粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-02-23

●小説家を見つけたら(Finding Forrester/2000/Gus Van Sant)(ガス・ヴァン・サント)

◆映画は、ロブが、カメラのまえに立ち、カチンコが鳴らされるシーンから始まるが、これは、映画出演初の新人を起用したことを強調しているのか、ここで描かれるジャマールの人生が、まさにカチンコが鳴って全く新しい生活がはじまるからか?
◆50年まえに16歳で「世紀の傑作」小説を書いてしまい、その後沈黙をつづけている作家ウィリアム(ショーン・コネリー)と黒人少年ジャマール(ロブ・ブラウン)の出会いと友情の物語、とまずは言っておく。表面的には、ホモ関係は出ていない。コネリーだから、どうしても、「毅然」としてひとにものを教える人間とそれになつく人間との関係になってしまう。そこにはあまり屈折がないが、一人のアフリカン・アメリカンの青年が変わり者の世捨て人に出会い、成長していくある種のビルドゥングスロマンとして見れば、おもしろい。
◆アメリカの環境のきわだった特徴はいくつもある。競争主義の厳しさもその一つだが、これとセットになっているのが、助成と援助のシステム。文学の才能があるとわかると、奨学金付きの勧誘にやってくる機関。そういうのは、日本ではスポーツの世界だけ。が、ロブは、バスケットボールでもすぐれた才能がある。こうなれば、アメリカの機関(学校にかぎらず、もちろん企業も)見逃さない。
◆メイラー=キャロウ・スクールの教授クロフォード(F・マーリー・エイブラハム)は、昔、小説家の道に進もうとしたが、挫折して教職についた人物。作家のウイリアムとは確執があり、この映画では、クロフォードのその権威主義的な態度がウィリアムとジャマールによって崩されるところも見もの。こういう権威剥奪のドラマはアメリカではウケる。
◆実はガンにかかっているウィリアムが、最後にジャマールの復権のためにめずらしく昼間、公衆の面前にあらわれ、そのつとめをはたして、さっそうと自転車で走りさるラストシーンは、やはり、「勇気ある男」が何かを果たしたという意味が濃厚で、基本は男のロジックだなと思ってしまった。この映画には、アンナ・パキンが演じる頭のいい女子学生がいるが、基本的に女性の影は薄い。
◆ウイリアムが世捨て人になったのは、兄の死がからんでいるのだが、そういう話が次第に明らかになっても、わたしの偏見か、この手のタイプの人物というのは、基本的にカッコマンだと思う。それと、死を間近にした老年が若者に近づくというのも理の自然。そう見ると、この映画は、エエ格好と尊厳・名誉を捨てられないあわれな男の死に方の物語でもある。
◆この映画も、父親の復権という最近のアメリカ映画の動きと関連している。ウェイリアムは、事実上、ロブの父親以上の役をする。が、それが依然代理父親であるという点が、やや古い。
(ソニー試写室)



2001-02-20_2

●タップ・ドッグス(Bootmen/2000/Den Perry)(デン・ペリー)

◆よくもわるくもオーストラリア的。オーストラリアには、まだこういう「時代」が残っていたんだぁって感じ。イギリス映画は、近年、『フル・モンティ』に見られるように、旧機械工業を中心とした町が転換を迫られるというテーマをとりあげ、成功した。ということは、すでに凋落そのものは、こえられつつあるということだ。その点で、オーストラリアは、イギリスのあとを数年遅れで追っている感じ。もともと、オーストラリアというとことろは、50年代、60年代、70年代・・・・がそれぞれ孤立しながら混在というのではなく、そこにあった「工業的なもの」を利用して現状をのりこえるところだ。
◆母ば病死して父・兄と3人暮しのショーンはタップダンスがうまい。父も働いているニューキャッスルの鉄工所には、ダンススタジオをやっている(たぶん工場で足を痛めてプロになることをあきらめた)父ど同年配のウォルター(ウィリアム・ザッパ)がいる。ショーンも兄のミッチェル(サム・ワーティングトン)も、むかしは弟といっしょに踊っていたらしい。そのことがあとでわかる。ショーンは、ある日、工場でワルターから(理由を告げることなく)明日スタジオに来いと言われて行く。そこではシドニーのショウのためにワルターの友人のプロデューサーがオーディションをやっているのだった。目立とうとして敬遠されたが、外でタップを踏んでいるのを見たプロデューサーは、ただちにショーンを抜擢。やがて彼は、自分のバイクでシドニーへおもむく。が、彼の目からは自分より下手な主役に、ついつい自分を出してしまって、たちまちクビ。すぐにバイクで町にもどる。
◆もう帰ってこないと思いつめた恋人のリンダ(ソフィー・リー)は、彼の兄ミッチェエルに誘われ、飲みすぎて、一晩を明かしてしまう。朝気がついたら、彼の隣に寝ていた。酔って誘われるままに行ってしまい、後悔する(おまけに、あとで妊娠譚まで出てくる)というくだり、むかしの映画にはよくあったが、70年代以後のアメリカ映画の現代的なストーリーとしてはめずらしい。それだけ、女性の意識が変わってきている――として映画が描く傾向がある――からだ。が、オーストラリア(の旧工業都市ニューキャッスル)では、男性優位の意識が強いという設定なのだ。
◆シドニーのまねではなく、独自のスタイルを出そうというくだりはいい。工場にころがっていた鉄材を靴に止め付け、電動サンダーの音と火花(かつて80年代に武井よしみちがやったようなスタイル)をハードロックに組み合わせる・・・結局、工場の工具と環境を利用して、硬質でラディカルなサウンドとダンススタイル生み出し、閉鎖が決まった工場の建物を使ってぶちあげたコンサートは成功する。そのかんに、ひそかに車の盗難グループに入っていた兄とその仲間とのいざこざ、リンダとの一件等々の物語もあるが、なくてもよかったような気もする。
(FOX試写室)



2001-02-20_1

●102 ワン・オー・ツー(102 Darmatians/2000/Kevin Lima)(ケビン・リマ)

◆少しグレイがかった地に黒のブチ断片が浮遊するトップクレジットの画面は、ゲイトウェイコンピュータとアップルのセンス(なぜか両社のコンピュータを思い出した)。
◆わたしは、基本的に、「アニメ」(とりわけ「ジャパニメーション」)と動物を主役にした映画が嫌いである。だからディズニーが嫌いということになる。主役でなくても、動物を出すとき、大体は、それを擬人化し、人間の論理の枠になかに動物を閉じ込める。こういうのを見ると、「西欧文明」というものが依然として猛威をふるっているのだなという感じがしてくる。人間に対しては、表向き、「未開」と「文明」、「正常」と「異常」、「障害者」と「健常者」とを差別することをやめたが、動物にたいしては、かつて西欧が、異文化の人間を「啓蒙」し、「文明化」しようとしたときと同じ姿勢が感じられる。
◆一方に「弱者」としてのダルメシアン犬を置き、他方にそれを「略奪」し、毛皮をとってコートにしてしまおうとするクルエラ・デ・ビル(グレン・ローズ)。「クルエラ」とは、「残酷」、「デ・ビル」とは「悪魔」を指していることはいうまでもない。しかし、「弱者」と悪者を対置する場合、というより、「弱者」が設定されるとき、当然、「弱者」より上に立つ「善者」が前提される。その姿勢がいやらしい。この映画では、「善者」たる(出所したクルエラの担当になった保護監察官のクロエ(アリス・エバンス)も、犬の収容施設をやっているケヴィン(イオン・グラファド)も、偉ぶった感じはない。しかし、救済するというロジック自体が非常に差別的なのである。ペットとしての「平穏」さを維持できることが救済なのか? それは、動物の植民地化にすぎない。
◆動物が「活躍」する映画は、調教と特殊撮影・CGIでなりたつが、その結果、動物たちは、動物自身ではなくて、アンドロイド化する。この映画の動物たちは、犬アンドロイドである。これが、アニメならまだがまんできるが、生きた動物を使っているかぎりで、動物をそのような位置に押し込め、本来彼らが表現しているのとは異なる意味をはりつけている点で、映像自体が文化的植民地化なのである。
◆グラン・ローズにしても、ジェラール・ドパリュデューにしても、もったいないという以前に、やめてくれと言いたくなるような、アメリカ映画が作るイギリスもの、フランスもの典型的ばステレオパターンの演技をしている。冒頭に出て来る、クルエラを犬好きに「改宗」させた刑務所の医師がパブロフではね。
(ブエナビスタ試写室)



2001-02-15

●日本の黒い夏[冤 enzai 罪](Nihonnokuroinatsu/2000/Kei Kumai)(熊井啓)

◆30分まえに行ったが、入口で整理券を配っていて、その番号が52だったので、こいつはすごいと思ったが、補助席を10ぐらい出した程度の混みようだった。が、この試写室にしては、多いほう。
◆熊井だからしかたがないという言い方はしたくないが、とにかく古いのだ。冒頭、「平和そうな」と書いてしまったほうがわかりやすいようなスタイルで松本の遠景を映す。音楽も「平和そう」。桜が見え、小鳥のさえずり。城。それが、「平成6年・・」という大仰なナレーションとともに、この事件によって壊された――という入り方。こういう入り方をされと、それがどうした、と言いたくなってしまう。
◆構成も、ストレートに描けばよいのに(というより、実際はストレートな話法なのに)高校生のビデオ製作グループが、松本サリン事件をいち早く報道したテレビ局を訪ね、ディレクターや番組製作担当から話を聞くという二重化を行なう。そして、そのインタヴューの場面では、一人がしゃべり、おわると話を次が受け持つという旧~い手法。相手に向かって話しているはずなのに、みんなモノローグのような話し方。一時代まえの映画やテレビドラマではよく使われたこういうスタイルは、どういうふうにして生まれたのだろう? ドラマの形をとりながら、説明をしてしまおうという見えすいた魂胆。
◆映画はディテールだ。この映画で、最初の犠牲者となった神部の妻が病院で人工呼吸器を付けられて寝ているシーンがある。そのとき寝ているだけの役なのにどうして二木てるみなんかを出すのかなと思ったら、最後は、意識は混濁しているが、車椅子に座れるようになった彼女とその夫(寺尾聰)が桜の咲く川べりにいるシーンなのだった。が、人工呼吸器を付けると必ず出来る喉の大きな傷跡が全くない。こういう無神経さは映画としてダメだと思う。そういうメイキャップを省略するのなら、せめて、喉のあたりは映さないぐらいの神経は持ってほしい。
◆内容的には、視聴率、人権、マスメディアの機能と責任等々の問題が問われているのだが、これらは、問題にしているメディアへの自己意識がもっと鋭敏でないと、つまり本でも討論会でも同じだといったメディア意識では、たいした成果は期待できない。
◆「サリンはバケツでも出来る」と主張した学者を藤村俊二がやっていて、それが、実際にそういう発言をしたXXとよく似ているのが笑えた。
◆この種のテーマ(冤罪・警察のメンツ固持・マスコミ飲む責任など)は、ストレートを装って描いても不毛で、ひねりを入れないと現実が浮かび上がってこないだろう。中井=「正義漢」、寺尾=「犠牲者」、石橋蓮司=屈折のひとといった定型を使うのなら、もっとそれによっかかってしまったほうがよかった。
(松竹試写室)



2001-02-14

●花様年華(In the Mood for Love/2000/Kar-wai Wong)(ウォン・カーウァイ)

◆英語題名が示唆するように、この作品はムードの映画である。ミュージックビデオにも似たような機能。ストーリはどうでもよい。そして、映像が音楽に従属する。くり返し流れるテーマ音楽とナット・キング・コールが歌う『キサス・キサス・キサス』。テーマ音楽が鳴りだすと、映像はスローモションになるのもパターン。だが、このくりかえしとパターンが、ひとつのムードを高めていく。
◆真っ赤な画面から始まる。「1962 香港」という文字。人々の姿は中国服。マギー・チャンの姿がとびぬけて美しく、人工的に見える。カーウァイの映画には、つねに香港への思いがある。もはやないがゆえに人工的な香港。その象徴としてのマギー。トニー・レオンも、髪を73に分け、イギリス統治下の中国「紳士」の姿で登場。同じ日に、隣あわせのアパートに引っ越してきたというフィクショナルな設定。こうなれば、あとは、ロマンの展開しかないし、これから描かれる世界は、ぐっと音楽に近づく。カメラは、スローモーションで人の背、女の尻を情感的になめたかと思うと、ちょっと投げやりに思えるようなやり方で別のショットへつないでいくカーウァイのスタイル。
◆時代を感じさせる小道具は色々ある。ラジオ。レオンが仕事場で使う漢字タイプライター。が、レオンの打ち方は、ポンと1、2字キーを叩いて、終わり。これもカーウァイのスタイル。
◆マギーの夫は、いつもいない。レオンの妻も。2人のそれぞれの相手は、声では映画に登場するが、本当はいないのかもしれない。2人の相手同士が関係を持っているらしいことが示唆される、そういうことはどうでもいい。レオンは街の大衆的なレストランで一人食事し、マギーは、魔法瓶を持って屋台の店に麺を買いにいく。
◆マギーとレオンがはじめていっしょにレストランでステーキを食べるシーンがある。マスタードをとってやるレオンがセクシー。この映画には、食べ物がひんぱんに出てくる。ステーキのときも、カメラがアップし、つけあわせのじゃがいもをはっきり見せる。ゴマの水餃子が好きなレオン。レオンのアパートで夜を過ごした朝、レオンは、街に出かけ、チマキの朝食を買ってくる。カユを食べるシーンもあった。干肉を食べるシーン。食べる口のなかの音も強調されている。
◆仕事場に夜出かけ、机に向かってタバコの煙をくゆらせ、それから小説を書きはじめる。一方、そのころ、マギーは、家でレオンに宛てて手紙を書いている。2人の心情をリンクするような音楽。孤立した個々人を結び、リンクするパイプとしての音楽。アパートでも、壁をへだてて、2人が、ラジオから流れる同じ歌(チョウミン=周旋の「花様的年華」)を聴いているシーン。
◆これもカーウァイ・スタイルだが、時代を示唆するエピソード(1966年に香港の将来に不安をいだき、アメリカに移住する動きが出る)や映像(同年、カンボジアのシアヌークがドゴールと迎える/フランス語のニュース映像)。
◆レオンとチャンは、むすばれることはなかった。それから、時がたち、レオンが、もとの建物を訪れる。周辺は、古い建物が壊され、廃墟が連なる。もとに家には他の人間が住んでいるが、大家の住まいだったフロアーにチャンらしき女の姿がちらりと映る。彼女のかたわらには子供の姿がある。これも、レオンにとっての白昼夢であるかもしれない。このシーンのあと、すぐに画面には、「男は、過去に思いをはせる。汚れたガラス越しに外を見るように」という文字が映される。
◆カーウァイにとって、古き香港は、男性/女性の境界がはっきりしていた都市であった。それが、次第に、わたしなら「ポリセクシャル」なと言うであろう都市に変化していった。これは、現代のいかなる都市にも見られる変化である。が、もしそうだとしたら、『ブエノスアイレス』を撮ったカーウァイは、レオンのような、男性的ジェンダーのなかを出られないキャラクターをこうまでもいとおしく描かなくてもよいのではないか? これが、おそらく、わたしが、『ブエノスアイレス』に対しても持った疑問であり、カーウァイには、ゲイの映画は撮れないと速断する理由である。
◆レオンが、最後の方で、アンコールワットを訪れ、大きな木の穴に向かって何ごとかを語るシーンがある。それは、何かの願いを込めているのか、それとも、秘密を穴のなかに封印したのかどうかよくわからない。封印されたのだとしたら、そのことは、アンコールワットのなかで生きのびるのだろう。
(松竹試写室)



2001-02-13

●ビートニク(The Source/1999/Chuck Workman)(チャック・ワークマン)

◆ある種「文学系」の映画の試写には、普段とは違う顔ぶれが集まる。この日も学者あり、文学者あり、「先生」と呼ばれる「従者」(編集者など)付きのご老人・・・。こういうときは、座席の背中を蹴られたり、途中でドアが開いたりするので要注意だが、案の定、上映中にケイタイのベルが鳴った。そして、隣のオジさんがいきなりわたしのわき腹を突いてきたので、見ると、バンドを閉め直しているのであった。暗くても見えるゼィ。
◆全体として、近年の「ポエトリー・リーディグ」あるいは「ラント」/「SLAM」の流行の流れのなかで作られた映画。先日来日した刀根康尚の「コンサート」に部屋に入り切れない観客が集まったのも、FLUXUS(フルクサス)の面々たちの活動への関心が高まっていることと無関係ではない。
◆冒頭、ガランとした家具のない部屋にアレン・ギンズバーグが腰を下ろしている。ボールダー市でアレン・ギンズバーグ・デイを定める記念式典が開かれている。いまでは、「名士」になってしまったギンズバーグだが、その活性機の姿をみてほしいという思いもこの映画にはある。といって、皮肉でこの式典の映像を見せているのでもない。時代の変化ということへのセンスがあるということだ。
◆「普通」をはみ出しただけで「反逆者」とみなされた時代、「何もなくて平穏なアイゼンハワーの時代」に、「ひとと違うことを恐れるな」と主張するビートニクであり、ゲイであることの困難さとユニークさは、いまの時代からは想像しにくい。
◆「フリー・セックス」という言葉は、「フリー・ミール」という言葉と関係を持っていたらしい。
◆この映画のスタイルは、バロウズの「カットバック」的な引用の手法を駆使していることだ。おびただしい引用がなされるが、たとえば、バロウズがしゃべっているあいだに、時代の少しちがう映像を流すといったように、語り/映像/時代とのあいだにカットアップ的、シュールレアリズム的にクリエイティヴな衝突を作る。バロウズは、このなかで「人生とはカットバックだ」と言う。
◆ジョン・タトゥーロが、ギンズバークの詩『吠える』の一節を、明らかに彼に扮した設定で読むが、メガネをしばしばはずす仕草が気になる。ギンズバーグは普段はめったに人前でメガネをはずさなかったから。同様に、デニス・ホッパーがバロウズの『裸のランチ』を読むが、帽子を落ち着きなく脱ぐのがバロウズに似せたイメージが崩れる。彼も帽子を取るのは慎重だった。山形浩生が、試写でくばられた資料で、「なんかもうはまりすぎてこわいくらい」などと知ったようなことを書いているが、とんでもない。バロウズ自身の朗読は、なげやりなくらい独特のスタイルで、とにかくもっと醒めている。パッショネイトに読まれた『裸のランチ』なんて。その意味では、山形が「まだまだ青いな」などとくさしているジョニー・デップのケルアックは悪くない。
◆「ビートの亡命時代」に、ギンズバーグやオルロフスキーはインドへ、そしてグレゴリー・コーソも海外に出るが、ケルアックは「家にこもった」。そして、帰ってきたギンズバーグがヒッピーになったのに対してケルアックは「アル中」になったのだった。彼がテレビで酩酊しながらインタヴューに答えている映像は実に面白い。
◆ギンズバーグは、「共感というものを排した社会があるかもしれない」と語る。共感し、ひとつになってしまうのではないディスアイデンティティへ。が、こういう発想は、やがて「ビート」がブームになるなかで忘れられていった。ビートは、パッショネイトな「共感」と同一化の動きになっていった。
(映画美学校)



2001-02-09_2

●ハイ・フィディリティ(High Fidelity/2000/Stephen Frears)(スティーブン・フリアーズ)

◆レコード店を開く、レコードマニアの話だが、基本の感覚はDJカルチャー。ジョン・キューザック演じるロブは、DJでもあった。映像のノリもDJ調。いつものキューザックとはちがう。入れ込み方も。
◆ジョン・キューザックがヘッドフォンでレコードを聴いているシーンからはじまり、「聴くから惨めになり、惨めになるから聴く」という彼のナレーション。そして、いっしょに生活していた女性が出ていく。これが、イントロ。彼の店には、オタクを絵に描いたようなディック(トッド・ルイーゾ)と、これまたイレコミの店に多いイジの悪いバリー(ジャック・ブラック)という2人のバイトがいる。
◆レコード屋で万引きをするスケボー少年が盗むLPは、坂本龍一やセルジュ・ゲインスブルーのもの。やるじゃないか、と思うと、実は、彼らは、仲間でバンドをやり、けっこうイカしてるテープを作ったりしているのだった。彼らを追いかけ捕まえたキューザックは、彼らのCDを作ることに決める。
◆最初の方で、「人の価値はその人間性ではなくて、その好みで決まる」とキューザックは言う。いかにもコレクター的価値観。だから、客を選り分け、「まだ資格がない」と思うと、レアレコードを売らない。が、この映画は、成長の物語でもある。コレクター的オタクで、何ごとにも、体を張ることには深入りしないほうがよいと考えてきた青年が、何かをやらなくてはと思う。
◆この映画もまた、カップルの結婚で終わる。「幻想に疲れた」。映画は、人見知りの強い「変人」ディックにもコンスタントな恋人が見つかるエピソードを加えているが、この映画は、音楽とレコードの映画であると同時に、ディスクへの執着に象徴されるようなどちらかというと「自閉的」な姿勢を変え、人への愛の距離を縮めていくプロセスを描いた映画でもある。
(ブエナビスタ試写室)



2001-02-09_1

●隣のヒットマン(The Whole Nine Yards/2000/Jonathan Lynn)(ジョナサン・リン)

◆隣のひとがサロンパスかなんか知らないが、昔おばあちゃんなんかがただよわせていた強烈な臭いを発するので、気が散る。こういう人って、あとから席につくから逃げようがないのです。
◆冒頭の映像は一瞬何だかわからない。それは、自動の歯ブラシで歯を磨いているアップ。なぜ、こんなシーンを見せるのかと思ったら、ニコラス(マシュー・ペリー)は歯科医なのだ。浮気で金使いの荒い妻(ロザンア・アークウェット)に手を焼く夫。彼の方も、スキあらばといったところ。そんな彼らの隣に引っ越してきたのが、ブルース・ウィリス演じるジミー。近づきに挨拶しに行くと、どこかで見た顔。腕のチューリップの入れ墨・・・そう、ニュースでその顔を見たことのあるマフィアの殺し屋。このフラッシュバックのシーンの撮り方がうまい。
◆往年のショーン・コネリー(どちらも頭が薄い)風格と余裕が出てきたブルース・ウィリス。ある意味で彼の息抜き的な作品。悪くない。こちらも楽しめばいい。そういう作品なだから。音楽もジャズ。舞台がモンタオリオールという設定なので、アークウェットには、フランス語なまりの英語をしゃべらせ、レストランでハンバーガーを注文するウィリスに、「ハンバーガーにマヨネーズを入れたら、殺すぞ」とすごませる。すべて単純化された典型を使ったユーモアだが、エンターテイメント作品の定石。
◆運命と出来事に翻弄されつづける道化役のニコラス。こわもてのジミー。女性も、ジミーの妻・愛人だった「超美人」という設定の役柄を演じるのが『スピーシーズ/種の起源』のナターシャ・ヘンストリッジがいれば、この映画で実力を発揮したアマンダ・ビートが、なかなかチャーミングな三枚目のキャラクターを生み出している。
◆ジミーとニコラスが行ったクラブでジャズを歌っている歌手は、ステファニー・ビドゥルだという。なかなかうまい。
(FOX試写室)



2001-02-08

●SEXアナベル・チョンのこと(SEX The Annabelchong Story/1999/Gough Lewis)(ガフ・ルイス)

◆本名をグレース・クエックという1972年生まれの女性が、251人とセックスし、それをポルノ映画(The World's Biggest Gangbang)にするというパフォーマンスに挑戦した。彼女が251人の「セックス・マラソン」に成功したのち、明らかに名声と金目当ての女性がこの記録に挑戦し、300人とのセックス記録を達成したというエピソードが出てくるが、その短いショットを見ても、グレースが、この手の女性とは全くことなる人間であることがわかる。まず、彼女には知性があり、このパフォーマンスにも自分の思想がある。インタヴューでも言っているように、彼女は、ひとつには、「絶倫」という概念が男性に属すること、「女性は受け身」という固定観念を打ち壊したかった。彼女は、南カリフォルニア大学(USC)でウォルター・L・ウィリアムズ(The International Gay and Lesbian Reviewの編集者でもある)教授のもとでジェンダー・スタディを学んでいる。ウィリアムズが映画で語っているところでは、彼女は、「神殿の遊女」つまり宗教のなかでのセックスの能動的な役割に関心を持ち、研究していたという。そういう蓄積は、彼女の言葉の端々に出ている。
◆ポルノ映画の役者や監督、撮影現場が出てくるが、そのあっけらかんとした感じが面白い。グレースも、セックスをスポーツ化してしまうことに興味をもっていると語っている。
◆とはいえ、このパフォーマンスを通じて、グレースは、死を考える。セックスの相手の男たちを集めたポルノの業界人たちは、相手のHIV検査をしたと言ったが、それはいいかげんなものだったので、事後、彼女がHIVに感染したかもしれないという疑いが生まれ、彼女は、(「セックスで死んだってかまわない」とは言ったが)HIVの検査を受ける。そのシーンもここでドキュメントされている。結果はネガティヴだったが、倫理的なレベルでも、「まともな」考えの中国人の両親(とりわけ母)のことで悩むことになる。母はピアノ教師であり、プロテスタントの信者である。
◆彼女のやったこと、そのビデオがベストセラーになったことなどを初めて知った母は泣く。父親が、静かに筆で書をしたためているのが印象的。書かれた文字は「忍」。これは、英語の観客にはわからないだろう。
◆国家がセックスを否定しているとするグレースの、故郷シンガポールに対する批判は、そのまま日本にもあてはまるだろう。
◆グレースは、一人娘としてシンガポールで生まれ、ロンドンに留学。この街で輪姦されたことがきっかけであるかはわからないが、その後、カリフォルニア移る。「ハルマゲドンはLAで」と。
◆彼女は、相当ユニークな人間である。ビデオは売れたが、彼女には一銭も入らなかった。最初から金が目的ではなかったと言うが、その後、ポルノ女優として電話で金の交渉をしているのを見ると、金の交渉が下手ではないことがわかる。もっとも、アメリカでは、価格は社会的な評価を意味し、安い金で仕事をすることは、自分をさげすむことを意味する――らしい。
◆ビデオから35ミリに焼き直されたドキュメンタリーだが、登場人物のユニークさでひきつける。ただし、ラーストタイトルの黒人霊歌はよくない。
(シネカノン)



2001-02-02

●あの頃のペニー・レイン(Almost Famous/2000/Cameron Crowe)(キャメロン・クロウ)

◆ここの試写室は、いつも寒い。映画がはじまるにつれて、あちこちで咳がしはじめる。暖房は入っているのだが、特に前の席には強い風が吹き込む。たまたま隣にOさんがいて、始まるまえに薄い毛布を足から膝にすっぽりかけた。用意周到。わたしは、この試写室ではコートを脱がない。
◆邦題とは裏腹に、主役は監督自身がモデルのウィリアム・ミラー(パトリック・フュジット)であるが、共同体的なグループには、かならずペニー・レイン(ケイト・ハドソン)のような女性がいる。有名人や権力者が好きで、彼らに愛され、かつ、そのグループに和や華麗さをそえる。が、ケイト・ハドソンは、単に有名人大好きで(ある種の)権力志向のではないタイプの女をすばらしく演じている。
◆ロックはなやかなりし頃(1970年代)のロックバンドは、ある種の共同体で、ドラッグもからんで独特の世界を生み出していた。それは、いわば有機的にヴァーチャル(無機的にヴァーチャルなのがVR)な現実が支配する世界で、そこにはそれなりのロジックがある。それは、「現実」と通常言われるところから見ると、非常に美しかったりする。映画のなかでペギーは「あたしは、ロックスターと寝るだけのグルーピー(親衛隊・追っかけ)ではなくバンドを助けるバンドエイドよ」と言うが、ケイト・ハドソンは、こうした人工的なリアリティを実にうまく表現し、かつ、それが崩れていく様も巧みに表現する。ゴールディ・ホーンの娘であるが、すばらしい役者。
◆子供がどう育つかは、母親次第だと思う。この映画で、ウィリアムの母(フランシス・マクドーマンド)は、(夫は死んでいない)大学でユングの集団的無意識やゲーテの箴言について語る教授だが、かなりエキセントリックな女性である。冒頭に大豆コロッケを作っているシーンがある。菜食主義なのだろう。「他人と同じことはするな」とつねに言い、ウィリアムがロックコンサートに行くときには、ついてきて「ドラッグはダメよ」をくり返す。本人にも年令を偽って、飛び級させる。聴くレコードも、タイトルだけで禁止したりする。娘・ウィリアムの姉(ズーイー・デシャネル)は、母を嫌って、家を飛び出す(母親に向かってfuck youを言い、母が仰天するシーンがあるが、60年代末から70年代にかけてのあの時代には、この言葉は禁句だった)。そのとき、レコード好きのウィリアムに「自由はベットの下に」と言い残す。ウィリアムのベットの下にバッグがあり、それを開くと、ジミー・ヘンドリックスなどの(母が禁じるであろう)当時のギンギンのレコードが出てくる。
◆邦題が邪魔するが、この映画の基本は、ある種の「ビルドゥングス・ロマン」(「教養小説」という訳は意味がない。「ビルドゥング」とは形成や成長を意味するドイツ語である)だ。少年ウィリアムが、どのように育ち、人生のポイント、ポイントとなる人物と遭い、成長し、成功するか(ただし、成功物語の感じは全然しない)。学校新聞の文章に注目してくれた『クリーム』誌の編集長レスター・バングス(フィリップ・シーモア・ホフマン)、ロックバンド、スティルウォーターのスター、ラッセル(ビリークラダップ)、そしてペニー・レイン。彼らや彼女との出会いは、探し求めた結果ではなく、すべて偶然の運のようなものであるところがおもしろい。運のいいひとというには、いつもこんな出会いのなかで生きている。『ローリングストーン』誌から電話がかかってくるのも、運以外のなにものでもない。ただし、ひとは、誰もそのような運と出会っているのであって、それをつかむかどうか、つかみざるを得ない形でその運が迫ってくるかどうかもひとつの運なのだろう。ウィリアムの少年らしい初々しい目が生きている映画。
◆わたしにも経験があるが、幼少時に大人から一人前にあつかわれ愛される喜びや、若者はそういう形で飛躍的な成長をとげるのであろうということを思わせるシーンの数々。キャメロン・クロウは、自分を美化するような自伝映画にはしたくなかったと語っているが、その意図は成功している。
(ソニー試写室)



2001-02-01_2

●アタック・ザ・ガス・ステーション(Attack the Gas Station/1999/Kim Sang-jin)(キム・サンジン)

◆それぞれに抑圧されてきた者が一回徹底的にうっぷんをはらす話。野球選手になるはずだったが、キャプテンの無茶な教練に反発して脱退したノーマーク(イ・ソンジェ)。子供のころから劣等あつかいされ、教師から土下座(韓国式は頭を地面につけ、逆立ちの準備姿勢のようにする)させられたムデポ(ユ・オソン)。ロックバンドへの情熱を絶たれたタンタラ(カン・ソンジン)。絵描きになりたいのに、父親の押しつけに抑圧されるペイント(ユ・ジテ)。この4人が、これといった目的もなく、ガソリンスタンドを占拠し、店長と職員を監禁する。それを知らずに訪れる客たちを通して、彼らの抑圧構造の拡がり、ここの抑圧が組織的なものであることが見えてくる。
◆彼らも抑圧しないわけではなく、占拠したスタンドからジャージャー麺を取り、持ってきた出前に金を払わない。彼は怒り、出前のバイク仲間に連絡して、バイクで大挙して攻撃をかけてくる。韓国にも中国にも、群れる文化があるが、日本のように横ならびに何となく群れるのではなく、組織的に群れる傾向があるようだ。そのへんの感じがユーモラスに描かれる。
◆出前の男は、それを演じる役者の、なかなか味のあるユーモラスな演技によって、(韓国語のわからない者には)好感がもてるように見えるが、この彼を4人が敵視するのには、理由があるようだ。彼らは、組合を作っており、やはり組織権力なのだ。
◆最初、この映画は日本を批判しているのかと思った。ガソリンスタンドが日本のメタファーのように見えたからである。4人は、「セコムしてますか」というようなCMのせりふを茶化す。ガソリンスタンドの方式も日本に似ている。が、批判の対象は、(たしかに日本/アメリカと結託した形で発展した)国家だった。ムデポは、スタンドの2階で「新韓国建設」、「第二の建国をふたたび始めよう」と書かれた額入りの書を見つけ、足で木っ端微塵にする。
◆大詰めは、ヤクザと縁のある放蕩息子の女(尊大な態度でガソリンを入れさせた)を監禁したので、その救援にかけつけたヤクザと、出前の一団、騒ぎで急行した警察とが4つどもえになって乱闘する。が、ノーマークが、突然、ガソリンをまき散らし(ここは、映像的にウソっぽい。撒かれるガソリンが、あきらかに水を使って撮っていることがわかるから)、ライターを点火して、ヤクザと警察と出前団をフリーズさせる。
◆いきなり他人の頭をなぐりつけるというのは、日本のコミカルなドラマやショウでよくお目にかかるが、これは、もともと韓国のものだったのだろうか? いじめの構造は、日本と似ている。いじめとは、儒教と同根か?
(松竹試写室)



2001-02-01_1

●もういちど(Innocence/2000/Paul Cox)(ポール・コックス)

◆試写室に入ったとたん、スエた食べ物の臭い。誰かがハンバーガーか何かを食べたのだろう。換気が悪いのが問題だ。音楽がいつも月並みすぎるのも何とかしてほしい。これでは、機材環境はそう悪くないのに、最悪の試写室になってしまう。
◆別れた女に会いたいという気持ちは、男のエゴだろうか? それは、自分の死が近づくにつれて強まるのか? 70歳のクレア(ジュリア・ブレイク)が、50年まえの恋人、アンドレアス(チャールズ・ティングウェル)と再会することになったのは、アンドレアスから50年ぶりに突然届いた1通の手紙からだった。(クレアには明かさないのだが、彼は不治の病におかされていた)。
◆冒頭、自転車に乗った若い2人の姿が映り、そこに手紙を読むナレーションがかぶり、流れる川面にカメラが移動する。川の流れで時間の流れを喚起しているわけだが、こういう描き方って、ホームムービー的ではないか? すでにこの冒頭で、この映画はそのレベルを暴露してしまっている。
◆バスルームに若い女の身体が入っていく。鏡が雲っている。曇っている鏡を手でぬぐうと、そこに老いたクレアの姿が見える。もう一度ぬぐうと、その顔が若いときの顔になる。このシーンは悪くなかった。
◆食事のシーンがかなり出てくるが、いつも一皿盛りの料理であるのが面白かった。西欧の家庭料理は大体そうだ。わたしは好きだ。が、日本にくらべると、70すぎの老人の料理にしては量が多い。
◆「誰かのために生きない人生は意味がない」と言って、家をでるクレア。自分を理解してくれる娘に向かって、「君はすばらしい子供だ」と言うアンドレアス。悲しみにくれる相手を抱擁する習慣。こういうのは、みな日本の習慣と異質だが、こういう言い方や身ぶりがあれば、日本社会ももっと生きやすくなるような気がする。日本の「距離の文化」は、芸なのだが、日常は芸ではないから、そんなのが日常的習慣では人間関係はぎくしゃくしてしまう。日常的に身体をもっと接触させること。
◆クレアとアンドレアスの再会と再愛よりも、そのことによって、クレアとその夫(テリー・ノリス)との、いままで何の破綻もなく(その意味では惰性的に)続いてきた「あたりまえ」の夫婦関係が、とたんにおかしくなるところが見どころ。
◆しかし、全体としては、期待したより、奥行きがなかった。予算の関係もあるだろうが、前作(『ある老女の物語』)より屈折もない。クレアとアンドレアスとの50年まえの逢い引きのシーンがくり返し現在形の映像にダブのだが、時代的粉飾をこらさずストレートに撮った映像なので、「現在」と位相が違わず、現在の映像の邪魔をする。
(メディアボックス)



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