粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-09-18_2

●バレット・オブ・ラブ(Bullets of Love/2001/Andrew Lau)(アンドリュー・ラウ)

◆B級の作りだが、不思議な味のある作品。が、この映画は流行らないだろう。というのは、宣伝担当がダメだからである。背の高いガングロの女性がやっているらしいのだが、やけに態度が大きい。傲慢というのではなく、単に知的でなく粗野であるというだけのことなのだろうが、こういうのはもう宣伝担当としてダメ。
◆瀬戸朝香を見直した。大器かもしれない。もし、この映画が海外の目ききの監督やプロヂューサーの目にとまれば、国際的な作品のオッファーを受ける可能性がある。ものおじしない態度、相手をしっかり見てしゃべれる「日本ばなれ」した姿勢、流暢ではないが、自分のアクセントをもった英語(映画中の中国語、特に裁判シーンの、は吹き替えだろう――ときどき口があっていなかった)。
◆麻薬特殊部隊の長であるサム(レオン・ライ)が、麻薬密売グループ(おそらく台湾マフィア)のデイ(リチャード・サン)の指示で恋人のアン(瀬戸朝香)を殺される。彼女は、逮捕されたデイを訴追する担当検事(英国式の帽子をかぶっての法廷シーンは、さまになっていない)だった。
◆マフィアとの抗争・銃撃戦ち、アンとサムの愛のシーンがバランス悪く交錯するように感じられるが、なかごろから慣れてくる。こういうスタイルで作ったのだろう。恋人を殺されたサムが、警察を去り、大澳の漁村で暮すシーンでも、非常にローカルな感じが生き生きと描かれる。サムの仲間は、飲み屋兼レストランのような店の2階を根城にし、そこでヒップホップ的なバンドをやっている。中国語のラップがなかなかいい。店主の息子(?)アフー(ン・チー・ホウが熱演)は、「知恵遅れ」のタイプで、心配した親が全身に入れ墨を入れた。もうダライラマのような顔をしたオッサン顔なのだが、無邪気でおもしろい。この彼が似たような女性(ド近眼のメガネをかけている)を見つけ、結婚する。結婚式のシーン、初夜に向かうシーンなど実におもしろく、この2人のエピソードだけでも1本のドラマになるような密度で描かれる。
◆この港町で、ある日、サムは、アンと瓜二つの顔をした女性ユウ(瀬戸朝香)を発見する。その女性は、写真を撮りに来ている「日本人」で、中国語はたどたどしかった。彼女が、「日本の出版社が借りてくれた」というアパートで彼に入れてくれるミルク紅茶は、かつてアンが入れてくれたものと同じだった。グラニュ糖をスプーンに入れ、3杯目を指でスリキリにする仕草もそのままだった。奇妙な符号に胸を打たれるサム(このシーンは、そういうことがあってもいいなというような思いを観客にもあたえるはずのなかなかいいシーンなのだが、やがて、そういうロマンティシズムも脱構築される)。
◆香港映画特有の暴力性に、たくみに古典中国的な幻想物語の要素(そう見せかけて、そうではないのだが)やローカルな要素を、サムがアンに作ってやった麺のように、複雑に混ぜ込んでいる。
(ギャガ試写室)



2001-09-18_1

●かあちゃん(KAH-CHAN/2001/Kon Ichikawa)(市川崑)

◆最近の映画を見慣れていると、この映画の台詞まわしが、一つの映画スタイルであることを忘れ、下手な台詞の映画だなと思うかもしれない。そういうスタイルとしては、若干洗練されていないところもあるが、そう見ないと面白くない。要するに、誰かがしゃべっている場合、それが必ずしも、誰かが誰かに向かって話される言葉ではないということである。冒頭、猛烈なあばら屋(よくぞこれほどのあばら屋をセットとして作ったと思われるほど)の戸を若い男(原田龍二)が開け、「誰もいませんか、いませんね、入りますよ」と、落語の泥棒の台詞まわしで入ってくる。以後、あれこれ、独白するが、これは、内的独白を含んだ独白であって、人が普通、独り言を言うのをそのまま「再現」したものではない。このスタイルは、すべての登場人物に言える。飲み屋の常連(江戸家子猫、コロッケ、春風亭柳昇、中村梅雀)の文章を読んでいるようなスタイルも同じ。新藤兼人のような人がいまやると、えらくダメな台詞演出だと思うが、市川は、「古典的」技法をある程度いまによみがえらせている。
◆時代は、天保末期、水野忠邦の改革が成功せず、世は飢饉にあえいでいた。そんな時代に、時代に飲まれずに生きていた家族があり、それを切りまわしているのが、「かあちゃん」ことおかつ(岸恵子)だ。夫は死に、4人の息子と1人の娘が、働き、しかも貯金をしている。それは、長男の大工仲間が生活苦からちょっとした盗みを働き、とがめを受けとので、彼が牢から出て来たら、新しい仕事が出来るように金をためておくためである。このへん、映画を見ているときは、わかった気がしたが、いま考え直してみると、色々疑問がわいてくる。が、この映画は、落語や講談のディスクールで構成した「人情」映画なのだと考えると、わからなくもない。
◆セピアっぽく光度を落とした映像はすばらしい。
◆取り立ての厳しい大家を演じる小沢昭一は、ずいぶん枯れてきて、いい味を出している。そのせりふをコロッケが真似るシーンも秀逸。
◆原田龍二のイントロのシーンのあと、岸恵子が登場するのだが、左の顔を斜め上から撮った岸の顔には、甘みをおさえた、リンとした厳しさが張りつめていて、しっかりものの雰囲気をうまく出す。この人の「お嬢さん的」なところは、この映画では極力おさえられている。といって、味気ない賢夫人を演じているわけではない。まあ、キリンの瓶ビールぐらいの感じか。
◆日本には、いっしょに泣きあって、意識を共有する文化というものがあるらしい。牢から出てきた源さん(尾藤イサオ――適役)を迎えてささやかな宴を開くシーンが典型だが、泥棒に入ったのに、めしを食わせてくれて、一家の仲間にしれくれたが、疑心暗鬼の生活を送るうちに、最後におかつを「かあちゃん」と呼ぶシーンは、観客ともどもそういう意識の共有をさせようという仕掛け。
◆この映画で、いまの「経済」との関係で面白いと思うのは、「かあちゃん」の家族が、単に倹約をして金を貯めているのではなく、全員がなんらかの仕事をすることによって金を貯めていること、そして、金を貯めるために「長屋つき合い」のようなものをカットしていること、日々、それほどひどいものを食ってはいないこと・・・(倹約と称して食を細くするのが、日本の常道だったが、そういうのはダメなのだ)。それにしても、日本は、やっぱり「とうちゃん」ではなくて「かあちゃん」なのか?
(東宝試写室)



2001-09-13

●リベラ・メ(Libera ME/2000/Yang Yun-Ho)(ヤン・ユノ)

◆新宿の火災を気にしてか、配給の人が、挨拶のとき、「火災の映画ですが、消防庁とタイアップしてますので・・・」と言った。「タイアップ」とはどんなタイアップなのかと思ったが、すぐに場内が暗くなった。ニューヨークのワールド・トレード・センターへジャンボジェットの突入、崩壊という映像を見て10時間ほどの目でこの映画を見ると、歌舞伎町の火災よりも、そちらの方とこの映画のシーンがだぶってくる。テロリズムという観点とも重なる部分もある。
◆妙にくぐもるようなリズムを持って進むのが気になるが、やがて、それは、この映画が描く人物が受けた傷と無関係ではないことがわかる。
◆消防士の勇敢さを描いた映画ではない。韓国では、消防士は警察官や軍人とくらべて社会的地位・待遇が低いらしいが、消防士の悲哀を描いたわけでもない。彼らの厳しい日常、チームワーク、仲間意識、紅一点として働く女性消防調査員が描かれるが、それらが主題ではない。放火が大きなテーマだが、それだけではない。じゃあ、何なんだ?
◆ヒス(チャ・スンウォン)が出所するシーンから始まるように、この映画は、ヒスの物語である。出所まえ、いやらしい目つきでヒスの身体にさわり、出所したら会いたいものだというようなことを言う看守。が、ヒスが、刑務所の外に出た瞬間、所内のボイラーが爆発し、おそらくその看守は命をうしなったと想像できる。ヒスはボイラーに何を仕掛けたのか?
◆消防署と危険な消防活動のシーンになるのは、このイントロ以後である。猛烈な火災に、民間人や仲間を助け、自分は命を失う隊員。恋人を失う女性調査員ミンソン(キム・キュリ)。猛火を恐れず勇敢に働くサヌ(チェ・ミンス)。それぞれに印象的な隊員たち。やがて、この火災の火元にヒスの存在が浮かんでくる。が、この映画は、消防隊員に次々に卑劣な困難をつきつけてくる放火魔と隊員の闘いのサスペンスでもない。ヒスがなぜ放火魔になったかを次第に明らかにしていくが、それが明らかになればなるほど、観客は、問題の深刻さに頭をかかえざるをえない。ヒスが捕まえられるようなことでは解決しない問題の深さを知るからである。
◆ヒスは、父の虐待のもとで子供時代を送った。姉は、父の虐待を止めるために、細い路地にまいたガソリンに火を放ち、父を道連れにする。ヒスの目の前で起こった衝撃的な出来事が、ヒスの意識によみがえる。おそらく、このことから精神病院に入るが、ここで、彼は放火に深入りしはじめる。
◆病院のシーンで、自分の手を無表情にアイスピックで突き刺しはじめる子供の姿がある。これは、ヒスの子供時代とダブっているはずだが、衝撃的なシーンである。
◆ヒスが、次々に放火をたくらんでいく課程は、サスペンス映画のテンポとタッチをもっている。消火活動のシーンは、『バックドラフト』などの流れで見ることもできる。が、それぞれ、ちょっとちがうところが、この映画の要点。ヒスが次々に仕掛ける罠は、彼の過去を知るうちに、「卑劣さ」というような言葉では批判しつくせないことがわかる。ヒスとサンウがビルの屋上で闘うシーンも、サンウが最後に「犯人」をやっつけるといった単純な帰結にいたらないところも見どころ。
◆向こうからやってきて、こちらの身体を通過して去っていくタイプの映画ではない。映画だから、向こうから近づいてくるのだが、近づくと、しっかりとこちらに絡みつき、あとまで残るような映画だ。子供たちの目、そしてチャ・スンウォンの目が何かを言いたげに(だが、言えずに)が暗闇に浮んだまま、残る。
(松竹試写室)



2001-09-12

●陰陽師(Onmyoji/2001/Takita Yojiro)(滝田洋二郎)

◆滝田の初めての時代劇。時代を描いてきた滝田が、ここでは、外務省スキャンダルと不況に揺れる「いま」の日本に通じる転換期の様相と、この国の権力制度の根底にあるものを問題にしている。
◆陰陽師とは、中世日本の情報プロフェッショナルであり、安部清明(野村萬斎)はそのなかでも傑出した存在として描かれる。何が「いま」的かというと、彼が組織に頼らず、もっぱら個としての自分だけの力ですべてを解決していくところだ。これに対して、現政権を転覆しようとするもう一人の陰陽師、道尊(真田広之)は、(後半から安部との一対一対決になるまでは)相当数の弟子をかかえる組織の長であり、現政権の参謀的な位置にありながら、陰謀をたくらむ。この映画では、組織を持つとか、陰謀をたくらむとかいうこと自体が「古い」ものとしてとらえられている。
◆しかし、そういうトレンドが、現天皇(帝、天子)支持につながっていくところも、実に「いま」的である。道尊のモットーは、「われ天子を恨むこと絶ゆることなし」であり、つまりは反天皇なのである。ただし、これが、反天皇制である保証はない。彼は、望月の君、帝(岸部一徳)が右大臣藤原元方(柄本明)の娘・祐姫(夏川結衣)に生ませた子をたてまつろうと画策するからである。安部の方は、誰が帝になろうと、都が滅びようと、どうでもいいと口では言い、自分の欲するままに行動し、道尊との闘いも、仕掛けられたから闘っているにすぎない風情なのだが、そうすることが、自然と現勢力の存続につながっていく。結局、安部は、いま求められている官僚の「理想型」をあらわしているとも言える。「安部清明よ、いざいでうよ」か?
◆長岡京を10年たらずで平安京に遷都したのも、長岡京の造営長官・藤原種継の暗殺の容疑者として捕らえられ、不遇な死をとげた早良親王(亡霊という形で萩原聖人が演じている)の呪いを回避するためであった。しかし、その呪いは、なかなかおさまらず、しかもその呪いを利用して現政権を倒そう、あるいはその霊をよみがえらせて都に暗雲をひろげようと画策する者がいるというのが、この物語(夢枕獏)と映画のテーマだ。
◆日本の歴史は、権力闘争や陰謀でおとしめられた者たちの恨み(「呪」=しゅ)を気にする歴史である。靖国神社もその流れのなかで建立された。落ちる者は落ちよとばかり、恨みなど気にしない歴史もあるわけだが、日本の歴史の「主流」はこれでやってきた。他の国々よりも、非業な最後をとげた者が多いとは思えないが、「鎮魂」は日本の権力操作のなかでは欠かすことができない。権力のこの「心優しさ」が、「甘え」を生み、不徹底な社会制度をささえてもいるのだが、そのおかげで「いいかげん」で「あいまい」な日常をおくることができるという一面もある。
◆恨み、怨念を気にするということは、陰謀や策略に対して負い目を感じることである。つまり、闘争し、相手を倒すことを正当、勝敗に負けた者が滅びるのは自業自得だとする考えからすれば、敗者の恨みなど気にする必要がない。しかも、それを鎮魂するということは、不当な敗者の復権ではなく、不当に敗者にしたことを神秘化することだから、この曖昧さは、一つの権力文化なのである。
◆野村萬斎は、さすが声がしっかりしている。真田広之は、安定した職人的演技で特に新しさはない。伊藤英明は演技にばらつきがある。元「SPEED」の今井絵理子は、アンドロイド感覚を出して好演。薄幸の祐姫を演じる夏川結衣はセクシー。早良親王を愛していたが、人魚の肉を食して不老不死になり、平安京の時代まで生きのび、安部清明をサポートする青音を演じる小泉今日子は、滝田好みの女優。今回はそれ以上でも以下でもない。岸部一徳が滑稽に演じる帝を見ると、この映画が必ずしも天皇制を肯定しているわけでもないことがうかがえる。
◆道尊が早良親王の霊を呼び覚まし、都に暗雲がたちこめる(おおかたのCG処理はそれほど気にならないが、このシーンだけはいただけない)と、人々がとたんに鬼になるのが面白い。そうか、世の中が悪くなると、人は鬼になるのか、と思った。いまは、その意味で、鬼だらけの時代か?
(東宝試写室)



2001-09-10

●クローン(Impostor/2001/Gary Fleder)(ゲイリー・フレダー)

◆台風接近で早帰りするサラリーマンとは逆に試写室に向かう。乗ってくる人の方が多い車両の流れに逆らって降りるのが大変。隣の人もそういう感じで飛び込んできたのだろうか? でも、ハナをするるのはやめてもらいたいなぁ。
◆ゲイリー・シニーズが出演し、フィリップ・K・ディックの原作にもとづくというので、期待したが、安手のイントロシーンに嫌な予感。
◆時代は2079年、異星人ケンタウリの地球侵略が進み、人間は、(特権的な人間は)シールド場で攻撃を避ける巨大な安全カプセルのようなもののなかで暮している。1950年代的なマシーン・テクノロジーを過剰に強調し、ジョージ・オーウェル的な超管理社会を押し出した感じの設定は、戦争状態なのだから当然か? が、何か古いし、安っぽい。原作がフィリップ・K・ディックだからというのは、それをいま映画化するのだから、言い訳にはならない。が、情報技術が行き詰まると、結局こういう方向へ行くのか?
◆異星人は、人間の記憶を盗み、その人間とウリ二つの身体(が、心臓の内部に爆弾を仕組んである)に記憶を移植し、人間のもとにしのび込ませる。この「ニセモノ」(impostor) は、自分が「人間」だと思い込まされており、そうであることを証明しようとする欲求もインプットされている。
◆作りが安いと思うのは、ホラー的なシーンが多いからだ。異星人の技術が高度で、心臓を取り出してみなければインポーザーだかどうかわからないというので、その心臓を取り出すのだが、容疑者を寝かせると上から4つの歯が恐ろしい音を立てながら下りてくるというしろもので、麻酔もせず、飛び出す血液にも無頓着に胸を抉るのである。しかし、取り出した心臓からは青い光を放つ爆発装置が見つかる。もし、「高度な技術」が用いられているのなら、爆発装置は肉と一体になっているとかして、決して、こういう形では発見できないのではないか? これでは、まるで吸血鬼を退治するのに心臓に杭を打つのようなもの。また、異星人がそんにに技術的にすぐれているのなら、爆発装置で相手を殺すような原始的なことはしないだろう。
◆森に墜落した宇宙船というのが、この物語の最後の鍵になっているのだが、映画のシーンでわかるように簡単に近づけるようなところにあるのに、森で火事が起きているとか(テレビで)報じ、そのなかにあるものをチェックできないようにしておき、映画の最後で、火事が治まったということで近づけるようにする、安手な計略的なドラマ進行はいただけない。
(メディアボックス)



2001-09-07

●冷静と情熱のあいだ(Calmi Cuori Appassionati/Isamu Nakae)(中江功)

◆イタリア観光サービス映画だが、金城武によく似た竹野内豊とケリー・チャンが「国籍不明」の雰囲気を出していて、何とか見れる。フィレンツェで修復士の修業をするときの先生役のヴァレリア・ガヴァッリも悪くない。修業士生仲間を演じる椎名桔平も、外国で会いたくない日本人の雰囲気をよく出し、金持ちのボンボンのような感じの金持ち「実業家」を演じるマイケル・ウォンもそれぞれにありがちな「型」を演じている。その意味ではテレビ的な映画だ。が、CMではサマになるユースケ・サンタマリアが浮いてしまうのは、やはり映画だからか? 演技はこいつが一番ダメだった。
◆この映画に基本的にダメなところは、ひとつのシーンなりシーケンスを撮るとき、目的意識を持って撮るところだ。たとえば、竹野内が自転車に乗ってフィレンツェの路地を走っているとき、何か不自然に自転車の車輪を見たりする。結局、チェーンおかしいということになり、自転車を止めて調整することになるのだが、走っているシーン自体からは、チェーンがおかしいという感じは直接感じととれない。テレビなどの省略技法として、刑事が電話を取り上げ、「え、殺し、渋谷のアパート? 腹を刺されて部屋中に血?」とおうむ返しに間接描写をするように、竹野内が身体を不自然に動かすことによって省略しているわけである。目的は、チェーンを直して地面にうずくまっているのを、遠方にいるあおい(ケリー・チャン)に偶然見つけさせるためなのである。彼と彼女とは、10年まえに東京で恋人同士だった。彼の子を宿したのを無断で堕ろしたというので彼が怒り、別れてしまった。彼女が妊娠したころを話さなかったのは、彼の父親の画策があった。有名画家(松村達雄)の遺産の分散を恐れ、密かに金を渡して堕ろさせたのである。この映画には、色々細々した各人のかかえる「事情」があるが、もっと整理してカットした方がよかった。
◆10年前に別れるとき、他愛もない感じでした約束――あおいの30歳の誕生日にフィレンツェのドゥオモのクーポラで待ち合わせる――を実現するというのが大詰めだが、この約束をするシーンが冒頭に出てくるし、その後も顔をフィレンツェの出会い以後、実業家の恋人としての彼女と顔を会わすわけだから、メロドラマ的にも効果は薄い。もっとも、この映画のクライマックスは、そのあとだから、そのシーンはあまり盛り上がっては困るのかもしれない。
◆一つ関心したのは、過去のあなたを未来のあなたにして相手の前に登場させるには、生まれ変わらなくてもいい、相手が急行でミラノに行ったら、特急で追い越し、15分先にミラノに行って相手の前に姿をあれわせばよいのだ。
(東宝試写室)



2001-09-03

●ソード・フィッシュ(Swordfish/2001/Dominic Sena)(ドミニク・セナ)

◆最初に出るワーナーのロゴにデジタルノイズっぽいエフェクトをかけ、ここまではロゴ、ここからは本編といったやりかたをせず、ジョン・トラボルタが「独演」をするアップにあ入る出だしに好感と期待。その期待は、後半、やや裏切られるが、あちこちに暗示的なレフェレンスをちりばめた作りで、楽しめた。
◆トラボルタは、まず映画の話をする。ハリウッド映画の大半はクソだが、最高の部類に入るのは『狼たちの午後』だ、と。が、あの映画にも欠陥がある。それは、アル・パチーノが警察に投降せずに、人質を撃ち殺して逃げきらなかった点だ・・・。カメラが引くと、彼は、人質をとってたてこもる銀行になかでこの話をしていたことがわかる。そして、すぐに警官との緊迫した取り引きのシーンなる。そして、一人の人質の身体につけられた爆弾が爆発し、保護しようとした警官もろともふっとぶ。
◆話が4日前にとび、ロサンゼルス空港にフィンランドから一人の男がやってくる。彼は、やがて、ある企みをいだく謎の男ゲイブリエル(ジョン・トラボルタ)に呼び寄せられたフィンランドのハッカーであることがわかる。ところが、面白いのは、その人物の名前だ。何と、アキシル・トーヴァルズというのだ。フィンランドにこの名が多いのかどうかは知らないが、ハッカーで「トーヴァルズ」ときたら、まず思い出すのはあのLinux の創始者リナス・トーヴァルズである。脚本のスキップ・ウッズがこのことを知らなかったはずはない。とはいえ、このLinux 氏は、空港で拘束され、サイバー犯罪取締官ロバーツ(ドン・チードル)に尋問に秘密をばらしそうになったので、ゲイブリエルの部下に殺されてしまう。ロバーツとしては、自分のテリトリーで巧みに殺されたのだから、腹の虫がおさまらない。が、この映画は、刑事対犯人の追いかけっこというパターンを踏まない。
◆シーンは、テキサスにとぶ。廃物が散乱する場所で男(ヒュー・ジャックマン)が暇を持てあましたような顔でゴルフをしている。そこへねちっこい女(ハル・ベリー)が来て、気を引こうとする。男はすげなくふりはらおうとするが、娘の誘拐まで暗示され、札束のつまったバッグを受け取り、ある約束をさせられる。男の名は、スタンリー・ジョブソン(ヒュー・ジャックマン)。全米1の腕を持つハッカーという設定。
◆冒頭からハッキングの話が出て、期待したが、ハッキングに関しては奥行きがない。128ビットの暗号パスワードだなんだとか、「ワーム製作ツール」だとか、モニターがずらりとならだコンピュータの設備を見せられてスタンリーがやる気になるシーンがあるが、本当のハッキングの手並みが描かれるわけではない。ここでも、パスワードは数字だけでつくられている。恋人や娘の命がかかっているかぎられた時間内に、キーボードを叩き、ハッキングをやりとげるようなシーンは火現実的だ。
◆作中人物同士のだましあい、観客の目をあざむく逆転があるが、それほど驚かされないし、『スティング』のような楽しみにも乏しいのは、ゲイブリエルに、変な使命(じょうだんとしても)が課せられているからではないか? 彼は、世界のテロリストを撲滅することを「使命」にしているらしいが、テロリストにも「善人」にもなりきれないというところが、この人物の特性を弱くしているし、口先ほどでもないじゃないかという印象をあたえる。
(ワーナー試写室)



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