粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-04-27

●焼け石に水(Gouttes d'eau sur pierres brulantes/1999/Francois Ozon)(フランソワ・オゾン)

◆1967年生まれのオゾンは、ファスビンダーの死後に彼の映画を見、惚れ込んだらしい。が、ファスビンダーのどこに新しさがあるのだろうか? わたしに言わせれば、ファスビンダーがよかったときは一度もなかったし、もし死ななかったら、すっかり忘れ去られてしまっただろう作家である。ゲイを気取り、70~80年代のラディカリズムにシンパシーを表明したりしたが、みんな中途半端。基本は恥ずかしいほどの甘え。遅れてはじめたドラッグ嗜好もその延長にすぎなかった。
◆演出は、原作に忠実に舞台的な構成にしている。が、そうした意味はあまりはっきししない。装置を簡略にできたぐらいか?
◆中年男レオポルド(ベルナール・ジロドー)に誘われて彼の家にやってきた青年フランツ(マリック・ジディ)。ドラマは、2人が家について、一杯どうといったくだりからはじまる。おさだまりの身の上話があって、結局ベットイン。ジロドーは若いが、肌が全然若々しくなく、セクシーでもない。作中に、レオポルドがフランツに、「肌がもっときれいになるからタバコはやめろ」という台詞があるから、ある程度肌が荒れている役者を用意したのかもしれないという憶測も可能だ。しかし、この映画はそんなにディテールに繊細ではなく、狙いも、ゲイの男と男の屈折した関係ではなく、あたりまえの「ゲイ」的関係なのだから、それならば、もうちょっと魅力を出せる役者を使ってほしかった。
◆4幕構成になっていて、1~3幕までは、最後に誰かがコートを着てドアーに立ち、他方がベットの上で裸で待つという形式。最後の4幕の終わりは、窓辺にヴェラ(アンナ・トムソン)――レオポルドのかつて恋人で、彼のために性転換手術をし、「女」になった――が立ち、ストップモーションになる。月並みな形式性にこだわっても、全然新味はない。
◆レオポルドの家に居ついたフランツが、『Liebe ist staerker als Tot.』(愛は死より強し)などというタイトルをこれ見よがしにした本を読んでいるシーンがあるが、全然おかしくない。ユーモアの欠如はファスビンダー的?
◆相手に慣れたレオポルドが、フランツに飯を作らせ、フランツの方も「女」役を演じはじめるシーンがある。ここには、もうちょっと何らかの批判なり醒めた意識なりがあってもいいはずだが、それは極めて希薄。
◆本作は、2000年のベルリン映画祭で最優秀のゲイ・レズビアン映画に贈られるテディ賞を取ったが、この映画で描かれているゲイは、古すぎるのではないか? 70年代に突出したゲイイズムは、男女差を越える一つのポリセクシュアリティとしてゲイをとらえた。ゲイとは、「男」でも「女」でもないジェンダーでありセクシュアリティである。が、この映画では、セクシャリティは、依然として、「男」と「女」の古いジェンダーを引きずっている。そもそも、性転換を受けた人物をなぜ女優が演じるのか?
◆わたしが、この映画で唯一いいと思うのは、4人がサンバを踊るシーンだけ。このシーンでは、フランツが、レオポルドに誘われて、約束をすっぽかしてしまった元恋人役のリュディヴィーヌ・サニエが一番うまい。
(映画美学校)



2001-04-26_2

●ルイーズ(Louise (Take 2)/1998/Siegfried)(ジグフリード)

◆久々に街にみづから語らせた映画を見た。「世界の放浪者へ」という献辞が最後に出るように、この映画は、街を放浪する(主としてパリのアラブ系の)者の目から撮られている。冒頭、ルイーズ(エロディ・ブシェーズ)が地下鉄街の店で万引きするシーンがあるが、ここに登場する人間は、みな「シティーワイズ」である。彼女や彼らは、定住しないでも生きていけるかのようだ。発作的に行動するのもいい。地下道で会ったアル中のホームレス(ブルース・マイヤーズ)から、息子ギャビー(アントワーヌ・ドゥ・メール)に会いたいという言葉を聞くと、ルイーズは、すぐにその子が通っている小学校に行き、親戚を偽って連れだす。が、そこから展開するのは、2人の楽しげな都市放浪。母親は売春婦だと自ら語るこの子も生粋の街っ子。
◆メトロの駅でルイーズに近づいてきたアラブ系の青年レミ(ロシュディ・ゼム)は、女性をすぐにくどかずにはいられない。知的で、やさしく、暴力は使わない。ポケットからプレゼントだと言って、(拾った?)バラのつぼみを出したりするところが、とても「かわいい」。ルイーズが昔から知っているらしいキ・ヤクザ的な一団もいる。故買やちょっとしたヤクの取り引きなどもしているらしい。
◆ストリート・ワイズの技法:デパートで万引きし、逃げるとき、店員のケータイを借りて、そのデパートに電話し、「爆弾を仕掛けた」と告げる。すぐに店内アナウンスがあって、客たちが避難をはじめ、混乱が起きる。そのすきに逃げる。ただし、これは、テロ恐怖のあるパリでしか通用しない。
◆ルイーズには父(ルー・カステル)がいる。彼は、作家のような生活をしているが、妻の死後、娘を十分に世話しなかったということで自分を責めている。ルイーズは、たまに行くが、別に父親が嫌いなわけではなく、居つかない。
◆スティーブ・レイシーのサックスがすばらしい。60年代によく聴いた。が、ニュージャズのなかでは少し知的すぎた。その後、ヴァンクーヴァーのハンク・ブルが彼と知り合いであることを知った。ウェスタン・フロントでも演奏会をやった。急にまた近い存在になった気がした。結局、レイシーも放浪者なのだ。
◆終盤、ルイーズは、病院を抜け出し、寝巻き1枚で街を歩き回る。今度はさまようのではなくて、レミを探して。レミの方も彼女を探して、地下鉄駅を歩きまわる。そして、2人は再会するが、それは、夢・夢想のなかのことかもしれない。街の描写がリアルで生き生きしているからといって、この世界が、ルイーズの夢想として相対化されていないという保証はない。そんなあやうさをもったユニークな映像。
(メディアボックス)



2001-04-26_1

●ホタル(Hotaru/2001/Furuhata Yasuo)(降旗康男)

◆いつもと試写の客が違う。年令が高い。部屋に老人特有の臭いがただよう。それが服にしみついたタバコの臭いと混じって強烈。わたしの右隣のひとは、試写中3度ぐらいカバンから薬を出して飲んだ。紙のこすれる音が耳障り。左となりのひとは、見ているうちにだんだん体が傾斜してきて、わたしを圧迫する。寝ているわけではなく、おそらく、いつも客席で一人で見る習慣がついていて、好きな体型で見ているのだろう(劇場主?)。このひとはタバコ中毒らしく、しきりにガムを出してかむ。入歯がカタカタする音がたまらない。そして、後ろのひとは、エモーショナルな場面になると、わたしのイスの背を蹴る。ついつい体を動かしてしまうのか? が、おかげで、わたしのほうは、そういうシーンにも飲み込まれず、終始醒めた意識でいられたのであった。
◆この作品は、テレビで「知覧の母・鳥濱トメ」のことを知った高倉健が、降旗康男に、「今、語り継がないと忘れ去られてしまうようなことも映画なら残していけるんですよね」と語ったことから生まれたという。「知覧の母」とは、終戦間際に、沖縄に最も近い飛行場という理由で特攻基地にされた鹿児島県の南端にある知覧町(現在ここに、映画にも出てくる知覧特攻平和記念会館がある)で軍指定の富屋食堂を経営していた店主のことだ。この基地に滞在し、東シナ海に散った特攻隊の若者が、彼女を「母」として慕ったという。が、この映画は、彼女を中心とした物語ではない。物語の軸には、彼女を慕い、「ホタルになって帰って来る」と言って散って行った朝鮮人の若者金山(小澤征悦)がいる。映画は、それから半世紀が過ぎ、昭和天皇が死んだ1989年1月7日から、当時を逆照する形式で進む。
◆特攻隊の生き残りにとって、昭和の終わりは独特の意味を持つ。彼らは、その後の人生が余分の人生だという思いをぬぐえない。かつて金山の戦友だった山岡(高倉健)は、ずっとそういう意識で生きてきた。彼の妻は、金山の婚約者だった山岡知子(田中裕子)で、彼女は、金山の死後、自暴自棄に陥るが、山岡に救われた。が、裕仁が死に、そして、持病が悪化して、あまり先が長くはないと感じた彼女は、ある決心をする。金山の形見を彼の故郷(韓国)の両親に返そうというのだ。
◆この映画では、特攻の生き残りの目とともに、もう一つ、戦争を全然知らない、もう一人の生き残りである藤枝(井川比佐志)の孫(水橋貴己)(「おじちゃん」を「オズィチャン」と発音する世代)の目からも特攻ということの意味を見つめている。
◆予想に反し、この映画は、戦争は国家による人殺しだという視点で抜かれている。「知覧の母」を演じる奈良岡朋子自身の思いが込められているような力のこもった演技のなかで、彼女は悲痛にこのことを訴える。そして、金山は、飛び立つまえ、自分は、「大日本帝国のために死ぬのではない、朝鮮民族の誇りをもって、友のため、故郷の家族のため・・・に死ぬのだ」と語る。
◆金山が飛び立ったあと、知覧の富屋食堂にホタルが舞い込んでくるシーンがモノクロで映る。そのなかで、ホタルだけがカラーになっているのが、印象的だ。
◆最初の方で、浜で仕事をしている高倉のところへ、漁協組合長の小林稔持が来て、「天皇が死んだ」というシーンがある。彼に、「天皇陛下が死んだ」とは言わせなかったところに、この映画のすぐれた姿勢が見える。
◆井川は、裕仁の死後、孫を連れて知覧特攻平和記念会館に来る。高倉を命の恩人と思っており(飛行機がなくなって特攻できず、自暴自棄になって死のうとしてのを高倉が助けたというエピソードがある)、毎年会いに来るが、このときは会わずに帰った。そして、すぐに彼の訃報が届く。彼は冬山に登り、凍死する。これは、「殉死」(マスコミはそう描こうとした)などではないということも、映画のなかで示唆される。
◆浜にボートピープルが流れ着くシーンを入れ、時代を示唆する。
(東映試写室)



2001-04-24

●メトロポリス(Mtropolis/2001/Rintarou)(りんたろう)

◆手塚治虫の原作と聞いて警戒した。手塚自身の、性的エロティシズムを欠いたキャラの風貌と身体、奥行きの浅い技術史観が、アニメになるともっと強まる気がする。が、さすがは大友克洋、手塚アニメにはない映像の深みと終末観を生み出した。本多俊之の音楽とその使い方も見事。
◆いつも痛感しているのだが、東宝さん、試写室のPAシステムを何とかしてほしい。日本の映画産業を担っている会社の本社試写室の装置がこれではなさけない。とにかく、キンキンした高音が歪み、そのくせボリュームが大きい。これでは、出来のよい作品でも、評価が落ちてしまう。
◆冒頭、都市の大スクリーンに「独裁者」風の人物が演説をしている映像が映るが、その映像のなかにさりげなく縦に走るフィルムの傷が見える。大友らしい凝った映像。そして、突然、軽快なデキシーランド・ジャズが響き、空に花火が上がる。立ち並ぶビルとその俯瞰ショット。1920年代のニューヨークを思わせる都市像。
◆パーティのシーンになり、台詞の声がみんなとってつけたようにでかいのは、東宝のPAの粗悪さのせいか? そこへ、手塚マンガのキャラ「ヒゲオヤジ」があらわれ、声を出すと、それが滝口順平。ああ、かんべんしてくれ、という気になるが、ここはぐっと我慢。ヒゲオヤジとケンイチは、臓器の密売・密輸で国際手配されているロートン博士を追ってこの都市にやってきた。彼らの捜査が、この物語の一つのプロット。
◆人間とロボットとの確執、テクノロジーの進んだ社会における階級性の逆昂進、ロボット奴隷制、臓器移植、太陽黒点を以上発生させて地球を破壊する最終兵器、亡き娘ティマに代わる「超人」をロートン博士に作らせ、それに最高権力を与え、世界を支配させようとするレッド公の野望といった、「未来」に警告を発する手塚治虫風のプロットよりも、レッド公と義子ロックのすれちがう愛や、捜査のなかで出会う、誕生したばかりのディマとケンイチとの愛が、終末論的な状況のなかで見せる悲しくも美しい物語が引きつける。
◆ティマを見ていて、手塚治虫の女性キャラは、みな広末涼子に似ていることに気づいた。性的に「安全」な雰囲気。ロボットには「肉」がないから、それは当然だが、広末のようなタイプがポピュラリティを持つ背景には、性的「安全性」への願望があり、また、手塚にも、そういうものを避ける潔癖症のようなものがあった。「肉」への羞恥とそこから逃げたい願望が手塚をピカピカのモダンテクノロジーへ向かわせた。
◆ティマとケンイチの愛がもつれあいながら終末へ向かうシーンで、ティマが「わたしは誰?」という言葉を残して消滅していくときに流れるテーマ曲 "There'll bever be good-bye"、そして、次の瞬間にレイ・チャールズの歌で"I can't stop loving you"に切り替わる間合いの見事さ。本多俊之のジャズ・ミュージカル的才能。
◆大友には、逆に、スラムと廃墟へのかぎりない願望がある。終わり近くに、破壊されたメトロポリスの廃墟に立ったケンイチが、ヒゲオヤジに、「おじさん、ぼく、もう少しこの街にいたいと思います」と言う。
◆大友の作品なのだから、彼の好きにしていいのだが、冒頭のフィルムの傷をはじめ、街を俯瞰するとマンハッタンであったり、地下都市にある革命軍の拠点にゲバラのイラストが下がっていたり、英語文字が多い(ティマが習う文字はアルファベット)、レッド公に手を焼く大統領が、反権力サイドにレッド公の情報をリークして利用しようとするとか、大友克洋の好きなテーマが随所にある。
(東宝試写室)



2001-04-20

●天国から来た男たち(The Guys from Paradise/2001/Takashi Mitsuike)

◆都市のパワーとしてのうさん臭さは例によってなまなましく出ているが、フィリッピンにとっては「失礼」な映画。が、ある意味では、日本とフィリピンとの関係を示唆していると言えなくもない。だから、もし、この映画に怒るフィリピン人がいるならば、こうならないようにするということか? とはいえ、フィリピンをこの映画で描かれているような方向に進めている点で日本人の責任が少なくないのだから、そのことに対する自己意識/(日本の場合は)羞恥心(となる)が批判的距離やアイロニーとして出されてもよかったのではないか? 三池の映画は、しかし、そういう面を切り捨て、土足で上がり込むような傲岸さを突きつけるところにそのスタイルがある。
◆映画のなかの監獄では、金で何でも買うことができる。所長に金を積んでいる山崎努は、麻薬の取り引きに自由に街に出かける。それは、面白い設定であり、映画でそういう世界を描いていけないわけはないが、この映画も、金をばらまいて好きなショットを撮りまくったのだろうなという想像をさせてしまうところが、この映画の「徳」のなさ。
◆遠藤憲一がいい。大塚寝寧々はダメ。「友情出演」の竹中直人、及川光博は全然ダメ。
◆滝田洋二郎に似た異文化に対する日本人のとらえかた。その意味では、やや古い。が、海外に行って特にスラムなんかのトイレに弱いというのは、依然として日本人の習性である。刑務所のひどいトイレに恐怖をおぼえていた吉川康治が、刑務所内で特権的な生活をしている山崎努から清潔な水洗トイレを提供されて、感激するシーンがある。
◆おそらく、日本人は、日本という孤島に閉じこもっているよりも、この映画のなかのような世界に行って、あるいは大統領や閣僚(吉川康治、山崎努、大塚寝寧々)に、あるいは新興宗教の教祖(水は氏研二)にでもなったほうがよういだろう。が、それは、相手の国を「満州」化することだ。
(松竹試写室)



2001-04-19_2

●ザ・コンテンダー(The Contender/2000/Rod Luriea)(ロッド・ルーリー)

◆最初は、何がポイントの映画かわかりにくいが、次第にはっきりしてくる。その意味で、これまでのアメリカ映画とは違った面白い独特の内的距離を含んだ映画。アメリカ政治の多少の予備知識を求められるが、かなりよく出来た作品。開場まえの階段の列のなかにアメリカ政治史の袖井林二郎氏の姿もあったが、大きな試写にしては、入りがよくなかった。ロビーにカメラの放列があり、「扇千景が来る」と誰かが言っていたが、扇に見せてもしょうがないのではないか?
◆ジェフ・ブリッジス演じる大統領の決定力や政策の進め方を見ると、アメリカ大統領というのもにものすごい権力が集中していこと、大統領個人の決定力がものを言うことがわかる。日本とは決定的にちがうシステムを見る。
◆副大統領が死に、その後任を民主党女性議員レイン・ハンソン(ジョーン・アレン)を指名しようとする大統領。が、湖で釣りの最中、橋から転落してきた車の女性を助けようとし、一躍その「英雄的行為」で名を広めた知事ハサウェイ(ウィリアム・ピーターセン)を推す共和党の実力者ラニヨン(ゲイリー・オールドマン――ちょっと見ると、彼とはわからない)が、ハンソンの引き下ろしを画策する。彼は、ハサウェイが副大統領の座につくために受けることになる下院の司法委員会の聴聞会の委員長をつとめる。
◆ハンソンとラニヨンとの攻防も説得力ある描きかたをしているが、この映画のユニークさは、女性の社会性の現実をあらわにしたことだろう。ラニヨンは、ハンソンが学生時代に乱交パーティに加わったとされる現場写真を入手し、それを「ニコルズ・リポート」というインターネットのスキャンダル・サイトに流し、ハンソンを追いつめる。ここで、やった/やらなかったという議論の応酬や「真実」の究明といった方向で映画が進行するのなら、新しさはない。が、この映画は、ハンソンが、「それはあくまでもわたしのプライバシーの問題」として、沈黙を守るいう方向で、それに対して、「早く言ってしまえ」という攻撃を加えるか、あるいは、(その信憑性は別として)露骨な証言を積み重ねていく。そして、映画のなかでハンソンの母親が言うように、聴聞会や法廷が、とりわけ女性に対する性的疑惑を問題にする場合に、「女性へのイデオロギー的レイプ」、「セクシャル・マッカーシーイズム」を行使することになるという点を明らかにする。
◆ハンソンの母、ラニヨンの妻、FBI職員など、短い登場ながら、女性たちがみな印象深い。
◆結婚していない男性が乱交パーティに参加しても、そのモラルが問われることはない。が、女性の場合は異なる。ハンソンは、「実際はどうなのだ?」という聴聞会での質問にも、マスコミの追求にも答えないことによって、自分をそういうレベルの議論に陥ることを拒否する。これは、クリントン・スキャンダルに学んだアメリカの新しい意識だ。裁判は黒白をつけるが、それは必ずしも真実を明らかにするわけではない。だから、もし真実を信じ、それが個々人のレベルの問題に属するものだとしたら、沈黙を通すことが、逆に最も正義であるということもある。これは、どこか現実の正義よりも「神の正義」を信じる姿勢のようにも見えるが、法廷が技術競争になってしまった今日では意外なポテンシャルをもっているかもしれない。
◆ラニヨンは、この映画では、決して絵に描いたような「悪者」としては登場しない。彼は、ハンソンのスキャンダルを利用しながらも、一方では、そういうことを許せないと信じてもいる。だから、彼の妻は、「いまのあなたは赤狩時代のマッカーシーみたいだわ」と言う。彼は、古いタイプの政治家である。彼は、自分が食べているステーキがうまければ、同じものを他人にも食わせようとする。
◆副大統領になるためには、聴聞会だけではなく、厳しい身辺調査が行なわれる。その仕事をしているFBIの女性職員が、2、3度しか出てこないが、なかなか印象に残る。彼女の調査は、この映画の物語の要にもなる。ハサウェイ知事に、「どうして魚の少ないところで釣りをされたのです?」・・・。
◆ハンソンは、菜食主義者であり、タバコを吸わない。女性の選択権の保証、国家と宗教の分離を求め、死刑と戦争反対であり、中絶を支持する。女性が路地裏の怪しげな中絶医のもとに通わなくてすむように。彼女は、女性の尊厳をいかにして獲得し、維持するかに関心がある。
◆最後は、ジェフ・ブリジスの大演説で終わり、彼が「いい演説だったろう」と言って笑い、The Endのマークが出る。しゃれてる。
(丸の内ピカデリー)



2001-04-19_1

●みんなのいえ(Minnnanoie/2001/Koki Mitani)(三谷幸喜)

◆全体としては、『ラチ”オの時間』よりも密度が甘いが、日本文化論的視点から――が、決して突き放さずに――日本社会をとらえる伊丹十三にも似た視点と三谷独特の楽屋落ち的ユーモアが横溢。
◆「マイホーム」について描きながら、「みんな」の家となっているところがミソ。日本の空間は、個人のものでも「みんな」のものになってしまう。最初は、夫婦が自分たちのために建てるつもりではじまった「マイホーム」が、次第に、「みんな」によしを基本価値とするものになっていく。が、「みんな」は誰でもであり、誰でもないから、裏ではみんな文句を言い続ける。
◆田中直樹と八木亜希子の若夫婦が家を建てる。設計は、2人の元クラスメートだったインテリアデザイナーの唐沢寿明、建築は八木の父の田中邦衞ということになった。が、唐沢と田中邦衞とがうまくいかない。唐沢は室内装飾やリフォームなどで売れっ子だが、本格的な家の設計をやったことがない。建築技師の免許もない。邦衞は、昔気質の棟梁で、横文字ばかり使う唐沢とは合わない。文化的ギャップがありすぎるのだ。こういうことはめずらしいことではないが、三谷の面白さは、このギャップに直面したときの周囲の反応を鋭く描くことである。日本では(と一般化できるほど)集団や組織のなかで対立があると、白黒をはっきりさせて、そのどちらかを選ぶという形で解決せずに、どちらにもよいというような解決をはかろうとする。そんなものは、ないから、奇妙なことになる。そうとことはこの映画の随所で描かれるが、たとえば、便所を南側に設計した唐沢を「便所は北側に作るもんだ」と非難すると、唐沢は「そういう考えがこれまで日本の家を暗くしてきたんだ」と譲らず平行線が生まれると、田中直樹は、「それじゃ、南と北に2つ便所を作りましょう」と言いだす。
◆唐沢は、恋人がアメリカ人の黒人で、初対面の人にも握手で挨拶する。が、よくありがちなタイプで、(握手文化の世界にはさまざまな握手の仕方があるのに)一律的な握手をするだけだ。地鎮祭でかしわ手を合わせるのがいやで、「チャオ」とか言ってしまう(正直、わたしも、神社で手を合わせることができない)。彼は、玄関のドアを西欧流に内開きにしようとするが、邦衞に反対される。日本は、外開きがあたりまえだという。この点をとりあげたのは、三谷も鋭いと思う。というのも、以前書いたように、ドアの開閉の向きは、空間の公共性に関する日本と西欧との違いが出ていると思うからだ。邦衞は、日本ではスペースが少ないから、それを活かすために外開きにするのだと言う。唐沢は、だから、その分、玄関のスペースを広くとったんだと反論する。この議論は、それ以上展開されないが、映画のなかのような住宅(すべての空間がプライベート)ではなく、たとえば、公共の道路に面した家の玄関のドアーがどちらに開閉するかという問題で考えてみるとこの問題がはっきりする。外に開けが、公共の空間をプライベートに占有することになる。日本の公共空間とは、プライベートな空間を他に提供し、シェアするという精神からつくられているのではなく、利用できれば利用してしまえる(天下から与えられた)準プライベート(「みんなの」)空間なのである。
◆八木亜希子は、「めざましテレビ」のレギュラーアナウンサだった。それほどサエたひととは思えなかったが、見事な転身。映画のなかで、「めざましテレビ」のキャスターの大塚範一が、竣工祝いの日に花を届けてくる花屋の店員役でちょっと出る。クレジットには、「ちょっと寂しげな花屋の店員」とあった。このほか、バーのシーンで客として和田誠が出ていた。ほかのシーンでも、明石屋さんま、地鎮祭の神主役で香取慎吾等々多数の有名人が出ている。
◆吉村実子が田中邦衞の妻役で出ているが、すっかり普通の人になってしまった。
◆若い大工役の井原剛志はなかなかいい。松田優作的ワイルドさを秘めている。
◆田中直樹がテレビのために書いている脚本のシーンがくり返し出てくるが、ワンパター。これは、三谷の好みなのだろう。
◆ただ、いまの時代、唐沢的なデザイナーはいるとしても、田中邦衞的な大工はもはやいないということは知っておくべきだろう。
(東宝東和)



2001-04-17

●ウェディング・プランナー(The Wedding Planner/2001/Adam Shankman)(アダム・シャンクマン)

◆冒頭のソングから、いい感じだった。それは、決して「高尚」な作品であることを示唆してはいない。逆に、ラーメンの味、アメリカの庶民に受けそうなコンテンツを予想させる。が、これこそ、アメリカ映画を見る楽しみの一つである。
◆最初バリバリのプロフェッショナルなウェディング・プランナーとして登場するロペスが猛烈うまい。それと、アメリカ流の「気配り」の組織された定式とノウハウが感動的なまでに活写される。たとえば、カメラの前に頭を高く結いあげた女性がいたとする。そのときは、「特別席をご用意してあります」と言って、別の場所に誘導する。ロペスは、会場で急ぐとき、人々に見えるところでは普通に歩き、ない柱の陰を通るとき走る。服の裏側にはボンドから元気づけのスプレーまで用意している等々。
◆日本では、「気配り」は煩わしいことが多い。相手が欲していることを的確に与える配慮という点では、一部のレストランや料理屋で体験することができるが、それには常連になる必要がある。むろん、アメリカでも常連とイチゲンさんとは違うが、イチゲンさんでもうまくチップをはずめば、それなりの配慮をしてもらえる。これは、日本では難しい。金と場数がなければならない。
◆おそらく、監督のシャンクマンは、テレビの演出やパーティの演出をダブらせながら前半のロペスがウェディング・プランナーの職務を果たすシーンを撮ったにちがいない。ウェディング・プランナーには、セラピストとしての役目もある。自信を喪失する花嫁を暗示にかけて、ウェディング・パーティの席に押し出す。淋しさに落ち込む花嫁の父親を励ます。これらは、実際にウェディング・プランナーの仕事であろうが、これは、同時に、テレビや映画の演出家の仕事であり、また、教育現場にもあてはまる。有能な「人生」プランナーへの期待は、いまの社会にはある。
◆サンフランシスコの路上でマンホールの穴にハイヒールの細いかかとをはさみ込んで、右往左往しているうちに転がってきた廃品回収ボックスに轢かれそうになるロペスを、マシュ・マコノヒーが助けるシーンもいい。二人は、その後、公演の野外映画会でデートするが、このシーンもロマンティック。映画は、バックタイトルによると、フランク・ボーザーグのFlirtation Wlk (1934)。ディック・パウェルの軍人とルビー・キーラーとのラブシーンが映っている。ダンスのシーンになって、観客たちも踊る。
◆ロペスとマコノヒーとがたがいに相手を責めながら歩くシーンをコリオグラフィックに振りつけているのもなかなか楽しめる。
◆脇を固めるアレックス・ロッソ、ブリジット・ウィルソン=サンプラス、ジュディ・グリア、チャールズ・キンブロー、ジョアナ・グリーソン、新人のジャスティン・チェインバースがみな健闘。
◆「ミート・ザ・ペアレンツ」の次は「ウェディング・プランナー」というように、結婚とファミリーが、いまやハリウッドの流行テーマである。
(ヘラルド試写室)



2001-04-13_2

●ムルデカ(MERDEKA/2001/Fuji Yukio)(藤由紀夫)

◆試写会のあとのエレベータのなかでは、あのY氏は知らないが、普通は誰もしゃべらない。奇妙な沈黙が支配する。しかし、ドアーが開いて、歩き出したとたんに誰かがしゃべりはじめる。「どうしてこんなの作ったんだろうね?」。この日も、業界関係者の人の声がかすかに聞こえた。席も3分の1ほどしか埋まっていなかった。
◆この映画が言いたいことは、2つある。一つは、日本軍の降伏後、インドネシアの独立運動に加わってオランダ・イギリスと闘って死んだ日本人がいた(その数2000人)ということ。もう一つは、1942年に日本軍がオランダの占領下にあったジャワに上陸し、占領したが、少なくとも当初は、ジャワの制圧・搾取ではなく、原住民の自律を助ける側面があったということである。が、東南アジアへの侵略を合法化するこの論法のうさんくささをすっかり拭い去るには、この映画のような力ずくと人情論では無理である。
◆冒頭、『プライベート・ライアン』の映像テクニックをそっくりいただいたかのような上陸作戦ののち、日本軍が村に入っていくと、村の老婆が軍人(山田純大)の足にしがみついて、「あなたたちの来るのを待っていた・・・ジャワには、黄色い肌のひとがやって来て白人を追い払ってくれるという言い伝えがあるのです」というようなことを言う。そして、あたりには、村人たちが手に手に食べ物や土産品を持って集まってくる。そういうこともあったのかもしれないが、このシーン、なんかいやらしい。自分勝手な解釈じゃないのか? 大体、新しい侵略者が来て、えらく恐ろしげだと、相手の気を和らげるようなことを言うのが、長い間侵略されてきた者の知恵だという場合もある。真に受ける日本人は、思い上がっている。
◆山田純大が特にそうだが、台詞に力が入りすぎる。まるで時代劇を見ているような顔つきとどなるような台詞まわし。戦争には、さまざまなかけひきや屈折があるはずだが、このドラマを見ていると、日本軍の連中は、みんな一本気で、これじゃ、負けるだろうなという気がしてくる。
◆インド人のM・K・シャルマの『喪失の国、日本』に、日本人にとっては刀は魂のオブジェ、「霊的存在」かもしれないが、インド人にとっては道具にすぎないというくだりがあった。この映画では、しばしば、山田純大が刀をかかげ、インドネシアの人に、その決意を表現したりするが、もし映画と同じようなことが実際に行なわれていたのだとしたら、はたして日本人の意志は現地の人に通じなかっただろう。 そもそも、根本にコミュニケーション上の失敗があったのではないか、と思わせるシーンが随所にある。おそらく、実際は、映画以上にひどかったのだろう。時代的に半世紀以上もたった今日、こんな映画を作っているのだから、当時はさもありなんだ。
◆インドネシア人が自力で独立するのを助けるためにと「青年道場」というのを創設するが、映画のなかで、「これで中野学校で学んだことを教えられる」と軍人の一人が言う。え、と思ったのは、中野学校というのは、市川雷蔵主演の『陸軍中野学校』でも描かれたように、スパイの技術を教える所だったはずだからだ。もしそうだとしたら、この学校の目的は、民族の自主独立(ムルデカ)を助けることなどではなく、諜報の技術を現地人に教え、造反を防ぐことである。
◆青年道場で日本の軍人のやり方に反抗する現地の青年(ムハマド・イクバル)がいる。なかないいつらがまえをしているが、徹底的に痛めつけられる。本当は、彼のような反感こそが普通だったと想像できるが、映画では、この男が山田純大を慕い、敬うような方向に進む。非常に説得力がない。
◆異なる言語・文化の世界を表現するのに、(山田が現地の女性に)「君の言いたいことはわかる。目がすべてを語っている」なんて台詞は使ってはならない。言葉もおぼえないで、そういう言い方は異文化をばかにしている。
◆映画のなかの軍人たちは、みな死にたくて死んでいるように見える。弾に当たるシーンでも、あれじゃ当然と思える姿勢で撃たれる。戦車を爆破するシーンでも、アメリカ映画なら持っている地雷を戦車のキャタビラの下に投げるであろうが、それを抱いて飛び込むのである。命を無駄にするやつばかり。その意味では、なぜ日本軍は負けたのかということを映画的にあらわにした一つの例になることだけはたしかである。
(東宝東和試写室)



2001-04-13_1

●ジョエルに気をつけろ!

◆隣のチャパツの女性がタバコ臭いうえにジャコウ性の強い香水をつけており、気分が滅入る。強い香水をつけている女性で、適材適所という感じがしたことがあまりない。というより、香水は、ひとを引き寄せるメディアなのだから、不可避的に体を近づけざるをえない不特定の相手と出会う場所に強い香水をつけて行くということは、暴力ではないかと思う。
◆1人の蠱惑的な女性のために3人の男が悩み、バーテンのマット・ディロンは、殺し屋(マイケル・ダグラス)に、弁護士のポール・ライザーはセラピストに、警官のジョン・グッドマンは神父に相談するという話。その女性ジョエルを演じるのが、リブ・タイラー。が、香水のせいか、何かジュリア・ロバーツからアクを抜いたような感じで、男たちの悩みが実感として伝わってこない。もっと困った女でもいいはずだが、それほどでもない。
◆喜劇だから、リブが姿を現わすと、音楽は入り、「出たー」という感じになり、ハプニングが起こるパターンを楽しめばいい。要は、3人のからみあい。その点ではジョン・グッドマンがおもしろい。といって、警官を茶化しているわけではない。ライザーは、マゾとSM趣味だが、だからといって弁護士が茶化されているわけでもない。瑣末なディテールがリンクしあって喜劇的世界が滑って行く感じ。そのくせ、殺しのシーンはけっこうリアルで、喜劇的ではない。
◆マット・ディロンが働いているバーを閉めて外に出ると、車のなかで争う男女。レイプされそうになっている雰囲気に女を助けると、「あんたのウチにはステレオある?」「DVDは?」と妙なことを聞き、「何だ車もないの」「すぐそこだから」「あら、一戸建てに住んでいるの」などという会話をしながら、ディロンの家までやってくる。「何か飲む?」「ビールでいいわ」「最後のビールを今朝のんじゃった」「じゃあ、水でいいわ・・・あたしは水が世界に第2番目に好きなの」「1番目は何?」「セックス」。というわけで、2人はベットイン。が、しばらくして、女が妙なことを言い出す。彼女は、ある種の「美人局」(つつもたせ)だというのである。そして、すぐに、先ほど車のなかにいた男が現れる。が、「金はない」「じゃあ、バーの金は?」とバーにもどり、金庫を開けるすったもんだでデュロンがあぶなくなったとき、ジョエルが男にピストルをぶっぱなす。
◆ジョエルの相棒ユタは、モルモン教徒の多いユタ州の出身で、最後にその弟と称する男が自動小銃を持って復讐に来る。このシーンはなかなか秀逸。銃撃戦のバックで鳴るのは、YMCA。
◆クレジットに「デイヴィッド・クロネンバーグ」の文字が見えたが、どこに出ていたのだろう? ひょとしてユタの弟?
◆プロデュースをしたのがマイケル・ダグラスで、最後のいい思いをするのが彼の役というのはちょっとずるいじゃない?
◆台詞のやりとりの面白さはなかなかいい。ポール・ライザーがセラピスト(レバ・マッキンタイヤー)に、「じゃあ、あたしもあなたとやりたいうように見える?」と突っ込まれて、彼が、「先生は、professional reserveをもっているから」と答えるシーンがある。これは、直訳すれば、職業的慎みで、つまり、大学の先生が女子学生に手を出さないような抑制・慎みのことである。
(ギャガ試写室)



2001-04-12_2

●ディスタンス(DISTANCE/2001/Koreeda Hirokazu)(是枝裕和)

◆試写室へ入ったとたん、いつも座る右前方の席周辺から大声が聞こえたので、ヤバイと思い左前方に座る。相手の女性もつられたのか段々声が大きくなり、聞きたくもない誰かのゴシップや蓮實重彦の悪口がびんびん聞こえる。そばの席にしなくてよかった。トイレに立ってわたしの前を歩いて行ったその人の横顔が見えた。四方田犬彦だった。
◆明らかにオウム真理教の事件をモデルにしたドラマ。おそらく、連合赤軍事件なども意識しているだろう。被害者や被害者の遺族ではなく、加害者遺族の側からドラマを展開しているところがユニーク。
◆東京都の水道水にウイルスを入れ、多数の使者と被害者を出した実行犯は教団の手で処刑され、教祖は自殺したということが物語のなかで明らかになる。ドラマ自体は、実行犯の遺族4人が、いっしょに清里の奥地にある殺害現場に死者の供養に行くときの体験とそのなかで思い出される過去のフラッシュバックで展開する。
◆供養に行く日の朝、4人の弁当におにぎりを作るきよかの手つきがプロ並の手際よさ。
◆現在と過去を現わすショットを無愛想につないでいき、徐々に全体をつかませるスタイルは成功している。
◆山道に停めた車が盗まれ、たまたま一緒になった元教団員(途中で脱走した)の坂田(浅野忠信)と会う。彼の案内で昔教団が使っていた宿舎に泊まる。ドラマの現在は、そこでの1晩という設定。浅野は、魂が抜けた感じのキャラクターを見事に演じている。
◆しかし、なぜ実行犯たちがそういう行動に走ったかということはあまり明確にはなっていない。ただ、遺族たちとは違う感性と考えのなかで生きていたらしいということが暗示されるにすぎない。毎年供養で会っているはずなのに、4人――きよか(夏川結衣)、勝(伊勢谷友介)、敦(ARATA)、実(寺島進)――はいつもデスマス調でしゃべる。4人のあいだには見えない距離(ディスタンス)がある。それに対して、熱烈に心の解放と教育を信じ、宮沢賢治に入れ込んでいる、きよかの夫、環(遠藤憲一)、医大を辞めて出家し、教団で新たな研究に励むという、勝の兄(津田寛治)、ヨガ教室に通っているうちにすっかり変わってしまい、遠くを見る目になっていまった妻(山下容莉枝)は、「距離」のない関係(サルトルが定義した「融溶集団」――ちなみに、ガタリは、この概念に対するわたしの質問に、サルトルの活動は尊敬するが、この概念はダメだと言った)を信じ、求めた。
◆おそらく、「距離」をどう取るか、どういう質の「距離」を生きるかが要なのだろう。
◆火のカルチャラル・スタディーズのようなものも意識されている。4人は山荘で焚き火をし、語り合う。敦の脳裏に、父(教祖)が庭で家族の写真を焼いている後ろ姿が焼きついている。敦は、映画の末尾のほうで、湖にある壊れかけた木の桟橋を燃やす。それぞれ、火の意味がちがうのだが、敦が桟橋を燃やすシーンが結論めいたものとして受け取られると、また、「融溶集団」指向にもどってしまいはしないか? 火は、どのみち、「距離」を作るよりも、「距離」をなくすものだから。
(映画美学校)



2001-04-12_1

●東京マリーゴールド(Tokyo Mari Gold/2001/Jun Ichikawa)(市川準)

◆いまの平均的な「女の子」エリコの雰囲気が実によく出ている。これだけ「普通」を演じられる田中麗奈は、すぐれた女優だ。
◆しゃべり方は1975年以後に生まれて世代特有の、口に何かを含んでくるようなスタイル。「言いじゃない」→「いいザない」、「ちょっと」→「ツォっと」、「千代田線」→「ツヨダセン」。
◆集団のなかでサメているが、それが苦痛というわけでもない。そういうかたちで自分がのめりこんでしまうことに距離を取り、自分をプロテクトしているのだ。
◆ホームレスの姿を映すシーンが何度かある。ジェントリファイされた東京。80年代のニューヨーク映画で常套的に使われたやり方。たしかに東京はニューヨーク化した。
◆映画は、エリコが街頭で男と気まずく別れるところからはじまる。実際、駅頭などで男女が無言でにらみ合っていたり、女が泣いていたりする光景によく出会うが、映画はそういう「普通」をさりげなく活写している。
◆会社をやめ、『とらばーゆ』で見付けた会社で面接。そんななか、昔の仲間から合コンの誘い。4組ぐらいの男女が「ラブラブ」を前提に会い、食事し、最後はカラオケ。ここでも日本の平均的な人間関係やコミュニケーションがよく描かれている。日本では、2次会になってはじめてくだける。そのなかでエリコはしらけているように見える。タムラ(小澤征悦)に声をかけたのは、一人でつぶれて眠りこけている男がいたからにすぎない。彼は、食事のときも、まわりとうちとけずに、一人で食べることに熱中し、自分だけナンプラーなんかを取り寄せたりしているジコチュー的青年(祖父を葦懐かしむ癖)。が、わかれぎわに(ほかのカップルはそれぞれにどこかへ消えた)、「もしよかったらさ、ケータイの番号もらってくんない?」と言う。
◆エリコがタムラに初めて電話をかけるとき、友達のケータイを借りる。いまどきの女の子がケータイを持っていないはずはないから、これは、前の男と別れて、それまで使っていたケータイを放棄したことを意味する。案の定、彼女は、新しいケータイを買う。
◆タムラには、サンフランシスコに留学しているはずの恋人がいることになている。だから、エリコは1年契約でタムラとつきあうことにする。映画のタイトルは、1年だけで枯れてしまう「フレンチマリーゴールド」から来ている。が、この恋人の存在というのも、いまの時代の男タムラのセキュリティ・ディスタンスかもしれない。べったりは怖い。一生一緒にいるのなんてまっぴら。そこで何らかの距離を作る。女は、いま、そうした距離を作るのに手管を必要としない。田中=エリコのように(昔の見方なら)むっつりと能面のような表情でいても誰も文句を言わない。が、男は、まだそうはいかない。「ジコチュウ」はまだ差別語だ。
◆しかし、エリコが、タムラに、あなたと一生一緒にいたいから、サンフランシスコの恋人と別れてと迫るシーンはなかなか泣かせる。本来そういうことに逆らってきた女がそういうことを言うからだ。
◆終わりの方で、タムラがロスへ出張し、エリコが、きっと恋人に会いにいくのだとかんぐり、2人で借りた部屋を去って行くが、その後、バス(横浜あたり)のなかで、その恋人が大きな腹をかかえてアメリカ人の夫と一緒に乗っているのを見る。これが、彼女の願望的イメージなのかどうかはわからない。
◆昔の級友にたのまれてエリコがCM「野球をしませんか」に出るシーンがある。その撮影シーンは、CMを撮ってきた市川準が入れたかったシーンなのだろうが、ボールをパスしていく映像には何かのメタファーが仕込まれているのだろうか?
(松竹試写室)



2001-04-11

●ギフト(The Gift/2000/Sam Raimi)(サム・ライミ)

◆メディアボックスの映写装置には問題がある。今日も、キアヌ・リーブスが初めて登場するシーンで音が止まった。今回は、5分ぐらいで直ったが、主催者側からのコメントは全くなかった。
◆ケイト・ブランシェットは、ひとにやすらぎを与える女性アニーの雰囲気をうまく出している。が、あるひとにはやすらぎでも、他の人間には不安や怒りをもたらすこともある。『ショコラ』もそういうタイプの女性を主人公にしていたが、そのテンションは、『ショコラ』よりもはるかに高く、その分アニーは、自分を危機に追い込むことになる。
◆ケイトは、事故で夫をなくし、生活保護とカード占いで3人の息子を育てている。当然、父親を慕う子供たちの問題で悩まされる。彼女は、霊能者であり、夫が事故に遭う日も、予感があった。ある日、祖母があらわれ、「感じたままを信じなさい」と言って消える。近所の住人は彼女を頼りにしている。とりわけ、バディの依存はエキセントリックである。
◆ジョヴァンニ・リビシーが迫真の演技で演じるバディは、おそらく幼児のときに父親から虐待を受け、精神障害に陥ってしまった。父親を殺すかもしれないという脅迫観念をアニーとのコミュニケーションで抑えているが、それが、ついに切れる。そのシーンはすさまじい。
◆バディは、「soulとmindの区別がつかなくなる」とアニーに泣きつくが、この区別は日本文化ではどうなるのか?
◆キアヌ・リーブスは、筋の逆転のために必要な存在だったのかもしれないが、結局は彼でなくてもできる役柄である。ちょっともったいない。
◆大筋はスリラー/サスペンスに近いが、基本に父の不在、父親になりきれない男の問題がある。父コンプレックスに悩むバディ。ジョージア州ブリクストンという設定の狭い町の男たちのあいだをわたりあるいている女ジェシカ(ケイティ・ホームズ)は、婚約者ウェイン(グレッグ・キニア)に満足できない。金持ちの強い父親が彼女に男のプロトタイプを植えつけている。強い男ではないウェインは、アニーの息子の学校の教師で、アニーに急速に好意を持つ。妻に暴力をふるうドニー(キアヌ・リーブス)も、結局、父になりきれないのだ。
◆父親になれない男たちのこの物語の世界は、母親=アニーでもっているような世界である。彼女は、ある種の「巫女」であり、父なき社会の先にほの見える母系社会のモデルである。最後のシーンで、夫の墓を子供たちとまいり、彼女と子供たちがだきあう。父はおらず母と子供だけがいる。
(メディアボックス)



2001-04-09

● メールシュトレーム 渦(Maelstrw枸/2000/Denis Villeneuve)(デニス・ビルヌーブ)

◆ビルヌーブは、カナダのフィルムメイカーだが、この人のエスニック・バックグラウンドはノルウェイらしい。映画のなかで、ノルウェイの作家ビヨル・マグネヤンへの賛美が語られ、魚のナレーションで、「ノルウェイの魚師は網でではなく、音楽で魚を採る・・・われわれはグリーグの音楽に捕らえられたのだ」という台詞がある。
◆北欧的というのか、フォン・トリアにも一脈通じる夢想的(狭い空間に沈み込んでいくような気分を惹起する)な雰囲気と個物のフェティッシュなとらえかた。
◆タイトルからすると当然、エドガー・アラン・ポーの『渦潮』(The Descent into the Maelstrom) のことが思い浮かぶ。主人公は漁夫ではなく、都会の女性だが、漁夫の網にかかった魚が物語の語り手になっている。冒頭のシーンは、血を塗りたくったような閉ざされた空間で、恐ろしげな男が刃物をクラインダーで研いでおり、その傍らのまな板の上になまずのような、不気味で大きな深海魚がいる。その魚が、人間の言葉をしゃべりはじめる。映画のなかで、刃物がその魚の首に振り下ろされ、体が真っ二つになるシーンが何度か出てくるが、物語は、刃物の研磨から魚の体の切断までの時間にこの魚が語った物語なのである。
◆おどろおどろしい物語の世界は一転して産婦人科の手術台の人工的な世界に移る。ビビアン(マリ・ジョゼ・クローズ)が中絶の手術を受ける。取り出された胎児は、非常にオーガナイズされたプロセスで火葬に付される。体を灰にするということがこの映画の一つの重要なテーマの一つであるようだ。
◆ビビアンがはからずもはねてしまった魚市場の男(冒頭で刃物を振り上げた男――魚は言った「殺す者は殺される」)は、遺族の知らぬ間に警察の手で火葬に付される。
◆個物がつなぐリンク構造がこの映画の物語を構成している。路上に偶然ばらけた魚→それを轢いて運転を誤るビビアン→魚市場の男をはねる→魚の目ききを失った市場が品質の悪いタコを中華レストランに緒卸す→ビビアンと友達がその店で料理を食べ、友人がタコの味に文句をつける→市場の人が、目ききの老人がずっと仕事を休んでいるのに気づき、家を訪ねる→老人は、轢かれて、体を引きずって、家に帰り、台所で死んでいる→←新聞記事になる→それを読んで殺人の罪にさいなまれるビビアン→死んだ老人の息子エビアン(ジャン・ニコラス・ベロー)との出会い・・・。
◆吐くシーンが何度もある。吐くとは水を排出することである。シャワーも水の排出だた、シャワーもWがメタフォリックに使われる(体のシャワーと車の洗浄)。死は、焼かれることなのか? それに対して水は生のイメージ? 映画は、火葬された老人の灰をエイビンとビビアンが海に撒きに行くシーンで終わるが、これは、火葬を水葬に転じたのである。
(ギャガ試写室)



2001-04-06_2

●トラフィック(Traffic/2000/Steven Soderberg)(スティーブン・ソダーバーグ)

◆毎年、アカデミー賞発表後のこの時期には、受賞作の試写にひとが殺到し、並の時間に行っても見れないことが多い。この日も、40分まえに行ったが、すでに20人ぐらいの列が出来ていた。
◆意図的に色数を減らした画面は何をねらっているのか? セピアっぽい画面からブルー系の画面へ、そしてもっと色が変わる。
◆善ダマ悪ダマが見えやすい形での描きかた。いかにもの外見の役者たちをそろえた。サンディエゴの国境ぞいの町ティファナの警官ロドリゲス(ベニチオ・デル・トル)は最初から信念の人という印象をあたえる。夫(スティーブン・バウアー)が麻薬取り引きの黒幕として逮捕されたが、その内幕は知らない(が、やがてその仕事を引き継ぐ)妻アヤラ(キャサリーン・ゼタ=ジョーンズ)は、どこかクサイ感性をまきちらしている。ゼタ=ジョーンズの演技は抜群。彼女の夫の相談役ですべてを知っているクエイドは、夫が逮捕されているすきにアヤラをくどいてその仕事もそっくりのっとろうとする。これも、アーニー・メツガーがうってつけの演技をしている。最高裁判事で、麻薬の撲滅に奔走するウェークフィールド(マイケル・ダグラス)は、仕事人間で妻や娘との交流が薄くなっている。その間に娘キャロラインは、級友にさそわれてクラックにとりつかれ、売春までやるようになる。エリカ・クルステンセンが演じる娘も、いかにもの「典型」。ウェークフィールドは、娘のことを知って、はじめて麻薬取り引きの現状を自分の目で見る機会を得る。愚直なキャラクターは、ダグラスに向いている。
◆ウェークフィールドが次第に変わっていくところがこの映画の見どころ。彼は、「その記者会見が終わったら、あとは大統領と会うだけだ」と大統領補佐官からいわれた重要な記者会見で、麻薬の撲滅を力説しようとして、言葉を失う。「麻薬戦争を継続させたら、家のなかでも家族を敵にしなければならない」――彼はそう言って、壇上を去る。仕事よりも家族を選んだわけだ。
◆麻薬の密売組織の摘発が大きなテーマになっているが、いくつもの「人間的」テーマが非常に見えやすい形ではめこまれており、登場する人数の数の多さにもかかわらず、観客にいくつもの問いかけをする。が、この映画でも、家族というテーマた非常に大きいのは、いまのアメリカ映画の傾向のためだろうか?
◆キャロラインたちがドラッグパーティをやりながら言う。大人たちはウソばかり。つまり、彼女らは、ドラッグの作るヴァーチャル(という言葉は使わなかったが)なリアリティだけが信用できるということ。若者がドラッグに走る背景にはそういう側面もあるだろう。それは、麻薬で利益を得る者たちにだまされているのだと大人は言う。キャロラインにクラックを教えた級友のグレイス(セス・アブラハムス)は、麻薬に精通し、売人たちとも顔なじみだが、中毒には陥らない。父親の狼狽ぶりを冷笑する。彼からすれば、だまされているなんてあたりまえ、なんだってそうじゃないか、と。貧民街の子供らはみなドラッグディーラーだとするウェークフィールドの意見を一蹴して、グレイグは、貧しい暮しの子供たちにとって、ブツを運ぶだけで金になるのなら、それを選ぶのはあたりまえだろうと言う。
◆麻薬戦争は、権力闘争である。麻薬から直接利益を得ない撲滅主義者も、その功績を政治的利益にする。そして、それは金銭的利益を生む。ウェークフィールドとロドリゲスは、その道を選ばない。戦争に加担するのではなく、戦争を終息させる方法の模索。
(ヘラルド試写室)



2001-04-06_1

●ナンナーク(Nang-Nak/1999/Nonzee Nimibutr)(ノンスィ・ニミブット)

◆後ろの人がかなりのパワーで鼻を鳴らすので、美しいシーンも、そのたびに下品になってしまったが、この日、花粉症に悩まされるひと多く、わたしも、いつになく、鼻水を流していた。不況よりも花粉症公害をなんとかするのが、都政と国政にとって先決?
◆「『タイタニック』を抜いたタイ映画史上No.1のラブ・ストーリー!」という紹介を見て、ロマンチックなメロドラマを想像したが、死体や爬虫類の生々しいシーンがたくさん出てくるので、意外だった。この映画がタイで人気を呼んだ理由は、決してメロドラマとしてすぐれているからではない。むしろ、この映画には、タイ人の信仰や慣習に訴えるようなとことがあり、そうした無意識的・メクロなレベルでのシンクロニゼイションが、この映画に観客を引きつけたのだと思う。
◆1868年8月16日、日食におびえる人々。不吉な予感。若い男女が別れを惜しんでいる。男マーク(ウィナイ・グライブット)は、内乱の鎮圧に兵士として出征する。女ナークは、子供を宿している。前後するショット。悲惨な戦地。闘いのシーンはなく、死屍塁塁の地面に、横腹に血を流したマークが倒れ、苦しんでいる。そばには友人が倒れているが、動く気配はない。突然動き出したかと思うと、目を見開いて絶命する。ちょっとゾンビ映画の雰囲気。音楽はびんびんと押し上げてくるようなリズム。向こう側の道を牛を引いた人が無関心に歩いている。一方、ナークは、大きなおなかでひどい泥の田んぼを牛の引く鋤でを鋤いている。突然、うずくまるナーク。陣痛がはじまったのだ。瀕死のマークと難産のナークとのシーンが交互に描かれる。このへんもかなり生々しい。出産のため、家の天井から紐で両手をつるし、股を開いて苦しんでいる様は、ちょっとSM的な「バンディッジ」(繋縛)ものの雰囲気を思わせないでもない。
◆「あとは猊下しか助けられるない」と見放されたマークは、最高位の僧侶の治療(モントリー・ゲートゲオ)(僧が傷口を開くシーンも生々しい)と祈祷で回復し、僧からは出家することを勧められるが、家族を残していると言って、マークは船を漕いで故郷に帰る。その川のシーンも、蛇が出て来たり、薄気味悪い。そして、周囲には誰も人がいないのに、小さな船着き場に赤子をかかえたナークが立って手を振っている。
◆それから、『雨月物語』や『牡丹灯篭』的な世界が、村人、幽霊退治師、地域の僧院長をまじえて展開する。マークの家の周囲には誰も住んでいない。戸口を開くと、大とかげが死体を食べていたりする。たまたま近づいてきた昔の知り合いは、マークの姿を見て、怯える。マークも少し不安になるが、ナークは、「このへんは、コレラでみな死んだ」と言う。
◆蜘蛛、蛇、ねずみ、大とかげ・・・気味悪い生き物ばかり。
◆幽霊退治師が、ナークの墓をあばくシーンもどぎつい。頭蓋骨を石で割ろうとするが、逆に自分
の頭をその石で打ちつづけることになる。自業自得とはこのことか。が、最高位の僧が来て、頭蓋骨の額のあたりにノミを打ち込み、骨を切り取るのは簡単に成功する。僧は、その骨にナークは封印する。幽霊としてのナークは成仏し、マークは出家する。
◆タイの観客にとって、この映画は、因果応報を怖さのなかで教化するような効果をもっていたのではないか? すべては仏教のイデオロギーに忠実な物語なのだ。不幸はつねにある。それは運命的なもの。それを素直に受け止めずに、家庭や現世の幸せを追求しようとすると、その不幸は倍加する。位の高い僧侶の決定は絶対的であり、人々に上位の者につかえなけらばならない。う~ん。
(映画美学校)



2001-04-04

●Stereo Future episode 2002(Stereo Future/2000/Hiroyuki nakano)(中野裕之)

◆冒頭でいきなり「和をもって尊ぶべし――聖徳太子」という引用が表示される。終わりのほうでも、「人間は考える葦である――パスカル」というように、半分冗談のような引用文が出る。が、これらも、冗談ではなさそうだ。その不文明さが、中野の映画の面白いところ。森が人間を癒すというテーマが基調にあり、冒頭でも、緒川たまきが(この映画以前に)エコロジストで「彗星捜索家」の木内鶴彦という人にインタヴューした映像が出るが、この映画が、単なるエコロジー指向だとは言えない。
◆物語を縦横なフラッシュバックで伝えたり、撮影そのものを相対化したり、色の操作を華麗にやるなど、『SF サムライフィクション』以上に変化に富む。
◆写真家からオーディションを受けて俳優になる桂という男(永瀬正敏)が、俳優になる夢を捨てそうになったことに失望し、妊娠(それは、誤診だった)のショック、世の中への深い絶望のなかで失語症になってしまう女性エリ(桃生亜希子)。彼女が、「植物専門医」のイタリア人モノレ(ダニエル・エズラロウ)に出会って、木々や植物との対話方を教えられるなかで、明るい顔になっていくプロセスは感動的。
◆二人が通りがかりに見付けたH2Oというクラブでは、アルコールは出さず、色々な場所の酸素を売って吸わせている。映画の設定では時代は2002年だが、いまでもあって不思議でないところが中野らしい。花粉症には強いはずのわたしが、今年はすっかりやられてしまい、まさにこのクラブで売っているような酸素ボトルがほしい。エリは、ここでたまたまアルバイトしていた桂に再開し、桂もそれまで撮影所で会いすぐにデキてしまった主演女優の美香(麻生久美子)よりも、自分が本当に愛しているのはエリなのだと思う。
◆麻生は、いかにものわがままタレントを演じているのだが、そのしゃべり方が、まさにいま流行りのくぐもった神田うの流のスタイル。面白いことに、緒川はそういうスタイルではしゃべらない。調べてみると、麻生が1978年、神田が1975年、緒川は1972年の生まれ。わたしの推測では、70年代の後半以後に日本語発音の基底部分での変化が起きた。言語を習得する1、2才、そして幼児語を脱却する6、7才の時代に何が起こったのか調べてみたい。知り合いの歯科医は、歯に抵抗のないものを食べるようになったからだと言うが。
◆エリの姉(緒川たまき)は、テレビ局で「仕事を恋人にして」制作をやり、エコロジー寄りの番組をつくって、部長(大杉漣)に抑えられる。が、このくだりはあまりサエていない。
◆ALTECのまがいのALTECiという高級スピーカーを売る元締めの中国人(?)を演じる斉木しげるは、ちょい役ながら、傑作。ほかにも、竹中直人、谷啓、風間杜夫などなど多数の曲者が出ているが、とにかく竹中がかなり好き勝手にやって全体を少しも壊さないのだから、この映画のしなやかさがわかるというもの。
(メディアボックス)



2001-04-03_2

●ガールファイト(Girlfight/2000/Karyn Kusama)(カリン・クサマ)

◆ニューヨークに行ったときに感じる街の臭いやリズム、人々の気質を身近に感じさせる。これを見ると、最近のニューヨークものがウソっぽく感じられる。わたしが、ニューヨークの「底辺」しか見ていないからか?
◆学校は退屈だし、家庭も、「父親の復権」などからは程遠い。ロワーなレベルは依然そうだと言うなかれ。変わったのは表層だけなのだ。これも典型がと言えばそうかもしれないが、主人公ダイアナ(ミシェル・ロドリゲス)の父親は、昼間からポーカーをしてうちにいる。食事は作ってくれるが、大した働きはなさそう。頭のいい息子に期待をかけ、娘のダイアナにはややすげない。ダイアナには、とうの昔に自殺してしまった母は、父の暴力に耐えられなかったのだという思いがある。父親は、潜在的な暴力機械である。
◆ふとしたことから彼女が習い始めたボクシング。意外に才能を発揮し、めきめい腕を上げ、公式戦にも出るようになる。このへん、女性が男性と同等に公式のボクシング選に出られるようになる時代の変化がよくでている。といって、この映画は、成功物語ではなく、ブルックリンの下町(さまざまな民族と階級の混成の街)で青春を送る一人の女性の物語である。
◆絵に描いたようなワルが出て来ないのもいい。
◆ジェンダー的に男性になるのでもなく、女性でありつづけるのでもなく、セクシャリティとしてもレズでもヘテロでもないレベルの追求。ありがちな物語だと、「男まさり」のダイアナは、レズになるか、男性を拒否する姿勢を赤裸々にする。が、彼女は、同じジムに属する一人の男エイドリアン(サンティアゴ・ダグラス)と出会い、愛する。が、皮肉なことに、彼と公式に闘わなければ成らなくなる。そして、彼を倒す。ここで、男は、男のメンツをつぶされ、彼女も罪悪感を感じるのだが、彼自身そうは思いながら、彼女は、彼がかえって彼女に正直でありつづけたことに愛を確認する。
◆世代的に10代の若者が登場するのだが、ダイアナもエイドリアンも、非常にしっかりしているのに、日本との格差を感じる。そして、性的にも彼女や彼は、明らかにポスト・フェミヌズム/ゲイイズムの空気のなかにいる。
(ヤクルトホール)



2001-04-03_1

●ミリオンダラー・ホテル(The Million Dollar Hotel/2000/Wim Wenders)(ヴィム・ヴェンダース)

◆冒頭のイントロで、トムトム(ジェレミー・デイビス)がホテルの屋上を疾走したまま下にダイビングするシーンは何か胸を打つ。
◆70年代の安ホテルにはよくいたタイプの連中がぞろぞろ登場するが、ベンダース自身は、「現実」を架空化・未来化したかったようだ。が、フィルムは、そういう「高等」な思いを飛び越え、「現実」にますます近づいてしまう。貧民窟に突如現れるスキナー(メル・ギブソン)は、まるでサイボーグの雰囲気で現れるが、次第に、この世界から決して遠い世界にはいないことがわかる。肉体のぎごちなさは、背中に手がついていたのを手術ではずした経歴があるためなのだった。分裂こそこういう世界にぴったりのものであって、わたしが70年代に住んでいたチェルシーのルーミングハウスの住人たちも、被害妄想であったり、アル中だったり、昔は「社長」や「女優」や「バレリーナ」だったりして、全体がSF的な雰囲気だった。「わたしは虚像よ」と言って、いつも古本屋で本を読み、人に会っても遠くを見ているような目をしているエロイーズ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が、ふと、街の男にトンネルのようなところで身をまかせていたりするように、虚構的であると同時にきわめて現実的なところがあるのだ。
◆虚構的であると同時にきわめて現実的という点では、インディアンのつもりでいる(あるいはふりをしている)ジェロニモ役のジミー・スミッツ、ビートルズの曲の大半はおれが書いたと言い、ジョン・レノンの贋物みたいな風貌のディキシー(ピータ・スチーメア) がいい。ディキシーは、「1980年12月」以降、外に出ていない(この日付にジョン・レノンが暗殺された)。
◆最後に、謎解きされる、トムトムよりも先に一人の男が屋上から落下し、その事件を捜査しにスキナーが来たのだが、彼を差し向けたのは、その男の父親で、「ユダヤ人にとって、自殺は大罪だ」とし、自殺説をくつがえさせようとする。
◆みな金がないはずなのに、トムトムは、アイボのようなロボットを持っているし、エロイーズのはめている電子時計はけっこうのものに見える。
◆最後にこの謎が明らかにされるが、ほんのちょっとだけ見えた顔は、ティム・ロスだと思う。
(東宝東和試写室)



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