粉川哲夫の【シネマノート】
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2001-11-30

●バンディッツ(Bandits/2001/Barry Levinson)(バリー・レビンソン)

◆視点がけっこう凝っていて、楽しませる。最初、「お泊まり強盗」(sleeping bandits)犯へのインタヴューと事件の一部始終を取材したテレビ番組を見せるかのように、しかも、ストーリの最終場面を最初に見せてしまい、そこから回想的にさかのぼるかのようにスタートし、途中にも「回想」シーンであるかのようなシーンが挿入されるが、終盤でひとひねりある。『スティング』的な意味でのスタイリッシュな作品。
◆ジョー(ブルース・ウィリス)とテリー(ビリー・ボブ・ソートン)は、それぞれ、一方が腕力があり、切れやすく、そのくせ老子や三国志に入れ込んでいる、他方が知的でウディ・アレン的に神経症的といった、単純化された性格で登場する。彼らの銀行強盗の手口は、支店長の家に前夜に押し入り、家族と食事をして(最初の方のこのシーンが実に愉快)、朝支店長といっしょに「出勤」して金を奪うといもの。そんな強盗をして逃走中に車を奪おうとして乗り込んだ車を運転していた女性ケイト(ケイト・ブランシェット)が、仕事中毒の夫との生活に愛想をつかして、やけっぱちなドライブをしていたところだったので、ピストルをつきつけられても、「ああ、殺してよ、死ねるものなら死にたいわ」と言い、2人が面くらう。そして、奇妙な「ジューとジム」的逃避行が始まる。
◆動と静のバランスを意識した演出。ジョーが刑務所で乱暴なボクシングを見せるかと思うと、老子の一節を口ずさんだり、車を奪うときに、ふっと「紳士的」な優しさを見せる、テリーが料理に鋭い味覚を発揮したりする一方、頭のなかに腫瘍があると騒ぎまくるように、また、脱獄と銀行強盗/逃走のアクション・シーンがある一方、ジョーとテリーとケイトが海をながめているゆったりした「癒し」志向のシーンがある。このバランス感覚がなかなか面白い。
◆ケイトが、夫のために料理をしているシーンで調理道具を持ちながら歌い、身体をゆするシーンがなかなかいい。ケイト・ブランシェットはダンスがうまいのだろうか?
◆仲間であること、パーティシペイションの意味、一人の女が2人の男を愛することの新しさ・・・。
◆この映画でも、yesの代わりにpositiveというシーンがあるが、最近、no=negativeとともに、この言い方によく出会う。
◆何でも取材し演出してしまうマスメディアをやんわり批判しているところもある。
◆銀行のシーンで、支店長が一番に出勤し、行員たちにドアを開けてやって、迎えるというシーンがあるが、アメリカの銀行は、トップが先に出勤するのだろうか? わたしは、ゼミではいつもあとから来る学生にドアをあけてやるが。
(FOX試写室)



2001-11-27

●スパイ・ゲーム(Spy Game/2001/Tony Scott)(トニー・スコット)

◆映画の始まる直前にやってきて、たまたま空いていた隣の席につき、服を脱いだり、カバンの中身をごそごそやったりし、あげくはカバンから罐ジュースを出してすする手合いに遭うのは、災難以外の何ものでもない。
◆1991年4月14日から24時間のドラマ。出てくるのは、すべて政治に関わる人間たち。ベトナム戦争時代の上官ネイサン(ロバート・レッドフォード)と彼が推挙した狙撃主トム(ブラッド・ピット)、時代がくだってCIAの要人となったネイサン(この日が引退の日だった)にふたたび抜擢され、CIA局員となったトム、その仕事のなかでトムが情報収集のために接近し、愛してしまう「過激派」アクティヴィストのエリザベス(キャサリン・マコーマック)、そして主要な舞台となるCIA内の会議で姿を見せる長官(ラリー・ブリッグマン)、官僚的な局員チャーズル(スティーブン・ディレーン)、ネイサンの聡明な黒人秘書グラディス(マリアンヌ・ジャン=バチスタ)。
◆話は、中国で捕まり、蘇州(スーチャオ)の恐ろしげな監獄に入れられたエリザベスを、CIAの仕事とは関係なくトムが救出しようとして捕まったのを、ネイサンが救出するというもの。CIA局員がCIAをあざむくとことは、レッドフォードの好みだろうが、アメリカという国は、こういう形で、他国の刑務所が爆撃されたり、突撃隊をさしむけらりたりすることがあるんだな、なんて考えてしまった。アフガン攻撃だって、そんな流れだから。
◆イントロは、たたみかけるようなスピーディな展開。画面の色が荒いのには、理由があった。映画のかなりの部分に、ネイサンがCIAの審問で、テリーとの出会いを語るという形での、過去のセピアとグリーンぽい映像が入るので、そのトーンと合わせるためにわざと画像を荒らしているのだ。
◆9・11のあとでこの映画を見ると、CIAもまた、テロリストへの反撃という名目で、ビン・ラディン的な「テロリスト」の拠点に爆弾を仕掛け、多数の死者を出したりしているくだりが気になる。むろん、それは事実であり、CIAは多くの要人暗殺にも関わってきた。が、今回の事件では、こういうシーンを見ると、アメリカという国は、この程度のこと(?!)で(これは
(日本劇場)



2001-11-20_2

●キリング・ミー・ソフトリー(Killing Me Softly/2001/Chen Kaige)(チェン・カイコー)

◆連日ル・テアトロに来ている。昨日よりは盛況。女性客が多い。が、今日の客は、こちらが座ってPDAを触っていると、いきなり太い脚をぶっつけながら、奥の席に入ってくるようなタイプ。つまり映画慣れしていないのだ。映画の最中も、隣の女性がパっとケータイをつけた。青い光がもれる。何度もやり、今度は、メールを読んでいるらしく、ずっと光がもれっぱなしなので、「気が散るのでやめて」と告げる。が、客も客だが、映画も映画。
◆ハリウッドは、才能を浪費する。これも、監督を中国のチャン・カイコー(陳凱歌)、主役男優をイギリスのジョセフ・ハインズ、主役女優をアメリカのヘザー・グラハム、舞台をイギリス、資本ハリウッドと、アメリカ的グローバリズムの産物。が、つまらぬものを作ったものである。ふとしたことから街で出会ったグラハムとハインズがセックスで燃え上がる話。なら、そのままとことんやるだけにすればいいのに、ありきたりな破局が来る。思わせぶりなエピソードも面白さに欠ける。
◆ファインズは悪党か変質狂の目つきをしているので、出会いのあとで訪れる疑惑(奴は強姦魔ではないか、殺人もしている・・・)がリアリティをもってくる。映画は、最後にどんでん返しをくわせるのだが、あまりにとってつけたつじつま合わせのような逆転で、あきれるばかり。『トゥルーマン・ショウ』でいい演技をしたナターシャ・マケルホーンなんかは、最後のシーンでなんとも気の毒な役をさせられる。これじゃ、なんのキャリアにもならない。
◆だいたい、いまどき、セックス(そのものではなくて)、単にセックスをするということを売りにした映画を作ってもしかたがない。それなら、ポルノを向こうにまわして、それを乗り越えなければならないが、それほどの気迫はない。『愛のコリーダ』の大島渚はその点、先見の明があった。いまどき、どんな映し方をしても、セックス・シーンが目を引くことは難しい。この映画では、部屋に入るなり、服を脱ぎ合って、求め合ったり、山小屋で首に長いスカーフを巻き、その端を壁のフックにひっかけ、ファインズがそれを引っ張りながら、グラハムの首を締め、絶頂の向かうというようなシーンがあるが、なんかバカみたい。これなら、マドンナの出た『BODY』の方がはるかにいい。
◆ばかみたいにやる映画なら、そのむかし、ミッキー・ロークとキム・ベイジンガーの出る『ナインハーフ』(エイドリアン・ライン)というのがあった。これは、一見ばかみたいなのだが、原作の影響で、事実と空想とのあいまいな領域に視点を置いているので、まだ見られた。この『キリング・ミー・ソフトリー』も、グラハムの語りという形式で進むので、ある点では、物語と現実とのギャップを見せているわけだが、そのメディア的ギャップを全く活かしていない。最初、精神分析医にでも話しているかのような語りだが、後半で、それが、ファインズのところから裸で逃げ出したグラハムが警察で保護され、毛布をまといながら、語っているところへ収斂し、それまでの話が、警察での話だったことがわかるが、そこからまたドラマが続き、最後に再び彼女の語りがある。こちらは、一体、どこで誰に向かって語っているのであろうか?
◆音楽が特にせつなくチープ。アリス(ヘザー・グラハム)は、ウエブ・デザイナーということになっているのに、キーボードさばきがおそろしく稚拙。「口マウス」(口で指示して弟子にやらせる)というのがあるらしいから、彼女もその口か?
◆最後のどんでん返しは、見えすぎすぎていて、あきれる。
(ル・テアトル)



2001-11-20_1

●WASABI(WASABI/2001/Luc Besson)(リュック・ベッソン)

◆唖然とした。試写の入りも80%。今回はプロデュースと脚本を担当しているリュック・ベッソンは、ある時期から(たぶん日本への深い関係を持ちはじめてから)『サブウェイ』や『最後の戦い』の監督とは思えないような低俗な映画人になってしまった。
◆名前を出して都市を描きながら、「新宿」にオフィースをかまえる弁護士を訪ねるという台詞のすぐあとで、車が着いた先は、秋葉原なのだ。銀座の「阪急」で買い物しているのに、ホテルに持ち帰った山のような紙袋の腹には「三越」のマーク。ロケーションをわざとでたらめにしてジョークにしているとはとうてい思えない。都市をなめているのだ。当然、映画の撮り方も粗雑になる。
◆「WASABI」というタイトルがどこから出てきたのかと思ったら、秋葉原の中央通りが見える喫茶店(?)でジャン・レノがビールを飲んでいると、店員が(たぶん注文したのだろう)皿に山ほど盛り上げたワサビを持ってくる。見たところ生ワサビをすったもの(そんなの出せる喫茶店はないぞ)。すると、レノは、それを指ですくってなめながら、ビールを飲む。いっしょにいる相棒(ミシェル・ミューラー)がまねをしてヒイヒイ言う月並みな設定。ただそれだけの話。要するにワサビの辛さにもビクともしない鈍感な味覚のフランス人がいたというだけの話じゃないか。
◆「新宿」の弁護士に「あなたに娘がいる」と言われて驚いたレノ、「何か飲む? サケ?」と言われて、「サケをくれ」と言うと、弁護士がすぐお盆にとっくりとおちょこをもってくる。これには、場内から笑いがもれた。意外性があっていいが、いかにも外国人の日本だ。
◆監督のジェラール・クラジックのマキズモ的かつ右翼的な気質が加わって、さらに悪い結果になった。冒頭で、レノの腕っぷしの強さと強引さをスケッチするためのエピソードとして、クラブで女装ゲイをなぐって捕まえるシーンがある。その仲間が銀行強盗をするのを吐かせるのだが、2人のゲイは、差別的に描かれた「オカマ」(字幕でこの語を使っている)で、それをレノが殴り、口から血を流す。こういうあつかいには、なんか恨みのようなものを感じて不愉快。
◆広末涼子にとっては、国際デヴューということになるが、彼女には渋谷ギャルは無理。実際にその歳じゃない。いまの渋谷娘は高底靴をはかないから、もっと昔の話か? この映画のなかで広末は、何かというとすぐ涙を流す。以前、この映画のクランクインだったかの記者会見の席で、急に鼻をつまらせ、レノに抱き締められるシーンがテレビに映ったが、この映画にもそれそっくりのシーンがある。こういう幼稚な女のイメージは、海外では奇異な印象をあたえ、もの珍しさという点ではウケるだろう。
◆この映画のなかでジャン・レノだけが、真剣な目つきをしているのが異様。つまり、この映画出演は仕方がなかったということ。レノは、ベッソンに見出された俳優だし、ベッソンにたのまれれば出ないわけにはいかない。他は、ミッシェル・ミューラーのようなとぼけ役で売ればいい設定の役者がそこそこにこなすほかは、3流俳優やフランス語はたっしゃだが演技はダメの日本人をたくさん使う。彼らは、みなフランス語がうまいので、ちょっと奇妙な印象を受ける。「ああフランス語がわかったよかった」というような言い訳が入るのだが、設定として無理だし、彼らは、明らかにフランス在住の日本人だとわかる。
◆そんななかで、日本のヤクザの親分らしい人物を演じているのがヨシ笈田。彼は、笈田勝弘として日本で活躍したのち、ヨーロッパにわたり、ピーター・ブルックのもとで仕事をしたり、独力で国際俳優としての実力をつけてきた人。『あつもの』での日本の評価は遅すぎるくらい。この笈田も、ジャン・レノと同質の真剣な目をして演技している。彼も仕方なく出た。それにしても、顔に3本の縞の傷があり、「ゼブラ」とか゚モ名をつけれれちゃって、なさけない。この親分の手下は、みんな黒のスーツに黒メガネという、まるでシューウエムラの社員みたいなかっこうをしている。こんなユニホームじゃ目立ってしまって、悪いことなどできなじゃないか。
◆おそらく、この映画は、「劇画」なのだろう。ベッソンがどこかで日本の劇画にまちがったアクセスをしていまった。その結果がこの作品。
(ル・テアトロ)



2001-11-16

●アメリカン・スウィートハート(Ameriica's Sweethearts/2001/Joe Roth)(ジョー・ロス)

◆役者はそうそうたるものだが、安っぽいなあ。個々の役者はいい演技をしているが、シナリオが悪いんじゃないか。前半はとくにどたばたどたばたのリズムで、うんざりする。ほとんどテレビだ。
◆最後に、気取って派手なことをやりたい「大監督」クリストファー・ウォーケンが出てくるあたりは笑わせるし、わがままな「大女優」(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)と内気で細やかな「付き人」のジュリア・ロバーツとのあいだで右往左往するゲイで動物フェチの宣伝マンを演じるビリー・クリスタルも面白い。
◆要するに、この映画は、カッコマンと裏方指向の人間とのドラマをジュリア・ロバーツやビリー・クリスタル(こっちはちょっとマイナーだが)のようなメイジャーな役者が演じ、メイジャーを気取るクリストファー・ウォーケンやキャサリン・ゼタ=ジョーンズが結局はボケ役をやっているところが面白い。
(ル・テアトル)



2001-11-13

●ハリー・ポッター 賢者の石(Harry Potter and the Philosopher's Stone/2001/Chris Columbus)(クリス・コロンバス)

◆宣伝の勝利。他はほとんどなし。ハリウッドが、イギリスで、イギリスの俳優を主にして撮ったことが示唆しているように、このドラマは、アングロサクソンの「家庭」物語なのである。実の両親でない「不幸」な息子ハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)を設定し、彼にいっときの「解放」をあたえる。
◆魔術といったって、ハリウッド映画がお得意のアクションそのままで、どこに魔術があるのといいたい。魔術学校で生徒が魔術の能力を競うシーンは、スポーツ競技と同じだし、映し方も同じ。
◆ここで前提されている魔術能力は、先天的・血縁的なものであること、白人のイギリス人の問題だけがえがかれていることに注意すべし。
◆唯一いいのは、ハリーが、指令にしたがって謎の街に迷い込み、そこでジョン・ハートが演じる店主から魔術の道具をもらうシーン。この街以外は、みんな田舎臭いシーンばかり。多少いいのは、ヴィクトリア駅で、魔法の学校へ行く列車のホームを探すシーン。
◆階級制(魔術の学校へはエリートしか入れない)を前提しておいて、ちょっとそれを逸脱させるが、それは、夢のような話だったというお定まりのやり口。
◆暇があったら、書き進めたいといった程度の映画。
(丸の内ピカデリー)



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