粉川哲夫の【シネマノート】
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『愛しのローズマリー』


2002-03-28

●パニック・ルーム (Panic Room/2002/David Fincher)(デビッド・フィンチャー)

◆CMで見ると、「パニック・ルーム」はSFのカプセルのように想像できるが、事実はちがった。マンハッタのアップタウンの高級住宅地にある1879年に建てられたブラウン・ストーンの家のなかに作られた要するに非常用の退避室/防空壕のことで、そこからは監視カメラで他の部屋の状態を見ることができるようにはなっているが、ドアをのぞいてはハイテクで防備されているわけではない。吸気口は、外にパイプを出しただけのもの。暖房のダクトは、他の部屋と共通(だから、ここからプロパンガスを放射される――というシーンがある)。
◆10代の娘を連れて離婚したメグ(ジョディ・フォスター)があたらに見つけた家。離婚した夫はコロンビア大学の教授だが、彼女は働いてはいない。どうしてこんなに広い家(4階建てでエレベータ付き)を借りられのだろう。そのアパートメントは、富豪の所有だったが、遺産相続でもめて、売却された。ジュニア(ジャレッド・レト)は、生前の富豪の身辺の世話をやいていた。そのパニック・ルームに財産が隠されているということを知っていた彼は、金庫破りのプロ、バーナム(フォレスト・ウィテカー)を誘って財産を盗みに来る。彼らは家にすでに入居者がいることを知らない。勝手知ったバーナムがまず中に入り、鍵を開けて外にいるジュニアを入れるという手口。
◆サスペンスとしての緊張感は、なかなかいい。というより、この映画は、サスペンスのためにすべてを構成したドラマである。最初ジュニアとバーナムの2人でやるはずだった金庫やぶりが、ジュニアがラウールという男(ドワイト・ヨーカム)を連れて来る。この組み合わせ、ちょっと(ドラマ構成上の)政策的という感じがする。やくざのたかりで、グループのなかに必ず「危険」なやつが1人いて、凶暴な言辞をはき、冷酷なことをやってまわりに恐怖をあたえる。ラウールといういうのは、まさにそういう役柄として(効果上)フィーチャーされたという感じがする。つまり、効果のための配置であって、スリルを盛り上げるために存在しているにすぎないのだ。だから、このドラマは、最初から、この組み合わせを見た瞬間から、結末が予測できるのである。
◆メグが、引っ越した日、まだ仮のベッドの上で、マニュアルと首っぴきでセキュリティ・システムをオンにする。たくさんならんだモニターが片端から点滅し、1台のモニターに一人の人影をうつる。これにはメグは気づかない。観客も気づかないかもしれない。これは、フィンチャーが、『ファイト・クラブ』でもやった技法。この映画は、クローズドなスペースに登場人物を閉じ込め、そこである種の「実験」をさせるという点で『ファイト・クラブ』と共通性がある。しかし、こちらは、はるかにエンターテインメント/サスペンス指向になっており、『ファイト・クラブ』のような解釈可能性の多様な面白さはない。
◆生よりもテレビモニターを通したほうが恐怖感をあおるということをフィンチャーは計算済だ。一方で、物体を突き抜けて突進していくウォークスルーのカメラを使い、他方ではロウテクのビデオモニターを使う。
◆離婚して寂しげな表情のメグ。糖尿病という持病を持っている娘。若い女を作って出て行った大学教授の夫。よくありがちなファミリー。最後は、セントラルパークで、2人が晴れやかな顔をして、冗談ながらに、新聞の不動産情報を見ながら娘が、「・・・にしようよ」というようなことを言っているシーン。苦心の末つながった電話で起こされ、現場にやってきた元の夫はどうなったか? この事件がもとで若い女との関係に変化が起きたかもしれない。が、いずれにしても、離婚は成立してしまっているわけだから、メグと娘の晴れやかな顔は、単親ファミリーとしやっていく自信のあらわれであることは否定しがたい。
(渋谷パンテオン)



2002-03-20

●愛しのローズマリー (Shallow Hal/2001/Bobby + Peter Farrelly)(ボビーファレリー+ピーター・ファレリー)

◆基本的に「五体不満足」な人々の世界を描いているのだが、単に「五体満足」の世界の目と対比することなく、「五体満足」者が「五体不満足」者に会ったときに示す偏見・差別・とまどい、そしてそこからの脱出の可能性をたくみなやり方で描くことに成功した。単に批判的に、あるいはその裏返しとしての同情的に描くのではない方法があるということを示した。
◆ハル(ジョー・ブラック)は、幼少のとき、モルヒネで解放(?)された臨終の床の父から、月並みな女に満足せず、「クラッシクな美人」を選べと言い残されたのが頭にこびりついている。バーでも親友のマウリシオ(ジェイソン・アレクサンダー)と高嶺の花をねらって、ばかにされている。ところがある日、エレベータに乗り合わせた有名なカウンセリング・コンサルタントのアンソニー・J・ロビンス(本人)に持てない理由を相談するチャンスを得る。ロビンスは、「君は女の外見しか見ていない。重要なのは内面だ」と言い、ある術を彼にかける。その日から、彼は急に持てるようにな
るのだが、友人に言わせると、とんでもないブスばかりを相手にしているとあきれられる。
◆「内面」から見た相手のイメージと外面だけのイメージとの落差を利用して、このドラマは展開していくが、わたしには、コメディというより、むしろシリアスなドラマに見えて、笑えなかった。が、それは、コメディをねらったが、失敗しているということではない。ハルが目を見張った相手は、デパートの超ラージサイズの下着売り場でブラを買おうとしていた。そのローズマリーを、〈ありのままの〉グウィネス・パルトロウが演じている。それは、絵に描いたような「美女」である。が、彼女とお茶を飲みに行くと、「細身」の彼女が座った椅子がつぶれ、彼女が床に転がる。ハルは、怒り、店に文句を言うが、まわりは嘲笑ぎみの対応。マクドナルドへ行くと、彼女は3人前ぐらいの注文をする。ハルは、「ちゃんと食べる女性が好きだ」と思う。映画は、巨漢の彼女をチラリチラリと映すが、大詰めになるまで、正面からは映さない。
◆社会から疎外され、自分が醜いと思っている人間が、初めて理解者に出会い、愛し始めるときの美しさと、それが崩れるときの悲しさを、パルトロウは見事に演じている。彼女はファットスーツの特殊メイクをして実際にニューヨークの街でテストしたとき、誰もが見て見ぬふりをするのにショックを受けたという。
◆この映画には、脊椎の病気で足が育たなかったが、障害を無視して育てた両親のおかげで、両腕と上半身が極度に発達し、その体でスキーでも何でもこなしてしまうレネー・カービーという人物がウォルトという役で映画初出演して、異風をはらう。そのほか、ハルには、「可愛い」少女に見えるが、実際は大火傷で顔をケロイド状になている子とか、高見山クラスの「肥満」の男等々、「並」でない体系の人物が登場する。
◆ハルが催眠術をかけられたことに気づいたマウレシオが、多忙のロビンスをつかまえ、「それは洗脳じゃないか、おれの親友を返してほしい」とい言ったとき、彼の言い分がふるっている。どのみち誰もが、マスメディアを通じて洗脳されているんだから、同じことだし、(外面にばかり見るようにではなく)内面を見るように洗脳されたんだから、こちらの方がいいのだ、という。しかし、マウレシオの勢いに、術はずしの鍵を教える。
◆催眠術から醒めたハルが、ローズマリーに対してどう対応していくか――これは、「五体不満足」者たちに、「五体満足」者がどう対応するかというだけでなく、「愛する」と言った相手に対して自分がどう責任をとるか、人を愛するとはどういうことか、といった問題を含んでいる。そして、映画の結末は、事態はそんなに簡単じゃないぜという思いを残しはする。しかし、ハリウッド映画としては、屈折した問題をここまでしなやかに描いたのは、高く評価していいだろう。
◆(FOX試写室)



2002-03-19_2

●アイ・アム・サム (I am Sam/2001/Jessie Nelson)

◆会場の関係ではないと思うが、映像に飲み込まれるような雰囲気の作り。カメラがいい。手持ちで出演者の表情をアップで撮る。ミシェル・ファイファーは実に目がよく語る女優。ショーン・ペンは、はまりずぎぐらいの演技。子役のダコタ・ファニングが、いかにも「困った」親を持った子供らしいタイプのキャラクターを熱演している。「感情移入」をこととするアリストテレス的演劇の評価基準では完璧な役者たち。
◆現実との関連よりも、この映画製作のアイデアの勝利。7歳の知能しかないが、ビートルズに関しては、歌手・歌詞・エピソードをすべて記憶しているというサム(ショーン・ペン)が、ホームレスの女に子供を生ませてしまい、それを自分で育てようとする/だが、世間は彼に養育能力がないとして、施設に入れようとする/サムは限られた知恵をしぼって闘う――この完全犯罪ゲームのような設定。しかし、この映画は、他方、人間がどう変わって行くかを見事に描いてもいる。
◆業績と金のためにしか仕事をしないかのようなドライなやり手弁護士リタ(ミシェル・ファイファー)が、事務所に飛び込んできて、経費のことも知らずに裁判の弁護を依頼するサムとのやりとりを他の弁護士たちにみられた手前、ボランティアもやるんだと見せるためにその弁護を引き受けてしまうというのが、最初だが、次第に、彼女は、サムと接触するうちに、自分の生活の欺瞞を認めるようになる。家庭ものにすご腕をふるう弁護士も、夫とは別居し、男の子の養育では苦労がたえない。
◆思考とは、知識の量ではなく、あるシステムをどこまで多重につかんでいるかによって可能になるという例をサムは、示している。彼は、裁判のことは知らないが、それをビートルズの知識体系(システム)から類推できる。裁判の場面で、彼が、たどたどしい口調で、新たな思考をつむぎ出していく姿が、感動的。それは、現実にそういうこがあるかどうかの感動ではなく、そういうアイデアで映画を作ったということへの感動だ。
◆わたしは、ビートルズが嫌いなので、資格がないが、ビートルズ好きには、何度みても飽きない、引用の宝庫だろう。
◆次第にサムに興味を持ち、裁判の尋問のとき、サムから何かを引き出すかのように、大きな目を見開いてサムを見つめ、彼がすばらしい答えをするときに見せるファイファーの目と表情。二人の関係は、ハリウッドの安手の手法からすると、最後に、この「問題の多い」男性と、口八丁手八丁の才女とが結婚することによって、サムの子供問題を一挙解決してしまうのではないか、という期待がわく。しかし、この映画は、そういう安手な落ちは選ばないかった。
◆ファイファーは、見事な演技なのだが、ファイファーが自分の息子を連れてサムの家を訪ねて来るが、サムがなかなか出てこないので、ドアを蹴破り入ると、開いたドアにジョン・レノンの写真が貼ってある。このシーンは、なんか恋心のようなものを感じさせる。このシーンで、ファイファーは、「あたしの方があなたに教えられた、自分なんて矛盾だらけなんだ」というようなことを言って泣く。それは、うまい演技なのだが、ファイファーの大きな目に一滴も涙が出ていないのだな。
◆その点、ダコタ・ファニングは、ぱーっと涙を流す。
◆サムは、審問のとき『クレーマー、クレーマー』のくだりを使うが、この映画もこの映画を下敷きにしているところがある。
◆サムも、サムの娘も絵がうまい。たぶん彼女の描いた絵という設定でラースト・クレジットの背景に出て来る絵がなかなかいい。誰の絵かと思ってクレジットを読んだが、children's artという名で数名の名が並んでいた。
(丸の内プラゼール)



2002-03-19_1

●サンキュー、ボーイズ (Riding in Cars with Boys/2001/Penny Marshall)(ペニー・マーシャル)

◆広告などでは、18歳で母親になった主人公ビバリー(ドリュ・バリモアが15歳から35歳まで演じる)が、飲んだくれ(その後は薬中)の夫に苦労しながら子を育て、やがて作家になる話のようなことが書いてあるが、そういうのとは違う。ビバリーは、母親をやりとげたが、母親にはならなかった女性である。出版まじかの本のゲラがあがっているのが「現在」だが、そのあと彼女が作家として成功するかどうかはわからない。そんなことよりも、自分がやりたいことをやり、それがまわりからも許された時代の描写、それを見守る警官の父(ジェイムズ・ウッズ)と息子(アダム・ガルシア)。どちらもいい迷惑なのだが、許してしまう――そういう相手ってよくいるが、時代によっては、その許され方が違うだろう。要するにビバリーは、クリストファー・ラッシュが『ナスシシズムの文化』のなかで分析したキャラクターだ。
◆60年代に青春を送った母、68年に生まれ70年代に育った子供、60年代を距離を置いて見ている父親のそれぞれに目。
◆アメリカの50年代から60年代は社会的な価値観がドラスティックに変わった時代。東部の郊外都市でもそのあおりは来ていた。そういう時代には、警官でも世の変化、子供の「非行」に寛容にならざるをえない。
◆やけに車のなかでの会話シーンが多いと思ったら、原題がそういうことを示唆しているのだった。つまり家庭が「車」みたいだし、いまもそうだというアナロジー。
◆冒頭は、1986年のシーンで、妙齢のドリュー・バリモアと若い男(アダム・ガルシア)が車に乗っている。男は、どうも女ともめているらしく、「(明らかに同乗しているバリモアと)手を切るから(許してくれ)」というようにとれることを電話で言っている。そして、ガソリンスタンドで、バリモアを恋人だと思われると、あわてて否定し、「母親なんだよ」と困った顔をする。母は、「困った」存在なのだ。まあ、こういうのは、別にこのドラマに特有というわけではなくて、親一人子一人の家庭ではよくあること。ビバリーは、ヘロイン中毒の夫に愛想をつかし、別れた。働くことを価値と思わない(この時代の気分でもあった)気楽な男をスティーブ・ザーンが演じている。
◆ビバリーの幼いときからの親友フェイを演じるブリタニー・マーフィがものすごくいい。ときにはバリモアを食ってしまうような演技をするシーンがある。彼女は、『17歳のカルテ』でもいい演技をしていて、非常に印象に残ったが、今回、一段レベルがあがった。
(ソニー試写室)



2002-03-18

●華の愛 (Youyuan jingmeng, Peony Pavilion/2000/Yonfan)(ヨン・ファン)

◆宮沢りえという俳優は、無能な俳優だが、今回は、その無能さがうまく「開花」したのかと思ったが、そうではなかった。「モスクワ国際映画最優秀女優賞」を取ったのだが、日本語外の世界の人には、その「無能」さが、「神秘的」に見えるのかもしれない。多くのコメンテイターが、「デカダンス」を言うが、彼女のどこに「デカダンス」があるのだろう?
◆パウーン・パウーンという音の楽器が印象的な音楽が面白い。京劇風というか、妙な世界に引っ張っていくような感じる。実は、これは、「崑劇」といって、京劇よりも古い形態で、「母劇」とも呼ばれるそう。冒頭、この音楽ともにミュージカル/京劇をブレヒト流にアレンジしたようなシーンが展開する。こいつはいいかなと思ったが、やがて退屈した。
◆基本的に、すれちがいの話。メインは、ジョイ・ウォン演じる「断髪麗人」(のはずだが、わたしにはどうしても安藤優子とダブって色気を感じらななかった)と宮沢りえとのレズ的すれちがい。「美男子」を絵に描いたようなダニエル・ウーとジョイ・ウォンとの関係に涙する宮沢。密かに宮沢を愛しながら、それを現わさない(東洋的?)なジャオ・ジーカンとのすれちがい。ジョイとダニエルとがいっしょの姿を発見して、宮沢が泣くシーンは、まあまあよかった。
◆時代は、中華民国の時代。宮沢は、元高級娼婦・菎劇の歌姫(吹き替えで中国語のかん高い声の歌を歌うが、吹き替えの感じが目立つ)で、貴族の第5夫人に迎えられたという設定。ジョイは、教師で、時代には反抗的な知識人。ダニエルは、彼女の学校に調査員として派遣された男。ジャオは、宮沢の家の執事。しかし、なんかこの映画、社会性や時代性が感じられないのね。
(ギャガ試写室)



2002-03-14

●アトランティスのこころ (Hearts in Atlantis/2002/Scott Hicks)(スコット・ヒックス)

◆いずれ日本で見てから詳しく書きたいが、とにかく環境(機内)が悪く、モニターも狭いせいか、2度見たが、評判とはうらはらに、どうもぴんと来なかった。
◆少年が老人にあこがれるのはわからないでもない。が、あのアンソニー・ホプキンス演じる老人は、なぞというより不明が気になってしまうような存在だ。『ハンニバル』の雰囲気ともだぶる(それを意図しているような感じもある)。原作はスティーヴン・キングだから謎めいているのはかまわないのだが、謎の出し方をまちがえてはいないか? これでは、ホプキンスがこれまでの映画で蓄積したアウラにおぶさって見せてしまおうというような感じだ。
(日航ニューヨーク・東京便内)



2002-03-11

●ジョンQ (John Q /2002/Nick Cassavetes)(ニック・カサベテス)

◆ファミリーのむつまじさを最初に強調しておいて、それを突き崩す事件を出すというのは、アメリカ映画の定石だが、まあ、このくらいなら許せるか。両親が見ている前で元気に野球をしていた子供が突然草の上に倒れ、動かなくなる。車で病院に連れ込むと、親族移植をしなければ命があまりないと告げられる。ここからジョン・クインシー・アーチボルド(デンゼル・ワシントン)の闘いが始まる。
◆手術には、7万5000ドルかかると冷たい表情の院長(レベッカ・パイン)に言われるが、ジョンにはその金はない。悪いことに、彼は、不況の工場地帯で、自分の能力以下の仕事をしている(オーバー・クオリファイド)。保険に頼ろうとしてわかったのだが、彼の仕事は、会社では臨時雇いのあつかいになっていて、保険から手術費用を借りることも出来ない。となると、あとは友達に頼るしかない。友人たちは、みな、なけなしの金をカンパしてくれる。しかし、それでも、目標額にはとても達しない。病院では、主任ドクター(ジェイムズ・ウッズ)は逃げ腰で、ジョンには冷たい。が、病院を訪ねたある日、ジョンは、院長が金持ちの患者におべんちゃらを言っているのを目撃する。こつはもうダメだ、とジョンは思う。
◆ジョンが取った手段は、病院をジャックして、人質と息子の心臓移植手術とを交換させること。ジャックしたあと、人質が彼に同情していくシーンが面白い。説得にやってきた刑事(ロバート・ドゥヴァル)も敵意はない。しかし、人気取りの警察所長(レイ・リオッタ)は、人質奪還のためにスナイパーを忍び込ませるという強硬策を講じようとする。
◆いくら手術を強要しても、ドナーがいなければ話にならないが、映画は、あれこれじらし、最後は、ジョンが、「おれがこのピストルで死ぬから心臓を取ってあの子に移植してくれ」と切り出す。が、おりしも、郊外で事故があり、心臓が届くということになる。こういう設定って安易だし、件局、映画が当初目指したと思われる社会性(保険問題――アメリカでは深刻)が、サスペンス劇にすりかえられてしまう。
◆そういう点をせめてもしかたがないし、まあまあいい出来の作品だと思うが、最後に、ドクターがちょっと手の込んだやりかたでジョンを病院から脱出させるシーンは全くいただけなかった。どうせ、最後を法廷のシーンで締めるのだから、それだったら、そういうおちゃらけのようなプロットはいらなかったのではないか?
(Village VII、ニューヨーク)



2002-03-08

●ワンス・アンド・フォーエバー (We Were Soldiers/2002/Randall Wallace)(ランダル・ワラス)

◆これも、じきに日本で試写があるので、いずれ詳しく書きたい(といっていつもそのままになる)が、思ったよりは批判性の強い映画だった。まあ、ベトナム戦争がテーマだから、いくらブッシュの時代とはいえ、めちゃめち反動的な描き方は難しいだろうが、時代が時代、主演は「勇壮」大好きのメル・ギブスンだから、どうかなと思ったが、戦争の虚しさがよく描かれた作品だった。死傷する悲惨なありさま、死体の山等々、「リアル」な表現に徹し、戦争の悲惨さを強調しているが、やり方としては、オリバー・ストーンの『プラトーン』(1986年)と似ている。
◆しかし、この映画は、最初から、人間はなぜ戦争をするのか、という疑問を提示し、一貫してその問いを問いつづけるところが、単に戦争の悲惨さと虚しさをと強調するだけとはちがう。ハル中佐(メル・ギブスン)は、5人の子供がいる。まずはお定まりの家庭の強調。ジョンソン大統領のテレビがベトナムへの兵力増強のテレビ演説。末娘に「なんで戦争するの?」と訊かれて、「入り込んできた悪いやつを追い出すことだ」と説明するが、ハル自身は、その答えに自信がない。家族との別れ。ハルの部下たちにも、それぞれにつらい別れがある。朝まだ家族たちが眠っているあいだに結集する部隊。
◆冒頭から、この映画は、戦争の勝利と敗北になぜ殱滅/全滅という事態がともなうのかに悩むハルの意識を描く。インドシナ戦争の末期フランス人の全滅、1876年にリトル・ビッグホーンの闘いでインディアンに殱滅させられたカスター将軍の部隊。書斎でそれらの写真と絵をめくりながら悩むハル。これが、この映画の一貫したテーマではある。
◆ハルが率いる部隊400人が、2000人の北ベトナ軍に囲まれて、死闘をくりかえす「死の谷」の闘い。ハルの部隊は最後には勝つが、そこには勝利の感慨はない。
◆北ベトナムの指揮官の目、北ベトナム兵士の目も、単なる「敵」対「味方」の二項対立の図式からではなく、描かれている。
◆ハルの留守宅では、妻(マドレーヌ・ストウ)が、部隊の兵士の妻や恋人たちとはげましあう。そこでは、人種の差が乗り越えられている。ある日、イエロー・キャブが家の前に停り、運転手が遠方を届けて来る(戦死者の知らせはこういう形で届いたらしい――考えてみるとこれはひどい話。軍はどうしたんだい――これもたぶんこの映画の戦争批判)。戦死者が増え、運転手(狭い町)がこの仕事にたえがたくなっていくのを見かねたハル夫人が、電報を届ける仕事を引き受ける。非常につらいシーンなのだが、アメリカ人は、こういうシーンをいっぱい見て、もう戦争はしないという気持ちになるのだろうか? 何千年もまえから、戦争の悲惨さや虚しさは描かれてきたが、そういうものによっては、一向に戦争はやまないのですね。逆に、こういうメロなシーンをくりかえし見ることによって、戦争への怒りよりもあきらめのようなものが蓄積されるのではないだろうか?
◆この映画を、戦争そのものの批判としてではなく、指揮官の指揮の仕方の批判――つまりアメリカはベトナムで、ばかな指揮によって敗北した、というような方向で見ることもできるかもしれない、とふと思った。とすると、これは、反動映画である。もう一度みて判断しよう。
◆アメリカで映画を見ていつも思うのは、日本の映画館で見るよりも画面が俄然きれいなこと。なぜか? 映写機がよいのか?
◆ニューヨークのチャイナタウンでは、「最新」の映画のビデオが路上で一律5ドルで売られているが、この作品も並んでいた。
(Village VII、ニューヨーク)



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