粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-06-29

●ドクター・ドリトル2(Dr. Dolittle2/2001/Steve Carr)(スティーブ・カー)

◆大分前の試写をやっていたが、直観的に敬遠していた。もう封切るのかと思ったら、延期になった。そして、ふたたび試写。すぐには当たらないという判断が働いたらしい。今回の試写は、夏休みの子供をねらった封切りのためのものである。
◆日本では、「ドリトル先生」の名で定着してしまったヒュー・ロフティングの原作だが、正確な発音は、「ドゥーリトル」だ。ここには、「何もしない、役に立たない」→「すごいことをする」の含意があるが、「トリトル」ではわからない。このへん、「何でもカタカナ」「外来語ばかり」というが、それらがみな原語を表象出来ない形で移植されるのが日本における「外来語」の特徴である。これは、必ずしも日本語だけではないとしても、かなりの程度、新聞社が、たとえば「エフェクタ」「プロバイダ」というように長音を省略してしまうことにも責任がある。「メイジャー」を「メジャー」と言うことによって、「主要な」と「物差し」との区別が出来なくなってしまう。
◆公開が延期されただけあって、試写室は半分ぐらいの入りだった。反応も、非常に弱く、場内から笑いが起こることはまれだった。それは、ドリトル先生を演じるエディ・マーフィの演技とも関係がある。ここには、彼らしい小ワルぽさやおふざけはない。なにせ、ドリトル先生は、いまは「世界的な著名人」で、目下の彼の関心は、世界の動物たちのエコロジーと反スピーシズムである。speciesは「種」の意味だが、種に固執し、他の種をないがしろにする者を「スピーシスト」と言う。とにかくエラい先生なので、エディとしても、おふざけができないのだ。
◆動物が人間の台詞をいとも簡単にしゃべる(ドリトルの知覚で観客は動物たちに対応する)のも、この映画に緊張感をなくする要因になっている。スピーシストでなくても、動物と人間との間の違いをみとめざるを得ないが、ここでは動物がえらく人間的なのだ。動物と人間とのあいだには、コミュニケーション可能な領域はあるし、チンパンジーのように人間の言語を学習できる能力を持った動物もいる。しかし、それが全く不可能な領域もあるわけで、それが多くの動物の(人間とくらべての)特徴にもなっている。そういう点が、この映画ではばっさりと切り取られている。それは、考え方を変えると、恐ろしく不可思議な世界なのだ。
◆そもそも、ヒュー・ロフティングの原作(1920年代の公刊された)には、いま関心を持たれはじめているような脱スピーシズムよりも、人種的差別を越えた世界を動物にたくして描くというもくろみがあったように思える。だから、この映画に登場する動物は、そういう顔や姿をした「人間」や「少数民族」なのであると考えた方がよい。
◆アメリカ映画らしく、ここでも家族問題、親子関係が大きなテーマになっている。ドリトルにはふたりの娘がいるが、長女のシャリース(レーベン=シモーネ)は、父親に反抗的だ。ボーイフレンドのエリック(リル・ゼーン)との関係にも父親は心配している。彼が家に来て、食事をしていくことになったとき、帽子をかぶったままなので、ドリトルが、「食事のときは帽子を取るもんだ」と言うと、素直に帽子を脱いだものの、その下にばっちりバンダラをしている。同じ家のなかなのにケータイでないと連絡がとれないシャリースにいらつくドリトル。(映画のなかでは「ペイジャー」=ポケベルと「セリュアー」=ケータイとが区別されていたが、訳は全部「ケータイ」になっていた)。
(FOX試写室)



2001-06-25

●釣りバカ日誌12(Tsuribaka-nisshi 12/2001/Motoki Katsuhide)(本木克英)

◆日本文化論を海外で講義するとしたら、わたしは、このシリーズを必見資料として提示するだろう。このシリーズは、日本の平均性、「日本人」とか日本の「民衆」「庶民」とかいうような平均的なくくり方をする場合の典型的なモデルを提供してくれる。われわれは、誰ひとりとしてこの映画に描かれるような平均性そのものではありえないが、ひとたび自分を「日本人」として提示するはめになるとき、このなかの誰かを演じることになる。
◆西田敏行演じる浜崎伝助という人物は、非常に偽善性を感じさせるが、テクニカル見方をすれば、日本の平均的な社会にやや特異なトリックスター的な人物を置き、それによって見え方が変わる様を見せているというふうにも言える。浜崎は、会社では困った存在だが、それを黙認されている。会社のトップである三国と親しい関係(釣りを教える「師弟」関係)にあることは会社では知られていないことになっている(そんなことがあるか?)――関係を明確にすることはタブーなのかもしれない。会社を離れると、三国は西田の家を一人で訪ねてきて、自分で電気釜からご飯をよそって食べたりもする。つまり、そこでは会社での特権的地位がフラットになる。あたかも、浜崎がアメリカ的なスタンダードを生きているかのようだ。映画では、朝、出勤のとき、浜崎は、妻(浅田美代子)に熱烈なキスをして出かける。家で彼はいばる「日本的」男ではないようである。釣り船屋を経営する彼の隣人(中本賢)の妻(アベリータ・フルタ)は「外人妻」で、インターナショナルな環境なのである。だが、映画を見ていると、どこかうさんくさい。視点を変えれば、非常に空想的な印象をおぼえるのである。
◆浜崎は、地位の上下を気にしない人間として描かれているが、地位の格差とその儀式が厳然と存在する社会でそういう行為をするから笑いを生み、平均的サラリーマンの願望的対象となる。存在しないから、「現実」世界にどっぷりつかっている者には、安心して見ていられる。わたしのように、どちらかというと、異端な生活をしている者には、逆に空想的に見えるのだ。
◆基本的に、この映画の登場人物はみなステレオタイプである。定年になって、慰留をすすめられるが、それを断り、故郷の萩市に帰り、釣り三味の悠々自適の暮しをしようと思ったら、検診でガンが見つかり、あっけなく死んでしまう常務(青島幸男)なんかは、世のサラリーマンが、こうなったらイヤだなと思っている「ありがち」なタイプを代表する。世の中には、実際にそういう人もいるが、多いわけでもない。
◆全体の雰囲気として、わたしは、寅さんシリーズにも通じる天皇制的エートスを感じる。おそらくまく機能した場合の天皇制のもとでは、こういう関係が常態となるのであろう。いいかげんで、あいまいで、なんとなくうまくいく。トップはいるが、トップとして本性をあらわすことはタブーであり、庶民(浜崎)と「密通」するときのみ自分になることができる。昔はやった「伝説」に、昭和天皇裕仁が、巡幸先の旅館で、旅館の従業員たちが昼間の気疲れをいやすために、夜になって焼きいもを焼いて食べようとしていたら、すでに就寝したはずの天皇がふらりとあらわれて、「まろにも一本くれないか」と言ったというのである。これは、天皇に親しみを感じる側の人間が語る「伝説」であり、天皇がそういう人物であればよいという願望をあらわしている。三国が演じる鈴木一之助は、会社では雲の上の人だが、浜崎の家ではそういう「庶民的天皇」を実践している。
◆宮沢りえは、やっとなんとかサマになる演技ができるようになった。
(松竹試写室)



2001-06-26

●蝶の舌(La Lengua de Las Mariposas/1999/Jose Luis Cueruda)(ホセ・ルイス・クエルダ)

◆時は、1936年、場所はスペインガリシア地方の村。1931年に共和国が成立したが、その理念を信じる者と、よくわからず大勢に従っている人々、反発する富裕階級と教会・・・やがてファシスト風のグループが生まれ、情勢が険悪になっていく。この映画は、1936年7月17日に軍事クーデターが発生するまでに半年あまりの時期の村人の日常、とりわけ共和派の小学教師ドン・グレゴリオ(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)の人柄を、少年モンチョ(マヌエル・ロサノ)の目から描いている。
◆最初にモノクロのスチルがいくつも出てきて、最後にモンチョの家の中のシーンがじわーとカラーになるのが示唆しているように、一つ一つ魅力的なエピソードを積み重ねる方式。そこには、この時代への哀惜のようなものがにじみ出ている。監督のクエルダは1947年生まれだから、スペイン内戦は知らないはずだが、その後長く続くフランコ政権への批判と、フランコ後のスペインの肯定が随所にあらわれている。
◆人は、生涯で、決定的な影響を受ける人に出会うことがある。自分のなかにあるものを発見させてくれる人、たぶん、そういう人が真の「恩師」なのだろう。モンチョにとってドン・グレゴリオはそういう存在だった。グレゴリオ自身は、早い時期に妻を失い、独り暮らしをしている老人。教会には通わず、共和制を信じている。村のなかには、小学校での彼の影響を心配する連中もいるが、当面は口に出さない。また、そういうことを言わせない威厳のようなものがグレゴリオにはある。
◆モンチョは、グレゴリオから本をもらう。スティーヴンソンの『宝島』。兄のアンドレス(アレクシス・デ・ロス・サンテス)は、サキソフォンが好きで、いつも練習をしている。トレーニングを受けに行くシーンもユーモラス。村の楽隊に採用されて、他の村に生き、中国人風の顔をした無言(幼いときに狼に襲われて言語を失った)の「少女」(にもかかわらず父親のような老人の「妻」になっている)への思慕のエピソードの哀愁。
◆教室でのドン・グレゴリオは、最良の教師だが、けっこうの歳にみえるその身体で、20人ぐらいの生徒をともなって野外学習に行く。モンチョは、そこで、蝶に舌があることを教わる。具体的なものから世界の理念を教える教育。
◆モンチョやアンドレスの口から出る「アメリカ」はあこがれの理想境のように聞こえる。
人は、自分の信念を貫くことが出来るだろうか? 「庶民」や「民衆」とは、誰もが身につけている社会的衣服であり、社会的傾向を無視して生きている者だけが「非庶民的」と見なされるにすぎない。それは、非人称的な概念であって、生粋の庶民や民衆がいるわけではない。だから、「狂人」や「犯罪人」は「庶民」ではない。世の中の変化は、庶民性の変化である。
◆「淫乱な女」として知られるカルミーニャ(エレナ・フェルナデス)と彼女に近づく野性的な男ロケ(タマル・ノバス)とのセックス。彼女は愛犬のターザンが彼にほえかからないと性欲が亢進しない。それを根にもって、男は犬を殺す。それは、彼がファシストの親衛隊員に転向するのを示唆する行為だった。
◆この映画は、最後のシーンで「民衆」「庶民」というものの矛盾と特性をあばく。民衆とは、個々人の誰しもが身につけている社会的衣装だが、そうした民衆性が前面に出てくる時代とそういうことが比較的弱い時代があり、そこでは、民衆性を前面に出して生きている人とそうでない人、との差がはっきるする。この映画は、まさにそういう相の変化を少年モンチョの目から描いている。ドン・グレゴリオ先生は、そうした民衆性のうち、古い民衆性とは異なる新しい共和制という民衆性を選ぼうとしている。しかし、時代は、古い民衆性への揺り戻しへ動く。グレゴリオとその同志たちは逮捕され、映画の最後は、彼らがトラックに乗せられてどこかへ送られるシーンだ。彼らに向かって、村人の声が飛ぶ。「アナーキスト、無神論者、裏切り者・・・」。モンチョの母は、率先して「無神論者」という声を上げる。「あんたも言いなさいよ」と夫にうながす。それは、本心なのか?そして、かつて息子のモンチョへの教育者としての寵愛を感謝してスーツを新調してあげた実直な仕立屋のこの男が、涙を流しながら叫ぶ「アテオ(無神論者)!」の叫びは? さらにクライマックスである、モンチョの叫びは? 人は、民衆の一人として、本心に逆らって行動しなければならないときがあり、また、そういうことを人々に強要する時代がある。
(ヘラルド試写室)


2001-06-18

●A.I.(A.I./2001/Steven Spielberg)(スティーブン・スピルバーグ)

◆開場8時15分というわたしにはとんでもない時間設定にもかかわらず、「世界初試写」という謳い文句にはさからえず、前日から眠らずに現場に直行。けっこう常連の顔があったところを見ると、みんな同じ思いだったのだろう。(おかげで、わたしは、映画のあと大学に直行し、3つの授業をこなして帰ったら、たちまち風邪の徴候。翌日は熱を出してしまったのだった。)
◆A.I.(Artificial Intelligence)というタイトルにもかかわらず、この側面に関しては画期的な映像は見られない。「地球の温暖化」のために世界の主要都市が水没してしまった時代を想定しているのだから、いまよりははるかにテクノロジーが進んでいるはずだが、皮膚をはがすと、その裏から機械が見えるという御多分に漏れぬロボットの仕組み。この時代には、おそらく、機械テクノロジーは姿を消し、人工的に有機物を自由に作り出せるようになっているはずだから、ロボットやアンドロイドと人間との区別は、見かけでは出来なくなる。しかし、映画は、それではやっかいなので、見かけ上の区別をせざるとえないというわけで、いつになっても、ロボットはロボットの格好を残すことになる。
◆結局、この映画は、「人工知能」(A.I.)の物語ではなくて、親と子とりわけ母と息子の物語であり、スピルバーグの伝記的な側面をも重ね合わせた現代家族論である。かつてスピルバーグは、自分の映画は、すべて、単身家族(ワン・ペアレント・ファミリー)の娘や息子たちのためのものだと言ったことがある。実際、あの『E.T.』にすら、出て行った父親を慕って残された父のTシャツのにおいをかいでめそめそしている女の子(それが、いまや年増になろうとしているドリュー・バリモア!)の姿を映していた。
◆血縁がないにもかかわらず、愛がある親子関係というのは、アメリカ人にはそれほど不思議なことではない。養子や継子をまじえた家族は特殊ではないからである。この映画は、そういうコンテキストを、ロボット=子と人間=親との関係によってちょっと強調し、異化して見せただけである。
◆ジュード・ロウがユーモラスに演じるセックス・サービス・ロボット、ジゴロ・ジョーも、首を振ると身体のなかから甘いムード音楽が聞こえるとか、決してそのセックス・シーンは見せないとか、すべてが子供向きなのも、基本的にこの映画も、単身家族の子供たちに向けられているからだ。
◆冷凍保存されている息子を定期的に訪れるモニカ(フランシス・オコーナー)とヘンリー(サム・ロバーズ)。モニカは、そのたびに無言の息子に本を読んできかせる。それを見かねたヘンリーの会社の上司が、最近友人のボビー教授(ウィリアム・ハート)が開発した愛する感情を持った人間そっくりのロボット、デイビッド(ハーレイ・ジョエル・オスメント)をあてがう。モニカは、最初、大いに抵抗を示すが、次第にその愛情深さに惹かれていき、自分の養子として認める手続きをする。それは、ロボットの首に手を当てて7つの「学習プロトコール」(
imprinting protcol)をインプットすることだった。すなわち、「シラス」、「ソクラテス」、「パーティクル」、「ハリケーン」、「ドルフィン」、「チューリップ」、「モニカ」である。その瞬間、ロボット少年は、「マミー」といって抱きついてくる。
◆アメリカの親にとって、養子やステップチャイルド(連れ子)との関係は、重要問題である。彼や彼女とどう折り合うか、どう育てたらよいのか、実の子とどういう差別を設けたらよいのか・・・。この映画は、そういう親たちの心を動かし、泣かせるように作られた映画である。映画ではロボットという設定だが、これをステップチャイルドや養子に置き換えてみれば、映画のストーリーはそのまま現実味をおびる。彼や彼女に「マミー」や「ダディー」と言わせることは至難の技ではないから、上述のシーンは「感動的」なのである。
◆夫婦がデイビッドにすっかり慣れたころ、奇跡が起こる。不治の病のはずだった実の息子ジェイク(ジェイク・トーマス)が全治し、家にもどってくる。以後はじまるデイビッドとジェイクの関係は、継子や養子と実子とのあいだでありがちな関係であり、ここでも、アメリカの親たちは、他人事ではない意識を持たされる。そして、デイビッドを持てあますことになった母親は、(夫は、会社に返してしまおうと言ったが、そうすると解体されてしまうのがしのび難く)ある日、デイビッドを街はずれに連れだし、置き去りにする。訳がわからないデイビッドに無理やりお金を持たせ、追ってくるデイビッドを振り払い、車を走らせるこのシーンは、アメリカの親たちの胸底にいつもある悪夢であり、実際にそういうことをした親もおり、耐え難いシーンである。
◆捨てられたデイビッドが経験する後半の物語は、ある日親が家から出て行き、単身家族の一員になってしまった経験を持つ息子や娘(スピルバーグもその一人)の物語である。それをピノキオの物語にダブらせているのが見事である。ピノキオは悪いことをすると木製の人形にされてしまう。彼の願望は、「本当の人間」になることである。デイビッドは、「本当の人間」になりたいと思う。それは、継子や養子にとっては、「実子」になりたいという願望にほかならない。これらが重ねられた形で物語が展開する。
◆デイビッドは、ジゴロ・ジョーに出会ったり、反ロボット主義者のみせしめ的な見せ物(ロボットを破壊して見せる)に出されそうになったりしながら、父探しと母探しの旅に出る。面白いのは、究極の場所が、人間の地の果て「マン・ハッタン」であり、そこのコニーアイランドにある「ピノキオ・パーク」だという点。彼が、マン・ハッタンの半分水没した高層ビルのなかで「父」=ボビー教授にあうが、その出会いは実にあっさりと描かれている 。結局デイビッドが求めるのは、母であり、この辺にスピルバーグの母への思いが感じられる。と同時に、こういう意識が続くかぎり、一夫一婦制は終わらないだろうということである。この映画は、随分先の未来に時代設定されているが、夫婦の関係はいまとあまり変わっていないのである。この映画が、決して未来の映画ではなく、現代の映画である所以である。
◆映像的には、ディビッドがジャンクパークのコンピュータ(ロビン・ウィリアムスが声を担当)と対話するシーンが最悪だが、最後に(またまた2000年ぐらいたち、人類が滅んだあとに)エーリエンが登場するシーンは見ごたえがあり、やっと「未来」へ来たかという感じにさせる。
◆いずれにしても、この映画は、スピルバーグの総決算的な作品であることは確かだ。
(渋谷パンテオン)



2001-06-14

●ドリヴン(Driven/2001/Renny Harlin)(レニー・ハーリン)

◆スタローンとF1となると、先が見える感じがし、行くのを躊躇したが、それほどひどくはなかった。しかし、根が「教育的」な映画なので、せっかくのジーナ・ガーションの役があまり活かされなかった。
◆キャラクターを描き分けて、それぞれの生き方や迷いを見せながら、彼や彼女を相互の和解にもっていくというアメリカ「健全」映画の定石を踏む。
◆レースが命であり、レースのいらいらから婚約者のソフィア(エステレ・ウォーレン)にすげない言葉を浴びせてしまうトップクラスのレーサー、ボー・ブランデンバーグ(ティル・シュワイガー)。天才肌だが不安定な――その理由の一つはマネージャーの兄デミル(ロバート・ショーン・レナード)がだんだんうるさくなってきたこと――若いレーサー、ジミー・ブライ(キップ・バルデュー)。事故で車椅子に乗る元レーサーの辣腕のチーム・オーナー、カール・ヘンリー(バート・レイノルズ)。かつて栄光のレーサーだったジョー・タント(シルベスター・スタローン)は、魂胆あるカールによって復帰をはかる。彼女の昔の妻キャシー(ジーナ・ガーション)を妻にしているが、いまいちツキが回ってこないレーサー、メモ・モレノ(クリスチャン・デ・ラ・フュエンテ)。
◆レーサーとF1の世界というものがそうらしいが、映像の視角は、マチズモつまりマチョの目で描かれている。女性が映ると、胸や脚にパンしたり、意図的に尻を映す。東京のホテルのプールで見せるステレ・ウォーレンのシンクロナイズ・スイミング風の泳ぎも、それを見ているジミーの目というより、映画自体の目がスケベである。なお、この東京のシーンは、撮った時間が相当違うのか、2人の顔つきがほかとずいぶん違う。
◆東京のシーンは、渋谷のジャンボ・スクリーンとネオンのくり返しの映像で済ませているが、そう悪くはない。ロスだったかのシーンで、カメラを持った日本人が「プリーズ・ピクチャー」と言いながら出てきたのでまたかと思ったら、スタローンに(その現場ではレーサーの大物だと知らない)日本人が彼に、「撮ってくれませんか」とカメラを渡し、彼が「え、俺が?」と躊躇するようなひねったプロットに仕上げてあった。
◆ジョー・タントの長期取材をしに来た中年の知的な女性ルクレシア(ステイシー・エドワーズ)――マチズムに距離を取っているように映されるのは彼女だけ――とジョーは次第に惹かれ合うようになるが、二人のまえに前妻のキャシーがあらわれ、嫌みを言うシーンは、ジーナ・ガーションの独壇場。しかし、この毒は活かされず、彼女は、夫のメモがレースで負傷すると、普通の妻になってしまう(少なくとも映像ではそう見える)。
◆いまや、スタローンも、若いやつに忠告する歳になってしまったのだな。しかし、本当は愛しているのに、意地になって関係をこわしているボー(彼の忠告など耳に貸そうとしない)に、「俺なら、人から愛されたら、這って行ってでもそれを受け取るよ」と言う。
◆元のサヤに納まってしまったソフィアにすっかり動転したジミーがレーシングカーでトロントの街に飛び出すと、それを追うスタローン。2人のチェイス。ひどく現実離れしたシーン。こういうところが「教育的」なのだ。観客を子供あつかいしている。
◆大詰めも、レイノルズの緻密な計算を無視してアキシデンツを起こし、川に突っ込んだメモを、レースそっちのけで助けるボーとジミー。これも、「感動的」なのだろうが、ひどく非現実的。最後は、このときに負傷したジミーが奮起して1位、ボーが2位、そしてちゃんとスタローンが3位に入るという予定調和。
(新宿ミラノ座)



2001-06-11

●エボリューション(Evolution/2001/Ivan Reitman)(アイバン・ライトマン)

◆ある日、一抱えもある包みが宅急便で届いた。何だ!と思って送り主を見ると、映画の配給会社だった。透明のビニールごしに見えるのは60~70年代に流行った「ニコニコワッペン」(「スマイルバッジ」とも言われるが、目が一つ多い)の大きな図柄。ブルーの地の上の黄色があざやか。なかを開くと、同じ図柄のワッペン(ボタン)と試写状が出てきた。試写状は、たぶん最後の贅沢なDMだと思うが、こんなに金をかけて、もとはとれるのか?
◆このスマイルマークの印象が強かったのと、『ゴーストバスター』のアイバン・ライトマンが監督であること、試写まえのデイヴィッド・ドゥカヴニーの舞台挨拶のとき、「喜劇」だと紹介されたことなどで、この映画は、おどけた宇宙人でも登場する話かと思ったが、全然そうではなかった。
◆いつも感じるが、海外からやってくる主演俳優や監督が舞台挨拶をするとき、本当に楽しんでいる者が少ないのはなぜだろう。ドゥカヴニーは、東京の印象を聞かれて、「まだ空港とホテルとここ(劇場)しか経験していないので、早く誰かがここから連れだしてくれないかと思っている」と言ったが、それは、ただのジョークではなさそうだった。質問は陳腐であり、知的な彼はそのつど当惑気味で気の毒だった。おまけに、カワイコタレントが登場しての「フォトセッション」というやつ。これは、試写を見に来たわれわれにとっても迷惑だ。すべて時間の節約とお披露目を兼ねているのだろうが、わたしなど、本当のところ、役者の顔など見たくない。登場人物と役者とは別物であり、もし役者に会うのなら、もっと身のある話を聞きたい。
◆意外なエスカレートの仕方をするところがいくつかあって、そういうときは、なかなか面白かったが、せっかく短期間の「進化」(エヴォリューション)ということを主題にしているのなら、進化が類人猿で止まるのではなく、最高に進化した知性体と人間との出会いというところまでエスカレートしてほしかたった。しかし、そうではなかったので、結局「エーリアン」との対決のような方向におさまってしまった。
◆話は、宇宙のかなたから飛来した隕石。ニューメキシコの砂漠に落下したそのなかから、最初は無定形の液体、やがては虫のような生物が生まれる。そして、それらは、急激に進化し、何億年もの時間を短期間に走り抜けて、爬虫類から類人猿にまで変化する。このへんは、アプサードなおかしさがあり、引き込まれる。だが、そのうち話は、その「怪物」をお定まりの軍隊的な論理で処理しようとする軍・警察・官僚たちと、それに反撥する最初の発見者たち――ウエイン(ショーン・ウィリアム・スコット)、アイラ(デイヴィッド・ドゥカヴニー)、ハリー(オーランド・ジョーンズ)――それから、国の専門組織の科学者だったが、組織の対応に愛想をつかしてそこを飛び出すアリソン(ジュリアン・ムーア)(実は、アイラの昔の知り合い)とのドタバタ的「抗争」、そして最終的にエイリアンをやっつける。
◆オーランド・ジョーンズは、ファニーな感じを出している。ジュリアン・ムーアは、おっちょこちょいというよりも、(わたしもそうなのだが)普通では信じられない状況でころんだりするタイプの身ぶりを披露するが、2度3度となると笑えなくなる。
◆喜劇的というよりも、イデオシンクラティックというか、アプサードというか、シュールというか、いい線いっているところもあるのだが、徹底していない。軍人に官僚的な態度をとられたアイラが、ジープで基地を去るとき、ズボンを脱いでフロントグラスに真っ白の尻を押しつけながら去ってっくシーンがあるが、「アス・ホール(ばかやろう)」という表現であることはわからないではないが、面白いというよりも、あれっ!という印象しか与えない。
(日劇プラザ)



2001-06-08

●エレクトリック・ドラゴン 80000ボルト(Erectric Dragon 80000V/2001/Ishii Sogo)(石井聡互)

◆仙頭武則のプロデュースなのでまた賞ねらいかと軽快したが、これはもうけものだった。石井の初期精神に立ち返って遊んでいるような面白さと奇抜さ。浅野忠信も永瀬正敏も楽しんでくっわっている。
◆ハイコントラストの画面。高圧線の鉄塔を登る少年。帯電して目覚める。
◆浅野のキャラクターは、電気に感応していないとキレてしまうが、同時に爬虫類と心を通じあえる。仕事を転々としたのち、失踪したペットの爬虫類を探す仕事をしている。他方、永瀬は、昼間は車に乗って電気工事の仕事をしているが、夜は頭の半分を仏像の仮面を付け、「電波を正しくしようしていない者への正義の制裁を加え」て街を徘徊している。論理的に考えて、この二人が対決しなければならない理由はあまりないが、最初平行描写されていた二人の奇行が、やがてクロスし、対決へ向かう。
◆パラボラアンテナを持つ永瀬。電気と電子。電流と電波。
◆浅野のキャラクターはわからなくもないが、永瀬のはよくわからない。「電波を正しく使用しない者」とは、たとえば、ケータイを使って女を動かしているヤクザだったりする。「電波を正しく使用しない者」の最たる者は、テレビ局やラジオ局だと思うが、そういう話は出てこない。が、あまりわからなくても、気にならないのは、結局、この映画が、音楽映画だからか? 浅野はエレキにのめり込むことによって精神の安定を得ているが、この映画のサウンドは、小野川浩幸と石井聡互が1997年に結成したバンド「MACH1.67」に浅野、永瀬が加わることによって作られている。
◆感電関係としての愛憎、爬虫類と電気・・・なんかよくわからないが、あれよあれよで終わり、心地よい映画。
(メディアボックス)



2001-06-07

●パール・ハーバー(Pearl Harbor/2001/Michael Bay)(マイケル・ベイ)

◆「完全予約制」というのに、名前チェックのあと、例によって階段に列を作らせられる。ひどく蒸し暑い。あちこちでケータイが鳴り、いくつ席を取るのどうのという話も聞こえる。なんだ、「完全予約制」なんて意味ないじゃないの。「戦時中」の昔話をしているおじ(い)さんの声がしたので、見ると、傍らに銀髪の若い美しい女性。世代を越えた愛と尊敬を感じているうような彼女の目つきに、映画の一コマを見るような気になっていたら、そこへ、おじ(い)さんと同世代とおぼしきおば(あ)さんが通りがかり、「やあ・・ちゃん!」という感じで急に立ち話。業界用語と部外者にはわからない人名が飛びかいはじめる。若い彼女は、完全に無視され、いたたまれない風情。しかたなく、ケータイでメールチェックを始める。かわいそう。ねえねえ、おじ(い)さん、ちょっと紹介ぐらいしてもいいんじゃない?日本の男は若いのも、こういうのが多い。それにしても、このおば(あ)さん、そのまま、列に割り込んでしまったのでした。
◆すわ、反米意識の高揚かという噂に過剰な期待をしたが、映画自体は、おとなしい、製作者ジェリー・ブラッカイマー言うところの「友情とロマンスの物語」であった。いまどき国家主義的な敵対主義ではもうけられないことをブラッカイマーは十分に承知している。それと、冒頭の、レイフ(成長してからはベン・アフレックの役)とダニー(同、ジョシュ・ハートネット)の少年時代のシーンで、父親の飛行機を動かしてしまって、レイフをしかる父親をダニーが、後ろから丸太でなぐりつけ、「卑怯なドイツ野郎」とののしると、父親が「俺は、レジスタンスに加わってドイツと闘ったんだ」と告げるシーンがある。これは、おそらくドイツ系であるブラッカイマーの身分証明ではなかろうか? いずれにしても、ドイツ人にも色々いたということを最初に印象づけ、現在のドイツの観客を失わないように配慮しているのだ。
◆マーケッティングに配慮した点は、日本軍の撮り方にもあらわれている。山本五十六をはじめとすつ日本軍の幹部たちは、あたかも侍が洋服を着たような感じにデザインされており、その戦略会議が行なわれるのもえらくアーティスティックなエクステリアのある戸外や、シュールなデザインの室内なのである。そのため、彼らはいまの日本人に短絡するのをまぬがれる。パール・ハーバーに飛来する戦闘機の操縦士たちも、たとえば憎しみを露骨にあらわにしたような表情は全く見せず(操縦席に貼られた家族写真をちらりと見せ、「敵」も「味方」も戦闘員の気持ちは同じといった「理解」を示す)(逆に、攻撃されたアメリカ側の兵士たちはみな憎悪に満ちた「人間的」な描き方をされる)、命令に従って動くマシーンのようなイメージで撮られている。暗黙には、日本軍の紀州攻撃は災害のようなものだったというわけである。だから、備えあれば憂いなしというわけ。
◆基本的に、この映画は、「敵」の挑発、告発、非難であるよりも、アメリカへの警告であり、また、この映画が上映されるすべての国々にも適応可能な警告である。奇襲は1941年の日本軍によるものでなくてもよいのであり、むしろ、今後起こりうることへ関心を向けさせることである。言うなれば、消防器具会社やセキュリティ会社のCMのような意味を持っている。短期的効果としては、「ミサイル防衛構想」の推進キャンペーンに役立つことはうけあい(ということでブラッカイマーは各軍の協力と援助を取りつけた)。
◆わたしに友人でテキサス大学コミュニケーション学科主任教授のジョン・ダウニングがくれたメールによると、現在、アメリカでは「スペース・パール・ハーバー」という言葉がとりざたされており、この映画は、そのような状況にぴったりのものだという。また、この映画では、諜報機関が奇襲を察知していながら、政府の怠慢のために情報解読が遅れ、対応が間に合わなかったということになっているが、それは、うそで、実際には、奇襲の1カ月前にローズベルト(FDR)は奇襲の日程を知っており、密かに特使をハワイに派遣していたという。日本でも、すでに、「ニタカヤマノボレ」という暗号が解読され、アメリカは、奇襲を第2次世界大戦への参戦を正当化する口実に利用したというということがよく知られている。いずれにしても、この映画では、冷戦終了後ないがしろにされがちな諜報機関の重要性を印象づけるようになっているのである。
◆わたしがアメリカ人であれば、むしろ、この映画から、当時のアメリカ軍、FDRのだらしのなさを見るだろう。FDRは、参戦をうながすために、不自由な脚で立って見せるが、全然お涙頂だいでもなく、むしろ滑稽は印象をあたえる。レーダ係はドジ。情報部も鋭いとは見えない。
◆この映画のラブロマンスは、看護婦と兵士の恋である。これも、いまさらと思うが、いやどうして、今日ほどこの戦時中には流行り、憧憬の的だった関係が再燃している時代はない。癒しの時代には、看護婦は癒しの最も歴史のある専門家なのだ。
◆しかし、ここに出てくる看護婦たちが、どれも、どちらかというとサディスティックなのはなぜだろう? ベン・アフレックとケイト・ベッキンセールとの出会いは、目の検査のシーンだが、この病院で若い兵士たちは、尻にブスブス注射を打たれて悲鳴をあげ、それをする看護婦たちは楽しげに笑っている。わたしには、合わないという感じ。でも、ベン・アフレックが、なぜ自分が検査表を読めないか、目の検査に落ちると困るかをケイトに熱烈に説明するシーンは演技の情熱のようなものを感じさせるいいシーン。
◆この映画は、回想のシーンがかなりあるが、たとえば、『海の上のピアニスト』で見られるような記憶の力がない。時間の質的違いが感じられず、もう取り戻せない過去なのだという絶望と懐かしさをもった感情にひたることはできない。いわば時制が同レベルなのだ。
◆アメリカの反撃は、ドゥーリトル大佐が率いるB52部隊が、1942年4月18日、戦艦ホーネットから飛び立って日本上空を爆撃することから始まるが、わたしが幼児のとき、窓から出入りする人で一杯の列車に乗って福島県に疎開のも、それからすぐのことだった。止まった列車のなかから、遠くに立ち上る煙の記憶がある。ところが、親が約束していた疎開先はいんちき(当時は、疎開を引き受け、荷物を先に引き取ったが、現地に到着するまえに死んでしまったりして、荷物を丸得してしまうというようなケースが多々あり、それ目当ての疎開受け入れもあった)で、わたしの家族は、2、3の地を転々としたあげく、結局、農家から足立区に家を借り、空襲下の東京に舞い戻ったのだった。だから、それから終戦まで、遠くで空襲警報が鳴ると、母親に布団を被せられ、床にはいつくばっていた。幼児のわたしには、なぜそうしなければならないのかがさっぱりわからなかったのだが。
(丸の内ピカデリー)



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