粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-03-29

●ザ・メキシカン(The Mexican/2001/Gore Verbinski)(ゴア・ヴァービンスキー)

◆ブラッド・ピットはサエなかった。というよりも、シナリオのウエイト(というより監督の熱い視線)が、「主役」であるはずのブラッドやジュリア・ロバーツに置かれていなくて、やけにジェームズ・ガンドルフィーニの屈折した役柄に置かれている。彼は、その期待に応え、完全に2人を食ってしまった。ロバーツとピットとのやりとりよりも、ガンドルフィーニとロバーツとが車でブラッドを探す過程がおもしろい。とりわけ、喫茶店で二人が話していて、ロバーツが、「あんた本当はゲイなんでしょう」とつきつめるところが秀逸。
◆個々に人物とディテールが実におもしろい。瞬間的に映されるさそりとか、薄汚いが、やけに演技のうまい犬とか・・・。大詰めでばっとキャストには載せていない大物俳優G・Hを出すとこもうまい。
◆メキシコでその昔作られたとかいう拳銃の話が核になっている。ブラッド・ピットは、麻薬取引の失敗の穴をうめるために、その銃と、それを持って逃げている若造をいっしょに連れ戻す仕事をする。その拳銃には伝説がつきまとっていることがわかる。それが、このドラマとの相関関係のなかで幾通りにも解釈され、セピア色の映像で「再現」される。
◆型のおかしさをねらているところがある。メキシコに到着したアメリカ人が、レンタカーショップでキャデラックをすすめられると、必ず敬遠する。メキシコ人はそういうときには、「エル・カミーノ」をすすめる。
(イマジカ試写室)



2001-03-28

●天使のくれた時間(The Family Man/2000/Bret Ratner)(ブレット・ラトナー)

◆冒頭は1987年という設定。空港でニコラス・ケイジとティア・レオーニが別れを惜しんでいる。そして、突然、レオーニが、「行かないで」と叫ぶ。が、ケイジは行き、2人は、以後、別れ別れになる。2人の向こう側にPAN AMのロゴ。あれ、ちょっとおかしいのでは? 1970年代末にPAN AMはなくなったのでは? かつて国際線というとPAN AMが先端だった。わたしも、十分なお金をもらってニューヨークへいったときはPAN AMだった。これが、航空業界の規制緩和の流れのなかで70年代末に破産し、アメリカン(たったっけ?)に併合された。
◆次のシーンでは、ニコラス・ケイジが超リッチなアパートに住み、ゼニアの服を着たバリバリのヤッピー(みんな「ヤッピー」になってしまったいま、この言葉を使う意味はないか?)社長をやっている。演技的には、ケイジはこういう役はあまり板につかない。ドラマのなかでもそうだから、彼を使ったのか? 案の定、大反転がある。レオーニから13年ぶりに電話があった。彼女も、ビジネスの世界で成功している。が、ケイジは、クリスマス・イブだというのに、忙しく働き、そのまま一人アパートへ。エッグノットを買いにコンビニ(レジの中国人をやっている役者がいい)に寄ると、奇妙な黒人(ドン・チードル)に会う。このくだり、ファウストとメフィストフェレスとの出会いのような意味を持つように設定されているが、あまりきいていない。
◆ヤッピーとしてのケイジが目覚めるベットのサイドテーブルにはPALMが置いてある。PALMコンピュータは、ケータイなんかよりもバリバリのヤッピーの必需品?
◆家に帰って、ベットの上で眠ってしまうケイジ。が、目が醒めると信じられないことが起きていた。隣室からウッディ・ウッドペッカー(子供が好んで見るアニメ)のテレビの音。いきなり子供たちが彼のベットに飛び込んできた。13年まえにレオーニと結婚して、「平凡」な家庭を築いているという設定の世界に入り込んでしまったのだ。面白いのは、あわてた彼が、外に出ると、そこはマンハッタンではなく、郊外のわびしい一戸建てで、彼が狂ったように車を運転してマンハッタンに行き、彼のアパートマント・ビルに入ろうとすると、ガードマンに「お前は誰だ?」という顔で阻止される。それまで、へいこらしていたガードマンが。テレビでは、自分の会社の企業合同のニュースをやっており、社長は、全然買っていなかったアランという男(ソウル・ルビネック)になっている。このへん、ある意味では、上の登りつめた人間の日常的な不安といった趣も感じられて笑える。
◆それまでの癖で2400ドルのゼニア(英語では「ゼーナ」と発音する)のスーツを買おうとして、レオーニから、「そんな見えっぱりだと思わなかった」とけなされるシーンがある。が、そのあと、レオーニは、ケイジに「バーゲンで安く買えたの」と目を輝かせて、ゼニアのスーツを買ってくる。このあたり、毎日やりくりして暮している生活が見えてきて泣かせる演出。
◆ニコラス・ケイジは、セックスのシーンが似合わない。『リービング・ラスベガス』の印象のためか?
◆仕事中毒であることは避けられない現実のなかで、他方、いやがうえにも高まる家庭回帰とナチュラルな生活への願望を、ヴァーチャルな記憶の再生という方法で描いたウエルメイドの小品。
(ギャガ試写室)



2001-03-23_2

●ショコラ(Chocolat/2000/Lasse Hallstr*?m)(ラッセ・ハルストレム)

◆食が人を幸せにするというテーマの映画は、数多くあるが、この映画は見ているあいだ中こちらも気持ちが豊になる。だが、終わってからこの映画について書こうとすると、多くの言葉が出て来ない。不思議である。それは、おいしい物を食べたときに似ている。食通本を書く者は、本当は、そこで書かれる食べ物の経験に感動していないのではないか? そういえば、先日京都の板前料理の店ですばらしい料理を賞味していたら、膝にノートを置き、メモしながら食事をしている女性がいた。こうとでもしないと、おいしい料理は文字にはならない。が、映画を見ながらメモを取っても、たいていはくだらないジャンク文字の羅列で、役立つような文章を書けば、賞美の経験は損なわれるのではないか?
◆ひとに何かをあげたい、もらいたいよりもあげたいという欲求は、いま、ますます高まっている。もらいすぎたので、返さなければならないと考えた結果ではない。これまで、あまりに(ただで)あたえるということをしなさすぎたからである。なんでも金に換算してしまう資本主義システムがその結果、がんじがらめになった。このままそれを続けていると、内発性や自己参照性を左右する内的エネルギーが枯渇してしまうという危機への恐れ。
◆いかにもいまのヨーロッパ・ビジネスを象徴するように、この映画も、フランスの小村を舞台にしながら、主な俳優は、ジュリエット・ビノシュとその娘を演じるヴィクトワール・ティヴィソルを除けば、ジョニー・デップ(アメリカ)、ジュディ・デンチ(イギリス)、レオ・オリン(スウェーデン)、アルフレッド・モリーナ(イギリス)と、トランスナショナルな混成隊。そして、言語は英語。しかし、それでいて、けっこういい味とリアリティ(どこかに実在してもいい)を出している。
◆追われると、荷物をたたたみ、娘の手を引いて別の町に行き、またチョコレートの店を開くヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュー)という女の話。迎えるは、レノ伯爵(アルフレッド・モリーナ)が統括する古い伝統の町。それぞれに問題をかかえた癖の強い人間には事欠かない。レノの妻は、イタリアに行ったまま帰ってこない。ヴィアンヌに店を貸してくれた偏屈な老婆アルマンド(ジュディ・デンチ)は、娘と絶縁状態で、愛する孫とも会えない。最初ヴィアンヌの店を警戒して近づかなかった村人だが、孤独な老人ギヨーム(ジョン・ウッド)は店のチョコレートに惚れ込んだ。酒びたりの夫の暴力に怯え、ノイローゼ気味のジョゼフィーム(レオ・オリンが抜群の演技をする)は、ヴィアンヌに心を開く。
◆保守的なレノ伯爵との確執とありがちな差別。店が出来たことにうよって変わってくる村の人間関係。そして事件。その構図にはいかにものところがあるが、ひとを喜ばせるということを描いているドラマがそんなことを気にかけなくする。
(松竹試写室)



2001-03-23_1

●ミート・ザ・ペアレンツ(Meet the Parents/2000/Jay Roach)(ジェイ・ローチ)

◆ミュージカル風のスタート。ソングは、クルト・ワイル調。
◆かなりキツいジョークにさらされるユダヤ的アンチヒーロ、グレッグ(ベン・スティラー)は、いかにもの、ついてないユダヤ男を演じる。グレッグの本名はゲイで、ゲイ・フッカーとはとんでもない名前。仕事は、自ら選んで看護夫をしているが、他人はそんなの女の仕事とみなす。
愛する恋人パム(テリー・ポロ)と結婚するためにシカゴからニューヨークの彼女の親に会いに行く日、空港でちょっとしたサイズオーバーとグレッグのドジで彼の手荷物が預け荷物にされる。しかも、それがJFKには届いていない。手ぶらで彼女の実家に行く彼。泊まるといったって、寝巻きはどうする? 相手は、オーバーな親子再会の抱擁をかわす保守的郊外族で、演じるはロバート・デ・ニーロとブライス・ダナー。この父は、パムのまえの彼氏との結婚を許さなかった堅物。それでいて、いまはそのリッチだが宗教オタクみたいな彼氏(オーウェン・ウィルソン)と親友関係にある。
◆食事に招かれ、「それではお祈りはゲストのグレッグ君に」と指名されたが、祈りなんてできないグレッグ。じゃあユダヤ式でいいから、と言われてもそれもできない。いまの街っ子ならそれが当然だが、郊外族にはわからない。
◆次から次にグレッグを失敗に落とし込む運命の女神。ついてない。傑作は、やっと航空会社が届けてきたフライトバッグは形は似ていても、彼のももではない。それを、元CIA職員のデ・ニーロがこっそり開き、中身(何と女の下着やSM用具)に仰天。あいつは何だ!ということになる。
◆文字通り、ハリウッド映画に「両親」の名が映画に冠されるようになった。とことん典型的にアメリカンな家族を笑いながら、結局はそれと和解していくところが、いかにもいまのアメリカの家族回帰を思わせる。が、この映画のきついユダヤ的ユーモアからすると、この映画は、まじめに結婚なんかをこころがける男をからかっているのかもしれない。
(UIP)



2001-03-22

●JSA(Joint Security Area/ 2000/Park Chan Wook)(パク・チャヌク)

◆現代の国家をテーマにしてドラマを作れる国はそう多くない。作ったとしても、その多くは、イデオロギーの誇示やただの告発ものである。この映画は、現実に起こった、あるいは起こりうる出来事を描きながら、それを韓国外の観客にも共感を持たせるドラマとしての普遍性を生み出している。
◆国内的には、この映画は、南北朝鮮への意識の今日的変化を表現しているとともに、(この映画を通常みることができるのはいまのところ北の人々ではないから)南の人々の意識を変える力をもっているだろう。南北を合一させたいという強い感情に抜かれた内容だが、それを国家理由や社会的要請としてではなく、個々の登場人物の願望と具体的な行為のなかで描くことによって、多くの共感を呼ぶ。
◆冒頭に梟の顔の大写しが出、それから飛び立ち、夕空に浮かぶ大きな月の一点となる。(そして雨が降り出し、タイトルが映る)。これは、「ミネルバの梟は、夕闇せまって飛び立つ」というへーゲルの言葉を示唆するのだろうか?
◆板門店の事件は、南側の主張によれば、北側の兵士が南に侵入し、兵士を北側に拉致したが、銃激戦のにち脱出したということであり、北側の主張では、南側の兵士が奇襲攻撃をかけてきたという。この問題は、スイスとスウェーデンによる中立国監督委員会にゆだねられ、スイス軍将校ソフィー・チャン(イ・ヨンエ)が板門店にやってきて、関係者に会っていく。彼女は、南北分離の際に、北でもなく南でもなく、第3国を選んだ両親をもち、スイスに住んでいた。
◆ソフィーの調査を再現するスタイルで、映画は、その夜の事件にいたるJSAで起こった出来事を見せていく。基本は、敵同士に分断されている朝鮮人のあいだに、このままでは、北も南もともに滅びるという意識が日常的なレベルで芽生えはじめているということであり、硬直した制度の枠がすでに踏み越えられているということだ。
◆制度のなかで生まれる、制度を越える友情。切り離された文化とそれを越えて進む相互理解。
◆ひょっとしたら、南側の亡命誘致作戦かもしれないという疑心暗鬼。
◆ふとしたことから、「南に亡命しないか、南へ来ればこういううまいハンバーガも食えるじゃないか」と言ってしまったとき、ソン・ガンホが言う台詞:「おれたちは、北でうまいハンバーガーを食べられるようにがんばっているんだ」
◆この映画では、北の兵士を「人間的」に魅力のある人物として描いている。『シュリ』では、まだ屈折を見せるにとどまっていた。
(東京国際フォーラム)



2001-03-19

●ザ・ダイバー(Men of Honor/2000/George Tillman Jr.)(ジョージ・ティルマン・Jr)

◆冒頭、子供時代のカールが野を走ってくるシーンがある。わたしがここで思ったのは、映画のなかで描かれる子供は、どうしていつも走っているのかということだった。だが、この少年は、田舎道を走り抜けると、そのまま池に服を着たまま飛び込むのだった。この意外性は悪くない。その後のシークエンスへの信頼と期待を感じさせた。
◆黒人であることを意識している監督らしく、アフリカン・アメリカンの歴史を回顧し、その記憶を植えつけたいという教育的な意図が感じられる。それと、最近のハリウッド映画で流行りの父親復権ものの流れとも合流する。それとジャズ。ここでもジャズの生演奏シーンがある。これは、時代的な小道具としてよりも、ジャズがいままたリバイバルしていることに対応する。
◆ふと感じたのは、アメリカでは、また「ガンバリズム」の復活があるのか、と。1940年代から1960年代に黒人であるということ、さらに軍人社会で白人と対等にやっていこうということはなみたいていのことではなかった。デニーロは、いまなら完全にレイシストと見なされるが、そういう時代環境と軍人社会のなかではからずも黒人と友情を持つにいたるまで自分を変える白人を演じる。
◆描かれる時代的条件のためにそう感じるのかもしれないが、男にとって「ありがたい」女性たちが姿をあらわす。カール(キューバ・グッディング・Jr)の恋人・のちの妻(アンジャニュー・エリス)もビリー・サンデー(ロバート・デニーロ)の妻(シャーリズ・セロン)もいい演技をしている。とりわけシャーリズが実に存在感のある女性(アル中と暴力癖の夫に耐える)を演じる。これは、オスカーもの。
◆終わり近く、片足を失ったカールが、義足をつけて再度正式のダイバーに挑戦しようとして、それを阻む海軍大佐(デイヴィッド・コンラッド)と対決するシーンがある。ヤッピー的なこの大佐は、レイシストというようりも、IT主義者で、海軍の電子化を推進しようとしている。カールは、結局、それに勝つわけだが、いまのアメリカに、なんでもビジネスと見なす考え方に対する反省が出はじめていることはたしか。少しまえのシーンで、カールは、自分にとって海軍はビジネスではなくて、名誉だというようなことを言う。
◆ラーストソングは、「どんな困難にも逃げない、転んでもくじけない、あきらめない、希望を捨てない、夢をつかむまで、夢に届くまで・・・」というNever Give Upの歌詞をくりかえす。
(FOX試写室)



2001-03-14

●ニュー・イヤーズ・デイ(New Years Day/2000/Suri Krishnamma)(スリ・クリシュナーマ)

◆ビデオの画面を使ったり、速いテンポの展開、ハイスピードの使用など、気のきいた映像。それに比して、内容はかなりシーリアス。「いかに生きるか」を論理的に(人生に意味がなければ死のうというカミュの『シジュフの神話』的に)問う。
◆高校の就学旅行のスキーで雪崩に襲われ、クラスメートを失った2人の男子学生ジェイク(アンドリュー・リー・ポッツ)とスティーヴン(ボビー・バリー)との友情や同性愛よりも契約愛の物語。両人の階級は違う。ジェイクは、社会福祉を受ける神経症の母と妹との3人暮し。スティーヴンは、銀行の頭取の息子で、ニヒル。生意気なうえに、友人のジェイクをコケにすることもいとわない。ジェイクは、どちらかというといいやつ。クラスメートの黒人の生徒に思いを抱いていた。ソーシャルワーカーの黒人の女性(マリアンヌ・ジャン・バプティストが好演)とも親しい。彼が死んだクラスメートの黒人の家を訪ねるシーン。インド系の監督らしく、イギリスの進みつつあるエスニック・ミックスの社会を的確にとらえている。
◆最後にバックで流れるのがアベマリアというのがいただけない。これで、それまでの気分がすっかり変わってしまった。一度、死ぬのをやめようと思い、やっぱりやるだけやってみるか、という調子で二人して海に飛び込む意外性と『スティング』的なあっけらかんとしたシーンに合わない。
(松竹試写室)



2001-03-13_2

●15ミニッツ(Fifteen Minutes/2001/John Herzfeld)(ジョン・ハーツフェルド)

◆社会の悪人というと、ひところは黒人、次はアラブ人が悪役を一手に引き受けるのがハリウッド映画のパターンだったが、最近は、その役がもっぱら東ヨーロッパからの人間になった。冒頭、ケネディ空港のイミグレーションで見えるもの、東ヨーロッパからのひとたちであり、映画の主役たちも、設定は、チェコとロシアである。彼らは、人を殺して部屋に火を放つという「悪人」中の「悪人」である。
◆ハリウッド映画では無名のカレル・ローデンが演じるチェコ人エミルといっしょにケネディ空港に到着するロシア人ウルグ(オレッグ・タクタロフ)は、空港で使い捨てのカメラのシャッターを切りまくり、イミグレーションでひっかかる。街に出て、目についたソニーのデジタルビデオカメラを盗み、「ドキュメンタラリー」を撮りはじめる。彼は、アメリカのフランク・キャプラにあこがれている。まさに『ブレアウィッチ・プロジェクト』のようにたえずビデオを回すウルグのカメラの前で起こることがこの映画の主線になっている。そして、エミルは、殺害シーンがおさまっているビデオを自分の名でテレビ会社に売りつけようとする。ここにおいて、両者の差異はなくなる。
◆メディア論的に見ると、この映画の本当の「主役」はカメラであり、それにいくつかの位相がある。一つは、マスメディアのテレビショウの目。これは、冒頭、どぎつい路線で内部でも異論のあるショウのアンカーマン、ロバート(ケルシー・グラマー)は、市警の刑事エディ(ロバート・デニーロ)をマスメディアに引き出した人間でもある。エディの恋人ニコレット(メリーナ・カノカレデス)は、同じショウのキャスターである。彼らにとっては、(いずれその位相の違いがはっきりしてくるとはいえ)どぎつさを売る目の下にある。もう一つは、ウルグのカメラの目。これは、どぎつさを求めるというよりも、「ありのまま」を演出する目である。この2つの目は、映画のなかのドラマとして二重化されているわけだが、二重化されない目として、エドワーズ・バーンズが好演する消防局放火捜査官ジョディ、エミルの殺人現場を見てしまったダフネ(ヴエラ・ファミーガ)がいる。
◆サスペンスを出すには「不可欠」のテクニックだとしても、結局、この映画も、復讐で幕を閉じる。が、最終シーンは映画としてなかなかうまい。ロバートも自分のテレビショウをまっとうするが、ウルグも命をかけて、自分の「ドキュメンタリー」を「完成」する。
(朝日ホール)



2001-03-13_1

●チキンラン(Chicken Run/2000/Peter Lord)(ピータ・ロード)

◆基本的にアニメは嫌いだが、この程度の立体感があれば、なんとか見れる。CGとの違いを意識している。全体に赤みの強いトーン。が、アードマン・アニメーションズ系のキャラクターの口元が好きになれない。
◆時代はわからないが、養鶏所の経営者がドイツ人であり、そこに収容されている鶏たちがイギリスを故郷にしていることははっきりしている。そのため、鶏たちによる養鶏所からの脱出劇は、ナチの強制収容所を想起させないではおかない。スピルバーグのドリームワークスの製作であることによって、より「ユダヤ色」が強くなった? ナチを批判のモデルにするのはいいのだが、結局、この手のアレンジだと、敵を倒したり、敵から脱出したりして終わりということになる。
◆ヨーロッパ内の差異、アメリカとイギリスとの差異、集団間での個人的差異は意識的に描かれている。
◆これも、ドイツ系人種の「機械好き」というステレオタイプを皮肉っているのだが、もうからない養鶏場に見切りをつけた経営者が、全自動のチキンパイマシンを導入し、そのテストに主人公たちが入れられるシーンは、映像として秀逸。
(東宝試写室)



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●恋はハッケヨイ!(Secret Society/2000/Imogen Kimmel)(イモジェン・キンメル)

◆イギリス女が相撲取りになる話だというから、相当のキワモノ、どのみち日本をパロったものを想像したが、工場の女主任が太った女たちだけで作っている「秘密社会」の存在も、そこでやっているスモートレーニング(シコの踏み方、相撲の取り方はインチキだが)も、論理的・文化論的に許容できる線をおさえた、なかなか根性のある映画だった。スモーは、「心・技・体」だという台詞と、この3文字を毛筆した書がかざってあった。そうか、「心・技・体」なんて、久しく聞かなかったな。
◆また『フル・モンティ』風の脱工業化でゆらぐ工場地帯の話かと思ったら、全くちがっていた。たしかにこの映画の主人公となるデイジー(シャーロット・ブリテン)の夫ケン(リー・ロス)は、「リストラ」で失業した。(ちなみに、映画のなかでは「リストラクチャー」という言葉は使わす、「ダウンサイジング」と言っていた)。だから、デイジーは、工場の単純作業のアルバイトをしている。が、工場や労働者たちは、ドラマの本筋を引き立てるための条件であって、脱工業化時代労働者や労務状況を示すためのものではない。
◆ファット・ウーマン指向は、監督自身がファットだからか? 主役のデイジーが、相撲の練習で川に行き、水のなかに全身を静め、突然浮上するシーンでさらす上半身と解放された表情が、実に美しく、エロティックでもある。
◆へんなキャラクターが何人も出てくる。ケンの友人で、レンタルビデオ屋にいる仲間たちは、異星人が地球を侵略するという幻想に取り憑かれていて、妙なリサーチをやったりしている。「頭で考えたことは、すべてどこかに実在する」と信じる「教授」。
(ギャガ試写室)



2001-03-12_1

●クイルズ(Quills/2000/Phillip Kaufuman)(フィリップ・カウフマン)

◆18世紀末のフランス人を描きながら、役者たちの多くはイギリス系であるというこの映画は、いまのヨーロッパのビジネスを象徴している。フランス人が英語をしゃべってもいいし、イギリス人がフランス人になってもおかしくないのだ。ルーツはいまや「無国籍料理」風に混交する。が、でも、ちょっと、日本の新劇みたい。いっそのこと宝塚にしてしまったほうがよかったかもしれない。
◆スタイルは壮麗な古典演劇的だが、後半、書くことへのサド(ジェフリー・ラッシュ)の執念みたいのものがこれでもかこれでもかと出てくるのが痛快。ペンを奪われたら、ローストチキンの骨とワインでシーツに、それも奪われたら、ガラス片と自分の血で着ている衣服に、素裸にされて監禁されたら、口づての伝言ネットワークを作って・・・(このシーンがなかなか)、最後に舌を抜かれたら自分の糞で壁一面に文字を書く。
◆病院の小間使いマドレーヌ役のケイト・ウィンスレットは、セックスする演技が巧い役者だ。殺されたマドレーヌの死体をド・クルミエ神父(ホアキン・フェニックス)が抱き締めると、蘇ってそのまま愛しあうという(それは神父の夢だった)シーンで、ケイトはわずかに脚を上げるといった動きのなかで実にエロティックな演技をしている。
◆サド文学の原点は、彼が幽閉されていたバスチューユの塔の窓から毎日目撃したギロチンのシーンの体験にあるというのが、この映画の基底。妻(ジェーン・メネラウス)の努力によって、刑務所でななく、クルミエ神父のフリーな環境の精神病院にかくまわれることになる。部屋には最初、特上のワイン、収拾した性具(日本の根付けの合体像もある)、本もあるが、やがて、これが、ナポレオンロン・クック)の命で新たに赴任するコラール博士(マイケル・ケイン)の命令でとりのぞかれていく。その背景には、サドの原稿がマドレーヌの手で外に持ち出され、本になり、「人心を汚している」というナポレオンの怒りがあった。
◆反社会的行為としての出版と解放のメディアとしての本、弾圧の一形態としての精神療法とフリースペースとしての精神病院、ひとはいつ「狂人」になるか、「狂人」とは組織されたものではないか・・・・プロットにひとつひとつと、フーコー、ガタリなんかを想起してみると面白い。大詰めで、サドのつくったネットワークが暴走して、患者たちが「暴動」を起こすシーンを見よ。が、こういうことがあったとしたら、サドはその結果を知りながらやっただろう。
◆コラールは、若い修道女を妻にするが、彼女は、サドの本を読み、変わっていく。クルミエ神父のフリースペースとしての精神病院は、時代的係数をつければ、ガタリがいたラボールの病院を思わせる。が、組織と個人の自由の問題のディレンマについては、あまり深い洞察は感じられない。
◆「芸術がひとの心を救うって? そいつは、神父の仕事だよ」、「わたしは地獄を生きた、君は聖書を読んだだけ」とサドはコラールに言う。全体が演劇的なので、「悪人」「善人」「偽善者」といった区分けをはっきりと見せ、コラールにおいて、その境界線がずれていくのを見せる。 ◆サドがインスペイアーされて文章を生み出す瞬間のシーンで使われるタタタタタ・・(有名な音楽だ、名を失念)という音楽が単純なリズムでうんざり。
(FOX試写室)



2001-03-08_2

●スターリングラード(Enemy at the Gates/2001/Jean-Jacques Annaud)(ジャン=ジャック・アノー)

◆冒頭、シュールな映像のしじまのなかに虎が出てくるので、ハッとしたら、それは、製作会社のロゴイントロだった。というのも、最初、ヴァシリ(ジュード・ロウ)の少年時代に、祖父から射撃を教わり、雪の中で狼(?)を撃つシーンが出てくるからである。これが、ヴァシリの原体験で、ナチを狙撃するときも、この記憶が彼の脳裏をかすめる。
◆ジュード・ロウは、ロシア人には見えないが、大規模戦だったスターリングラードを狙撃とメディア作戦という狭い観点からとらえているのが新鮮。
◆スターリンの名を冠した都市を文字通り死守するという使命を持たされた若者たちが、立ち通しの貨車で輸送される。ナチがアウシュビッツ行きの貨車に対してやったように、ここでも外から鍵がかけられる(貨車というのはそういう構造だから仕方がないか?)。この貨車には女性も乗っており、ヴァシリ(ジュード)は、ここでのちの恋人ターニャ(レイチェル・ワイズ)の姿を見る。いかにもの設定だが、こういうことって、あるのです。
◆物資の乏しいソ連軍が、非情な人海作戦で(銃を持たない兵士もいる)ドイツ軍の銃火のまえに突っ込んで行くシーンは、戦争の愚かさと権力者の非情な勝手さというものを感じさせる。このようなことは、かつて、アメリカ軍の兵士が、朝鮮戦争時に北朝鮮軍の兵士が、銃も持たずにあとからあとから地面から湧くように出現し、恐怖を与えた話をするのを聞いたことがある。同じ話は、ベトナム戦争中にも米軍兵士が「ベトコン」に悩まされたことだった。が、誰もこんなことを愛国心からやりはしないのであって、必ずここには猛烈な意識操作と暴力的な強制がある。ここでは、赤軍が、逃げる兵士を撃つシーンがある。
◆ここでのナチの敗退が、第2次世界大戦の様相を決した(こういう言い方はノルマンディに関しても言われる――どっちが決定的だったのか?)とされるが、ナチにとっても、スターリンにとっても、ここを死守しなければならないという(兵士の現実から遊離した)意識は同質であった。このような発想を持つ国は、いずれは、相手を倒しても、相手と同じ負け方をする。それが、50年後、アフガンで起こる。
◆強制する役目を演じるのが、フルシチョフ(ボブ・ホスキンス)であるが、彼は、強制するでけでなく、情報操作にもたけていた。その役を演じるのが政治将校ダニロフ(ジョセフ・ファインズ)。おそらく最初は、ヴァシリの狙撃の腕に瞠目し、魅惑され、その驚きを軍報の書く。が、それは、やがて士気を高めるプロパガンダに利用され、ヴァシリの地位も上がる。
◆ダニロフは、党と革命の神話を信じていたが、最後に、「新しい人間なんていない」という認識のなかで死ぬ。ねたみ、憎みはなくならず、階級も消えなかった、と。そう、平等な社会が安定状態で続くなんてことはない。ひとを見下したり、支配したりする欲望もなくなりはしない。しかし、それらがつかのまなくなる瞬間というものはあるし、そういう瞬間の振動的連続を求める人間はこれからも生まれる。階級は消えないが、階級闘争もなくならない。
◆エド・ハリスは職人的なうまさ。ジュードとの闘いは、宮本武蔵と佐々木小次郎との闘い。
◆後日短い予告編を見たら、日本語のナレーションで、「愛するターニャ。今日もぼくは君のためにまた一人敵を撃つ」だって。
◆依頼を受け、劇場パンフレットに「戦争の論理を撃つ個の輝き」という一文を書いた。
(ヘラルド試写室)



2001-03-08_1

●ハロルド・スミスに何が起こったか?(What Happend to Harold Smith?/1999/Pete Hewit)(ピート・ヒューイット)

◆念力がテーマでもあるこの映画の第2巻目に入ったとき、音が聞こえなくなった。映写技師は気づかず、後ろのひとが映写室に知らせに行く。しばらく暗転し、2巻目がはじまった。が、3巻目でまた無音。映写技師の話では、2台目の映写機が壊れたので、以後、あいだで巻き戻しのために3分間映像が止まるという。6巻を1巻づつ見たのは、子供時代の野外映写会いらい、これがはじめて。
◆冒頭、父の灰をジェットコースターで撒く息子ヴィンス(マイケル・レジー)のシーン。つまり、この映画では、父はもういないのだ。レジーのナレーション。追憶される父。それは、当然美化される。
◆70年代が舞台で、この時代には、父親の権威が失墜した時代だったと思うが、この映画は、そういう時代に生き、おそらくは父親を軽蔑して育ったであろう世代による、父親の再評価といったおもむきがある。ちなみに、映画のシメは、「サンクス、ダッド」。
◆奇妙な中間状態(家族と時代と階級と音楽との)を描いた不思議な作品。そういえば、70年代というのは、ユリ・ゲラーのようなある種の特殊能力神話も流行った時代だった。スミス氏(トム・コートネイ)は、実は、そういう特殊能力の持ち主で、それが暴露する(老人センターで余興のつもりの念力が2人の老人のペースメイカーを止めてしまい、あとで殺人罪に問われる)が、マスメディアのスターになった時点で、それを自ら否定する。メディアとのすったもんだもある。が、このことが主要なテーマではなく、すべてがエピソード、ある種の夢として描かれる。
◆この映画の家族は、「解体」寸前。父は、あきらめ気分。母は外で若い男(それが、ヴィンスの親友であることがあとで暴露し、彼はパンクに転向する)と浮気し、朝帰りする始末。この家で、父は、妻を「Mother」と呼ぶ。これは、ある時代にアメリカでもよくあった呼び方だが、親密な夫婦は「ダーリン」とか「ハニー」とか、あるいはファーストネームで呼ぶ。つまり、それなりの醒めた夫婦だということ。
◆テレビにエリザベス女王の姿が映ったとき、家族は、起立し、「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」を歌うが、祖父だけがしぶい顔をしている。この時代、セックス・ピストルズの同名の曲が流行ったが、この家のような平均的な中流階級にとっては、依然屈折なく「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」だったのか? では、1世代まえの祖父のにがりきった表情の意味は?
◆この時代に色々な家族があったことを示唆するシーンとして、やがてはスミス家以上に解体してしまう大学教授の家のエピソードがある。下の娘に、そろそろ教えといたほうがよいというわけで、寝室で夫婦が裸になり、ペニスの機能などを「教授」する。そのとき、そのこましゃくれた娘は、「それだけのこと?」(That's it?)と返す。この教授(スティーブン・フライ)の研究室には、たしか、レーニンの小石像があった。
◆教授の上の娘ジョアンナ(ローラ・フライザー)は、まともな格好でヴィンスと同じ会社に勤めるが、夜は本格パンクなのだった。この映画は、パンクを肯定しているわけではない。ジョアンナは、パンク仲間の男にぼろぼろにされる。彼女を救うヴィンスもパンクに転向するが、大詰めで彼がウケるのは、パンクのソングを歌うことによってではなく、ビー・ジーズの「恋のナイト・フィーバー」のコピーだった。
(メディアボックス)



2001-03-07

●ベレジーナ(Beresina/1999/Daniel Schmid)(ダニエル・シュミット)

◆冒頭のシーンが大いに気を引く。黒いストッキングをはいた娼婦風の女(ベレジーナ/エレナ・パノーヴァ)が、ソファーに腰をおろしている。わずかに気になるのは、テーブルの上に見えるピストルの皮ケース。べルが鳴り、立ってドアーを開けると、いかめしい顔つきの軍人服を着た老人が、「あんたは・・・オクセンバイン(男性の名)だね」と確かめ、女が「はい」と答えた瞬間、男が銃を発射する。これがイントロで、すぐに花火が上がる夜景と盛大なパーティのシーンになる。それぞれに社会的地位の高そうな人々の顔、顔、顔。そのなかに、ジェラルディン・チャプリン(シャルロッテ役)の顔も。ドラマとは無関係にえらく痩せて、首のあたりにしわが目立つのが気になる。
◆ベレジーナは、ロシアの「エレクトロスタール」(そんな国はない)からスイスに働きにきて、シャルロッテの目にとまり、娼婦をはじめたらしい。彼女は、政財界とコネがあり、客は元大統領や銀行の頭取といった「一流」の面々。冒頭の軍人は、元陸軍少尉(が、「将軍」と名乗っている)ところへベル。シュトゥルツネガー(マルティン・ベンラス)。彼らは、ベレジーナのまえで、それぞれの流儀で「倒錯」プレイを演じる。シュトゥルツネガーも、彼がかつて結成した秘密組織の時代に出来なかった暗殺プレイを彼女とくり返し演じている。
◆おもしろいのは、ベレジーナは、娼婦であることを少しもいとわず、客たちを愛していることであり、彼女のすべての関心は、スイスで永住権を取ることであり、故郷に残した母たちに仕送りをし、いずれは呼び寄せることだ。が、彼女と客たちとのあいだにあった儀式的・演技的・職業的距離が、次第に少しづつズレてくる。これが、実におもしろい。たださえ、彼女の思っていることと客たちとの間には、相当の意識のズレがあるのだが、それが、シュールレアリズム的に飛躍していく。
◆レジーナは、永住したいので、スイスを愛そうとする。本当に愛しているのかもしれない。とにかく、彼女は、普通のスイス人ならせせら笑うようなことを平気でまじめにやる。「将軍」が、「スターにしてやる」といって連れだしたパーティの席で彼女は真剣にヨーデルを歌って、客のひんしゅくを買う。観光名所には足しげく通い、ステレオタイプ的な「スイス」に精通している。このへんは、シュミットの皮肉とスイス批判がよく出ていて笑いがとまらない。
◆傑作なのは、結婚を約束した「将軍」に恍惚のひとになっている老妻がいることがわかり、ベレジーナが逆上し、いつもやっている「暗殺プレイ」の暗号をかつてつくられた「コブラ団」の電話網に流してから起こる出来事だ。これは、フィリッピンのジャングルから小野田一等兵が飛び出してきたときのような、いや、ベルリン忠臣蔵、戦国自衛隊・・でもなんでもいいが、もうなくなってしまったはずの暗殺ネットワークが再起動してまう滑稽さと恐ろしさがあるからである。こういう設定と演出は、シュミットのすぐれた政治感覚であり、映画的な才能の結晶だと思う。おかしみと意外さとある種の恐ろしさの一体化。
◆生きるために暮しのよい国で住みたいというだけの娘が、結果的に「愛国者」になり、女王にまつりあげられるというシュールな滑稽さ。が、ここには、日本とはちがった背景も見逃せない。ヨーロッパの歴史を見れば、王権に国境はない。と同時に、「日本人」だけが右翼になれるのではなくて、生活のためだけに移民してきた新参者も、右翼になれるのだ。
◆登場人物と役者のエスニシティや社会的位置に注目するだけでも面白い。国立博物館でベレジーナが友人になるベネッタ(マリーナ・コンフェローネ)はイタリア系・・・。こういう映画はヨーロッパでなければ撮れない。
(映画美学校)



2001-03-02

●山の郵便配達(Postmen in the Mountais/1999/Huo Jian-Qi)(フォ・ジェンチイ)

◆時代は80年代と最初に出る。ひとつの時代が終わり、新しい時代がはじまりつつあることの回顧と予感が、父と子のドラマ、父と子のドラマとして描く。文字通り山や川をこえて郵便を配達し、集めてきた配達夫の父が、苦しい仕事で足を悪くし、引退し、息子に仕事を引き継いでもらう。その初日、一人で行くという息子に、いつも父といっしょに歩いた犬が、息子のあとに従わないのを見た父は、ガイドとして息子に同伴する。
◆道すがら、二人の関係が少しづつ変わる。息子は、父がいるも数カ月にわたって家に帰ってこないので、自分のことが嫌いだと思っていた(だから一度も「お父さん」と呼んだことがない)こと。が、それがなぜかがわかる。郵便配達とは、ただ郵便を配るだけの仕事ではなかった。孫だけが生きがいの盲目の老婆のために、ニセの手紙と金を届たりもする。バスがあっても乗らないのは、「バスよりも歩きのほうが時間が正確だから」だという。郵便ポストのなかには、封筒に金をはりつけてあるような封書もある。これは、切手を買って貼ってやるのだという。
◆冷たい急流の川を、父を背負って渡るとき、息子は父の軽さに歳を思い、父は息子の成長を思う(昔からよくある話だが泣かせるシーン)。
◆『ただいま』では、明確に出ていたが、文革時代に夫婦がそれぞれに人民服を着て、家庭よりも労働の現場が重視され、結婚はしたが夫婦が離れ離れになったり、子供との不和が生まれたりといったことへの言及は、この映画でもさりげなくなされている。それを、批判というよりも、ひとつの時代の終わりとして描く余裕がこの映画にはあるのだが、それも、いまの時代がもたらしたものだろう。息子は軍には入らなかったという。
◆息子が歩く道は、父が歩いた道と同じであり、人々の生活スタイルも、それほど変わっていたいないのだが、にもかかわらず、息子は、ポータブルラジオをかけながら歩く。流れてくる音楽は中国語ではあっても、リズムはアメリカン・ポップス調である。村で出会ったトン族の娘は、息子に好意をいだく。彼女もまたポータブルラジオをかけながら炊事をする。彼女は、ラジオの上にどんぶりをかぶせ、低音が延びることを知っている。
◆中国映画は、ほとんど、しっかりした構図とプロフェッショナルな映像でつくられる。この作品も例外ではない。大胆な冒険はないので、地味な感じがするが、古典的な意味で「映画を見た」という気になりたければ、中国映画にしくはない。
◆この映画のなかで、狭い山道で父子が村人とすれちがうシーンがある。アメリカだったら、こういうとき、「ハロー」とか「ハイ」とか言って笑顔を交換する。が、ここでは、無表情にすれちがう。日本人の「無愛想」も、アジアの「伝統」なのかなと思った。初日に、長旅に出るときも、母と息子、妻と夫は抱擁もキスもしない。が、おもしろいことに、息子は、ある村で「新人」を見ようと集まった子供や村人たちに歓迎され、プレゼントをもらったとき、抱擁で喜びをあらわしていた。
◆初老の父、息子、犬の旅。父は、休むとき、水筒の水を手にくみ、まず犬にやる。
◆自作なのか、奇妙な形のパイプ(あるいは煙管・キセルというべきか)できざみを吸う父。吸い口に透明で厚手のビニールチューブのようなものがついている。
(東宝東和試写室)



2001-03-01

●ハンニバル(Hannibal/2000/Ridley Scott)(リドリー・スコット)

◆開場まえだったが、列をつくらずに入場。雨のせいか、客席はややまばら。開演直前に隣の空席に飛び込んできた小太りのおじさん。映画が始まっても、しばらく汗か雨をふいている。手が大きく動くので、見ずらいが、後ろのひとはもっとだろう。その後、あひっきりなしに首をかく。そして大きなあくび。映画とは関係ない動き。情緒が不安定なのだろうか?
◆冒頭、車椅子のメイスンを映したあと始まるタイトルバックは、モノクロの実験映画風。フィレンツェの広場に群がるハトを俯瞰しているのだが、それが、黴菌の拡大図のように見える。そして、すぐに、いまやFBI捜査官になったクラリス(ジュリアン・ムーア)が指揮する捜査での(彼女の指揮に従わない捜査官が発砲したことから始まった)猛烈な銃撃戦のシーンになる。ここで彼女は、赤子をダッコバッグにかかえた黒人の女、麻薬密売の容疑者(イヴェルダ・ドラムゴ)が自動小銃で攻撃したので、撃ち殺したことから、捜査官の職を解かれる。
◆このニュースを、逃亡先のフィレンツェで知ったハンニバル。彼に懸賞金をかけているメイスン。たまたまハンニバルの素顔に気づくフィレンツェの刑事パッツイ(ジャンカルロ・ジャンニーニ)。この3つが接点を持つ。
◆ハンニバル(アンソニー・ホプキンス)は、「野放しの無礼な奴を食う」のだという。映画には、日常われわれが出来ないことが映像のなかの人物がやり、観客が溜飲を下げるという回路を提供する機能がある。『羊たちの沈黙』には、そういう要素があったが、今回は、そういう機能は薄い。むしろ、メディア美学的な快楽をあたえることが、この作品の機能である。
◆ほとんどスプラッター・ムービーに近い「残酷」シーンが続出するが、全体が一つの美学におさまっているのはハンニバルをとりまく(前作から継承された)アウラのためか? 映画には、通常の意味での残酷さはない。映画は映像として考えられることをやる。その意味では、この映画は映画の一つの可能性を追求している。ひとを絞首刑にして突き落とすのなら(事実、あったらしいが)そのまえに腹を裂き、落ちた瞬間にはらわたが飛び出すようにする(パッツィの場合)ことも一つの映像的可能性であり、歯が44本ある巨大な豚(名前は失念)に人間を食わせること、モルヒネを投与したという設定なら、モルヒネで意識を保持したまま局部だけ麻痺させられた人物(レイ・リオッタ)の頭蓋を電機ノコではずし、前頭葉(「前頭葉は礼節をつかさどる」)をむしって(「脳には神経がない」とうそぶきながら)、目のまえでいため、その当人に食べさせるという可能性もありなのだ。
◆ハンニバルにあやつられ、みづからの顔をガラスの破片で切り裂いた男メイソン(誰でもが知っているあの俳優G・Oが演じるが、ここでは明記しない)の復讐の執念、そしてその執拗な追求をかわすハンニバルの詭計、犯罪としてハンニバルを追うクラリスということを軸にして話が展開するが、次々に起こる殺人や事件に、事実世界で通用している必然性は感じられない。この世界はやはりゲームなのだ。
◆ムーアは、いつも一歩遅れる。セクシーではあるが、いつもまじめで、ちょっとアセった感じの表情は、ジョディ・フォスターが演じたクラリスと比べてよいのか、わるいのか? ジョディ・フォスターは、なぜクラリスの役を受けなかったのか? FBI捜査官になってしまったのが嫌だったのか? NASAの職員(『コンタクト』)は出来ても、FBIはだめか? あれは、NASAではなかったか?
◆この映画でも、ケータイはもう、物語と劇の展開に不可欠の道具になっている。
◆原作では、ハンニバルとクラリスはいっしょに暮すことになっている。映画は、もう1本続編を作るために、そうはしなかった?
(新宿ミラノ座)



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