水もほとんどなくなった状況では、そんなものどこから手に入れたのだとうという疑問を起こさせ、「敵をも愛すべし」というメッセージの表現のために用意さらたプロットという感じがする。
◆大脱走を指揮するイグアナドンのリーダー「クローン」が、次第にその威圧的なやり方で支持を失っていく過程は、大幅に変わりつつある政治や管理の様式の変化に対応している。キツネザルのもとで育ったアラダーは、ニューフェースで、敵対よりも連帯を、対決よりも連帯して威圧を武器にして肉食恐竜の攻撃をかわす。
◆ディズニー・アニメ一般、とりわけこの映画によく現れていた教育効果。ある種の「民主主義」。が、同時に、「外敵」への対峙法の教示。アメリカ的国家教育。
◆ゴジラは日本の産物だというが、爬虫類への近親性という点では、アメリカの方が日本より、はるかに強いのではないか? これは、どこから来るのだろうか?
(ブエナビスタ試写室)



2000-10-13

●ハムレット(Hamlet/2000/Michale Almereyda)(マイケル・アルメレイダ)

◆2000年のニューヨークに「生きる」ハムレット。ビデオ中毒のハムレット。作りは安い。ゲバラやフーコーの写真が飾ってある部屋。なんかねぇ~。
(松竹試写室)



2000-10-10

●三文役者(Sanmonyakusha/2000/Shindo Kaneto)(新藤兼人)

◆30分以上たって入ってきたひとが、前の方の補助イスに座ったが、しばらくして、その人のカバンのなかからかなり大きな音でラジオが鳴り出す。いまどき、カバンにラジオを入れているひとも少ないが、それが鳴ることもめずらしい。
◆殿山泰司の半生を描く。生前の殿山の姿を見たことは何度もある。うんと昔、ジャズのコンサートか、ジャズクラブかで見たが、よく見たのは試写会だった。この映画にようると、彼が試写会に来るのは、仕事がない時期だという。映画には、横浜のちぐさ、新宿のPit-Innなどが出てくる。
◆竹中直人は、殿山の「暗さ」や「鈍重さ」がないので、基本的に無理なキャスティングだが、言いまわしをまねて、一所懸命殿山を演じようとしている。明るい殿山になったことは否めないが、竹中の嫌みな(媚びた)感じは希薄である。
◆半生のパートナーであったキミエを演じた荻野目慶子が、抜群にいい。「正妻」を演じた吉田日出子も悪くなかった。
◆新藤兼人は、音羽信子の対談クリップか何かを使って、それをあたかも作中の殿山に語りかけるような調子でしゃべらせる。この画面だけ大分他とトーンがちがうので、流れをさえぎってしまう。が、新藤としては、音羽をはずすことはできなかったのだろう。とはいえ、自分を、雨の日に傘をさして釣りをしている遠景から撮るとかしたように、音羽も、一歩後ろに控えさせた方がよかった。殿山と音羽が共演する映画のシーンを頻繁に使っているのだから、それ以上、別のトーンの音羽を出す必要はなかった。
◆竹中の語り、殿山の著書からの引用、『裸の島』、『愛妻物語』、『どぶ』、『銀心中』、『人間』、『母』、『鬼婆』、『悪党』、『落葉樹』などからの引用からなるセミドキュメンタリー。モキュメンタリーの要素は感じられない。あってもよかった。
◆殿山が、晩年、注文が少なくなり、ちゃぶ台の上に乗った電話のかたわらで、ミステリーを読みながら待っているシーンが身につまされる。皮肉なことに、病に冒され半年の命(キミエは本人には言わなかった)となったときになって、矢継ぎ早に注文が来る。
(メディアボックス)



2000-10-06

●ダンサー・イン・ザ・ダーク(Dance in the Dark/2000/Lars von Trier)(ラース・フォン・トリアー)

◆普通のことはやりたくないという(ことをたえず自己顕示していないと気がすまない)フォン・トリアの面目躍如の冒頭。映画史上最も長い何も映らないシーン。音は、主演のビヨークが書いたオーケストラ「オーヴァーチャー」。わたしは、最近、目の状態がよくないので、この冒頭は、失明の不安をあおる。セルマ(ビヨーク)は、映画のなかでどんどん目が見えなくなる。
◆アップの多い手持ちカメラ。黄ばんだ画面は、『キングダム』に似ている。そういえば、ビヨークの役柄は、『キングダム』の病院の地下で皿を洗っている(少し障害のある)2人の女性の方と似たキャラクターである。
◆セルマの夢想という形で描かれるミュージカルのダンスシーンは、アメリカのミュージカルというよりも、ブレヒトの演劇風である。「異化」は、フォン・トリアーにとって重要な技法である。
◆フォン・トリアーは、階級制へのこだわりを示す。セルマは、夢想のなかで「主役」になるが、それが「現実」に実現することはなく、消えていく。しいたげられる者への同情やあわれみよりも、そういう現実を作り出している人間存在そのものの「異化」。
◆法廷シーンで、周囲がそっくり「ミュージカル」になるシーンで異彩を放つダンサーは、老けていたのですぐにはわからなかったが、ジョエル・グレイだった。彼は、『キャバレー』ですばらしい演技を見せたが、わたしは、彼が出たブレヒトの『三文オペラ』のブロードウェイの舞台を忘れることができない。
◆最近はやや屈折を加えるとしても、どのみち「ハッピー」な終わりかたをするアメリカ映画を見慣れた目からすると、この映画の終わりは「衝撃的」である。フォン・トリアーがそれについて語ることを避けてほしいと言っているので、ここでは書かない。
(ル・テアトル)



2000-10-03

●エクソシスト(Exorcist: The Version You Haven't Seen Yet/2000/William Friedkin)(ウィリアム・フリードキン)

◆70年代にニューヨークで見たとき(再上映)、観客のなかに気持ちが悪くなる者がいた。今回の試写にあたり(女性客が多かった)、司会者が、「すごく怖いから、隣のひとが知らない人でも、手を握ってもいいとあらかじめお願いしておいてください」などと言っていた。しかし、映画が終わるまで、誰一人として悲鳴をあげる者はいなかった。まだ、『ホワット・ライズ・ビニース』の方があちこちで悲鳴があがった。
◆なんか(再編集のせいか?)話がくどくなった感じ。その分、キリスト教の狂った要素が不器用にパロディー化されているようにも思えた。なにせ、カソリックの神父が、黒ミサをやってしまうのだから。
◆言葉への執着は、キリスト教文明の特徴だろう。悪魔を祓う儀式でも、言葉が最重要視されている。
◆数日後、「監督の意志で」公開が延期になったことを知らされる。原稿まで送った『報知』が掲載を急遽とりやめ、前代未聞の1本だけの評に組み替えたのだから、もし、これが話題づくりのヤラセだとしたら、ワーナーは相当なことをやったことになる。
(渋谷東急)



2000-10-01

●オーロラの彼方へ(Frequency/2000/Gregory Hoblit)(グレゴリー・ホブリット)

◆邦題がよくないが、時間のとらえ方と時間のワープの仕方にひらめきがある。普通、SFでは、技術的な操作で、誰かが肉体ごと異次元や異空間に移動する。が、この映画では、時間的な昔としての異次元といま・こことは、アマチュア無線で結ばれている。原題は、Frequency(周波数)、ずばり無線がテーマである。
◆話は、1969年からはじまる。勇敢な消防士のフランク(デニス・クエイド)は、アマチュア無線の愛好家で、夜になると、いつも仲間とラグチューをやっている。が、不幸にして、彼は、工場の火事に出動し、火にまかれた少女を助けたものの、自分は不慮の死を遂げる。あとには、幼い息子と美しい妻が残される。
◆このへんの雰囲気は、離婚と単親家族が増え、どうひっくり返っても親子が同じ家に住み、父と母は結以来むつまじくなんてことは、とうてい期待できなくなってしまったいまのアメリカでは、高まりつつある過去への郷愁から受けるはずだ。もっとも、この1、2年、もう離婚はやめようといった路線のハリウッド映画が多いから、現実の方もそういう方向にもどるのかもしれない。
◆時代は突然現代に跳ぶ。30年まえに幼かった息子ジョンは、ニューヨーク市警の刑事になり、親の家を引き継いでいる。野球をして遊んでくれた父の思い出から逃れることができない彼は、幼なじみのゴード(ノア・エメリッヒ)が久しぶりに訪ねてくると、父の思い出話にふけってしまう。
◆メカに強いゴードは、クロセットに突っ込まれていたフランクの無線機(試写の資料では、HeathkitのSB-301ということになっているが、SB-301は受信機であって、送受信はできなかったのではないか? マニアのひとが映画を見て確認してほしい)を思い出し、ひっぱり取り出してきて、セットアップする。真空管に火がともり、スピーカーから無線のノイズが聞こえる。このシーンは、真空管のレシーバーを使っていた者には、なかなか感動的である。
◆60年代だと、アマチュア無線の一般的な周波数は、高くても50M帯ぐらいだったろうから、アンテナはかなりかさばったはずだ。映画では、アンテナをどうしたかは全くふれられず、機器をセットしてすぐにノイズが聞こえてしまう。が、まあ、うるさいことはやめにして、このシーンに素朴に感動しよう。
◆ゴードンが帰ってから、電源を入れたまま放置された無線機から、WQYZというコールサインを持つ男の声が聞こえる。ジョンは、あわててマイクを握る。(当然、問題の機器は、送信機能を持ったレシーバーでなければならない)。ひとしきり、「古い」野球の話で盛り上がるのだが、スタンバイ・スイッチを切ったジョンは、妙な気持ちに襲われる。
◆ジョンは、野球の古いデータに入れ込んでいる。アメリカでは、野球にかぎらず、ある出来事に関して、あたかもその現場にいたかのように詳細に語れるようなデータを収拾するある種のコレクター熱が高まっている(eBayなどもそういう傾向を助長している)が、ジョンにもその気がある。だから、彼は、1969年10月10日のワールドシリーズの第2回戦の模様をヴィヴィッドに語り、無線の相手と意気投合したのだったが、相手の雰囲気は、何かもっと「いま」的なのだ。
◆実は、相手の方も、こちらのことを怪訝な感じで受け取っていた。2度目の交信のとき、相手は、「一体どうして、9回にワイスが決勝打を打つことがわかったんだ?」と訊いてくる。
どうやら、この二人は、異なる時間を越えて交信をしているらしいのだ。
◆映画の筋を書いて叱られたことがあるので、これ以上はやめるが、この映画の面白さは、空間的な飛躍が起こる「Eスポ」現象を時間の方に移しかえていることである。「Eスポ」は、通常は届かない距離を短絡させるが、この時間「Eスポ」は、30年の隔たりのある時間を短絡させる。このへんが、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』的な普通のタイムトラベルものとの違いだろう。
◆作中には、ジョンが家のテレビで、コロンビア大学のブレーン・グリーン教授が「ストリングス理論」にもとづくタイムトラベルの可能性を語るのを見るシーンがある。実際に、ホブリット監督は、脚本を書く際にグリーン教授の助言を受けているという。
(ヤマハホール)



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