粉川哲夫の【シネマノート】
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今月のベストシネマ『光の旅人』


2002-02-28

●友へ チング (Chingu/2001/Kwak Kyung Taek)(クァク・キョンテク)

◆30分まえに着いたが、ロビーには10人以上が待っていた。配給会社の人があわててやってきて、資料を準備する。すると、サングラスをかけたおじさんが、彼女の到着の遅れに文句を言う。おお怖わ。
◆たぶんこの映画は、ジュンソク(ユ・オソン)、ドンス(チャン・ド・ゴン)サンテク(ソ・テファ)、ジョンホ(チョン・ウンテク)の4人の「まぶだち」が、大人になる時間のへだたりのなかで、それぞれの道を歩み、かつての友情、「親旧」(チング)が変わってしまうのを、インテリの道を歩んだサンテクが懐かしむ――といった意味で取られるだろう。むろん、そうしたノスタルジアもある。が、韓国映画には、つねにある種のモラリッシュな主張と「勧め」がある。その意味では、この映画は、幼いときに芽生えた友情=「親旧」を、時代がどんなに変化しても維持しつづけることの重要性であり、その事例的なドキュメントである。
◆描かれる時代は、1976年(朴政権の窒息した時代)、1981年(自由化とマスメディアの時代)、1990年(バブルの時代)、1993年の4つのピアリオド。この間に韓国は大きく変わった。面白いのは、この時代の変化が、まさに日本が1945年から1980年代に経験したものに似ていることである。1976年のシーンで、4人が煙を吐く(何だろう?)車の後を追って走って行くシーンは、そのとき映る町並みとともに、日本の1940~50年代と重なる。父親が日本と商売をしているジョンホの家にはゲーム機やVTR機があり、みんなでこっそりポルノビデオを見たりしているが、これは、標準ではない。1981年になっても、まだ日本の「戦後」にあたるものが残っており、4人が通う高校(?)では教師によるビンタが日常茶飯である。他方で、テレビが浸透し、日本の70年代的な状況も混在する。1990年になると、ヤクザの道に進んだジュンソクとドンスの身なりが、日本の1980年代に広まったブランド指向を思わせるものとなる。
◆親の代からヤクザのジュンソクと父親が葬儀屋で、やがてヤクザの道に進むドンスの対立が描かれるが、2人の関係は複雑だ。ドンスは、ジュンソクの父親を殺す事を教唆され、父親は死ぬが、実際にドンスが手を下したかどうかは映画では描かれない。また、ドンスが属する組とジュンソクの組との対立がエスカレートし、双方で「出入り」があるが、少なくとも、ジュンソクは、ドンスへの「親旧」を捨てることがない。ドンスは、ジュンソクの子分の手で殺されるが、その死のシーンは、あたかも愛の痙攣が形象化されたような仕上がりになっている。ジュンソクがドンス暗殺容疑で逮捕され、裁判にかけられたとき、あっさりその「犯行」を認めてしまうのにも、ドンスへの「親旧」が感じられる。もし、彼が本当に暗殺を指示したのなら、彼は、ドンスへの「親旧」を永遠のものにするためにそうしたのだ。
◆留学から帰国早々、投獄されたジュンソクの刑務所を訪ねるサンテクが示す金網ごしの「親旧」、別れぎわになみだながら言う「また来るよ」は、ノスタルジアなどでなく、「親旧」を持続させようとする硬い意思とモラルがはりつめていて、涙をもようさせる。
◆高校のパンクバンドのクイーン的な存在として登場し、やがてジンスクの女になるジンスクを演じるクム・ボギョンは、魅力的。
(映画美学校第2試写室)



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●アリ (Ali/2001/Michale Mann)(マイケル・マン)

◆大物のわりに入りがいまいちだったのは意外だった。作品は、『インサイダー』よりもさらに「社会派」路線を進んだマイケル・マンの姿勢が明確。9・11事件後アンチ・アラブ、アンチ・モズレムの風潮が強まるいまのアメリカでこういう映画が公開された意味は大きい。
◆映画は、1964年2月24日、夜のマイアミ市内をランニングするアリのシーンからはじまる。パトカーが近づいてきて、「何してるんだ」と誰何する。「ジョギング」なんて言葉がはやっていなかった時代であり、夜道をランニングする黒人はけげんな目で見られた。
◆1964年という時代は、1968年以上に重要な年だったとわたしは思っている。68年はこの時代にミクロなレベルで起こったことを顕在化させたにすぎないとも言える。「ジャズの十月革命」が起こったのもこの年だ。
◆全編にわたって同時代のブラック・ミュージックが使われている(ニュージャズはなかった)。同時代の政治的事件も綿密にちりばめられている。アリとマルコムXとの関係が映画でこれほどはっきりと描かれたことはなかった。窓からアポロ劇場の見えるホテルの一室で2人が会うシーンがいい。この映画のなかではマルコムX(マリオ・バン・ピーブルス)は、常に悩み深きインテリとして描かれる。イライジャ・ムハマッドのもとで体制化するブラック・モズレムとアリ/マルコムの関係も説得力がある。
◆アリにとって、「ネイション・オブ・イスラム」への入信も、徴兵拒否で明確になるような政治活動も、自分の日常的な信念に忠実に生きる過程のなかで必然的に生じたことであった。少なくともこの映画ではそういうとらえかたをしている。
◆アリをサポートし続けたABCのラジオ/テレビ記者ハワード・コーセルを演じるジョン・ボイトの演技はすばらしい。主演のウィル・スミスは相当がんばったと思うが、いつお茶らけるかわからない表情がまだ残っており、クレイ/アリのキャラクターとは一味ちがう。危険さがなく、シリアスさも弱いのだ。脇をかためるロン・シルバー(チーフ・セコンドのアンジェロ・ダンディ役)、ジェイミー・フォックス(ユダヤ系黒人セコンドのブラウン役)、惚れっぽいアリをめぐる女性たちを演じるジェイダ・ピンケット・スミス、ノナ・ゲイ、マイケル・ミッシェル等々、みないい。イライジャ・ムハマッドを演じるアルバート・ホール、その側近役のバリー・シャバカ・ヘンリーは、宗教集団のあやしげな感じを実にうまく演じている。
(丸の内ピカデリー1)



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●ザ・ワン (The One/2001/James Wong)(ジェイムズ・ウォン)

◆夜の試写までの時間をつぶすために見たが、ジェット・リーに好きなことをやらせるためのB級映画。が、いまのアメリカへの潜在的な批判は見える。ここでは、宇宙は125のパラレルワールドからなるマルチヴァース(multiverse)であり、同じ自分が複数の宇宙に存在するということが前提になっているが、その宇宙はどれもみな警察国家であり(冒頭は、POLICEという文字をあしらった服の背中の大写し)、その一つ一つがいまのアメリカの各州をあてこすっている。ある宇宙では、ゴアが大統領をしており、ラオサンゼルス郡という宇宙ではブッシュが大統領をしている。
◆125ある同じ人格のうち、その一つが、「ジ・ワン」を目指して、他の宇宙にいる「自分」を片っ端から殺して歩く。その人格をジェット・リーが演じるので、途中で区別がつかなくなるが、そこがこの映画の面白さでもある。それを回避しようとするマルチヴァース・エイジェント(宇宙国際警察)でも区別がつかないことがある。
◆最後のシーンで、善なるロウレス(ジェット・リー)が妻TK(カーラ・グジーノ)と住むところは「America's Cleaned City」であるのに対して、悪なるユーロウ(ジェット・リー)
(ヤマハホール)は、囚人専用の宇宙に送られる。そこは、ギーガー調の恐ろしげなスラム都市であり、弱肉強食のロジックが支配している。なお、ロウレスとはLawlessであり、ユウロウとは Yulawであり、どちらも「法」(law)と象徴的な関係がある。



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●白い犬とワルツを (To Dance with the White Dog/2002/Tsukinoki Takashi)(月野木隆)

◆最初、木立の揺らぐ音、小鳥のさえずり、空気の揺れといった「自然音」が使われ、後半でも妻の臨終シーンの雨の音、火葬場の釜の音などの「自然音」が効果的に使われている。しかし、感情が深まるシーンになると、加古隆のいかにも放送ドラマっぽい音楽/ピアノが出てきて、矛盾を起こす。
◆この映画も、ある種「計略映画」とでも言うべき要素を持っている。妻の突然の死→悲嘆にくれる夫への同情をかきたてるということが「計略」され、そのためにあらかじめ予備工作がなされる。まず、主人公中本(仲代逹矢)のよぼよぼした声のナレーション。歳のわりによぼよぼしすぎてはいないか? それは、妻に先立たれた男の淋しさを強調するための布石のようだ。彼の持っている杖。これは、妻が庭に倒れているのを発見したときに転んでしまう痛々しさを出すために用意された。また、妻の骨を山奥に埋めに行くシーンで水溜りに転んだり、崖を滑り落ちたりする際の因果律ともなる。こういうやり方はもう古いし、全く現実的でもない。現実は小説よりも奇なものだ。
◆仲代が崖を滑り落ちるときも、(雨が降っていてよかった)コートのフードを立てていて、滑り落ちるときの顔が全く見えない。見えなくてもいいのだが、フードは、スタントマンに役をかわってもらうための布石であることはみえみえ。
◆原作は、アメリカの作家テリー・ケイの自伝的小説。妻が突然死んでから出会った犬との物語で、日本では、その翻訳がベストセラーになった。だが、映画では、内容が大幅にアレンジされている。とりわけ、犬の存在が、面白いことに、神話的なものとなっている。そのため、犬とと「ダンス」するようなシーンはあるが、とても「ワルツを」踊るという雰囲気ではない。これは、夫婦の共通の友人として韓国人の登場人物が設定されたことと深く関係している。韓国では犬は、狛犬(クミン)にもつながる。が、なぜ、こうしたファクターが挿入されたのだろうか? クロージング・クレジットには、シネカノンの名があったが。
◆犬は、最初中本のまえにしかあらわれず、娘たち(南果歩・若村麻由美)や韓国人の順礼(横山道及)には見えない。が、それが、すぐにくずれていく。これは、惜しいことではないか。犬を中本の幻想ないしは特権的存在にし、他者から括弧にくくってしまえば、もっと深みが出た。さもなかれば、妙な小細工はやめ、素直に単なる犬との愛情ある出会いにすべきだった。
◆終わりのシーンは、庭の籐イスに腰をおろしている中本を映すカメラが右に平行パンして行くと、縁側にいる妻(藤村志保)の姿が映る。してみると、いままでのドラマは、老人が籐のイスの上で夢見た出来事だったのかという解釈もできる。しかし、こうした思わせ振りな技法をあちこちに散在させながら、それらを全然活かしていないという印象が残る。
◆お涙頂だいの映画に見せて、そうでないことを狙っているようにも見えるが、妻の死んだあとで、死ぬ前に注文しておいた夫のシャツが通版から届く(ここで音楽)とか、通俗的な設定もあるので、結局は、色々盛り込みすぎて失敗したのが現実だろう。順礼の出来の悪い息子・朴秀一(豊原功補)と次女(若村麻由美)との一件も無駄な感じがする。
(東映第1試写室)



2002-02-19

●そして愛に至る (Après la réconciliation/2001/Anne-Marie Miéville)(アンヌ=マリー・ミエヴィル)

◆タイトルが出るまでのかなり長いプロローグは、黒みをスパッスパッといれる感じなど、非常にゴダールっぽい。『愛の世紀』のデジタルビデオ映像とのつながりを感じさせる。「本篇」に入ると、カメラは落ち着いた感じになり、画面の色はゴダールより華麗。が、せりふを朗読かモノローグ風に言うスタイルは、非常にゴダール的。
◆最近のゴダールをこんなに見れるのは、感動的。ここでもあいかわらず本を読んでいる。老いたことはたしか(鶴見俊輔氏に似てきたのは、本好きだからか?)だが、昔の映画で、アンナ・カリーナを相手に、「薄汚い奴」みたいな言い方で軽蔑されていた役を演じていたころを思い出した。この映画のキャラクターも、決してかっこいい役ではない。ウディ・アレンより先にそうした私小説風アンチヒーロを演じてきたゴダールだが、アレンのようにこういうキャラクターをくり返し、演じたらいい。アレンはだめになってしまったから。
◆イントロの終わりに、「語り手を信じるな、物語を信じよ」というミエヴィルのナレーションが入る。これは、カフカと同じ。カフカの作品では、語り手は信用できない。が、このことは、語り手はどうでもいいということではなくて、語り手自身が登場人物の一人だということ。
◆ミエヴィルの好みだなと思うシーンがいくつもある。プロローグのあと、クレジットがかぶるシーンでは、「女」(ル・フェム)という役のミエヴィルとその女友達カトス(クロード・ペロン)とが長い鞭を振っているのをハイスピードで撮る。色彩が鮮やか。赤(ミエヴィルは外出のときワインレッドのマフラーをしている)へのかなりの執着。
◆一応、女(ミエヴィル)とロベール(ゴダール)という男が生活していて、初対面のカトスがロベールを誘惑しするという愛のもつれ風の流れで物語が展開するが、あまり愛とは関係ないのではないか? 女があまり動じないのが印象的。彼女は、ワインを買いに行って(そのあいだにカトスがロベールに迫る――ただし、そのやり方が滑稽に描かれていて、ロベール自身「そういうのは鳥なら雄の役割だね」と言う)昔の知りあいアルチュール(ジャック・スピセール)と運河のそばで長いキスをし、そのあと家に連れてくる。キスしたこともロベールに隠そうともしない。
◆問題は、「愛」よりも、パロール(語る)ということなのではないか? プロローグで子供にミエヴィルが「パロール」の発音を教えるシーンがある。ここに出てくる子供が「本篇」とどういう関係にあるのかはわからない。原題の「和解のあとで」は、「愛」の決裂・和解ではなくて、言語の和解、すなわち言語はどこまで人と人とを結びつけうるのか、を意味する。「語ることの実践は対話だ」というせりふがあるが、歴史の(存続)の可能性も、語りつぐことの可能性である。プロローグの「現在」が示唆するところは、男と女とのパロールの可能性は捨てられたかも見える。そこには、(物語的には)娘の父親であるはずのロベールは登場しない。
◆過去であるからこそ、プロローグ以後は「美しく」描かれる。
◆プロローグからパリのシーンになり、ミエヴィルとカトスが森から車で来て、ロベールを拾うが、その車にローラースケートの男がつかまり、ずっとくつついてくる(その姿がバックミラーに映る)シーンは、ゴダール的。そのあと3人で本屋に行くが、画面に本のタイトルが示唆的に映されるのもゴダール的。
◆おそらく、ゴダールがさまざめと泣くシーンは、これが初めてだろう。が、彼の目には涙は見えない。泣くということは、「語る」(パロール)の拒否である。このシーンの面白さは、ゴダールが泣く演技をしたということである。映画は、すべて(フィルムに撮られる以上)演技である。演技であることを隠したり、約束事として括弧に入れる映画もあるが、ゴダールは、(かなり「迫真」の演技を見せながら)涙を流さないという点で、アリバイを残した――本当は泣いてないよと。
◆この映画には、映像と映像とのあいだの黒みはあるが、パロールの途絶えた沈黙を明示的に置いたシーンはない。
(映画美学校第1試写室)



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●しあわせ色のルビー (A Prince about rubies/1998/Boaz Yakin)(ボアズ・イエーキン)

◆最初子供の男女が(兄弟らしいがちょっと)何かありそうな雰囲気でベットの上にいるシーンが出る。男の子が女の子に話を聞かせていて、そのなかに「トラー」という言葉が出たので、彼らはユダヤ人だなと思ったが、字幕には「聖書」と出た。2人は兄弟ではなさそう。男の子がいきなり服を脱ぎ、夜の表に飛び出し、消えた。水が怖いというのを自分で克服しようとして出て行ったらしい。
◆いきなりレニー・ゼルウィガー(成長したソニア)のお産シーンになる。そして、じきに、もう正統派ユダヤ人一色の「割礼」のシーンに行く。彼女が演じるソニアは、ユダヤ正統派のラビのための学校である「イエシバ」の学生メンデル(グレン・フィッツジェラルド)の妻で、ブルックリンのボロ・パークにある正統派ユダ人コミュニティのいささか「特殊」な雰囲気に辟易している。実際、わたしも何度か行ったことがあるが、えらく閉鎖的なところである。まだ髪をそってカツラにしている女性もいる。異教徒からの攻撃を恐れて、専用バスを利用する者も多い。この映画は、正統派ユダヤ人社会の男性至上主義、女権の軽視を揶揄しながら、そのなかから脱出する女性の物語である。
◆ボロ・パークのユダヤ人は、長いヒゲをはやし(厳密にはカミソリをあててはいけない)、黒づくめの服をきていとはいえ、正統派の教義にひたすら恭順なメンデルのようなユダヤ人ばかりではない。彼の兄はセンダー(クリストファー・エクルストン)は、ヤミの宝石商を営んでおり、夫に不満を抱いているソニアを、あっさり誘惑し(いきなり立ったままのセックス)、宝石取り引きの仕事をまかせる。ちなみに、ボロ・パークのユダヤ人のなかには、マンハッタンの47thストリートのダイヤ街で店を開いている者が多く、ダイヤ取り引きの牛耳っている。ソニアには、もともと祖母ゆずりの鑑定眼があり、そのうえ商才が潜んでいたらしく、彼女はたちまちこの仕事で頭角をあらわし、47thストリートの「異教徒」による宝石商とコネクションを結ぶ。
◆その店のセコンドをしていたラモン(アレン・ペイン)との新たな出会いが面白い。彼女はあるとき、土産品のなかにきらりと光る装身具を発見する。その作者を知りたいと思って、チャイナタウンやマンハッタンのあちこちを訊きまわる。たどり着いたのは、スパニッシュ・ハーレムの家。そして、母親らしき女性に導き入れられた家の奥のアトリエにいたのは、アーティストのラモンだった。彼は、装身具は本当にやりたい彫刻のためのアルバイトにすぎないというが、彼女は、彼の才能を賞賛する。アーティストをやっていると、いつかは、必ずこういう瞬間(自分の才能を認めてくれるキュレイターやディレクラーのアプローチ)があるものだが、こういうシーンを見るのは悪くない。
◆最初の方に、ホームレスの老婆(キャサリーン・チャルファント)が出てきて、ソニアにほどこしを求める。が、金を渡そうとすると、受け取らずに去る。そのときの雰囲気がただものではないと思ったら、彼女は、その後も、丁度『ブルワース』でアミリ・バルカがやったような預言者的な道化回しの役割で登場する。チャルファントの演技もナミではなく、この映画以後、出演数が増えている。
◆ソニアが悩みを打ち明けに行ったことで、得心した老ラビが、その晩、久しく愛していなかった夫人を愛し、心臓発作で昇天――しかし、その夫人は、「あの人は、アイラブ・ユーと言ってくれたのよ」とソニアに感謝するというユーモラスなエピソード。このへんは、ソニアを利用してきたセンダーのコミカルな退散ドラマも含めて、ジューイッシュ・ユーモアあふれるエピソードである。
◆ソニアがラモンに惹かれて行くにつれて、すべてが変わって行く。自分があまりに家庭をかえりみなかったことに気づくメンデル。そして、1990年代の「普通」のアメリカ人と同じように、大人のセパレイト関係に入っていく。ボロ・パークのユダヤ・コミュニティも変わりつつあるのだろう。
◆『ブリジット・ジョーンズの日記』のレニー・ゼルウィガーに、これほどユダヤ色性格の強い作品への出演があったとは知らなかった。
(東宝試写室)



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●愛の世紀 (Eloge de l'amour/2001/Jean-Luc Godard)(ジャン=リュック・ゴダール)

◆本=存在への執着、沈黙としての(画面の)黒みの使い方、モノローグ的な語り、読むようなせりふはゴダール映画そのものであるが、久方ぶりに撮ったパリは、50年代風。全体として小品の感じ。
◆モノクロの画面に声だけが聞こえる始まり。本の白い(何も印字されていない)ページの本。そのページを繰っている男。やがて、わかってくるのは、映画を作るためのオーディションをしているのだということ。エドガー(ブリュノ・ピュツリ)が、若い女に訊く、「コノセ(知ってる)ヴィクトル・ユーゴ?」。いまの世代には、フランスでも、この作家の名前の存在を確かめなければならないのか?
◆画商のローゼンタール氏(クロード・ベニェール)は言う、「昔の画家は仲間内だけで絵を描いた」。これは、ゴダールが映画を作るときのモティーフであるかのようだ。
◆ローゼンタール氏が万年筆にインクを入れるシーンをアップで撮ったのは、この古典的なメディアへのゴダールの執着にちがいない。ペン、葉巻、本。「謝礼は金ではなく現物では?」と言う現物は、『浮かれ女盛衰記』の1884年版の稀覯本。
◆ゴダールの得意な都市のユーモア:ローゼンタール氏らが車を狭い舗道すれすれにパークして降りつつあるとき、通りがかった女性が「メルシー」と言いながら、コートをはだけると、なかには、黒い下着だけというシーン。
◆「1900年を笑うが、いずれは現代もそうなる」
◆街のベンチで白人の青年と黒人の女性が腰をかけていると、背中合わせのベンチでゴダールが、本を読みながら座っている。
◆本のタイトルや映画のポスターのタイトルに敏感なゴダール:『マトリックス』のポスターもあるが、ガレージのシャッターを開く(カメラは内側)と、なかが明るくなり、壁に貼ってある『りんご』のポスターが映る。これは、かなり意図的。ゴダールの評価。本のタイトルの示唆(たとえば、クリスタ・ヴォルフの『カサンドラ』)は言わずもがなだが、ピアノの銘柄Schimelをなぜクローズアップで見せたのだろう?
◆「読むことと話すこと、そして聞くことを学ばなければならない」とエドガーは、オーディッションの年配の女に言う。
◆クリスタ・ヴォルフの『カサンドラ』の表紙を最後に画面がカラーになるのは示唆的。コントラストを強めたヴィデオによるカラー映像。どこか不安を吸い込んでいる映像。
◆しばしば映画で、「過去」をモノクロ、「現在」をカラーで描くというのが定石だが、ゴダールは、その逆に、現在をモノクロで、記憶・資料・記録(アルカイブ)をカラーで描く。
◆シモーヌ・ヴェイユ(モノクロだが)のアップのポートレイトが出、海面がストップモーションになり、やがて動画になる。その次は、サルトルの『シチュアシオン III』の表紙。
◆アメリカ批判は厳しい。「住民の名前のない国」。
(東宝試写室)



2002-02-08

●コラテラル・ダメージ (Collateral Damage/2001/Andrew Davis)(アンドリュー・デイビス)

◆アメリカの学者と、ハリウッド映画に登場する「悪役」が人種差別と関係があることを話していて、「日本映画では、(いまアラブ系の人が「悪役」に仕立て上げられているように)どういうひとたちが『悪役』になるの?」と訊かれ、口ごもった。考えてみると、日本映画やテレビでは、そのつどの悪役は登場するが、(一定期間)固定した「悪役」は見当たらないからである。逆に言うと、アメリカというのは、ひどい国である。
◆最初に消防夫ゴーディ(アーノルド・シュワルツネッガー)のタフさを描く。そして、彼が火に包まれる悪夢から目覚める妻を描き、例によって、家族との親密な描写が続く。そして、妻とかわいい息子とダウンタウンのカフェで待ち合わせることになる。が、ゴーディがその店の前に遅れて到着したとき、(通りすがりの「警官」に駐車を許してくれるように頼む――その「警官」を印象づける→魂胆を感じる)(何かあるな、というより、当然、そのカフェが爆破されるな、と思うと、案の定)カフェが爆破され、彼の妻子が路上のたたきつけられる。到着があと少し早かったらという後悔(→夫として、親としての責任を印象づける)。あとは、例によって、警察とCIAなどの官僚組織(当然、警察はCIAよりはマシに描かれる)の融通のきかなさが描かれる。映画のタイトルは、CIAの高官ブラント(イライアス・コーティアス)が、ゴーディアに、「ご家族の死は、テロに〈付随的〉(コラレタル)な〈被害〉(ダメージ)です」(要するにしかたがない被害)と言ったことにもとづいている。こうして、こうなれば、自分でやるっきゃないというハリウッド映画おなじみのパターン。
◆今回の「悪役」は、アラブ人ではなくて、コロンビア人。アメリカの侵略で家族を殺され、「コロンビア解放戦線」を結成したウルフことクラウディオ(クリフ・カーティス)。解放運動は表向きで、麻薬製造が本業というありがちな設定だが、ある程度まで、この人物の反米意識への理解を示すような描き方をしておいてひっくり返すところがなかなか手が込んでいる。LAPDもCIAも当てにならないと思ったゴーディは、単身、(消防仲間に紹介された南米ゲリラ通の情報を得て)コロンビアに乗り込む。が、すぐさま現地警察とゲリラの両方に追われる。危機を救ってくれたのは、(ちゃんと救い主が街頭に現れるんです)、自分の妻を思い浮かばせる女セリーナ(フランチェスカ・ネリー)。彼女には、ゴーディの死んだ息子と同年代の息子がいる。
◆おそらく、この映画の面白さは、セリーナの描き方だろう。ネリーもいい演技をしている。コロンビアの麻薬工場を監督している軽薄な感じの男をジョン・レグイザモが、コロンビアで出会い、ゴーディにしぶしぶ情報を与えることになるドジな男の役でジョン・タトゥーロが出演している。
(よみうりホール)



2002-02-05_2

●光の旅人 (K-PAX/2001/Iain Softley)(イアン・ソフトリー)

◆人間の祖先は宇宙人ではないか、われわれの周囲に人間そっくりの宇宙人がいるのではないか、自分もひょっとすると宇宙人なのではないか、わたしは、いまの瞬間瞬間に地球のここと宇宙のあそことの間を光の速度を越えて行き来しているのではないか・・・といった観念はかなり根強くある。この映画はそんな観念とリンクし、不思議な近しさを与え、いまの自分の生活スタイルやシステムへの再考をうながす。
◆ニューヨークのグランド・セントラル・ステーションの雑踏で黒人のホームレスが物乞いをしている。ふと前方を見ると、そこに突然黒いサングラスをかけた髭面の男(ケビン・スペーシー)――『レポマン』で車を運転している「異星人」に似ている――があたかも天から降ってきたかのように立っている。そのとき、突然、通行人の女性がひったくりに遭う。それを見て男が飛んでくるが、犯人は逃走し、まるで彼がひったくりをしたかのような感じになり、取り押さえられてしまう。が、名前や住所を訊かれた彼が、「プロート、地球から1000光年離れたK-PAXから来た」などと言うものだから、ただちに精神病院(Psychiatry Institute of Manhattan)に送られてしまう。
◆PIMで患者とスタッフの信頼を得ている医師マーク・パウエル(ジェフ・ブリッジス)が、新しい患者の到着を知らされ、透視ガラスごしにプロートを見るシーンが暗示的。ガラスに映る彼の顔に、それを見るパウエルの顔が重なり、一つになるのだ。最初から、パウエルは、普段とは違う印象を持つ。実際に、彼は変わっている。強迫観念に悩む老人(デイヴィッド・パトリック・ケリー)、外気を吸うと死ぬと思っている黒人、他人を臭いと言って嫌う元プラザホテルの従業員、自分だけ女王気取りで個室にこもる老女(セリア・ウエストン)等々の患者仲間も、すぐに彼を尊敬の目で見はじめる。この感じは、いわば「貴種流離譚」のパターンではあるが、われわれの意識のなかにはこういうものへの潜在的願望があるので、引きつける。
◆プロートは妄想を語っているのではないのではないかという気持ちになったパウエルが、K-PAXについてのプロートの説明を宇宙物理の専門家にただすと、それが、まだ一部の学者しか知らない未発表の発見であることがわかるシーンが痛快なのも、「貴種流離譚」へのわれわれの潜在的願望がそうさせる。人間は、「進化の初期段階にとどまっており、未来が不確定であることが特徴」といった指摘をするシーンも、「貴人」としての彼がするから面白い。(こういうのを気持ちよく受け取っているかぎり、階級制も天皇制もなくならないかもね)。
◆この映画は、プロートが、「宇宙人」であるということを説得力をもって描いておいて、一転する。パウエルが、ひょっとしてという思いから彼を自宅に招き、家族(K-PAXには家族や結婚という観念はないと彼は言う)に会わせたときに突然見せた発作的な動揺に、パウエルは、催眠術で解明することを試みる。このシーンは、ちょっと安っぽい。これだけの「人間」がこんな簡単に催眠術にかかるはずがないという印象を持つからである。が、とにかく、そこから意外な事実が判明する。彼にはちゃんと故郷があり、妻も子供もいたのだ。だが、この映画は、それで終わらないところがいい。結局、観客は、プロートが、それでもやはり「宇宙人」なのではないかという思いと期待を持って劇場を去ることになる。
◆かつて、ハル・アシュビーの『チャンス』(Being There)が、80年代になって(原作はジャージー・コジンスキーが1970年に発表した)一般化する「メディア中毒」を予見したように、この映画は、ある意味で、今後増えるローナー(孤独を愛しているわけでもないのだが、他者とのあいだにいつも「ガラスの膜」のような距離があり、結婚、家族、集団を嫌う)的な傾向・生き方をスケッチしているかもしれない。プロートは、果物しか食べないヴェジタリアンである。K-PAXの日中は地球では黄昏のような状態だというのでいつもサングラスをかけており、薄暗い部屋が好きだ。PC画面を見すぎた今日人はモニター画面の外は薄ぼんやりしている。「生物には自分を直す力がある」とか、「人間は宇宙の困った存在である」とかいう考えは、今後ますます定着するだろう。そして、そういう状況のなかで人と人とがどう友愛や信頼の関係を持つかということを考えるとき、この映画は、一つの示唆を与えるだろう。
(東京国際フォーラム)



2002-02-05_1

●ぼくの神様 (Edges ot hte Lord/2001/Yurek Bogayevicz)(ユレク・ボガエヴィッチ)

◆冒頭、ハーレイ・ジョエル・オスメントの子供っぽい声のナレーションで「トロ」の回想がはじまる。「それはぼくが11歳のときだった」というその過去形から、トロはもはやいない存在なのかという懸念が走る。実際に、最後にわかるようにこの映画の「主役」は、オスメントより4歳若いリアム・ヘスが天才的に演じるトロのほうだ。彼の演技を見ると、オスメントの演技もワンパターンに見えるから不思議。
◆オスメントが演じる少年ロメックの父は、最初から恐ろしく不安げな表情と目をしている。それもそのはず、この映画は、タイトル前の一連の短いショットから切迫した状況を描く。ナチがポーランドの首都クラクフに侵攻し、ユダヤ人狩りを始めた。父親は、せめても息子を田舎の知りあいにあずけようとしている。ロメックに必死でカソリックの祈りの文句を教え、ユダヤ人であることを隠蔽する知恵をつけようとする。「教授」と父のことを呼ぶその農夫グニチオ(オラフ・ルバスゼンコ)が現れ、担いできた布袋のなかのじゃがいもを床にまく。「教授、急がないと」と彼は言い、最後の決断を迷う母親が錯乱状態になる。時間の緊迫がひしひしと伝わってくる強烈なシーンだ。
◆ロメックは、じゃがいもの袋に隠され、グニチオの馬車でポーランド東部の小村に向かう。袋越しに外を見るロメックの目に、無慈悲にピストルで市民を殺すナチの姿が見えた。その騒ぎのおかげで、ロメックは、検問で厳しいチェックをまぬがれる。村に着いたときのシーンで、集まってきた村人たちの表情が、ハリウッド映画の雰囲気とは全く異なり、新鮮だ。いかにも土ぽい感じがする。
◆その日からロメックは、グニチオの家族――妻と、2人の息子ヴラデック(リチャード・バーネル)とトロ(リアム・ヘス)――と生活を始める。それは、当然のことながら、平穏ではない。ヴラデックはロメックを嫌い、いじめる。トロだけが彼を慕い、かばう。陰険な村人の脅しもある。密かにブタを飼っている家もあるが、ナチに見つかると死の制裁を受ける。グニチオも1頭飼っていたが、もう隠しきれなくなり、闇市に売りに行くが、死体で帰ってくる。彼は、明らかにナチに殺されたのではなかった。
◆この映画の主題はナチスではないが、ナチの本質には迫っていない。ここでは、ナチは無慈悲な悪党としてしか描かれていない。主題はむしろ、日々、殺されるかもしれないという危機的状況に置かれた村人や子供たちが、直面する恐怖、苦しみ、仲間との関係・裏切り、そして良心への忠誠・・・であるが、それらを表現するための手段にナチが利用されていると言えないこともない。それにしても、ドイツ人は不幸である。一つの世代の一つの政権が犯した犯罪のために、末代まで呪われる。それは、歴史への責任の教訓であり、明快な帰結ではあるが、それでは何の解決にもならないことは考えておく必要がある。
◆このへんの単純さを追求すると、この映画のすぐれた点がかすんでしまうかもしれない。が、映画を見ているあいだは「感動」に包まれたような気がするのだが、終わってからどこかむなしい感じがするのは、結局、ナチにしても、村のはずれを走る収容所行き列車から夜な夜な何人かのユダヤ人が飛びおりて逃げようとするのを捕まえて金品を奪い、ナチに売り渡す村人(まだ少年の面影を残す歳で)にしても、悔い改め不能のキャラクターとして設定されており、その対極に、「聖者」のようになっていくトロがいる。この構図の単純さは否めない。
◆人は、極限状態でどこまで自分の良心に忠実でいられるか、また、良心は存在しうるのかという問いへの回答ではあるし、「純真」なトロのようにはできず、現実のために良心を妥協させ、ごまかして生きている。ロメックは、自分がユダヤ人であることがばれないために、ナチの上官のまえで、言いなりになり、捕まったユダヤ人たちにピストルを突きつけて、隠し持った貴重品を出させる。
◆原題の「エッジ・オブ・ザ・ロード(神のヘリ)」とは、カソリックの「聖餐」(communion)の式で神父が信者の口にいれてくれるせんべいのような「聖体」(corpus christi)(キリストの体)を鋳型でくり貫いた残りの部分のこと。映画の終盤にこの聖体拝受の式のシーンがあるが、神父(ウィレム・デフォー)は、事情を知り尽くした上で、ロメックにはそのへりを与えるのである。それは、ある意味で、ロメックの宗教(ユダヤ教)を尊重したという意味であり、他方では、カソリックの仲間とは認めないということでもある。が、この神父は、もっとまえのほうで、(彼は、豚を飼っていて殺される村人を救えなかったことに無力さを痛感した)この聖体を鋳型でくり貫きながら、「人間はみなスクラップだ」とつぶやく。つまり、その意味では、聖体を拝受される者よりも、「エッジ」をもらう者のほうがより人間的である証であるということでもある。
(ギャガ試写室)



2002-02-01

●モンスターズ・インク (Monsters, INC./2001/Pete Doctor)(ピート・ドクター)

◆Pixarによる映像のレベルの高さは、DreamWorksの『シュレック』といい勝負。もう、よほど抽象化してくれないと、『アトランティス 失われた帝国』のようなタッチのアニメは見る気がしない。
◆モンスターたちは、夜な夜な寝室のクローセットの秘密のドアーから姿を現わし、子供たちに恐怖を与え、その叫び声を採集してそれをモンスターの街のエネルギーを供給しているが、最近は、子供たちがモンスターを怖がらないので、モンスター会社(インク)とモンスター・シティが危機に瀕しているという皮肉な設定。モンスターも時代の変化にさらされている。先進的なこの会社では、シュミレーション装置を使って、モンスターたちが怖がらせの練習をしている。この会社のトップ社員は、巨大な角付きゴリラ風のサム(声:ジョン・グッドマン)であり、その相棒が一つ目小僧風のマイク(声:ビリー・クリスタル)だ。ほかに、恐竜/とかげ風の陰険なランドール、マイクの彼女の細み一つ目女セリア、営業部長格の巨大ナメクジおばさんのロズ、そして社長のヘンリーなどがいる。
◆そんなモンスター会社の大きなスペースに、ある日、人間の幼女ブー(声:メアリー・ギブス)が忽然とあらわれたから大変。この社会では、人間は有毒であり、人間の子供とつきあうことも禁じられている。ところが、その無邪気で愛らしいブーは、サムとマイクになつき、彼らも情が移っていく。さて、どうする?
◆ドアーの使い方がユニーク。ドアーが無数に保存されていて、それがリモートコントロールの装置で上から降りてくる。そして、そのドアが開くと、その向こう側に人間の子供部屋がある。ドアーをくぐると別次元の世界があるというのは、カフカの世界であり、ウェルズもソダーバーグもカフカ作品の映画化にあたって、ドアーをたくみに使っていた。そういえば、ブニュエルの『アンダルシアの犬』でも、町中の家のドアーの向こう側には海岸が拡がっていた。ドアーは、時間や空間の質を区別するメタファーとしても面白い。
◆ディテールがしっかりしているところもこの作品の強み。寿司屋のシーンが出てくるが、「いらっしゃいませ」というちゃんとした日本語が聞こえる。セリア(声:ジェニファー・ティリー)は、子供の扱い方をよくしっていて、わんぱくなブーを手なずける。
◆かつてエルンスト・ブロッホは、子供たちに恐怖をあたえる「暗闇」の消滅について書いていた(『異化』)。これは、テクノロジーの変化と関係があるわけだが、同時に、人を怖がらせることによって行なう教育や支配の終焉を示唆してもいる。この映画でも、ブーの出現がきっかけになって、会社内部で紛争が起きる。従来の恐怖路線を堅持しようとするランドールと社長。しかし、大詰めは、恐怖から笑いの路線への転換となる。怖がらせるモンスターから笑わせるモンスターへ。してみると、今日のモンスターは、テレビなのだろうか? それは、子供が無邪気な手でテレビのリモコンを押した瞬間に姿を現わす。
◆ジョン・グッドマンとビリー・クリスタルの2人が歌うテーマソングもいいテンポ。
(ブエナビスタ試写室)


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