粉川哲夫の【シネマノート】
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2002-04-30

●ヴェルクマイスター・ハーモニー (Werckmeister Harmoniak/2000/Tarr Bela)(タラ・ベーラ)

◆タラ・ベーラは、カットの少ない「長回し」で有名だが、あまり長さは感じさせない。同じカットでもカメラはかなり動き、場面は変わる。ベーラの「長回し」は、最初に映したオブジェ、場所、音、が一体何なのかという疑問を引き起こさせるための効果がある。それは、必ずカメラの動くなかで解答される。
◆全編37カットで撮っているというので、カットを数えてみた。
(0)音なし、モノクロのクレジット(1)バーのストーブの火→水をかける(2)バーの中→Vによる集団「パフォーマンス」(3)夜道(4)エステル氏の家の外→中へ(4)夜道→巨大なトラック→ポスター(5)新聞配達所(6)路上→新聞を配達するV(7)ホテルのような建物(8)陽が昇る路上・新聞を配達するV(9)エステル氏の家・ヴェルクマイスター批判(10)広場・トラック(11)トラックの中に入るV(12)白い路上(13)Vの家→ベット→台所・罐詰とパンだけの食事→窓の外に叔母の姿→居間(14)エステル氏の家・家政婦が台所で→書斎の叔父・録音機(15)路上・歩く叔父とV(16)ホテル?の調理場で食べ物をもらうV(17)路上・叔父とV(18)広場・Vが脅される(19)路上→くすぶる車(20)家の中・エステル夫人と警察署長(21)署長の家・子供(22)夜道(23)広場・焚き火する人々(24)トラックの中に忍び込むV→団長の部屋(25)夜道→広場の上空で閃光(26)道路・歩く人の群れ(27) 病院・廊下→病室→浴室(28)天井の豪華な家→器具が散乱する床→座り込んでノートを読むV(29)戦車の見える路上・V・離れて叔母と署長(30)路地→隣人の死骸(31)隣人の家・逃亡を勧める隣人の妻(32)線路を走るV→上空にヘリコプター(33)病院・放心状態のV・見舞う叔父(34)広場・叔父(35)放置されたクジラ→クジラの目のアップ(36)路上・歩く叔父(移動で撮っているのか、ワン・カットなのかわからなかったところもあるので、36カットまでしか記述できない。どこかが別カットなのだろう)。
◆時代は、いつだろうか? 民衆の生活が逼迫し、反乱と暴動の危機が迫っているらしいことが示唆される。主人公ヴァルシュカ・ヤーノッシュ(ラルス・ルドルフ)の叔母(ハンナ・シグラ)は、「正常化」の運動を進めようとしている。そして、いまでは別居中の夫で音楽学者のエステル(ペータ・フィッツ)にその運動のスポークスマンになることを求められたとき、彼は、「同じ過ちをくりかえしたくない」と躊躇する。して見ると、「同じ過ち」とは、ハンガリア動乱を指しているのだろうか? 叔母は、警察署長と出来ており、酔っ払ってピストルを片手に、「許さないぞ」とどわめく署長と彼女がウィンナワルツを踊る姿は、とても「正常化」の運動をする気配ではない。ここでは、「正常化」を叫びながら、警察や軍とつるみ、自分たちの利権を保持しようとする階級が批判されている。
◆冒頭、火が燃えるストーブ(壁に埋め込まれた)に水をかけて消すシーンが映る。カメラが移り、そこがバーの室内であることがわかる。主人がよっぱらいに、「閉店だ、帰れ」とうながし、急に、「ヴァルシカ(以下Vと表記)のために場所を開けろ」とどなる。目がギラギラ輝く青年が現れ、みんなに惑星運動に模した動きをするように指示する。人々がぐるぐる回る幾つかのブロックが出来、その全体がバーの主人を太陽に模したかのように回る。このワン・カットで撮られる最初のシーンは、ヴァルシカという青年の考えと心情を示唆する。
◆この映画は、ほとんどヴァルシカが一定期間に体験することのドキュメントとして提示される。バーを出たVは、暗い夜道を歩き、一軒の家に入る。老人(叔父のエステル)がソファーで寝そべっている。かたわらにオープンリールのテープレコーダーなどがあり、音関係の人間であることがわかる。彼にパジャマを着せ、ベットにねかせ、塔型の湯沸かし機に薪をくべる。たぶん、明日の朝までに湯が沸くのだろう。ふたたび外に出て歩き出すと、向こうから巨大な家のようなものを載せたトラックがゆっくりと走ってくる。この映画の特徴である「なんだろう?!」という効果が明確に出る瞬間である。そして、それが何であるかが、必ず次の瞬間に示唆されるのがこの映画の特徴だ。トラックが走り去ったあと、Vが壁のポスターに目をやると、そこにクジラの「スペクタクル」があり、「プリンス」という人物(?)が出演すると書かれているのを発見する。
◆Vは、比較的大きな建物のなかに入っていく。ふたたび、「ここは何の家か?」という疑問がわく。が、それを明確にする映像はないまま、Vは、新聞の束をもらって、一部づく折りはじめる。奥の部屋でも老女が世相を憂えるような言葉をモノローグしながら新聞を折っている。どうも、ここは、新聞社か新聞配達所のようだ。Vが、外に出て、歩き出すと、空には少し朝日が照りはじめる。Vは、先ほどの新聞を一部づつ配って歩く。遠くで教会の鉦の音がする。
◆あきらかに、Vは、自律(アウトノミー)を愛す。叔父エステル氏は、数学的なヴェルクマイスターの調律論を批判することで国家の厳密な規制・規範に反対する者であることを示唆するが、所詮はインテリである。叔母エステル夫人は、そうした規制を壊して「革命」を起こす身ぶりをしながら、警察署長と密通し、もう一つの規制・規範をもたらすにすぎない。その間に、民衆は、クジラのトラックに乗っている謎の外国人の扇動にのって無力な者に暴力のはけ口を求める。
◆暴徒が侵入した病院で、次々に破壊をくり返したあげく、浴室に行き、バス・カーテンをひきちぎると、そこに、痩せさらばえた老人が全裸で立っている。その瞬間、暴徒は、たちすくみ、そのまますごすごと病院を去っていく。衝撃的なシーンである。
(映画美学校第2試写室)



2002-04-26

●プレッジ (The Pledge/2002/Sean Penn)(ショーン・ペン)

◆ハリウッドは、こういう「遊び」を可能にする側面もあるということを教える。それは、ショーン・ペンのような立場の人間だからこそできるのだろう。普通の監督ではできないことだ。ハリウッド的な「ハッピー・エンド」ではなく、深い余韻を残しながら終わる。
◆冒頭、砂ぼこりのする地方都市のうらぶれたガソリンスタンドのまえで明らかにアル中の男(ジャック・ニコルソン)がぶつくさ言いながら立っているシーンが出る。それは、映画の終わりを先取りしたイントロで、映画は、すぐに、仕事場の窓から外を見ると、路上を歩行器に頼りながら歩いている老人の姿が見えるシーンに行く。このあたりの撮り方は、なかなか新鮮。定年を迎える彼の心象風景。それから、彼が、歓迎会の会場になるバーのドアーを開くシーンに移動する。仲間から愛されていることが感じられるシーン。が、そのとき、殺人事件の報が入る。このシーンは、少しまえから同時描写されている。少年が雪の原でソリバイクのわだちをとられ、動きがとれなくなっていたとき、突然ひどくショックを受けた表情で飛び出してきた男を見る。奇妙に思ってその方に近づいてみると、そこに無残に切り刻まれた少女の死体がある。定年になったれ、好きなだけカジキ釣りをしようと思い、また同僚もそうさせたいと思い、メキシコ行きの航空券を定年のプレゼントにしたのだったが、事件となるとそうもしていられない。
◆ショーン・ペンの人徳か、出演者が豪華。ジェリー(ジャック・ニコルソン)の上司役にサム・シェッパード、殺された少女の祖母をヴァネッサ・レッドグレーブ、同じ系統の殺人があることをつきとめたジェリーが会い、亡き子を思ってさめざめと泣く父親役のミッキー・ローク、ガソリンスタンド兼店舗(そこをジェリーが買い取って住む)の持ち主のチョイ役をハリー・ディーン・スタントン、そして、犯人と見なされ逮捕されるが、あっさり自殺してしまう難しい役ながら、やはりチョイ役の人物をベニチオ・デル・トルが演じている。主役は、ニコルソンと、やがて知り会う女性ロリ(ロビン・ライト・ペン)である。
◆この映画は、人生の皮肉とともに、歴史の表舞台やマスメディアでは絶対に表現されずに埋もれてしまうような事実――そしてそれこそが事実であり、そういう事実の無視や歪曲の堆積によって歴史が作られているということを見事に描いているともいえる。
◆撮影はヴァンクーヴァーでしたのだろうか? 殺人のニュースを伝えるシーンで、ヴァンクーヴァーの有名なニュースキャスター(以前、ハンク・ブルが仕掛けたマイクロ・ラジオの報道をした人なのでよくおぼえている)が出ていた。
(ギャガ試写室)



2002-04-23

●ハイ・クライムズ (High Crimes/2002/Carl Franklin)(カール・フランクリン)

◆アシュレイ・ジャドはなぜ、ちょうどジャズ・ヴォーカルのカーメン・マックレイがそうであったように、実に自信に満ちた演技をする。マスコミでの名の売れている女流弁護士クレア(アシュレー・ジャド)が、(当面)不可解な嫌疑(海兵隊時代にエル・サルバドルでテロリストの撲滅という名目で民間人を大量殺戮した)をかけられ、逮捕された夫トム(ジム・カヴィーゼル)に、面会室で会うシーンなど、『ヒート』で、夫が逃げるのを念願して座っている名画面にひってきするうまさ。そのまえでは、名優モーガン・フリーマンも普通に見える。
◆「嫌疑」を晴らすために、クレアは、自ら弁護を買って出るが、軍事法廷は民間の法廷とは勝手が違い、歯が立たない。そこで、元海兵隊で軍事法廷を知り尽くしている弁護士チャーリー(モーガン・フリーマン)を雇う。フリーマンは、アル中を更生中という設定だが、あまりその深刻さは出ていない。
◆社会派の映画やドキュメンタリーだったら、十分、軍の批判、軍隊という組織が人間を殺人マシーンに変えてしまうことへの強烈な批判になりえる内容とプロットを持っていながら、それがむしろ直接感じられず、スリラーの材料で終わってしまうのはなぜか? たしかにスリラーとしてはよく出来ている。が、スリラーとして見ようとすると、最後のシーン(フリーマンとジャドが共同で弁護士事務所を開くらしいという暗示――このシーンは、映画の評価とは別に見れば、嫌いなシーンではない)が余分。
◆いまパレスティナでは、イスラエル軍が「テロリストの撲滅のため」と称して、パレスチナの難民キャンプに攻撃をしかけ、多くに死傷者が出ている。こういうことは、アメリカ軍もあちこちでやった。しかし、これは、軍のなかにいる「犯罪者」や「殺人マニア」の問題に還元することができないし、そうしてしまうと、このような問題が、歴史的にあいもかわらずくり返される理由がわからなくる。この映画が、結局、政治映画とは見ることが出来ず、社会批判的側面を感じさせないのも、すべてが「異常な個人」に還元されてしまうからだろう。
◆場面転換の早さにも原因がある。エル・サルバドルで殺された家族を泣きながら見つめる少年。彼が長じて、復讐をしているらしいという設定も出てくるが、ことに重要さのわりに、あまりにエピソード的な出し方をする。
◆この映画に対するわたしの評価が本来より低いとすれば、それは、映画が始まって20分もすぎてから入ってきて、わたしの隣に(おおきなデイパックをどかんとわたしの肩にぶっつけながら)座った男のせいである。彼は、以後、焼き肉かギョウーザの強烈な臭いの息を吹きかけながら、わたしを翻弄しつづけた。わたしは、これらの食品を嫌いではないが、これらは、一人で勝手に食べる食品ではない。
(FOX試写室)



2002-04-22

●ハッシュ! (Hash!/2002/Ryousuke Hashiguchi)(橋口亮輔)

◆『二十歳の微熱』にも通じるところを持ちながら、これまでの映画という形式へのこだわりが成熟した意味でカッコに入れられ(その分実験臭いは希薄になった)、より広範な観客をカバーしうる作品になっている。
◆単なる異性愛に対する同性愛という構図ではなくて、もっと多様なポリセクシャリティの目がある。そういう作家は、日本でゲイをテーマにしている作家のなかでは、ほかにいないのではないか?
◆高橋和也と田辺誠一が演じるゲイの生活の描写部分も「自然」でいい。ようやく標準といった感じ。が、この映画の優れているところは、ゲイが単なる「異性愛」の裏返しやネガではなく、それを越えた新しいセクシャリティでもあることを示唆している点だ。
◆男を転々と変え、堕胎を2度、自殺未遂とノイローゼで入院経験もあるちょっとオフビートな女を片岡礼子が演じる。ほかに、相手がゲイと知ってか知らずか変質的に近づいてくる女もいる。子供(幼児)への軽蔑的な目は潜在的にあるが、それを努力してのりこえようとする監督自身の姿勢が、田辺誠一のエピソード(片岡に頼まれて子供の父親になってもいいという気持ちに傾く)につながっているようだ。出てくる子供は、可愛くないが、一つのセクシャリティを体現している。
◆ゲイとしてやっているが、田辺には、ゲイのセクシャリティを越えるセクシャリティへの理解・センスがある。実際にやるかどうかは別にして、片岡は、スポイトで田辺から精液をもらい、自分のなかに入れたいという。これは、実際に「人工受精」という形で制度化されているものではあるが、別の性の形態である。
◆高橋和也は、ペットハウスに勤めている。動物の性。これも、ポリセクシャリティの1形態。
◆既存のセクシャリティ/ジェンダーにぐらっとゆらぎをかけるところがあって面白い。
◆家族・家庭への嫌悪・軽蔑が描かれると同時に、家族・家庭なき新しい関係を感じさせるところもいい。
(シグロ提供ビデオ)



2002-04-19_2

●KT (KT/2002/Sakamoto Junji)(阪本順治)

◆さすがは阪本順治、第一級の政治ドラマに仕上がっている。いつも本領を発揮できないでいた佐藤浩市も、今回は、屈折した「右翼」をよく演じている。テンポもいい。ただ、金大中を演じるチェ・イルファに存在感がやや欠ける。音楽もセンチメンタル。
◆金大中誘拐事件に自衛隊の関与を加えたのは、新鮮。映画は、1970年11月25日の三島由紀夫自衛隊市ヶ谷駐屯地への侵入・占拠・切腹事件から始まる。そのとき、殺到するマスコミ、三島を罵倒する自衛隊員を尻目に、三島が切腹した部屋のドアのまえにそっと近づき、白菊の花束を置いて行く男がいる。佐藤浩市演じる陸幕二部(諜報関係)の自衛官富田満州男だ。
◆原田芳雄が演じる週刊誌記者神川昭和が「戦後民主主義」を暗に代弁する役割を演じているが、これは、アメリカ映画で憲法の修正条項第1条をたてに民主主義を擁護するのに似たパターンではあるが、結局日本で反動主義に反対するとすれば、こんなところしかないのではないだろうか?
◆キム・ガプス演じる韓国大使館員・KCIA職員金車雲は、なかなか存在感がある。
(よみうりホール)



2002-04-19_1

●チョコレート (Monster's Ball/2002/Marc Forster)(マーク・フォスター)

◆親子2代で刑務所に勤める男(ビリー・ボブ・ソートン)が、人間性を犠牲にして職務に忠実なあまり、死刑のプログラム(この描写は克明)に忠実でなかった息子を難詰し、自殺に追いつめる(ヒース・リージャーの自殺シーンは強烈)。それがきっかけで、既成概念(人種主義的にかなり偏向していた)を変える。黒人女性を愛するなどそれまでの彼には考えられなかった。
◆ビリー・ボブ・ソートンは、死刑大好きの変質狂ではなく、プログラム通りにやらないと、囚人に苦しみを与えると考え、そのことで、ちゃんとプログラム通りに死刑を遂行できなかった、その意味では「人間的」な息子を責めた。
◆「チョコレート」は原作のタイトルではない。ビリー・ボブ・ソートンがよく立ち寄る簡易レストランでかならずチョコレート・アイスクリームを食べるというだけ。配給会社は、内容がシーリアスと見てこんな名をつけたのだろうが、姑息。何の意味もないタイトルのうえに、『ショコラ』にあやかって「ほのぼの」したイメージをもたせようとしている。
◆ビリー・ボブ・ソートンは、よくゲロをするが、体が悪いわけではないようだ。それは、仕事にも日常のもうんざりしていることをあらわすメタファーのようだ。ホテルに売春婦を呼んでセックスするが、いつもドギースタイル。これも、人生への彼の投げやりな姿勢をあらわすためのもの。映画的に面白いわけではない。
◆ハル・ベリーもビリー・ボブ・ソートンも木目が細かく、質の高い演技をしている。しかし、演出が古い。まえもって布石をしておいて、それに応える形で物語を展開するという予定調和の技法。たとえば、死刑の期日が近づいた夫(ショーン・コムズ)と妻レティシア(ハル・ベリー)が最後の面会で話をしている。「車の調子はどうだ?」「キャブレターが痛んでいるわ」「早く直せよ」。このあと大分たって夫が処刑されて、彼女が子供と二人で生活しなければならなくなってから、案の定、車が故障。彼女は車を捨て、雨の日も歩いて家に帰らなければならない。が、その途中で、子供が交通事故に遭う。丁度(このパターン)それ道路を元看守でレティシアの夫の処刑を実行したのハンク(ビリー・ボブ・ソートン)が通りがかり、助けを求められ、2人を病院に連れて行く。ここで、わかるのは、この子供は絶対死ぬなということ。なぜなら、ここからハンスとレティシアとの関係が発展していくことはみえみえだから、そのためには、子供は死んだ方が話が簡単になるからだ。前にも書いたが、こういう「計略ドラマ」はもう古いと思う。予定を巧みにこなしていくのではなく、演技・演出のなかで生まれる偶然・即興を取り込みながら発展させていく演出でないと、見ていて面白くない。
◆「なんとかなるさ」という無理をして平静をよそおっているビリー・ボブ・ソートンと半分捨て鉢なハル・ベリーの態度を見せて終わる最後のシーンは印象的。それは、ある点で、「そんなのあなたの白人至上主義的なヒューマニズムよ」とビリー・ボブ・ソートンをハル・ベリーが批判しているようにも見えるし、ビリーのほうも、それを意識していることが読み取れる。もし、彼女が、自分が死刑に処した囚人の夫であることを知ることにならなかったら、彼女と結婚したかどうかはわからない。そこには、ある種上からの「償い」がある。
(ギャガ試写室)



2002-04-18

●スパイダーマン (Spider-man/2002/Sam Raimi)(サム・ライミ)

◆これは、冒険や「超人的」なキャラクターの映画ではなくて、ナレーションでも最初に言われるように、女と男の「純愛」のドラマである。隣同士で幼友達のピーター(のちのスパイダーマン)(トビー・マグワイア)とメリー(キルスティン・ダンスト)は、すれちがいながら、愛し会い、そして距離を持った愛にとどまるのだが、2人の台詞は、まるで『カサブランカ』を意識したかのように「美しい」。台詞は、もうちょっとで、歯が浮くところをまぬがれた。評価すべき出来ではないか。2人は決してセックスしないし、メリーが愛したのは、スパイダーマンとしてのピーターかもしれない。そして、自分の能力と使命を知ってしまったピーターは、彼女の愛を受け入れることができない。が、2人のあいだにある距離の表現がなかなかいい。こういう距離は、別にこのドラマのような特殊な条件の中でなくても、行きずりの関係のなかでも、あなたの職場のなかにも、あるからだ。そう日常のさりげないパターンの表現がしっかりしているところが、この映画のいいところ。
◆『ハリー・ポッター』もそうだったが、ピーターもいじめられっ子。最近のアメリカではいじめが流行りなのだろうか? 70年代には、日本と比較して、いじめはそれほどひどくなかったように思った。が、この映画でピーターがいじめられっ子なのは、ストーリーのための設定である。一方にいじめられっ子を配置し、他方にきれいで(それだけの場合もある)金持ちの女性(キルスティン・ダンスト)を置き、彼女が彼をかばうという構図は、『フォレストガンプ』にもあった。父はおらず、祖父と叔母に育てられるというパターンもアメリカ的。
◆「大きな力はおおいなる責任をともなう」というのが、祖父(クリフ・ロバートソン)の言葉だが、アメリカの観客は、その逆をいっているアメリカ政府のことを少しは考えて。2重人格化したウィル・デフォーの「悪」の側が、その超能力でビルを破壊するシーンは、9.11を思わせる。
(丸の内日劇1)



2002-04-16_2

●天国の口、終わりの楽園。 (Ytumama Tambien/2002/Alfonso Cuaron)(アルフォソ・キュアロン)

◆冒頭、いきなりぼかしの画面でうんざりした。別にどうということのない、性器でも露骨に見えたとも思われない、ただ若者がセックスしているだけなのだが、腰を振る動作がはっきり出るのは、いまでも「映倫」が許さないのだろうか? 映倫は、警察より遅れている。
◆やけに甘ったれた女(マリベル・ベルドゥー)だなと思っていたら、そのときすでに不治の病に侵されており、そのことを知っての行動なのだった。しかし、だからといっても、甘ったれた感じは否めない。要するにそういう女がいて、自分の病を他人には隠し、「自由奔放」な生活をして、2人の青年を「卒業」させてやるような役割を果たしたのち、どこかに消え、あとから、彼女がガンで死んだことがわかる。それを、彼女に「卒業」させてもらった男が回想するという形式。
◆青年期が主題だからかもしれないが、稚拙なセックスのシーン(動作だけポルノ的に激しいが、それなら、あきらかに精液が流れるところが見えてしまっても不思議ではないようなシーンがそうではなかったり)、オナラや小便をするシーンが多く、うんざりする。
◆チアパスのために闘っている女性のことがちょっと出てくる。車のなかでセックスをしていると、外では、不法入国者と拘束している警察の姿が見える。そういう意識はあるのだなと思った。
(ガスホール)



2002-04-16_1

●突入せよ! (Totsunyuseyo!/2002/Masato Harada)(原田眞人)

◆題名からして、警察の「活躍」ぶりが描かれた橋にも棒にもかからない作品かと思ったら、そうではなかった。「かやつらは、革命の英雄ではなく、国民の敵だ」というような台詞があるが、そういう姿勢はむしろゼスチャーで、県警と警視庁とのごたごた、地方がいかにダメかという「国際派」「中央派」ないしは「近代派」の側に立って、浅間山荘作戦で警視庁がいかに長野県警の因習やメンツ尊重主義に苦労したかという話だった。つまり、のちに危機管理や「グローバル化」の時代の企業システムのコンサルタントなんかを得々と語る元警視庁警備幕僚長/内閣官房安全保障室長だった佐々淳行のビジネス・システム論の展開なのであった。
◆最初は、1972年2月、雪のなかの民家を取り囲むへっぴり腰の警官たちの姿が映る。日本の警察は実際にそうなのだろうが、およそ慣れていない感じでピストル(紐で腰につながっているんだね)を抜き、建物に近づく。中から銃声がして、リックをしょった男たちが飛び出してきて、銃撃戦になる。このシーンが、あまりにやすっぽいので、こいつはダメかと思ったが、実は、これは、長野県警のダメさ加減を描写するためのイントロだった。
◆浅間山荘への突撃に際して、マスコミに笑われるといけないから、途中で便所に行くなんて「ぶざま」な姿を警察側が見せてはいけないと佐々が指令するが、野間本部長(伊武雅刀)は、途中で糞がしたくなる。ここまで長野県警を馬鹿にしていいのかね。
◆原作(佐々淳行『連合赤軍「あさま山荘山荘」事件』)でどう書かれているのか知らないが、ここでは、警視庁がしむけた心理学者たちを、佐々淳行(役所広司)も全く評価していなかったように描いている。わたしの知るところでは、彼らは、宮城音弥(東京工業大学教授)らの指示に従っていかに赤軍派の連中を「ぶざまに」メディアにさらけだすかを検討したという話だった。
◆演出は古い。それは、前にも触れた「人ごとのようにうそぶく」/「心そこにあらずの」スタイル(俳優学校の罪)の台詞(役所広司までがそんな感じ)からもうかがえる。音楽もノー天気。役所が、長野に赴いて、寒い宿泊先で朝飯を食うシーンで、生卵に醤油をかけるが、ちょっとかけすぎ。「佐々」がそうだったとか、そういう役どころだったというまえに、演技として粗雑なのだ。だいたい、日本映画の「食事」シーンはみな粗雑だ。
(東映試写室)



2002-04-12

●ザ・プロフェッショナル (Heist/2001/David Mamet)(デイヴィド・マメット)

◆もう若くないわたしなんかからすると、老齢に達しかけた窃盗のプロ(ジーン・ハックマン)が、いっしょに仕事をした、若くてセクシーな男(サム・ロックウエル)に、若い女房(レベッカ・ピジョン)を寝取られ、強奪した品まで奪われそうになるのを、見事にその裏をかく(『スコア』にも似ている)という話は、すべて先が読めるとはいえ、悪くない。あぶないところで、あの癖の強いデルロイ・リンドがハックマンの助けっとに現れるとか、お定まりだが、この映画はそういうところを楽しむためのハリウッド歌舞伎。だから、ダニー・デヴィトやリンドのような役者が出ている。サム・ロックウエルも性格の悪いタイプをそれっぽく演じている。ピジョンが、ただロックウェルに傾いただけではないという屈折を多少表現し、余韻を残す。
◆飛行機のなかのモニターで見た映画は「映画」ではないが、しばらくこの連載を休んだ近況報告のついでに書いておく。『ワンス・アンド・フォーエバー』、『海は見ていた』、『スパイダーマン』(これは運よく延期)の試写があったが、それらをすべてあきらめ、ウィーンに発った。それにしても、2流の飛行機会社がよく使うAirbusという会社の飛行機は毎度のことながら、ひどいですね。今回、窓からひゅーひゅー風が来て、シベリアを越えることには風邪をひいてしまった。そのことをウィーンでリコンファームのとき書けた電話で全日空の人に言ったら、「ええ、あたしも、日本に帰るときは、窓側の席は取らないことにしてます」だって。
◆ウィーンへ行ったのは、ORF/Kunstradioでパフォーマンス、RhitzとAkademie der bildenden Kuensteで送信機ワークショップをやるためだ。パフォーマンスは、放送局の主催なので、わたしとしては、現場に来てくれたライブのお客との関係をメインにするつもりで、それを電波とネットで放送することには関心がなかった。放送のやり方までこちらがコントロールできないからだ。この放送局は、そういうことも可能な実験性の強い局だし、プロデューサーのElisabeth Zimmermannは「何でもやっていいのよ」と言ったが、そのためには放送機材の裏の裏まで知っていなければならない。今回のわたしには、そこまでの準備はなかった。だから、放送の方は、わたしのライブを放送中継するというように解釈し、放送局側にまかせた。打ち合わせのとき、エンジニアのGerhard Wieser氏に、「ぼくはぼくでやりますが、電波はあなたの作品ですからね」と言ったら、満足げだった。彼は、Bill Fontanaの作品でも有名なTonmeister(音のマイスター)で、わたしなんかの音をあつかうレベルのエンジニアではない。ネットの方は、気心知れたアメリカン・ボーイのAugust Blackが担当だったので、気が楽たっだ。あとで知ったがSchwittradioのときに彼とチャットでも話をしていたのだった。が、とはいえ、今回は、わたしのテーブルの上と、観客のいる周囲だけがパフォーマンスの「現場」であり、ネットも「中継」にすぎないと思ったので、そのやり方には一切口を出さなかった。おかげで、いいコラボレーションになった。コラボレーションというのは、双方が勝手にやりつづけるということなのかもしれない。
◆記録は、http://kunstradio.at/SPECIAL/KOGAWA/にある。
(ウィーン→成田機内)



2002-04-01

●ニューヨークの恋人 (Kate & Leopold/2001/James Mangold)(ジェームズ・マンゴールド)

◆9.11がなかったら、もっと嫌みな一定の潮流になったであろうエートスを描く。つまり、昇進、仕事中心、つかのまの恋とセックス、雑な料理、半端の教養・・・に見切りを付け、もう少し旧「ヨーロッパ」的、育ちのよい生き方と価値観を身につけようとするポスト・ヤッピー的なライフスタイルである。9.11後、そんなことはしていられないよという感覚がニューヨーカーのあいだに支配し、あえて分類的に言えば、そういうライフスタイルがトレンディだからというだけで無自覚にその波にのっていた連中がそこから退陣し、それを本当に不可欠だと思ってやってきた連中が残った。基本は、「アメリカン・ロマンス」を売り物にしている作品だが、いま見ると、こういう係数を無視できないので、ただの「ロマンス」ではなくなるところが、面白い。
◆冒頭は、大きな歯車のメカニズムのアップ。それが時計台のシステムであることがわかるが、歯車はたしかに前時代を象徴している。時は、1876年。ニューヨークのマンハッタンの貴族の家。華やかなパーティが開かれようとしているが、そのパーティはわけありの気配。当時イギリスの貴族は、衰退の一途をたどっており、レオポルド(ヒュー・ジャクソン)のマウントバッテン家も例外ではない。最後に残された道は、富豪の娘と結婚し、財産を増やすこと。その夜は、まさにそうした相手探しのパーティが開かれようとしていた。が、レオポルドは、気がが進まない。
◆レオポルドが階上の自分の部屋に行ったとき、見知らぬ男(リーヴ・シュレイバー)が彼の発明ノート(レオポルドは発明家)に小さな機械を向けているのを発見する。パーティ会場でレオポルドが仕方なく相手に決めることにした女性とダンスをしているときも、その男はその機械を彼に向けていた。昼間も同じことをしていたその相手をあやしみ、追いかけたが、見失ってしまったのだった。その機械は、われわれの目からすれば、一見して「ミノックス」とわかる。なぜ、19世紀にそんな機械があるのか?
◆男は逃げ、ブルックリン・ブリッジへ向かう。追いつめたレオポルドはその男ともども、最後に、橋の上からイーストリーバーに落ちる。その瞬間、時間はスリップして、現代へ。科学研究家のスチュアート(リーヴ・シュレイバー)は、ごく自然な形で天気の変化のようにして開いては閉じる「時間のツボ(portal 入口)」がブルックリン・ブリッジにあることを発見し、そこをくぐって1876年にトリップしたのだった。が、手を取り合ったままその裂け目をくぐってしまったレオポルドは、ビクトリア朝の衣装をつけたまま現代に飛び出してしまう。
◆異次元や異世界からやってきた者はみなエーリアンである。それが、異なる環境とのあいだでまき起こす騒動やずれは、映画ではおなじみだ。この映画でも、過去の時代が、料理を楽しむことに気を使い、女性に対して細やかで、実質よりも広告や宣伝が一人歩きすることはなかった・・・と型通りのノスタルジアで対比されるが、そういう「余裕」が、自分では何もしない「有閑階級」だから持ち得たということへの認識がちらりとではあるが表現されている。
◆スチュアートと同じビルディングに住むバリバリのキャリア・ウーマン、ケイト(メグ・ライアン)は、マーケッティング会社の副CEOにまで昇りつめようとしているが、レオポルドの出会いのなかで、別の価値に気づいていく。ただし、この映画、そうした出会いもケイトの内面の変化も、それほど劇的には描かない。そこがこの映画のいいところかもしれない。
◆レオポルドがなかなか1876年に帰らないようにする仕掛けにすぎないことはみえみえだが、事故で怪我をして病院に収容されたスチュアートが、タイム・トラベルのことを話したために、精神病棟に「軟禁」されるが、その見張り役の看護婦が、あるとき、スチュアートの話に感動し、「信じるわ」と言って、彼を逃がしてくれる。そのシーンが、まったく、付随的なものでしかないのだが、妙に印象に残る。
◆全体として、どうということのない映画なのだが、見終わって、悪い気がしない。解放されるとか、痛みが残るわけでもないし、大いに笑ったという記憶が残るわけでもない。この「ライト」感覚は何だろう? わたしは、メグ・ライアンが好きではないが、ここでは、それも気にならない。
◆この映画でも、オフィースのテーブルに載っているラップトップコンピュータの背にはアップルのマークが見える。「Mac G4を使っているの」といった台詞も出る。ハリウッド映画では、スティーブ・ジョブズのコネか、あるいは、商業戦略か、アップル製品を見ることが多い。
(ギャガ試写室)



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