粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-05-31_2

●テイラー・オブ・パナマ (The Tailor of Panama/2001/John Boorman)(ジョン・ブアマン)

◆イントロはありふれている。パナマの大統領が、パナマ運河の将来に関してどういうもくろみを持っているかをさぐるためにパナマに飛ばされるMI-6の要員アンディ(ピアース・ブロスナン)は、機上でMacのノートを開いて情報検索する。MI-6の機密情報に普通の飛行機のなかからアクセスできるのだろうか? 画面は、通常のウェブ画面。そこで、情報源となりそうな人物ハリー(ジェフリー・ラッシュ)を割り出す。このへんが安易すぎる。なお、アンディが使っているノートPCの背にはアップルのマークが見えた。
◆007のパロディのようなところもあるが、原作はジョン・ル・カレだ。そういえば、作家としてはもうダメになっているカレは、ジェフリー・ラッシュにどこか風貌が似ている。
◆印象に残ったのは、ノリエガ時代に反政府活動をしていた活動家ミッキー(ブレンダン・グリーン)が、実は、いまでは完全にファックアップしてしまった男であり、彼が、過激な活動を続けているのではないかというアンディらの予測を完全に裏切り、自殺してしまうシーン。
◆結局、ハリーといういいかげんなやつのいいかげんなでっちあげ情報で作られる政治の幻想的側面。そういう側面にののって動く国際政治のアイロニーとアプサーディティ。しかし、「巨匠」ブアマンの作品にしてはパッとしない。
◆ジェルリー・ラッシュの『クリルズ』のイメージが強いので、何か実感がわかない。
(ソニー試写室)



2001-05-31_1

●おいしい生活 (Small Time Crooks/2000/Woody Allen)(ウッディー・アレン)

◆クッキーが鍵になっているというわけか、クッキーの小袋を入口でもらう。なぜか、アレンの映画では何かをもらうことが多かったが、観客の動員にはあまり役立たなかったようだ。隣の女性、ケータイで大声を出したあと、BGMとしてかかっているサウンドトラックのジャズにあわせて足をぐるぐるまわす。リズムがちがうので落ち着かない。
◆ずっとアレンを支えてきたエディター、スーザン・E・モースが去り、本作も担当しているアリサ・レプセルターが編集した『ギター弾きの恋』には、それまでにアレンのハリがなかった。この映画もよくないところをみると、アリサの限界とスーザンの偉大さがわかる。同様にすべてが二番煎じになっている。彼は、70年代に返って、新しいいまの若い(昔のアレンを知らない)観客にアッピールさせようとしているのだろうか? 冒頭、ジーンズの半ズボンで歩いてくるアレンは、『マンハッタン』あたりから一般受けして、ニューヨークタイムズなどに取り上げられたころの姿を思い出させる。
◆レイ(ウッディー・アレン)の妻フレンチー(トレーシー・ウルマン)は、料理(ミートボールのスパゲッティ)がうまい。このへんは、『ニューヨーク・ストーリー』のリタ(ブリギット・ライアン)の後年といった感じ。それにしても、フレンチーは、ペーパー・タイガーTVのディーディー・ハレックによく似ている。ジューイッシュの共通性だろうか? 銀行強盗をするので銀行の隣の店を借り、そこでフレンチーにクッキー屋をやらせ、カモフラージュしながら、地下道を銀行の金庫まで掘るというのがレイのアイデアだったが、クッキーの出来たすばらしく、たちまちその店は繁盛してしまう。70年代の作品なら抱腹爆笑というところだが、それが笑えないのは、ドジのパターンが二番煎じだからだ。
◆ストーリーにジャズのアドリブ的なフリを入れるのがフレンチーの妹メイ(エレン・メイ)。とろいという設定で、彼女をさんざんバカにする台詞があるが、彼女はトロいというより、思い込みの強い人。知的でセクシーなエレン・メイがこういう役をやるからには、レイとからみがあることが予想されるが、それはある。が、これもパターン。
◆にわか成金になったレイが、パーティのシーンでとってつけた難しい「知的」な話をスノビッシュにするシーンは、アレンが主演した『ザ・フロント』の二番煎じ。
◆フランチーが、若い美男のキザなキュレーター(ヒュー・グラント)によろめき、そして最後に目覚めるパターンも、アレンの映画では何度も見た。アレンの映画は、これまでの、ある意味でパターンであり、くり返しであったが、名人の落語のくり返しのようみ、決してあきなかったし、くり返しだという意識をもたされなかった。
◆アレンは、ミア・ファーローとの子供たちを陵辱したというスキャンダルで身も心も気づついた。スン・イー・プレヴィンと結婚するというウルトラC的処置で危機をのがれたが、さもなければ、彼は社会的信用を失墜させたかもしれない。その意味で、いまのウッディ・アレンは、ほとんど金銭的な理由からしか映画を作っていないように見える。この映画ではからずも巨万の富を得、そして一夜にして失墜するレイは、アレンの自分への皮肉なのだ。映画中に、「階級は金では買えない」という台詞が出てくる。
(徳間ホール)



2001-05-23

●ハムナプトラ2 /黄金のピラミッド(The Mummy Returns/2001/Stephen Sommers)(スティーブン・ソマーズ)

◆2階席をあてがわれたが、わたしは2階が嫌いなので、1階の極度の前方右側へ。丁度、通路側の座席が1つ空いていた。開場時間が過ぎて入場したので、こういうことは珍しい。が、その理由はすぐわかった。しばらくして前の席の人がもどって来たのをみたら、えらく座高の高い人で、スクリーンが頭で隠れてしまうのだった。が、これも映画館。首を傾けて見ることにする。またクロの司会でブレンダン・フレイザーが舞台挨拶。機敏な感じがしない、ずんぐりした大男なのは意外だった。クロの質問は、フレイザーがはるばる来た意味のない話題で、なんか気の毒。こういうとき、つくづく日本って困ってしまうなと思う。
◆1990年代後半に出そろった映像技術(特にVRの)をマスターしきった感じのI.L.M.による映像処理はすばらしい。楽しめる。地から沸いて出てくるようなシーンとサイバー・イマジネーション。群衆シーンは、これでもかとばかりの大サービス。が、この映画の基本にある思想は、極度にキリスト教至上主義である。それを、露骨に出さずに、各所にアリバイを作ってもいる。映像と同様に実に周到な手配である。が、良心のある者なら、面白い面白いと見ている意識の瞬間に、ふと妙な違和感が生ずるのを感じるのではないか?
◆発見された地下宮殿で、蘇った土偶が襲ってくるシーンも圧巻。相手はすぐに粉々になるが、この感じはゲーム的。ロンドンのバスで怪物が襲いかかるシーンも面白い。
◆ 時代が1933年に設定されているわけだが、エジプトの遺跡を発掘する英国人リック・オコーネル(ブレンダン・フレイザー)という設定は、英国の帝国主義的侵略を受けた国の側から見ると、単なる冒険者とは受け取れない。大英博物館が英国の侵略の証にほかならないことを思えば、大英博のなかに古代の「殺戮」王の異空間がよみがえるというのは、英国への被植民地国の復讐である。
(東京国際ホール C棟)



2001-05-22_2

●今日から始まる (Ca Copmmence Aujourd'hui/1999/Bertrand Tavernie)(ベルトラン・タヴェルニエ)

◆配給元の戦略からか、今日の試写会には幼稚園の先生や教育関係者が多数招待されていた。したがって、試写会の雰囲気はいつもとは大分ちがう。席を複数おさえる「おばさん」。聞こえてくる話題も同僚のうわさなど。ボン、椅子の背を突かれて、前につんのめる。お手柔らかにと祈る。
◆見終わって感じるのは、どうにもならない状況の冷酷さと悲しさだった。タヴェルニエの目は、行政や官僚組織への単なる怒りよりも、どうにもならない貧困というものがあり、また、単に貧困からだけ生まれるのではない不幸に見舞われる人がいるという現実をつきつけることである。
◆なるほど、炭坑の閉鎖によって失業者が増加したフランス北部の町エルナンの幼稚園の若い園長ダニエル(フィリップ・トレトン)は、身をこなにして働く。福祉事務所などの役所の官僚制との闘いもある。彼の献身的な努力で、幼稚園の状況はよくなるし、母(ベティ・トゥブル)はアル中、父(ジェラール・セブロン)は長距離トラックの運転手で不在という家の子供にも懸命のサポートをする。彼のような園長はそうざらにはいない。しかし、彼の努力をもってしても、そして、役所の官僚主義的な対応の悪さを考えに入れても、どうにもならない運命のような不幸が起きる。
◆貧しいからといって誰でもがアル中になるわけではない。夫が出稼ぎで留守をしがちだからといって寂しさに耐えられない妻ばかりではない。電気と水道を止められて暖房のない部屋で生活するようなことがなかったら、アンリ夫人は二人の子供を道連れに心中をはからなかっただろうか? イエスでありノーである。問題をどちらにも単純に還元しない冷徹な視線がこの映画のもの。心中したということがわかる(決して露骨ではないにもかかわらず/ないからこそ)シーンは、ショッキングだった。
◆経済還元主義に陥らないとすれば、アンリ氏は、アンリ夫人のアル中を食い止められなかったか、母子3人が暖房のない部屋で冬を送らないで済む方法を考えられなかったかという疑問は残る。母が飲んだくれて、時間になっても幼稚園に迎えに来ない母、留守がちな父で落ち込みがちな息子を力付けるために、父親を誘って、彼にクラスにクレーン車を持ってきて、クラス実習に役立て、親子を元気づけようというような気づかいの試みもする。が、なんかアンリ氏は、根性がない感じがしないでもない。そこまで人々を追いつめる状況がエルナンにはあるというわけだろうか? むろん、そういう一般化も可能だが、アンリ一家のような悲惨な運命をたどる人々の存在、そうした事態が、ほんの些細なことが転機になって進んでいくことへ目を向けさせるところが、この映画のすごさである。
◆途中からあらわれ、献身的なスタッフとともにダニエルを助ける魅力的な福士員のサミア(ナディア・カシ)にダニエルが恋心をいだくのかと思ったが、そんな甘さはなかった。
(松竹試写室)



2001-05-22_1

●ラマになった王様 (The Emperor's New Groove/2000/Mark Dindal)(マーク・ディンダル)

◆邦訳では「王様」になっているが、現代は「エンペラー」帝王である。王よりももっと独裁的な要素が強く、古い伝統のなかにいる。それがラマに身を落としてしまうという大変化に意味がある。
◆色彩がポップ。リキテンシュタイン的。魔女イズマのイメージもいい。
◆They love each otherを「パパたちはラブ・モードに入ってる」と訳していたが、いやな日本語。「クスコトピア」も「クスコリゾート」。これじゃ、クスコはただの事業家になってしまう。
◆パチャ(声=ジョン・グッドマン)は、地域主義者。クスコは、民のことがわからないお坊ちゃま帝王。その交流という図式は、アメリカの想像する階級的和解の図式。
(ブエナビスタ試写室)



2001-05-18

●テルミン (Theremin: An Electronic Odyssey/1993/Steven M. Martin)(スティーヴン・M・マーティン)

◆すでにビデオ(英語版)でも見られる作品だが、時代がテルミンの「現代性」(脱近代性)に追いつきはじめたいま、あたかも最近作られたかのような新しさで見ることができるのが面白い。レオン・テルミンことレフ・セルゲイヴィッチ・テルミン(1896~1993)の歴史に翻弄された数奇な生涯を追う。
◆テルミンとは、製作者の名を越えて、ある特別の楽器の名前としてすでに知られている。それは、送信機と受信機・アンプから成る装置で、異なる送信周波数の電磁波の共振を利用して音を出す。いわゆる「混信」を小規模に起こすのと同じだ。テルミンの新しさは、有線ではなく無線を使い、通信の手段としたしか考えられなかった時代に無線装置を「楽器」として使い、しかも、従来の楽器とは異なり、身体や手を直接触れないで、リモートで演奏できる点である。これは、ある意味では、テレパシー装置であり、今日のヴァーチャル・リアリティのシステムを先取りしている面すらある。
◆テルミンは、理論の人であるよりも技術的実践の人である。が、その実践はずばぬけており、先駆的なので、すべてが、道具や実用性よりもアート(まさに「テクネー」としてのアート)と不可分離の関係を持つ。
◆1927年に活動の場をロシアからニューヨークに移し、そこでクララ・ロックモアに会う。ヴァイオリニストの彼女は、テルミンに惚れ込み、この「楽器」をマスターしてバッハでも何でも弾けるようになろうと努力する。すぐれた演奏者を得て、テルミンは、30年代にはカーネギー・ホールでオーケストラと共演する楽器として使われたりしたりしている。ヒッチコックの『白い恐怖』(1945)でテルミンが使われたのは有名だが、ごく最近までテルミンは、変わった不思議な音を出す「楽器」として理解されてきた。つまり通常の楽器の延長線上で理解されたのであり、だから、クララは、これでバッハでも弾けるのだということを強調した。新しいものが、その本来性を見つけるには、紆余曲折があるのが常だが、クララのような「楽器」派のためにテルミンの真価が背面に退いた面と、彼らがいたからこそ、テルミンは何とか生きのび、再解釈が可能になったのだとも言える。
◆クララの演奏は、有名なサンサーンスの『白鳥』がそうであるように、ほとんどチェロと区別のつかないくらいの音を出す。が、90歳を越えたテルミンが、MIT(だったか?)に招かれたときに聞かせた演奏は、クララよりはるかに「粗けずり」だったが、強弱やアクセントが鋭く、強い、アヴァンギャルドな感じがした。
◆テルミンの生涯は波乱にみちている。人気絶頂の1937年に黒人のダンサーと結婚して、周囲の顰蹙を買ったかと思うと、翌年には、ニューヨークから姿を消す。当時は、ソ連の秘密警察に引き戻されたとか、殺されたとかいううわさが流れたが、90年代になるまで、本当のことはわからなかった。1967年にニューヨーク・タイムズの記者のスクープで、彼がモスクワで健在であることが世界に知られることになるが、逆にそのために、何度かの紆余曲折の末に獲得していた「安寧」なモスクワ音楽院の職を追われる。冷戦時代の報道の意味の正反対な機能を目の当たりにするような事件である。
◆94歳の本人がインタヴューでも語っているように、彼がニューヨークから姿を消したのは、スターリン体制で彼の技術が重要視されたからだった。センシングの技術は、盗聴した電話の声から不要な音を除去するフィルタリングの技術などが実際にKGBで使われたらしい。が、やがて、「粛正」にまきこまれて、シベリアに送られ、それからマガダン(80年代にパリで売春婦たちがやっていた雑誌と同じ名前?)の収容所に入れらた。ここでも、彼は、保安技術の要員として働くことになる。表の舞台に出る機会はなく、一般社会への復帰は1964年だった。が、それも、また奪われる。結局彼が、自由の身でニューヨークを再訪するのは、ソ連が崩壊したのちの1991年だった。
◆老いて、首がうつむきかげんのテルミンが、自分たちのスタジオがあった 37 West 54 street の前(Gallery 54のそば)に立つシーン、夜のタイムズ・スクウェアのポルノ屋やピッツァ屋の前でショウウィンドウを覗くシーン、クララのアパートを訪ね(「君のことはいつも想っていた、夢のなかの君をね」という台詞がいい)たあと、二人で連れだって夕闇せまるマンハッタンの街に出て行くシーンが、みな、歴史の重みのようなものを感じさせ。心をそそる。
(松竹試写室)



2001-05-17_2

●夏至 (Mua he chieu thang dung/À la verticale de l'été/2000/Tran Anh Hung)(トラン・アン・ユン)

◆この日も、途中でフィルムが切れるという事故があった。この映画は、そんなことではコケないような独特の、余韻を持続させ、フィルムの処理で待たされている、ふだんなら味気ない空白の時間にも、不思議といまインプットされたリズムが身体のなかで生き残っていて、空白が気にならないのだった。しかし、メディアボックスクの映写装置は、そろそろ限界なのではないか? シネセゾン時代からの機械でしょう?
◆薄いカーテンだけで仕切った隣合わせのスペースで兄ハイ(ゴー・クアン・ハイ)と寝ている三女リエン(トラン・ヌー・イエン・ケー)。一見、二人は、映画のなかでもリエンが言うように、恋人同士か夫婦のように見える。だから、これから二人の近親相姦的(だが、非常に自然で無理のない)な関係が展開されるのかと思ったら、そうではなかった。三女が学生の恋人と、作家のを持つ次女カイン(レ・カイン)の夫(チャン・マイ・クオン)が創作の仕事でホテルにこもってりるあいだの双方のややパラノイアックな不安、喫茶店を経営する長女ハイ(ゴー・クアン・ハイ)のそれぞれの不倫が、実にポリフォニックに描かれる。
◆ヴェトナムでは、なじみのスコールの撮り方の美しさ。長女ハイの夫の不倫相手は水上生活をしているが、川での水浴シーンもユニーク。全体として映像に独特のリズムがある。こういうのを見ていると、不倫だなんだということはあまり気にしなくていいのではないかと思えてくるが、映画のなかではそうでもないらしい。映画の主題ではないが、明らかに「近代化」の波の変化も感じられる。リエンが兄と喫茶店で朝食を取るシーンがあるが、それは、ポストモダンの雰囲気。みんな悩みもあるだろうが、全体として優雅なのだ。監督インタヴューによると、ここに出てくる人々は、前作の『シクロ』の登場人物たちとは階級が違うらしいが、ヴェナムといっても、どこもこうだとは言えない。そういうゆったりした面を描いたということなのだ。が、それは、貴重なことだ。映像としてそういうリズムや空気の雰囲気を保存するということなのだから。
◆映画は、娘たちの母親の命日から始まり、父の命日の1ケ月前に終わるという設定。命日の仏壇で家族が祈るシーンで、3回手を合わせるのは、日本の葬式で線香を3度上げ下げするのと似ている。が、むろん、日本とは大分異なる仏教文化に違いない。
◆来日時のインタヴューで、監督は、儒教の影響を語っているが、日本なんかより、はるかにゆったりと、リラックスした雰囲気がすべてにある――姉妹でイモを食べるなんているのもいい。長女は、不倫相手とは、愛撫しあうだけである。金属の鍋に取っ手をつけたような容器に水を溜め、取っ手を両手でこすると水面に細かな波紋ができるというような映像ノエロティシズム。高級なエロティシズム。
(メディアボックス)



2001-05-17_1

●すべての美しい馬(All the Pretty Horses/2000/Billy Bob Thornton)(ビリー・ボブ・ソートン)

◆アメリカ南西部特有なのだろうか、よくわからない部分が多かった。リズム的にも、どこかわたしの体質と合わない。砂埃の舞う南西部だからか?
◆馬の話が主なのかと思ったら、人間関係の話が主で、それもなんかすっきりしないのだった。ジョン(マット・デイモン)の、もともとは豊な牧場主だった祖父(たぶんスペイン系)が死に、父が無能(安ホテル暮しの父を訪ねたジョンは、「親がダメになるのを見るのはつらい」と独白する)なために、祖母(彼女はスペイン語をしゃべる。彼らにはメキシコ人に血が流れているのだろうか? このへんのことが基礎知識と薄いわたしには、最初から距離ができてしまう)は、土地を石油会社に売り、馬の調教のプロのジョンは、友人で相棒のレイシー(ヘンリー・トーマス)とメキシコに行く。途中、自分では泥棒したのではないと言い張る若者ジミー(ルーカス・ブラック好演)に出会い、すったもんだの末、3人で旅行を始める。
◆国境を何のチェックもなくすっと越えてメキシコ領内に入ると、あたりの雰囲気ががらっと変わるシーンはなかなかいい。ここで仕事を得て、デイモンが見せる野生馬の調教のシーンは、なかなか見事。が、この映画はそういうシーンを売りにする「男」の映画ではない。それは、それでいいのだが。
◆自家用の飛行機で飛来するリッチな大牧場主(ルーベン・ブラデス)にジョンは見込まれるが、その娘アレハンドラ(ペネロペ・クルス)と親しくなったころから、やくあるパターンのごたごたが起きる。「アルハンドラはわたしの過去のようだわ」とか言いながら、周到にたジョンとの間をさかせようとする彼女の祖母ドナを演じるミリアム・コロンも、やんちゃなのだが、アメリカ娘とは一味違うアルハンドラを演じるペネロペ・クルスもいいのだが、なんか、おもしろくないのはなぜか? ジョンの家の顧問弁護士の役で出てくるのが、あのサム・シェパードだが、これもチョイ役の機能しか果たしていない。
◆一番わかりやすいのは、メキシコの発作的な不条理とでもいう感じがよく出ている刑務所シーンか? 3人は突然、逮捕され、監獄に入れられる。ここで、ジミーは所長に「処刑」されてしまうのだが、ただ、この映画は、そういう不条理を呪ったり、批判したりするスタイルで作られているわけではないので、何か、熱に浮かされて見た夢のしょうなシーンに見える。
◆階級差が生み出したすれちがいの悲しさみたいなことを描いているのだったが、そんなものはぶち壊してしまえと思っているわたしには、根本的に合わない。しかも、やはりアメリカ映画の設定でやっているので、いくらペネロ・クルスを起用しても、そういう階級差は出ない。
◆友情の物語でも、また、ペネロペとの愛の物語でもない。彼女の祖母の力で刑務所を突然出されたジョンが彼女と駅で待ち合わせるシーン。結婚してテキサスへ行こうというジョンに、彼女は、メキシコの女は誇りを大切にするとか言って、行かず、涙の別れをするのだが、ここもつまらない。そういう「誇り」だとか(祖母との)「誓い」だとかいう観念を描くには、この映画は世俗的だからだ。わたしには、全然わかりません、ごめんなさい――という映画だった。
(ソニー試写室)



2001-05-15

●忘れられぬ人々(Wasurerarenu-hitobito/2000/Shinozaki Makoto)(篠崎誠)

◆すでに70歳の坂を越える3人の老人木島(三橋達也)、伊藤(青木富雄)、村田(大木実)は、南洋諸島の戦地からからくも脱出した戦友仲間。共通の友人金山(『ホタル』の韓国系の戦友も同名だったが、この映画には共通のテーマがある)は、アメリカ軍の攻撃で死んだ。木島は、その形見のハーモニカ(「MIYATA」の文字が見える――昔はハーモニカといえば、みな宮田ハーモニカだった)をいつも吹いている。彼は、いまでもしばしば、洞窟に仲間たちと潜んでいるところを米兵の火炎放射器で攻撃される恐ろしい体験の悪夢に襲われて、目が醒める。トップシーンは、それを描くが、篠崎は、回顧的なモノクロを使わず、カラーで撮っている。木島にとっては、その体験は、決して過去にならないのだろう。彼は、戦地からもどってすぐ、妻子を空襲で失い、自暴自棄になり、ヤクザに入った。いまは、その世界からも足を洗ったが、戦友会にはそのことを気にして出てこない。
◆伊藤は、妻を失い、娘と孫の家にいる。昔から軽い感じで、バスのなかであった老婦人・吉川(風見章子)に一目ぼれしてしまう。街での偶然の再会。急速に2人の仲は接近する。彼女は戦争未亡人で、生け花を教えながら一人住いをしている。
◆村田は、妻(内海桂子)と飲み屋を開いているが、シャイなところを隠すためにぶっきらぼうになっているようなありがちな頑固おやじ。気丈だった妻が病に倒れ、病院への見舞いにも追われている。
◆村田の店で開かれた戦友会に金山の孫娘の百合子(真田麻垂美)が現れる。真田が、誰でもが好感をもてそうな「気だてのよさそうな」娘を演じている。「他人のためになりたい」という気がある百合子は、病院で看護婦をしており、村田の妻の世話もしている。彼女の恋人渡辺(遠藤雅――どこか不安気な目が適役)は、フリータをしているが、どこか自信がなく、百合子を不安にしている。が、友人に誘われて、「ユートピア・コーポレーション」という会社に入る。
◆老人と若者の生き方がそれぞれに問われている設定。そこに、最初はなにげな変化がおこる――その意外な展開はなかなか映画としてうまいつくりだと思う。それは、渡辺の新人研修の現場のシーンだ。「ユートピア・コーポレーション」は、結局、老人や悩みのある者の弱みにつけこんで金もうけをする霊感商売の集団なのだが、描き方は、渡辺の目で描かれ、観客は、最初、この会社の幹部連中(トップの阿久津を演じるのは篠田三郎)があたかもいまどきまともなことを言っているかのような錯覚に陥るかもしれない。「法の華」の本部には、いたることろに盗聴装置がついていて、それで得た情報を教祖が「予言」のネタにしたのだったが、この映画では、もっと周到なテクニックが登場する。撮影も手抜きがなく、この程度の予算の映画としては見事。
◆阿久津は、最初の研修のとき、「海外出張」という理由でビデオで新入社員に挨拶する(そのシーンは出さないとこがうまい)。最初距離を置いておいて、次第に心のなかに侵入する。「戦後、人々はばらばらになってしまった・・・そういう心をつなぐのがわれわれの仕事です」とネットワーク論的用語をちらつかせながら、引き込んでいく。
◆最初、木島の家を訪れ、追い返される蛙顔の男(田鍋謙一郎)。これは、表向き、「漏電検査にまいりました」といって実は何かを売りつける程度のことをやっているように見えるが、実は恐るべきたくらみがあるのだった。その最初の犠牲になるのが、伊藤を愛し始めた吉川未亡人。
◆なぜ三橋達也と大木実を起用したかが最後にわかる。その点では、映画的に周到な計算をした作品。それを「みえみえ」ということもできるが、映画好きには予感し、納得するとう楽しみもあるのだから。
(映画美学校)



2001-05-08

●マレーナ(Malena/2000/Giuseppe Tornatore)(ジョゼッペ・トルナトーレ)

◆いきなりニューヨークの夜景が出たのでえっと思ったら、それは、Miramax社のクレジット・シーンだった。まぎらわしい。
◆新婚早々夫が出兵し、一人暮しをする若く美しいマレーナ(モニカ・ベルッチ)には、彼女が街の人々と気安く口をきいたりしないこともあって、うわさのまとである。が、なぜ彼女は人とつきあわないのか? つきあわないことによってますます追い込まれていくというのがこのドラマの核心だからだ。つまり、この映画は、素朴なリアリズムの映画ではない。リアルに描いているようで、実は、操作がある。このへんが、この映画の好き嫌いと評価の分かれ目になるだろう。
◆冒頭、ムッソリーニのラジオ放送のシーン。時代に巻き込まれていくシシリーの住人たち。人々は、振りまわされ、本当に信ずべきものを失った。ファシストの宣伝と人々のうわさの加速は相関関係にある。過剰な宣伝の時代は過剰なうわさの時代である。トルナトーレは、人々の社会的姿勢を、人々の心身へのファシズムの侵入としてとらえ、彼らがマレーナに加える仕打ちを通じてファシズムの暴力を浮かび上がらせる。だから、マレーナの不幸(帰らぬ夫、娼婦への道・・・)は、この街の人々の自虐的な不幸である。
◆ファシズムに素朴にのめり込む人々とそうでない少数者。マレーナの口から一言もファシズム批判の言葉は出てこないが、彼女は例外なのだ。そして、マレーナに対する「覗き」「ストーカー」に徹した少年レナート(ジョゼッペ・スルファーロ)も、そうすることで世の趨勢に距離を取っている。
◆5年以上の時間を描いているはずだが、ジョゼッペ・スルファーロが一人で演じているので、レナートは全然成長しないように見える。その意味では、この映画は、シュレンドルフの『ブリキの太鼓』の少年のように、ある種「超越論的」な役柄があてがわれている。
◆むんむんするような「シシリー的イタリア」のにおい。これも、計算された強調だ。たぶんシシリーの作家ならば、こういう描き方はしなかったかもしれない。「よそ者」が自分の惚れ込んだ地域を描くときの愛情ある誇張。が、この街のコミュニケーションの核ともなっているうわさ/中傷へのトルトナールの批判も感じられなくもない。舞台はシシリーの浜に近いカステルクトだが、「漁村」というようりも街なのに驚く。イタリアには街しかなかったのだ。広場、通り、集合住宅。人は、広場に面したバールに集まり、路上のテーブルでコーヒーを飲む。
◆レナートがマレーナの家を覗くと、彼女がアリダ・ヴァリのMa L'amore Noのレコードを聴かけ、聴き入るのが見える。彼は、早速同じレコードを買い、それを聴きながら自慰をする。
◆戦争が終わり、戦中、娼婦としてドイツ軍と交流を持ったというので、戦後、リンチを受け、メッシーナへ脱出するマレーナ。そこへ、死んだはずの夫の帰還。
◆終盤、見つけ出したマレーナを連れて、街の広場に戻ってくる夫。動揺する住人たち。平然と歩く二人。市場にマレーナが行くと、品物を売る昔の知り合いは、ただでマレーナにものを与える。
◆海岸の家に向かうマレーナを見つめるレナート。目が合ったとき、彼女が微笑を返す。それは、彼が、父親に連れられて「男になるために」行った娼館での彼女との出会いの記憶が関わっているのか、それとも、その出会いは彼の夢だったのか・・・
(ギャガ試写室)



2001-05-01

●リトル・ニッキー (Little Nicky/2000/Steven Brill)(スティーブン・ブリル)

◆冒頭、古いアメリカのホームドラマのテレビ番組風のシーンが出て来て、意外性をさそう。そこへ若い、やや濃艶な女性が子供を連れて帰ってくるが、木の上で覗いている男(ジョン・ロヴィッツ)がいる。知らずに服を脱ぐ彼女。ブラを取ろうとしてところへ子供が入ってきて中断。そして、覗きがバレる。子供はパチンコを出して男を撃つ。悲鳴を上げて木から落ちると、地面に穴が開いて、見るからに「地獄」とわかる世界にまっさかさま。平凡なテレビシーンからエスカレートしていって、ダークサイドへというノリがまず、気を引く。
◆地獄には、サタンのファミリーがいる。ハーベイ・カイテルが演じるサタンには、息子が3人いる。長兄がエイドリアン(リス・エヴァンス)、次はなぜか黒人のカシアス(元プロレスラーのトミー・”タイニー”・リスター)、末息子がお人好しのニッキー(アダム・サンドラー)。地獄を作ったというサタンの父親ルシファー(ロドニー・デンジャー・フィールド)もいるが、母親や祖母はいない。(地獄の息子たちは、サタンと天国の天使とのあいだに出来るものらしい――ニッキーがそうであることが後半にわかる)。
◆地獄では、毎日、尻にパイナップルを入れられる拷問を受けているヒトラーのような人物もいるが、サタンの息子たちは、みんな好き勝手に生きている。ニッキーはヘビメタのロックを聴き狂っている。LPのたくさんある彼に部屋で、「悪魔の声を聴かせてやる」といって、ビートルズの『スーシー・イン・ザ・スカイ』のLPを逆回しにし、(噂の通り)「ポール・マッカートニーは死んだ」という悪魔的な声が聴こえるというギャグなんかも出てきて、笑える。
◆地獄のサタン・ファミリーにも、親子の争いはあり、(おそらく、息子たちに不安をいだいた)サタンが、「あと1万年はおれがサタンをやる」と宣言したものだから、2人の息子は怒り狂い、マンハッタンに自分らの地獄を作るといって地獄を出て行く。マンハッタンというところが笑わせる。そのため、本来の地獄の門は氷で閉ざされ、悪人が落ちてこなくなり、サタンの体もどんどん縮小していく。まさに地獄の危機だ。ルシファーによれば、「ルネサンスの時代にも、地獄は危機に陥った」という。(この映画にはこういう知的なジョークが満載)。
◆父を愛するニッキーは、兄たちを地獄に連れそうと決心し、マンハッタンに降り立つが、ぽっかり開いた穴を出ると、そこは、42丁目のグランド・セントラル駅の地下鉄の線路のそば。出迎えたブルドック犬の案内で、街に出るが、ホームレスだと思われてしまうところもおかしい。彼に親切にしてくれる最初の人間が、ヴァレリーというパーソンズ・デザイン学校に通う女性。ちょっとエクセントリックで、あまりモテそうにないが、心優しいキャラクターをパトリシア・アークエットがチャーミングに演じる。街には、世の末を叫びながら彷徨する盲目の神父(クエンティン・タランティーノ)がいたりして、ニッキーは地獄よりも地獄的だと驚く。ようやく見つけた「シェア」の相手はゲイの自称俳優(アレン・コヴァート)。彼も、いい演技を見せる。その間に、2人の兄は、神父やスポーツコーチになりかわって、マンハッタンの地獄化を着々と進め、ついに、飲酒解禁年令が10才に引き下げられ、長らくニューヨークの代名詞だった「アイ・ラブ・ニューヨーク」が廃止され、代わって、「アイ・ラブ・フッカー(売春婦)」が街のスローガンとなる。
◆兄とニッキーとの対決シーンで使われる3Dのテクニックは、『マスク』などで使われたものばかりで新しいものはないが、使い方は愉快で、悪くない。体がだんだん分解し、ビーズ状になり、それが地面にちらばると無数の蜘蛛になって這いまわる・・・。
◆昔の恋人だった天使(リース・ウィザースプーン)とサタンがケータイで話をするシーン。
◆全体として、『サタデー・ナイト・ライブ』の雰囲気。実際に、サタンの息子が変身したバスケットのコーチ役で出ているダナ・カーヴィ、冒頭ののぞき屋役のジョン・ロヴィッツ、サタン・ファミリーの道化役のケヴィン・ニーロンは、『サタデー・ナイト・ライブ』から世に出た役者たちだ。アダム・サンドラーは、『ウォーターボーイ』でも似たような、お人好しの「フール」役をやっていたが、この映画が『サタデー・ナイト・ライブ』風だとすると、彼は、いわば、毒のない「ジョン・ベルーシ」といったところか。オジー・オズボーンなど、気になる有名人があちこちに顔を出すのも『サタデー・ナイト・ライブ』風。
(ギャガ試写室)



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