粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-08-28_2

●ターン (Turn/2001/Hirayama Hideyuki)(平山秀幸)

◆牧瀬里穂が、真希という、まじめで、どこか思い込みというか信念というか、そういうものをもった地味な感じの女性を演じる。小学校の音楽教師をしている母(倍賞美津子)との二人暮しのどこかに寂しさがある。言及はないが、父親は死んだのだろう。車はあるが、家ののなかにパソコンは見当たらない。やがて重要な意味を持つ電話器も、古い、いまではアンティクとしての値がついている型。母は、庭にトマトを植えている。
◆イントロは、真希が小刀を片手にメゾチント(銅版画の一種)の製作をし、大きな手動の印刷機で1枚の作品を刷り上げてシーン。彼女は、それを街のギャラリーに持ち込み、置いてもらう。
◆彼女は、家のソファーの上でまどろんでいる。膝の上には植物図鑑の大判の本。図書館で借りたものだ。立ち上がり、冷蔵庫を開くと、スライスしたプロセスチーズがぱらりと落ちる。壁には、出そうとそこにはさんでおいたハガキ(自分のメゾチントをプリントした)がある。自転車に乗って、図書館へ。放置されている空き缶が気になり、回収のボックスへ。
◆隣の家の人に挨拶して、自分のミニバンを出し、材料の買い出しに行く。が、途中で大型トラックと衝突する。が、このシーンはさりげなく表現されるのみ。
◆家のソファーで目覚めるシーン。前と同じようにして自転車で外に出るが、この度は、他はすべて同じなのにひと気が全くない。それでも彼女は、図書館に行き、本を返す(カウンターに置いてくる)。時計は事故のあった午後2時15分。
◆真希にとって、世界は、自分だけしかいない世界。物も商店も、母の勤める小学校もあるが、時間があの日の2時15分までなのだ。それでも、真希は、この単調な世界に、虫や鳥の声のCDをタイマーでかけて、普通の時間をつくり、自分をまぎらせる。ときには、シャワーのノズルを庭にしつらえて、夕立を演出したりもする。
◆ところが、ある日、電話が鳴る。それまで、受話器をとっても、何も聞こえなかったのに、男の声で、彼女の作品を本の装丁に使わせてくれというのだった。この泉洋平は、真希と同様、スレていない感じの青年で、それを中村勘太郎が初々しく演じている。
◆環境は一見古めなのだが、コミュニケーション論的には非常に新しいものを含んでいる。真希と泉とのあいだでしか通じない電話。二人は、毎日同じ時間に電話で話をする。メディアは、決して誰にでも同じ機能をするわけではない。ある特定の関係のなかでしか通じ合わない場合もある。この映画は、メディアのまさにそういう面を浮き彫りにしてくれる。シネマ
(メディアボックス)



2001-08-28_1

●スコア(The Score/2001/Frank Oz)(フランク・オズ)

◆7月18日によみうりホールであった劇場試写をのがしたら、その後情報が届かず、今日までのびのびになってしまった。どうも、配給側は相当な自信があり、かなり選んで試写状を送っているようだ。今日も、ほぼ「招待客」ばかりで、試写状を持った客はいなかった。
◆冒頭、Mandaly社のトラが飛び出し、ドロウイングの虎マークになるロゴ。これは、作品によってはまずいことがある。が、フランク・オズは、このあと、音で始めるということによって、このロゴ映像の影響を相殺した。遠くから音楽と人声がきこえる。機械をいじっているアップ。ニック(ロバート・デ・ニーロ)が、金庫を開けている。非常にマニアックで、機械好きにはウケそうな映像。ここではテコを応用した装置で鍵の外部を壊し、内部のカムを細い器具とルーペを使って噛み合わせるというやり方だった。
◆この20年、マーロン・ブランドの出る映画には、借金の支払いの必要性から出演しているような作品が多く、ロクなものがないが、それを逆手に取ってしまうという手をフランク・オズは考えた。この映画では主要な3人が、すべて、役者そのものと深く結びついているような作りになっている。その世界では大物だが、厖大な借金に動きが取れなくなって大儀そうにマックスという人物を演じるブランドは、ほとんど醜悪というほかはないほどの体躯と風貌が、ここでは、いきる。
◆マックスが持ち込んできた仕事は、モントリオールの税関地下の奥深くに格納されている1661年のフランスの秘宝(笏=しゃく)を盗むことだが、ニックは気にいらない。彼は、モントリオールを愛し(近所のグローサリーの女主人とのやりとりのなかにあらわれている)、NYCというジャズ・クラブを経営しており、スチャーデスの黒人のガールフレンド(デニーロの恋人の多くは黒人だ)、ダイアン(アンジェラ・バセット)と身を落ちつけようとしていることもあって、地元では仕事をしないということをポリシーにしている。
◆気にいらないことがさらに加わる。もともとこの話をマックスのところに持ってきたのは、身障者を装って掃除夫として税関にもぐり込んでいるジャック(エドワート・ノートン)。マックからのこの仕事には、当然、ジャックがセットになっている。そもそも身障者のふりをしているということ自体ワルだが、一見ひ弱そうで、なかなかタフ。『僕たちのアナ・バナナ』のスウィートさと『アメリカン・ヒストリーX』のタフさを思い起こさせるキャラクター。
◆最初、ジャズが使われているので、ジャズ的なコラボレーションの話かと思ったら、むしろ裏切りの話だった。デニーロが、調理器具(みななかなかのもの)をたくみにあやつって恋人のためにパスタ料理を作るシーンがあるが、それを2人でうまそうに食べるシーンはない。また、自分のクラブで彼が待っていて、彼女が来るとおしゃれなグラスでにシャンペンをつぐシーンがあるが、彼女がすぐ怒って出て言ってしまうので、これを飲むシーンはない。このへんは、欲求不満を起こさせるが、これは、ストーリーの最初と、やがてわかる方向とのちがいにもつうじている。
◆ジャックの手引きで、セキュリティ装置のパスワードを買うことになるが、そのパスワードがすべて数字で構成されているのは、お粗末。いま、セキュリティを本気で考えているところで数字だけのパスワードなんて使っているところはない。
(ヘラルド試写室)



2001-08-27

●ラッシュアワー2(Rush Hour 2/2001/Bret Ratner)(ブレット・ラトナー)

◆この映画に批評はいらない。事件の背景などあまり重要ではないし、ひねりもない。二人のそれぞれ国籍のちがう刑事(ジャッキー・チェンとクリス・タッカー)を危険にさらし、犯人を追いかけ、格闘し、もとの平静にもどる。ジエットコースターの種類や乗り心地を論評するのも批評であるとすれば、批評は可能だが、わたしの出番ではない。だから、ここでは役者の印象を書くにとどめる。
◆クリス・タッカーの多芸とファニーな雰囲気、ハイなしゃべり、歌、ダンス・・・今後さまざまな形で展開されるであろう才能を感じさせることは確か。
◆ジョン・ローンが実にしぶい味を出している。この映画にはもったいないくらい。
◆チャン・ツィイーは、悲しげな顔で攻撃してくるところが印象的。この人も、身体の修練をつんでいるらしく、身のこなしは見事。が、彼女の演技的才能の半分以下しかこの映画では発揮されていない。
◆ジャッキー・チェンが、ラスベガスの賭博場で大立ち回りをやり、逃げるとき、格子のはまった現金引き替え口に飛び込み、その一部から外へ飛び出すとか、運搬ボックスの上にこっそり乗り、細い廊下で手と足をさっとつっぱって、壁に支えのような格好で跳び移るとか、例によって、カンフー/JC的小技と工夫は随所にある。
◆ロセリン・サンチェスは、敵中に潜んでいるアメリカのシークレット・サービス役だが、他と演技のトーンがちがう。この映画のプロットには向かない演技をさせられているわけだが、今後が楽しみ。
(よみうりホール)



2001-08-25

●GO(GO/2001/Isao Yukisada)(行定勲)

◆かつてフランスのヌーベルバーグが出てきたときのようなすがすがしさを感じさせないでもない。ほめすぎか? 在日の主人公(ドラマはそのナレーションと視点で進む)杉原を演じる窪塚洋介もいい。在日問題についてもこれほどすっきりした意見はなかった(これは原作のもの)。このような作品を見ると、事態を単純化しているというより、むしろ、この映画は、見る者と日本政府そして在日を含む旧世代に向かって、「こっちはこんなに変わってきているんだから、早くそっちも変わってよ」、と言っていると受け取ったほうがいい。
◆日本人の観客には、杉原の父(山崎努)も母(大竹しのぶ)も、確固とした自分や「強さ」を持っているように見えるだろう。が、決してご「立派」な感じで確固としているのではなく、したたかで、存在感のある仕方でそうなのだ。父は、元プロボクサーで、主張は鉄拳で教える。息子は血を流し、歯を折られる。父は、息子の幼いころからボクシングを教えた。母は父と意見を異にして家出と復帰をくりかえしている。彼女は、しゃぶしゃぶの肉を息子にそのつど取ってやり、決して自分では取らせない。それも、自分がそうしたいからしているという感じ。北の出身で、キム・イルソンを尊敬し、北朝鮮籍だった父が、韓国籍に転向したのは、単にハワイに行きたかったからではないことがあとでわかる。
◆日本では、いま、自分を見せない親が流行りだとされている。映画もそのパターンを踏襲し、親といえば、ろくな描き方はされない。その意味で、この映画は、国内の異文化を活用することが、いかに表現を豊かにするかということを証明したと言える一方で、やはり、「純日本」問題ではないからこれだけ生き生きと描けたという(つまり、これは「外国映画」なのだ)ともとれる。
◆在日/日本人の区別以前に、窪塚の魅力もこの映画を面白くしている。他の役者だったら、知り合いのパーティが開かれているクラブで、古今亭今輔(だと思う)の落語をウォークマンで聴いているというのがカッコよく見えるかどうかわからない。
◆もう、国家だとか民族だとかの問題じゃないという台詞が出てくるが、そういう意識は誰にでもある。問題は、国家の存続によって利益を得ている者たちであり、実質的にはそういうものが消滅したレベルでも、依然その亡霊にしがみついている連中だ。
◆知り合い、愛しはじめたガールフレンド桜井(柴崎コウ)に、自分が在日だと告げ、桜井が予想外のショックを見せるシーンは、ありがちな描写の域を出ていないのではないか? 桜井の父が、日本は嫌い、外国大好き、それでいて(このシーンで桜井が告白するのだが)「朝鮮人と中国人とだけはつきあうな。血が汚いから」と言っているような設定の親になっているのも、月並み。普通、在日の人は、こういう家には近づかないのが「普通」だし、その「普通」をやぶるのなら、もうちょっと飛躍が必要。原作がそうなんだからと開き直るな。柴崎は悪くないが、彼女がやると、なんかみんなはまってしまう。解説によると、原作者は、柴崎を想定して原作のキャラクターを作ったとのことだから当然かもしれないが、要するに、ありがちな女の域を出ないのです。国会議事堂の前でデート場所を指定するなんて、このタイプの女にありがちでしょう。
◆警官との関係が、これまでの日本映画とは異なるスタンスで描かれている。最初の方で、民族学校に通っていたとき、誰何(すいか)されそうになって、パトーカーのガラスをぶちわるすがすがしさと反権力性があり、他方に、後半、萩原聖人が演じる「本当は向いてない」警官とのエピソードがある。どちらも新鮮。
◆民族学校で、杉原が日本人の学校に転向することをきいた教師(塩見三省)が、「おまえは国のことを忘れたのか」と激怒する。それに対して、杉原の親友正一(細山田隆人)が、「ぼくらは国なんかもったことはありません」と叫ぶ。杉原に落語のカセットを貸したのも彼であり、彼は、「日本人は『日本』の意味を知らない」と言って、日本人を驚かせる。彼が、ちょとしたはずみにナイフで刺され、死んだとき、普段は正一とはつきあってもいなかった元秀――杉原の民族学校時代の同級生でワル仲間(新井浩文――なかなかいい演技)が、復讐するから明日集まれというようなことを杉原に告げたとき、杉原が返した言葉がよかった。「おまえなんて、あいつの何を知ってるんだ。さかなにしてただ暴れてぇだけじゃないか」。右翼やヤクサの襲撃、左翼の反対運動にも、こういう要素がしばしばありますな。
(東映試写室)



2001-08-23

●オー・ブラザー!(O Brother, Where Art Thou?/2001/Joel Coen & Ethan Coen)(ジョエル & イーサ・コーエン)

◆最初、ウディ・アレンの『おいしい生活』の予告編を見せられたが、その音量が猛烈で、本編もこの調子でやられるのか(すべて自動になっているいまの映写装置でも変な映写技師がいるのか)と心配したが、本編は大丈夫だった。もともと音量を上げて作られていたらしい。あまり当たりそうのないアレンの新作へのあせりかも。街も景気が悪くなるとスピーカの音が大きくなるのと同じか。
◆さすがコーエン兄弟といった作品。ファニーなキャラクターをそろえた。全体を南部のブルース的ノリでまとめているところは、『ブルース・ブラザース』に通じると言うとほめすぎだが、出演者もみなクセモノだし、台詞もおかしい。そのくせ、脱獄した3人を追う保安官や、逃避行のなかで出会うクークラックス・クランらが、(『ブルース・ブラザース』の場合は、保安官もイリノイ・ナチもみなトンマだったが)ハンパでなくワルなのが目を引く。
◆クレジットには、ホーマの『オデッセイ』にもとづくとあるが、これはそう深い意味にとる必要はない。盲目の預言者(エディプス)を思わせる人物なんかも出てくるし、しかもそれがひと気のない場所のコンクリート造りのなかで放送をやっている。
◆Universalのロゴが出ている段階から、かすかに音が出て、やがて囚人たちが鎖につながれて労役に従事させられているシーンになる。色はセピアがかったカラー。イントロのあと、無声映画の説明のフレーム似た白地に四隅を切り取った黒枠画面にキャスティング。擬古文的スタイルがしゃれている。
◆数珠つなぎになった3人(ジョージ・クルーニー/ジョン・タトゥーロ/ティム・ブレイク・ネルソン)が、労役の際に監視の目をのがれて畠のなかを跳びはねながら逃げるのだが、このシーンはスラプスティックのタッチ。
◆盗んだ車を走らせて行くと、無人の道路にギターケースを持った黒人が立っている。「悪魔に魂を売り渡した」という。これもおかしい。この男に導かれて行くのが、冒頭で聞こえていたラジオ局WEZY。オーナー兼DJは盲人。「おれらはみんなニグロだ」とかいいかげんなことを言って4人がここで歌った曲が、彼らの知らぬ間に大ヒットし、ハプニングを引き起こす。
◆ヒッチハイクする3人を拾ってくれた「ベビー・フェイス」ネルソン(マイケル・バダルーコ)は、猛烈な躁鬱人間として登場する。猛烈躁な意識状態からそれまでの面影をすっかり失った鬱の状態とのあいだを行き来し、捕まった彼が、とことん躁な状態で電気室に引き立てられいくシーンがあるが、随所にそれだけでも面白く見れる小話風エピソードをはめ込むサービスがある。が、それらは、たくみに連結され、全体としてTVA以前の南部を思い起こさせるような仕組みにもなっている。
◆ポピュリスト風の演説をしていた知事候補(ウェイン・デュヴァル)が、実は、クークラックス・クランの首領というのも笑わせる。その前に3人を棒切れでなぐり倒し、金をうばっていった片目の恐ろしげな男(ジョン・グッドマン)が、ちゃんとその一員におさまっているのも何となくおかしい。はからずもこのことを暴露する役目を負った3人が、落ち目だった現職の知事(チャールズ・ダウニング)の復帰に一役買うというのも、ドタバタ喜劇の面白さ。
◆南部にはフォークナーにも見られるようなホラ話の伝統がある。そういうノリが取り入れられていることは言うまでもない。むしろ、そういうスタイルと、いまやノスタルジアのなかにしかない「南部」を使って1本撮り上げたということがこの映画の面白さだ。ここでは、コンピュータによる映像処理も、シュールレアリスム的なホラを効果的にする技法として使われている。
(ギャガ試写室)



2001-08-22

●アメリ(Le Fabuleux destin d'Amelie Poulain/2001/Jean-Pierre Jeunet)(ジャン=ピエール・ジュネ)

◆台風来襲で今日は試写は無理かと思ったが、夕方には風がおさまったので、6時の回に足を運ぶことができた。今日は女性客が多い。試写状には、「”アメリ現象”が全フランス席巻!・・・内気なアメリの不器用な恋の行方」なんて書いてあるのでか? とにかく、「恋」という文字があると女性客が急に多くなるのは、日本問題ではないかな。
◆当たった映画だというが、それは、この映画が、ネット時代(そういう内容な全く出てはこないが)の愛の物語として見れるからではないかと思う。ネット時代には、人は、以前よりも、あたかも時代が100年バックしたかのように、シャイになる。ぶしつけな告白や表現は後退し、覗き、手紙、さりげないメモの手渡し、優柔不断などがあたりまえになる。そんな要素をたくみにとらえているところが、この映画の現代性ではないか。
◆語り口がおもしろい。『デリカテッセン』とも、むろん(どうもいやいや引き受けたらしい)『エイリアン4』ともちがった作風。まじめにとぼけたナレーションでアメリのおいたちが語られところからはじまるが、全編、ナレーターが傍観しているというアイロニーと醒めた距離を潜ませたトーンがある。1973年9月・・・時・・分・・秒に・・の精子が・・の卵子に向かって・・・というようなナレーションとともに顕微鏡の映像を出したり、子供時代のアメリのっ仕草も、10本の指先にラズベリーかいちごを突き刺してひとつづつ食べていくとか、金魚が鉢から(「自殺願望で」とナレーション)飛び出して一家大騒動とか、とにかくファニー。といってドタバタ喜劇ではない。
◆アメリの母は学校の先生だが、娘が内気なので、学校にはやらず、家で教育する。が、その母は、空から落ちて来た自殺者に当たってたちまちいなくなる。父親(リュフュス)は、アメリがパリで一人暮しをするようになると、孤独な余生を送っている。
◆地下鉄駅でレコードをかけている物乞いがいるが、ある日、アメリがお金を渡そうとすると、「日曜は働かないんだ」と金を受け取らない。
◆成人してパリに出たアメリを演じるのは、オドレイ・トトゥ。彼女は、『エステサロン/ヴィーナス・ビューティ』(June 1999参照)でエステシストを演ったが、今回、『ショコラ』のジュリエット・ビニシュに似ている。監督は、最初、エミリー・ワトソンを考えていたというが、そういえば、この者はよく似ている。
◆同じアパートビルには、骨がもろく模写を仕事にしている中世風の風貌の老人レイモン(セルジュ・メルラン)、外地出身らしい店の従業員リスアン(ジャメル・ドゥブーズ)に嫌みを言いつづける食料品店の主人コリニヨン(ウルバン・カンセリエ)が住んでいる。レイモンは、もらったビデオカメラ(VHSカセットがそのまま入るから相当昔のもの)を向かいの店の時計に合わせて、それを自分のテレビでモニターして時計代わりにしている。最上階に住んでいる管理人マドレーヌ(ヨランド・モロー)は、夫の浮気と飛行機事故死(愛人との旅行中に)し、納得のいかない過去を背負っている。アメリは、父だけでなく、これらの人物に、もし善意の神がいたらしたかもしれないようなことをする(コリニヨンには罰を)。
◆アメリは、自分よりも他人のしあわせのために生きることに主要な時間を使っている。このあたりも、潜在的に、ボランティアの時代にぴったりだ。街で出会った盲人の手を取って、道路を渡るとき、店の名、いま現在通りで起きていることを実況中継のひょうに矢継ぎ早に口走るアメリの方法は、ラディカル・ボランタリズムだ。アメリは、偶然、浴室でガラス玉を床に落とし、それが転がっていって壁の裾に張ってあるタイルにぶつかり、その1枚がはがれて、「秘密」の穴が空き、その奥にブリキ箱を見つける。なかを開くと、明らかに子供が大切にしていたであろうような品々があった。それを元の持ち主に届けてやろう。アメリの捜索がはじまる。
◆捜索といえば、彼女が最後に結ばれることになる男ニノ(マチュー・カンヴィッツ)も、自動のフォトボックスで写真を撮り、すぐに破って捨てるスキンヘッドの男を追っていた。彼は、いつも素早く立ち去るので、話をすることができない。ニノは、彼が捨てた写真の屑をかき集めて、アルバムに張っている。
◆コンピュータは出てこないが、アメリとニノの会い方が、なかなかネットワーク的。アメリがやっていうることは、「善意」のハッカーが、ブロードバンドの時代にネットを使って出来ることでもある。たとえば、レイモン老には、あれこれのテレビ番組から録画したカセットをこっそりとどける。これは、メールに映像をしのばせて送るなら、ハッカーでなくても出来るし、ネットに向いている。
◆アメリが働いているキャフェにも、おかしい連中がいる。ひとにはそれぞえ、自分を癒す方法があるが、彼女や彼は、それぞれのやり方で生き、悩んでいる。いま、ふと思ってが、これは、イデオシンクラシーをテーマにした映画だとも言える。 (徳間ホール)



2001-08-20

●リリイ・シュシュのすべて(All About Lilly Chou-Chou/2001/Shunji Iwai)(岩井俊二)


◆30分まえで受付に列ができていた。岩井の新作ということで特別に見に来たひとも多い感じ。うしろで大声がした――すぐにアラーキの声であることがわかる。このひと、いつも自分のいるところが自分のウチみたいに思っている。が、このごろ、試写室ではこういうキャラクターがはとんど消滅してしまったので、たまには雰囲気がにぎわいでいいか。
◆冒頭からコンピュータ画面のバケ文字(英語モードのシェルでSJISのテキストを開いた状態)が硬いキーボードの音とともに、ただちに正規に変換された文字に変わる映像が入り、それが終わりまでたびたび続く。そのためか、映画のスクリーンではなく、コンピュータの画面を見ている感じ。わたしは映画以上の時間をコンピュータのモニターとすごすので、この種の映像は疲れる。実際に、この映画は、フィルムではなく、24プログレッシブ・カメラで撮られ、デジタル・ノンリニア編集されている。また、この映画にはインターネットと切り離せない「前史」がある。それは、架空のアイドル歌手「リリイ・シューシュー」のためという体裁のウェブ小説のサイト(www.lily-chou-chou.com)であり、映画はそのプロットを引きついでいる。
◆形式と内容が不可分に結びついたスタイリッシュな作りだが、前半は非常にフィジカルな作りであり、後半、沖縄の西表島のシーン(市川実和子が沖縄の人間になりきっている)がホームビデオ風/実験映画風になるのが、かえって浮いた感じに見える。
◆公立学校におけるイジメを、イジめる側にとってもイジめられる側にとってもどうにもならない事態としてとらえ、描いた映画として画期的だろう。こういう映画を見ると、もう、イジメは、日本の一つの習俗や文化としてとらえ、そのうえで、その暴力性や非人間性を極力少なくする方法を考えるしかないのではないかという思いにかられる。実際、日本には、脈々とイジメの伝統があり、海外のジャパノロジストも日本のteasing cultureに関心をもっている。イジメをするグループ、クラスの女子学生の結社的関係、彼や彼女らがとる姿勢や行為は、そのままあるいは形を変えて日本の社会全般に存在する。閉鎖的社会にはどのみちあるイジメ。それが、いま、特に悲惨な様相を呈しているとすれば、それは、イジメが、転機に立っているということ、ひょっとすると、イジメが末期に達していることを示唆しているのかもしれない。つまり、悲惨な事態は、イジメの末期的現象にすぎないのだ。一方で、インターネットや企業活動のグローバリゼイションによっていやおうなく裸体化されつつある社会。そういうものとは対極にあるイジメ。危機なのは、学校社会ではなくて、イジメそのものなのだと考えたほうがいいかもしれない。
◆もし、イジメが日本社会の習俗・文化だとして、それが習俗としても文化としても機能せず、たんなる暴力装置でしないという危機的状況にあるとすれば、そういう習俗・文化のなかで生きて来た社会的自我もまた、危機に陥っている。そういう習俗・文化を越える新たな習俗・文化を見出せない自我は、浮遊するしかない。
◆冒頭と最後の方に、主人公の蓮見雄一(市原隼人)が、広いひと気のない畠で一人CDウォークマンを聴いているシーンが出てくる。そして、途中にも、イジめる側になって同級の星野修介(忍成修吾)がやはり同じ畠でCDを聴きながら狂ったように叫ぶシーンがある。いかにもいまの公立校生の孤独をあらわしているシーンである。
◆イジメグループがあり、雄一はその餌食になるが、そのグループのリーダーを粉砕した星野が、今度は別のイジメグループを作って行くロジックと宿命のような帰結。雄一はそのどちらからもイジめられる。その様の描写はすさまじい。「しこれ」とマスターベーションを強制するイジめもある。
◆いかにもありがちというシーンはないではない。雄一の居間のシーンで、親子3人がちゃぶ台にもかっていて、1人が勝手にテレビゲームをしているのは、「いまの」家庭を表現するのによく使われる。
◆イジメ社会との対極にユートピア化された沖縄をもってきたのも、少し月並み。だが、イジメが「本土」特有の習俗・文化であるとすれば、ここは、イジメ社会とは別世界であり、イジメ文化とは別の文化圏なのだろう。沖縄語をしゃべりつづける(実川が通訳する)男は、たしかに魅力的。沖縄に入れ込んでいる、宮台真司に風貌の似た中年もやや自嘲的にえがかれている。とにかく、「沖縄では女が男よりも上」という台詞があるように、映画に登場する沖縄の女性たちが生き生きしている。その意味で、沖縄で溺れて死にそうになる星野は、彼が殺されるまえから沖縄によって否定されているのである。こう考えると、この映画の奥行きがぐっと深くなるでしょう?
◆星野は、剣道部にはいってからイジめの世界に進む。新入生に対して剣道部の主将が、大声で自己紹介させて、「聞こえないぞ」と軍隊的なトレーニングをする。星野はそれに反抗した唯一の生徒だったが、イジメの習俗が巣くうシステムのなかでは無力なのだ。嬌声をあげながら剣道の試合を見ている女子学生たちは、まさに「銃後の妻」の雰囲気だ。彼女らは、結社することで他を排他的にイジめ、同時に男のイジメを支援する。このへんの描写も、あとの合唱グループ内での女グループのイジメ的結束が見られるシーンとともに、うまい。
◆星野と雄一がまだ友達でありえたとき、雄一は星野の家を訪ね、泊まる。風呂に入るとき、母親(稲森いずみ)が「これはおばあちゃんの、これはあたしの、これが修介のだから、これ使ってね」と言う。箸、茶わん、スリッパ、さまざまな日常用具が、他面における極度の集団志向(みんな主義)にもかかわらず、個々人に割り当てられているのも、日本の習俗・文化であり、イジメと密接な関係を持っている。
◆この映画では、リリイ・シュシュのためのウェブサイトだけが本音を言える場所である。が、そのよう場所も、星野は、陰謀の場所にしてしまう。だが、本当は、本音の場所などどこにもないし、逆に、本音とタテマエを区別しなければ、どこも本音の場所になるのである。
(松竹試写室)



2001-08-16

●コレリ大尉のマンドリン(Captain Corelli's Mandolin/2001/John Madden)(ジョン・マッデン)

◆盆で試写が少ないせいか、それほどの問題作とは思えないのに、20分まえで補助椅子しか空いていなかった。
◆例によって、監督がイギリス、主役男優がイタリア系ながらアメリカ生まれのニコラス・ケイジ、主役女優がいまやハリウッドに進出とはいえスペイン出身のペネロペ・クルス、舞台はギリシャだが、ギリシャの名のある役者はイレーネ・パパス、そして言語は「ギリシャ」なまりの英語、といったトランスナショナルな映画を見ると、もうこういうのがあたりまえなのかなという印象を持つ。原作はペンギン・ブックスでベストセラーになったルイ・ド・ベルニエールの同名の小説だから、そうなってもしかたがないし、そもそも、小説自体が、土着性だとか、自然主義的な写実主義とは無縁なところに身を置いてかかれている。異国人があまり訪れない土地の人が英語でしゃべっても、それは、吹き替えで映画を見る感覚で見るのに慣れてしまえば、どうということはない。その昔、テレビで『コンバット』が上映されたとき、それまでみな英語=日本語だったのが、このテレビ映画では、ヨーロッパ戦線で役者がフランス語やドイツ語をしゃべると、その部分が原語になったのが、テレビではそういう気づかいがほとんどないのがあたりまえだったので、ひどく新鮮だったが、いまは、映画でその逆を経験しているわけである。
◆そのヴァーチャルさは、ある意味で新しいのかもしれない。場所性を完全に無視するわけではない。場所は、ギリシャのケファロニア島に現地ロケし、冒頭でその空気を映像にしている。が、そうすると、これまでの感覚をずっているわたしには、まずジョン・ハートの姿を見ると、こういう島に異国(たとえばイギリス)から移住してきた医師イアンニスがいまは亡き現地の女性と結婚してペラギア(ペネロペ・クルス)が生まれたというような想像をしてしまうが、そういう設定ではなさそうだ。現地の熱血青年マンドラスを演じるのは、クリスチャン・ベールで、いくら彼が『アメリカン・サイコ』で熱演したからといっても、この超ローカルな土地の人間を演じるのは無理がある(そうとうがんばってはいるが)。しかし、そんなことがあまり気にならなくなるのは、現地人も(特にローカルな方言をしゃべっているという設定以外では)英語を(ギリシャ語として)しゃべっているので、すべてがヴァーチャル化されて、細かいことはどうでもよくなるのである。『チョコラ』なども、そういう点を前提にして見れば、よくできた作品だった。
◆基本的にはイギリス映画で、最初はおとなしいが、次第に残酷さをむき出しにしてくるドイツ人というパターンが描かれる。この映画は、ここで「ドイツ軍に虐殺された数千人のイタリア人」にささげられている。1941年、イタリア軍によって占領された島には、イタリアを後見するドイツの軍人も上陸したが、1943年にムッソリーニ政権が倒れると、ドイツは、この島をイタリアの手から奪おうとし、空爆や援軍の補給をはじめる。当初、イタリア人とドイツ人、そして、占領軍の大尉コレリのファニーな性格のために、現地の人間やドイツ人大尉(デビッド・モリシー)相互のあいだにも不思議な「友愛」まで生まれるが、それが、ムソリーニ政権の崩壊とともに、くずれていく。映画や小説は、そういうつかのまの友愛の稀少さを強調することもできるが、この映画では、後半で展開されるドイツ人のステレオタイプな残虐さのためのエピソードになってしまう。
◆ニコラス・ケイジは、「ハイル・ヒットラー!」と敬礼するドイツ軍人に対して、「ハイル・プッチーニ!」と言ったりするが、もっと「イタリア」臭くてもよかった。生真面目な「ドイツ人」と対照的に音楽と食事と女性を愛する「イタリア人」(男性だけ?)というのだったら、もっとねちっこくないと。ケイジには、もうそういう「イタリアン」はない。
◆ケファロニア島の住民は、戦争以上にたびたび起こる地震に苦しめられてきた。映画でも、最後に、冗談のような感じで地震が起きる。だから、イタリア軍の上陸も、ドイツ軍の虐殺も、そうした地震のさまざまな規模の出来事の一つ一つだったということなのかもしれない。この島の人々は、どんなことにも耐えながら、暮している、と。ギリシャの物語には、映画にも、そういう感じがあるが、この映画はそこまで枯れてはいない。「まだ人を殺したことがない」コレリにしても、許婚者マンドラス(クリスチャン・ベール)との間で心が揺れるペラギアも、また、イタリアとの闘いに出征して身も心も傷ついて帰還し、レジスタンスを結成するマンドラスにしても、それぞれに相当テンションの高い変化を経験したはずなのに、その揺れが伝わってこないのは、すべてが大地震で相対化されているからか? だから、唯一、ドイツ人の大尉が、状況の変化でコレリを殺さなければならない立場に追い込まれるシーンは、むしろ、通常の意味でドラマティックすぎるのかもしれない。いや、でも、このシーンでのモリシーは、いい演技をしていた。また、彼に心を寄せ、そのために村人からリンチに遭う女性を演じたヴィッキー・マラガ(?)も台詞はなかったが、印象深かった。
(ブエナビスタ試写室)



2001-08-10

●ムーラン・ルージュ(Moulin Rouge/2001/Baz Luhrman)(バズ・ラーマン)

◆わたしにとって、おそらく今年度最高の評価をあたえる作品。ブロードウェイ・ミュージカルの華麗さとイキな場面切り替えとハリウッド映画のスペクタクルとロマンティシズムを融合し、それをクラブ・ミックスのセンスで料理した。キッドマンにとって、最高の演技の1本。ユアン・マクレガーの歌も見事。とにかくおしゃれな映画だ。
◆20世紀FOXのロゴを融合させたオープニングシーンがまず目を引く。舞台のなかの舞台。しかもそれを映画のなかの映画(無声映画のフレイバーを多分に取り入れた色とテクスチャー)として2の4乗化する。VR的なウ-クスルーを多用し、人工的・レトロ的なせぴあがかったパリの俯瞰シーンからぐーっとカメラが動いて言ってパリの安アパートでタイプライターに向かっているユアン・マクレガーのアップに行く等々。だが、それが、コンピュータを使いましたといった趣ではない。むしろ、シャープで精密な映像にゆらぎをつくるためにコンピュータを使っているという感じ。デジタルのアナログ化。ハイテクのロウテク化。
◆時代は1900年。詩人のクリスチャン(ユアン・マクレガー)は、各地をさまよったあげく、ボヘミアン・カルチャーが花開くパリに落ち着いた。アパートのテーブルの上には、Underwoodのタイプライターがある。これは、(おそらく)金持ちの父親が買ってくれたもの。冒頭、厳かな顔の父親の姿がフラッシュバックするが、父親コンプレックスがそれ以上強調されるわけではない。この映画のいいところは、どんどん先へ行くところ。
◆ラテン的に味つけしたトゥレーズ・ロートレックが、道化まわしの役をする。ニコール・キッドマン演じるムーラン・ルージュのスター、サティーンとクリスチャンとの出会い。舞台俳優に転身したい彼女は、侯爵(リチャード・ロクスボロウ)の寵愛を受けなければならない。本当の恋人とパトロンとの間で悩むサティーン。よくあるテーマだが、そのひねり、DJ感覚の切り替えで全く斬新なラブストーリーに仕上げた。
◆サティーンのイメージには、明らかに、『椿姫』も引用されている。サティーンは、結核にかかっている。
◆ミュージカルとしても、すべてのソングを既存の70~80年代のヒットソングでやってしまうというのも新しい。ベンヤミン=ブレヒトの引用理論を最も効果的に具体化したかのようなシュールレアリスティックな引用のテクニック。マクレガーが、「サウンド・オブ・ムージック」を歌いはじめたときには、創造性に突然出会ったときの笑いが自然に飛び出した。が、「サウンド・オブ・ムージック」に驚くどころではなく、次々にモンローからマドンナ、キングコールからデイヴィッド・ボウイ・・・が飛び出す。
◆パリのボヘミアン・カルチャーの強調。そして、ムーラン・ルージュは、つかのま階級制が消失するフリースペース、いやT.A.Z. (Temporary Autonomous Zone---Hakim Bey)だったのだという解釈。"How Wndeful Life is"がくり返し歌われる、"Love is like an oxygen"は、マクレガーの口癖。この映画を機に、新たなボヘミアン・カルチャーがはやるかもしれない。が、その本拠地は、パリではないだろう。
◆いつになく2人連れのオバねえさんが多い。映画や出版の業界人だが、若干年令が高い。「オバ」という理由は、隣の人は、バッグからお茶を出しmバシっと封を切ってごくっと一口飲み、それから手製(なぜ? 形と海苔がべっしゃっとついているし、包んであるのがサランラップ)のおにぎりをパクついた。左隣のオバねえさんは、ハイヒールを脱ぎ、立ち膝をして見ていた。ちょっとストリッパーの姿勢のようになってしまうのが心配なのか、開いた前に大きなスカーフをかけていた。終わると、「寒いからおしっこがしたくなちゃった」と言い、2人で早々と立ち去る。すばらしいバックタイトルのデザインも見ずに。
(よみうりホール)



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●ファイナル・ファンタジー(Final Fantasy/2001/Hironobu Sakaguchi)(坂口博信)

◆いつもとちがう客たち。うしろで髪をしばったおじさん、髭づらにデイパックの兄いおじさん、きゃあきゃあいう女性よりも、入れ込んでいる感じの女性、マクドナルドや弁当を持ち込むことはせずに、ひたすらバッグから出した飲み物(「聞き茶」?)を飲む。
◆ギャガの営業の女性の司会は芸能人のりでなくてよかった。花束贈呈や「ツーショット」もなく、大人の雰囲気。原作・監督の坂口博信が挨拶。これも、芸能人のりではなく、ナルシシストのり。ロカルノ映画祭で上映の前後にあわせたかのように雷雨があり、もともと自分は雷が鳴ると死んだ母が来たという思いがあるので、きっと、実に来てくれたのだなと思った・・・とつとつと(もうちょっとで涙を流しそうな表情で)語る。そういえば、この映画の冒頭でも雷鳴がとどろく。
◆被写体のある映像と「遜色のないリアルさ」だが、重要なのは、生身の役者を使わないということだろう。モーション・キャプチャーや生身の人体のモデリングをやっているわけだし、声優は、ドナルド・サザーランド、ジェイムズ・ウッド、アレックス・ボールドウィンなどを使っているのだから、役者に演技させても、経費的には変わらないだろう。生身の被写体のある映像と異なる表現への情熱。これは、見ているときにふっと感じる「違和感」のなかに隠れている意味を分析することによって明らかになるだろう。
◆当然、コンピュータが出てくるが、そのインターフェース部分が面白い。透明の筒のようになっているスペースに両手を入れて、動かすとコンピュータが作動する。キーボードはない。わたしは、かつて、未来のコンピュータのインターフェースは手話的な手ぶりで作動するようなものになるだとうと書いたことがあるが、このシーンは、それに近い。
◆廃墟と化した「旧ニューヨーク」に生命体を採集するために1人で入って行くアキ。身につけている知覚や照明の装備が魅力的。街のシーンは、水にはつかっていないが、『A.I.』のニューヨークと非常に似ている。また、地球外生命がうねりのようになって襲ってくるとき、その形は『千と千尋の神隠し』に出てくる龍にそっくり。ツールが同じなのではないか?
◆ひと気のない街路と建物の細い地下道のような通路にいきなり浮遊するゼリーのような形状のゴーストがあらわれる。こういう映像はすばらしい。
◆単純なのは、「地球外生命」に対して、「愛」(単なる心情的愛ではなくて、物理的にも融和する働きかけ)をもって対するアキと博士が一方に、他方に武力で対決するハイン将軍という構図。ハインは、地球を壊しても相手を攻撃しようとするが、逆に、その攻撃が地球外生命とガイアとの融和を促進する。そのシーンは美しいのだが、「ガイア」という割合月並みなタームとともに、この単純な構図(ゲームなどではありがち)が気になるところ。
(日劇東宝)



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●ウ-ターボーイズ(Water Boys/2001/Shinobu Yaguchi)(矢口史靖)

◆一見「ガンバリ」ものに見えるかもしれないが、そうではない。そういう点でみるよりも、個人対個人のささやかな関係が最後に総パレードに展開するところがユニークであり、感動的。それも、別に通常のメロドラマ的な展開ではない。必ずしもヒ必然性があるわけではない進み方がいい。
◆出会いが新鮮なのだが、とりわけ、近くの女子校の生徒(平山綾)が目立つ。妻夫木聡が、彼女と会うのは、彼が塾でつまらない授業を聞いたあと、自動販売機で何かを買おうと思いコインを入れたが何も出てこない――すると、通りかかった平山がいきなり販売機に跳び蹴りし、缶がぽろりと出てくる。平山の目が実に多くを語る。
◆ビーチ・ボーイズはともかく、マーラー、カルメン、オンリー・ユーなどの音楽の使い方が実に笑える。
◆この映画は、教師なんていらないという話でもある。最初、自分の夢(シンクロナイズド・スイミングを教えたい)を実現するのかと思ったら、あっさり産休をとってしまう新任の高校教師(真鍋かをり)。体育の教師(杉本哲太)も、どなるだけで何も実のあることは教えない。高校生(妻夫木聡、玉木宏、三浦哲郁、近藤公園、金子貴俊)にイルカの泳ぎ方を教えてくれるはずのイルカ調教師(竹中直人)もいいかげん。結局、彼らがシンクロを学ぶのは、マニュアル本なのだ。これは、いまの世代に非常に特徴的なこと。
◆アメリカの若者にとって来るべき時代の風を予感した『アニマル・ハウス』のような要素を持っているという印象。
(東宝試写室)



2001-08-03

●恋する遺伝子(Someone Like you.../2001/Tony Goldwyn)(トニー・ゴールドウィン)

◆アメリカやイギリスでは評判がいいが、わたしはアシュレー・ジャドをはじめとする俳優たちの手堅い演技をのぞけば、あまり高い評価はできなかった。一言で言えば、ニール・サイモン風のスタイルをまねようとして失敗したテレビドラマ。
◆意図的なのだろうか、冒頭、アシュレイ・ジャドの声でナレーションが入るが、それがひどく古典的というか、ドキュメンタリー映画などで使われるアナウンサー調のトーンなのだ。これが、男運の悪いジェーン(アシュレイ・ジャド)の物語を半分諧謔のトーンをまじえながら語っているように見えるが、あまり成功しているとは思えない。構成が演劇風なので、しゃべり方も舞台調なのかもしれないが、わしらにはわからない。
◆物語の半ば――久しぶりに「愛せる」と思った職場の男レイ(グレッグ・キニア)に裏切られたあと、友人の編集者リズ(マリサ・トメイ)にコラムへの執筆をたのまれ、図書館でネタ探しをするうちに、『ニューヨーク・タイムズ』の付録で読んだ「牛は同じ相手とは2度と性交しない」というアイデアを見つけ、同感し、それを男と女の関係に応用して老婦人の写真と「マリー・チャールズ博士」という偽名で発表する。しかし、牛の種付けシーンのショットをまじえながらの物語も、あまり面白くない。別に意外な感じはしないからだ。
◆会社ではそしらぬ顔をしているオフィスラブの話でもあるが、職場でのごまかし方とか、バレそうになるところとかが、いかにものパターンで、全然笑えない。大体、男は、どいつもこいつ――といっても、レイのほかにはヒュー・ジャクソン演じるエディという、女と日替わりでつき合い、「人生はエンジョイすることだ」と割り切っているというありがちなスタイルで設定されている。そいつのロフトへ行って洗面台の扉を開けたら、「Trojan」の名が見える箱がびっしりはいっているなんてシーン、笑えるかね? ちなみの、これはコンドームの有名銘柄である。
◆エディは、ミートマーケットの(おそらく)すぐ隣の建物の階上に住んでいるように映画では見える。その1階には、『コヨーテ・アグリー』風のバーがある。たしかこのバーもミートマーケットの近くにあったはず。
◆アシュレー・ジャドの演技は、群を抜いている。レイといっしょに生活することになり、見晴らしのいいアパートを見に行き、もりあがったところで、これまたありがちなパターンで、ジェーンはどんぞこに落とされる。レストランにいる2人。料理が出始めたところで、ジェーンが口を切る。「どうだった?」「それが・・・」よくありがちなパターン。レイは、前の女に話がつけられなかったのである。この設定は安いとしても、「出て行って!」とレイをレストランから追い出した彼女の演技はやはりアシュレイでなければできない。
(FOX試写室)



2001-08-02

●青い夢の女(Mortel Transfert/2000/Jean-Jacques Beineix)(ジャン=ジャック・ベネックス)

◆「8年の沈黙を破って」という前宣伝に期待して行ったが、かなり裏切られた。映画にとって、精神分析は落とし穴である。なぜ映画人は、裁判シーンと同じように、多くの場合退屈なフロイト的精神分析療法のシーンを映画にするのだろう? ウディ・アレンにとっては、それはつねにパロディ化されていたが、この映画では(分析医が先輩の分析医にかかるという設定があるので、分析自体が皮肉にとらえられているとはいえ)仰々しい寝椅子に患者が横たわり、傍らで精神分析医が話に耳をかたむけるというシーンが、本気のリアリティで描かれる。
◆映画の進行時間は交錯しており、映画は、分析医のミッシェル(ジャン=ユーグ・アングラード)がある深刻な悩みをいだいて先輩の老分析医ズリボヴィッチ(ロベール・イルジュ)の分析を受けるシーンからはじまる。すべては、語り(分析の告白)とともに進むから、映画の時間とリアリティは、相対化されている。事件は、ミッシェルが、蠱惑的な女性オルガ(エレーヌ・ド・フジュロール)の告白をきいているうちに眠ってしまい、目覚めると彼女が死んでいたというもの。話をきいているうちに眠ってしまうシーンは、なかなかいい。同じパターンが、彼の話をきくズリボヴィッチにも起こる。眠りと記憶の関係を喚起させる。
◆冒頭のクレジットのバックの絵が目を引くが、以後、絵画的な画面構成は一貫している。ベネックスは、1994年にドキュメンタリー『オタク』を撮って以来、絵に熱中してきたというが、この映画の画面の一つ一つがある種の絵であり、随所に見えるそれぞれに意味深の絵画もこの作品のスタイルになっている。特に、雪がつもった路上のショットとか、夜の街頭のシーンがすばらしい。それらは、この映画を素朴な「日常的現実」からシュールリアルな映画的/物語的現実に観客を連れていくはずだが、それが壊してしまうのは、ベネックスがユーモアのつもりで挿入するアクションとプロトの安さである。
◆ミッシェルが、女の死体を患者用の寝椅子の下に隠し、別の患者の話をきいていると、女の腕がびゅーんとはみ出してくる。ミッシェルは、あわてて足(赤い靴下がおしゃれな画面を作る――ここはいい)で押し込む。この安いアクションが何度もつづく。同じような設定が、死体を車にのせようとして、凍て付いた道路を滑らせるとすんなり車のところまで死体がすべっていく等々。こういうのは、笑うに笑えない。
◆女の死体を隠そうとして墓地に行くと、墓石のうえにゴムの安いダッチドールを寝かせ、ガンガンラジカセを鳴らしながらセックスしているDJ(だという)男(リトン・リブマン)がいる。このシーンは、ちょっとシュールな感じを出しているが、まじめな冗談の感じで、いただけない。
◆精神分析をテーマにするとき、最悪なのは、問題を幼児体験に再帰させることである。これは、精神分析としても幼稚すぎる。ミッシェルは、幼いとき、両親のセックスシーンを見て、ショックを受ける(どのようにかはあいまい)。みやげをくらない父がめずらしくくれたキリンの人形の首が、ある日、誰がやったのかとれてしまい、父、母、自分への懐疑が昂進したことが記憶の底にある。首を締めることへの潜在的欲求?
◆オルガはなぜ死んだのか? 実際に死んだかどうかはわからないが、ミッシェルが眠りにおちたときに寝椅子の上のオルガの上にまたがって首を締める腕が次々に変わったように見えた。最後は、毛むくじゃらな、やや色のついた腕だったように思える。オルガがミッシェルのもとを訪れるとき、いつも向かいの道路からながめているホームレスっぽい男は、おそらくアラブ系だろう。彼がオルガを殺したという話は一度も出てこないが、次第にわかる彼の特殊な位置からすると、彼が犯人でもおかしくない。そういう推理をしていくと、この映画は、若干奥行きが出てくる
◆オルガは、マゾで、政治家でサディスティックな夫(イヴ・レニエ)となれあっているが、ミッシェルには、夫の暴力を悩みとして話す。
(徳間ホール)



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