粉川哲夫の【シネマノート】
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『マジェスティック』


2002-05-31_2

●この素晴らしき世界 (Musime si pomahat/Divide We Fall/2000/Jan Hrebejk)(ヤン・フジェベイク)

◆岩波ホールで公開される予定なので、例によってこわいおばあさんやおじいさんの姿が多い。若いおにいさんも、みなノート片手。始まるまえにガタガタ、ゴソゴソいわせながら筆記用具を取り出したひともいた。う~ん、そういう映画かぁ、と思ったら、そうでもなかった。「怒りを込めて」反ナチ闘争を描くといった力みの映画ではなく、ナチスドイツ支配下のチェコを舞台にし、チェコ人の気質を浮き彫りにするコメディでした。原題は、「われわれは助け合わなければならない」で、視線は現在に置かれているように見える。
◆いまわたしは、2人のチェコ人とつきあっているのだが、彼らは、アメリカ人なんかとくらべると、はるかに屈折していますな。内にある種の「秘密」を隠しているところがある。そして、それがある種の慎みになって、連帯や共同行動やいっしょの仕事(コラボレーション)を可能にしているようなところがある。逆に言うと、そういうある種の「秘密」を内に抑える(「アメリカ人」のようにあけっぴろげにすることが「誠意」の証であるかのような雰囲気とは逆)という身ぶりの了解――暗黙の秘密の共有と言ってもいいかもしれない――がはたらかないと、彼らとはいっしょの仕事ができないのだ。
◆冒頭、車が美しい野原を走り、停る。1937年という字幕。男たちが飛び出し、2人が並んで立ち小便をする。この映像は、この時代に、(だんだんわかるが、会社の経営者の御曹司ダヴィト、信用されている従業員ヨゼフ、妻がドイツ人で運転手をしている男ホルストの)3人が、地位の違いを越えて親しく腹をわってつきあっていられたということを強調している。すぐに場面は1939年、1941年(町中が鍵十字の赤い旗だらけ)、1943年へと転換し、タイトルとなる。この間に、御曹司ダヴィト(チョンゴル・カッシャイ)の一家はナチのユダヤ人狩りに遭って、テレジン収容所に送られる。別れぎわに彼は接収された屋敷に隠してあるものをあとで持ち出してくれるように頼む。他方、ホルスト(ヤロスラフ・ドゥシェク)は、ナチ本部で働き、はぶりがよくなる。逆にヨゼフ(ボレスラフ・ポリーフカ)は、ナチの元で働くのを嫌い、怪我で足が不自由になったことを理由に家に妻マリエ(アンナ・シシェコヴァー)と隠遁している。
◆登場人物のそれぞれの屈折とは、テレジンから脱走したデヴィトが、隣人を見つけて助けを求めると、「ユダヤ人を助けたら破滅する」と言って、「ユダヤ人がいるぞ!」とわめく。この隣人が、ナチ崩壊のとき、地域の「レジスタンス」の隊長としてナチ協力者を摘発する。そして、最後に訪れたヨゼフの家で匿われ、終戦までの2年間を過ごしたのち、大詰めでこの「隊長」と出会う。あのときの記憶がよみがえり、その過去を恥じる。
◆ヨゼフは、ダヴィトの父の恩を忘れない。だから、疲れ切ったひどい凄い姿でダヴィトが彼らのまえにあらわれたとき、彼をかくまうのだった。ダヴィトにも「秘密」はある。それは、子種がないことで、マリエはそれを淋しく思っている。わたしは、「淋しく」と書いたが、これがマリエの面白いところで、彼女は、だからといって、一度も彼を責めない。映画のなかで、隠し部屋に住まわせたダヴィトに、あきらかに愛情をいだいているのではないかと思わせるしぐさがあるが、しかし、それは、夫との関係とは一線を引いている。節操とかいうようなものではなく、なんかすがすがしい感じ。そして、だからこそ、彼女が、ナチの臨検の危険を回避するための唯一の手段としてとらなければならなくなるある行為のトラジェ・コメディ的なおかしさ、残酷さ、そして彼女のしたたかさが浮き彫りになる。
◆ナチに接近しているホルストは、ヨゼフの家に来ると、テーブルの上で指をポキポキいわせる嫌な感じの男。いつもナチ本部からタバコや食料を持ってくる。マリエに気があり、口説いたこともある。が、彼は、妻に従ってナチを支持しているのであって、本当はチェコ人に味方したいという屈折のなかで生きているというかぎりにおいてチェコ人なのである。
◆1943年のヨゼフの家のなかのシーンで、彼らがベット(カバーのかかった)にのるとき、必ず靴を脱ぐのが興味深かった。アメリカ人は、こういうとき靴のままベットにのったりするのである。これは、畳の上で靴を脱ぎ、廊下はスリッパ、しかもトイレのスリッパはまた異なるといった日本人の生活ほどクレイジーではないが、それに共通するところがるように思えた。日本の「ホンネ」と「タテマエ」とを区別する文化は、確実にこのお履物を替える習慣と密接なつながりがあるが、チェコ人の「秘密」とも関係がありそうだ。
◆爆笑するよりニヤリと笑うチェコ的な笑いの映画。最後の方で突然終戦のシーンになってしまうところとか、場面の転換がかなりそっけないとか、カメラがパンするとき、デジタル撮影特有のモアレが見えるところとか、「岩波映画」にしてはやや荒っぽい。
◆1939年のシーンで、これは、帽子の映画かと思わせるくらい、さまざまな帽子が見える。そうした帽子の華麗さが失われ、ナチの制帽になっていくというプロセスを見せる布石のようでもある。そういえば、冒頭のシーンで、ダヴィトはハンチング、ヨゼフは中折れ帽、ホルストは運転手用の制帽をかぶっていた。
◆小部屋に隠れているダヴィトにマリエが本を渡すシーンがある。その背には「Goethe」の名が見えた。彼は、マリエにフランス語を教える。
(映画美学校第2試写室)



2002-05-31_1

●ウェイキング・ライフ (Waking Life/2002/Richard Linklater)(リチャード・リンクレイター)

◆上映を待っていると、こんな女性の声が聞こえた:「あらかじめお話ししとくと、この映画にはストーリーっていうストーリーはないので、字幕はちょっと難解ですから、ミュージック・ビデオみたいに映像を楽しんだり、セリフに気のきいたところがあるんでぇ、ピンと来るところだけを楽しんでもらえればいいんです」。え!?と思っていると、しばらくして、同じ人物が同じ説明をくりかえしているのが全3回聞こえた。どうも、マスコミ関係の編集者をつかまえて、予備工作をしているらしいのだった。しかし、これじゃ、映画に失礼じゃないの? この映画って、そんなの? 英語のメディアでは、こんなばかげたレヴューはなかったし、まして配給会社がそんな予備工作をするなんて、どういうことなんだ? 日本のマスコミや観客はそんなにバカなのか? こういう態度を見ると、この映画について徹底的に論じてやろうじゃないのという反抗心が沸き起こってくる。
◆この映画は一貫した映画であり、思いつきで作られた「ミュージック・ビデオ」(むろん、そうでないのもあるが)にありがちないいかげんさ(それもいいですが)はない。現実とはなにか? 夢と現実のボーダーラインはどこにあるのか? 生きているとは、存在しているとは? といった根本的な問いを斬新なスタイル(実写映像にデジタル・ペインティングをほどこし、アニメ的にした)で問おうとした実験的な野心作である。そして、松浦美奈の字幕はしっかりしたものだ。
◆映画にもフィリップ・K・ディックのエピソード(彼が書いた「夢」が現実化する)が出てくるが、この映画との関連で、ポール・ウィリアムズ『フィリップ・K・ディック世界』(ペヨトル工房)が役立つ。
◆最初に幼い少女と少年がペーパーゲームをしながら話している。少女が「夢は運命」と言うのが印象深い。その少年が車のノブに触ったとたん体が浮き、空を浮遊しはじめる。すぐに場面が変わって音楽のリハーサル風景。曲はタンゴのよう。男が指示を加える。青年(以下「X」と表記――声:ウィリー・ウィギンズ)が列車に乗り、車窓を見ている。駅に降り、公衆電話を使う。ベンチの女と目が会う。(ここまでがイントロ)。男が言う、「流れに逆らうな。川を拒む海はない」。車の中のX。車を降りると路上に紙。拾って読むと、「右側を見ろ」。見たとたんに車た突進してくる。教室。哲学教師の感じの男が熱ぽく語る。実存主義の正当性。ポストモダンはまちがっている。X、この教師と歩き、カフェーへ。ワインを飲みながら教師が一方的にしゃべる。犬の声。ドアをノック。知的な女性。彼女が、(やはり一方的に)コミュニケーションと言語の関係について語る。「コミュニケーションには、スピリチュアルなコミュニオンがあるのです」。路上。メガネの男が一方的に話す。進化論について。いまや進化の形式が変わった。新しい進化にはデジタルとアナログの進化の形式がある。そこでは、非競争(ノン・コンペティティヴ)の関係が生まれ、新しい個人、新人類(ネオヒューマン)が生まれる。
◆歩いて帰宅するX。ベッドによこたわり、デジタル時計の文字盤を見る。それが暗号文字のようにゆがむ。体が浮き、空に昇っていく。
◆X、男と街を歩いている。男が疎外について語る。60年代的な感じ。ガソリンスタンドに寄り、ポリタンクにガソリンを詰める。男はメディアについてしゃべる。大きな建物の前に来て、座り込むと、男は、ポリタンクのガソリンを体にかけ、マッチで火をつける。その瞬間の映像は、ベトナム戦争時に戦争に反対して焼身自殺した僧侶の映像とだぶる。
◆ふたたび空を浮遊するX。窓のなかへ入って行く。ベッドの上で男と女がしゃべっている。ティモシー・リアリーのこと。夢の中の6~12分と一生の時間が等価になる瞬間について。「肉体は死んでも脳は生きている」。輪廻は(ユングの)「集合的記憶」にほかならない。(ここではXの姿は見えない)。
◆視野が低空を移動し、格子のある建物の窓からなかへウォークスルー。赤い体の男が呪詛をならべる。「マブタを切り取ってやる」。視野が格子の窓を出て書斎的なスペースへ。「自由意思」とは何かをしゃべる男。「自分とは誰か」。「すべてのものは、電気と化学の法則に従っている」。
◆車にスピーカーをのせた男がマイクで演説をしながら、道路を行く。アメリカ国家を批判し、「I want freedom」。老人の家→黒人の家へ。「いまは歴史の転換期」。「ラディカルな主体性」の実現。喫茶店。話している2人連れ。「次のプラトー(安定期)へ」。「細胞は7年ごとに新しくなる」。
◆チンパンジーが映写機をスタートさせる。"Noise & Silence"という映画。チンパンジーがマイクをもってしゃべっている。「サブヴァーシヴ(造反的)なマイクロソサエティ」。[*これは、なかなか刺激的。わたしのマイクロラジオ運動も、こういう観念と直結している]。
◆バーでバロウズ風の老人がしゃべる。かたわらにビールのジョッキー。サルトル、ニーチェ。「世界や歴史は進化しない。恐怖と怠惰で動く」。→バーの別の席。書き物をしている男に女が話かける。小説について。→別の席。ヒゲの男がしゃべっている。タイヤを積んでいる男がいきなりナイフを抜いて突進してきた。思わずピストルで撃つ。「それ以来いつもこのピストルを携行している」。「ちゃんと使えるか?」ともう一人の男が訊く。ヒゲがピストルに触った瞬間、暴発し、相手が倒れる。が、倒れた男はピストルを出し、撃ち返す。2人とも倒れる。
◆Xはベットの上。洗面所。ケータイで電話。ソファーの上。テレビのチャンネルを変える。意識的に夢をコントロールする話。→ソファーがいくつもならんでいる広いスペース。フローリングの床。マンドリンを弾く男。「夢の無限の可能性」。声のやや太い男が夢について語る。コントロールすればもっとリアルな夢を見れる。「夢かどうかは、夢のなかで電灯のスウィッチを点滅してみればいい」。360度の視覚。XがドアのSWを切ってみるが、電灯は消えない。
◆空を浮遊するX。街路から建物のなかに入る。映画館。スクリーンには、わたしの友人のジャン=ポール・ジャケットに似た不精髭に男が話をしている。Xは客席で映画を見る。バザンの映画論の話。ハリウッド映画は台本で決めたことをやろうとするが、トリュフォーはそれに反対した。「フレームが・・」と男がしゃべると、画面にフレームが映る。このようなユーモラスなシーンはこれまでにも何か所かあった。「聖なる瞬間を感じようとする努力」。2人が画面のなかで沈黙したままが続く。2人の体が雲のように霞んでいく。
◆外。ハリウッドの撮影所。男が4人でしゃべっている。「火のあるところにはガソリンを」。電柱の上の男。椅子に座り、何かを書いている男。
◆X、貨車に近づく。あご髭の男が降りる。そのTシャツに「Free Radio」と書かれている。貨車のそばを歩きながらXと話す。「毎日夢見ること」。→街。棒読みにしゃべる男。→Xがハイウェイを
一人で歩いている。あたりは夜。女とすれちがう。女が呼びかける。D・H・ローレンスのこと。→部屋。2人でソファでしゃべる。「ぼくはどこにいて、何をやっているのかを知りたい」とX。「一貫した知覚」。「ぼくは、理性的な世界にいると思うと、次の瞬間には浮遊している」。
◆車窓のX。ニューヨークのブルックリン・ブリッジ。橋の向こうから来たスキンヘッドの男。ドストエフスキー、トーマスマン、ジャコメッティの話。「混乱を拍手にサルサを踊る」。ロルカの話。
◆ギャラリーのなか。女が親しげにしゃべる。ベッドの上のX。デジタル時計を見ると、文字がゆがむ。床に座り込む。隣室のソファーでテレビを見る。チャンネルを変える。ルイ・マルのこと。夢についての話がづづく。どのチャンネルの番組もみな夢について。
◆夜の街。スーパーマーケット。すれちがいざまに難解なことを言う男。なかへ入ると、ラテン系の老女が語る。→川のほとり。絵を描く老人。キルケゴールの話。→街。建物へ。バー? タンゴを踊るひとたち。最初の方に出て来たミュージッシャンが演奏している。X、傍らのソファーへ。→中2階へ。ゲーム機で遊ぶ男。偽りの夢について。→テレビの映像。「死は、生の外側にある夢だ」とテレビのなかの女が言う。フィリップ・K・ディックの符合。『流れよわが涙、と警官は言った』のエピソード。紀元50年の『使徒言行録』のリメイク。「歴史は白日夢のくり返し」。[白日夢だからくり返される]。
◆ベッドの上。→ニューヨークの街路。落ち葉。→郊外の家[最初の方の家]。庭には葉がたくさん散っている。Xが車のノブを触ると、体が浮く。空へ。どんどん浮遊し、点になる。
(20世紀FOX試写室)



2002-05-28

●ピンポン (PingPong/2002/Sori Fumihiko)(曽利文彦)

◆卓球とともに育った星野裕/ペコ(窪塚洋介)と月本誠/スマイル(ARATA)、中国からの賓客選手・孔文革/チャイナ(サム・リー)、他校の対抗馬・風間竜一/ドラゴン(中村獅童)と佐久間学/アクマ(大倉孝二)が、ピンポン競技を闘うのだが、彼らの技、努力、競争のドラマを見せるというよりも、才能のあるやつは最初から決まっているということの運命的なドラマを展開しているように見える。どうころんでも、ヒーローはヒーローだというイデオロギー。これは、中田英寿やイチローの出現によって、社会的に認知されたかっこうになっている。「万人平等」をタテマエとした戦後民主主義的イデオロギーは終焉したようだ。
◆たくみにコンピューター・ジェネレイテッド・イメージを使い、試合のシーンは、各選手のクールな「型」を見せるスペクタクルになっている。これらのシーンでは、玉の動きはすべて、選手の身ぶりのあとからCGIで挿入された。中村は、終始迫力ある存在感を出しているが、彼の演じるドラゴンの卓球部は、空手のようなスタイルで卓球練習をする。これも、CGIなしには表現できなかった。ペコとドラゴンの試合がマッチポイントに達したとき、画面は白色になり、鳥が数羽横切り、細雪が舞う。見事な映画美学。
◆ぶっとんだというより、ふっとんだ演出。原作(松本大洋のコミック)を意識して、登場人物のキャラクター、場面展開、台詞(アニメ調)もシュールな工夫をこらしている。古びた卓球場の「ばばあ」は、ふけたような台詞をはくが、演じるのは色気たっぷりの夏木マリで、メールヒェン的な不思議なアンバランスをかもしだしている。主役の窪塚は、紙に描かれたコミックのキャラクターのように奥行きのない2次元的なキャラクターを巧みに演じている。ある意味で、「天才」というのは、いつも2次元的なのだが。
◆最初、スマイルの方が「天才」であるように見える。映画も、彼の方に焦点をあてる。ペコは道化役のように見える。が、スマイルは「努力家」であり、自分の失われた青春の夢を彼に託している卓球のトレーナー(竹中直人)と猛烈な訓練をくり返している。ただ、この「努力」のシーンは、スマイルがかもしだしているいつも醒めた(ある意味で自分の限界を知っている)雰囲気のために相対化されている。チャイナも、最初は「天才」的な選手の雰囲気で登場するが、やがてその限界を示す。彼は、スマイルにも負ける。が、雰囲気的には最後まで「天才」なのだ。これは、この映画の描き方の基本なのだろう――天才は天才。
◆ペコがアクマに「うせろ、凡人」とどなるシーンがあるが、その昔、ニューヨークで有名な舞台演出家にインタヴューしたとき、彼が、「すべては持って生まれた素質次第だよ」と言ったので、わたしが、「そうでしょうか?」と訊くと、彼は、「きみは冗談を言っているの?」とわたしをにらみつけた。癌なんかも持って生まれた要素次第だというし、いよいよ世の中は決定論主義になってきたようだ。
(映画美学校第1試写室)



2002-05-24_2

●模倣犯 (Mohouhan/2002/Morita Yoshimitsu)(森田芳光)

◆上映前の会場で流されていた(映画で使われているとおぼしき)安いヒップホップ調の音楽に、これはダメだなという予感がする。
◆宮部みゆきの原作は、インターネットや携帯電話の普及、地下鉄サリン事件、酒鬼薔薇事件(1997年)、和歌山カレー事件(1998年)、新潟女性誘拐監禁事件、佐賀少年バスジャック事件(ともに2000年)が生まれる土壌と動向をしっかりと押さえた力作だが、この映画は、どこか古さを感じさせるのはなぜか? こういう事件が今後起こったら怖いという印象を少しも感じさせないのだ。犯人役の津田寛治は、ややいい感じを出していたし、主犯格の中居正広も、ふだんとは違うキャラクターに挑戦し、成功してはいたが、映画がねらっているらしい――もはや全然コミュニケーションが成り立たない「新人類」――映画では「デジタル人間」とか言っているが――の感じは全くない。この映画の殺人は、所詮「ゲーム感覚の殺人」であって、それは、全然新しくない。
◆藤井隆演じる人物は、イチゴを食べるのに、チューブ入りのクリームを口に流し込みながらそれを1つづつ口に入れる。津田寛治は、罐詰のパイナップルを、罐詰から直接食べる、中居と津田は、いつもワインを飲みながらステーキを食べている――というように、これみよがしに食べ方と食べ物の「奇異性」を示唆しようとするが、見ている側には、映画上の効果(しかも下手な効果)としか見えない。どうせやるなら、もっとあっと言わせてよ。
◆中居が非情に次々と人を殺していった背景には、その人物の不遇な生い立ちがあった――という設定がある。だから、最後のシーンで、中居が、山崎努(妻を誘拐され、殺される豆腐屋のおやじを演じる)に自分の子供(おそらくは誘拐して殺した女に生ませた赤ん坊)を託し、「血よりも環境」が重要だといういことを試してくれ、みたいな「遺書」の一節が紹介される。中居は、そんなに「マトモ」なやつだったのかかいとがっかりする。
◆歴史上、トンデモないと思う人物はいくらでもいるが、それは、みな、その人物をとりまく社会環境やメディア環境がそうさせているだけであって、人物そのものの意識のなかでは、さほどの飛躍や差異はない。だからこそ、映画や演劇は、そういう人物を創造できるのであり、これまで出会ったことがないようなキャラクターに観客を直面させなければならないのだ。だが、この映画は、それが空振りだということ。だいたい、豆腐屋を「地道」、「手作り」、「実直」のメタファーにしていることからして月並みすぎるのではないか?
◆森田監督は、原作のトーンからはずれたかったのかもしれないが、中居の「最後」のシーンには無理がある。そういう「無理」をやるほど翔んだ作りではないから。犯人であることを隠し、それが百万のテレビ観衆のまえで暴露されることを暗に願いながらテレビ出演し(これは、オオムの上祐がモデルだろう)、それが暴露された瞬間にスタジオで自分の体を消滅させる。原作では、犯人は、逮捕されるが、自殺も逃亡もしない。それが、ここでは、エーリアンか何かの消滅シーンのように燃えつきて消えるのだ。ここだけ、浮いてしまう。
(東宝試写室)



2002-05-24_1

●陽はまた昇る (Hiwamatanoboru/Sasaki Kiyoshi)(佐々木清)

◆「感動物語」としてのテンポ、もりあげかた、楽しませかたを的確につかんだ演出。初監督とは思えない出来栄え。上役とヒラとの関係、トップの「天皇」的アウラの出しかた、「社畜」、「モーレツ」、「滅私奉公」の時代が「いかにも」のパターン図で描かれているが、決して凡庸さを感じさせない。なにより、西田敏行を『釣りバカ日誌』のイメージからかなり変えたのは、功績。次長役の渡辺謙もおさえた演技でいい。
◆時代は、冒頭に田中角栄の演説のテレビ映像が流れるように、1970年代初め。家電メーカーは、工業化時代の代表商品だった洗濯機や冷蔵庫を作ればすぐ売れる時代が終わり、各社間の熾烈な競争がはじまろうとしていた。脱工業化の時代の新たな製品づくりが必要だったわけだが、日本ビクターの執行部のあいだでは、それよりもリストラによって当面の危機をのりこえることが優先されていた。
◆それに反抗し、ビクターに、そして世界の電気メーカにポストサービス社会への活路を見出させた男がいた、というのがこの映画(原作は佐藤正明『映像メディアの世紀 ビデオ・男たちの産業史』)の基調。ポストサービス社会向きの家電会社としては、ソニーが一歩先んじていた。そして、小型で立ち上がりも速いヴィデオカセット・テープレコーダーを市場に流し、通産省もソニーのベータを統一規格にしようとしていた。それをくつがえしたのは、実際には、(会社の意向では、横浜工場ビデオ事業部のリストラ隊長として送り込んだ)加賀谷(西田敏行)のような人物だけの力ではなく、松下や日立、三菱などの(ソニーより)旧派の勢力がソニーに従うのをよしとしなかったという政治的関数がはたらいていた。つまり、こんな簡単な話ではないわけである。が、映画は、現実を単純化することの快楽箱でもある。こういう単純化もあっていいではないか。
◆ヴィクターが、VHSデッキの規格を公開し、世界中の会社にその技術を利用してもらう――ということを加賀谷が言うくだりがある。これは、いまでは、「オープン・ソース・コード」ということだが、はたして、その時点でヴィクターの実際の開発者がそう考え、実践したかどうかはわからない。むろん、限定付きでは、松下、日立、東芝などに「公開」されはしたが。が、この疑似「オープン・ソース・コード」方式が、その性能を越えてソニーを倒す力になったころはたしかだろう。
◆わたし自身が最初にVTRに親しんだのは、ソニーのベータ機からだった。だから、世の中が、どんどんVHSになり、ついにソニーまでもVHSのかかるビデオデッキを発売するにいたったとき、なにかわりきれないものを感じた。最初のベータは、1時間しか録画できなかったが、わたしが買ったころは、すでに120分がスタンダードになっていたし、画質は明らかにベータの方が上だった。が、1975年にニューヨークのリンカンセンターで資料をあさっていたとき、そこに置かれているマシーンが、みなJVCのVHS機だったのには、驚いた。アメリカでベータ機を見ることはまれだったのだ。
◆説明はないが、加賀谷の家は、旧家の雰囲気。庭には蔵があるように見えた。彼は、庭で焚き火をするのが趣味らしい。わたしの知りあいにも、焚き火が趣味のひとがいるが、自分を抑え、内に何かを秘めている人ですね。
◆加賀谷が、初対面の部下の名をすぐに覚えているシーンがあり、なるほどと思っていると、あとの方で、彼が、いつも独り言を言うように部下の名を暗唱し、百数十人の名を暗記しうようとしているある。まあ、これは、グループ運営上の基礎であります。
◆本来、技術畑の人間で、「事業部長」などという管理職はいやだと思っている加賀谷は、本部から人員削減の命令を受けるが、その期限をごまかしながら(本部との連絡役の大久保次長――渡辺謙があいだで苦労する)、代案を思いつく。それは、家庭用のビデオデッキを開発することだった。当初、会議的だった大久保も、やがて、加賀谷の熱意に共鳴する。その過程はドラマ的になかなか「感動」的に描かれる。
◆加賀谷が、横浜工場に出向いて次長に問うたことは、「空きスペースはないか?」であった。スペースからはじめる。これは、新しい。そこで、新しいデッキの開発実験が、本部には秘密裏に進められる。日本では、組織が自立単位のコラボレーションから成り立つことが難しく、一元的管理が貫徹されがちだが、日本で何か新しいことが起こされるのは、国家対民間会社、会社内の本部と支社、上司と部下等々のあいだで、能動的な「秘密」、能動的「画策」がなされるときだけである。ちなみに、宅急便は、ヤマト運輸の小倉昌男が、懲役覚悟でやった「違法」な試みから生まれた。
(大映試写室)



2002-05-17

●ダスト (Dust/2002/Milcho Manchevski)(ミルチョ・マンチェフスキー)

◆映画はストリーテリングだというのが、マンチェフスキーの基調意識だが、おそらく、語りつぐということなしに歴史はないだろう。映画は、ストーリーテリング(物語性)のなかで歴史の記憶装置となり、ひとは、映画を通じて、その映画について他者に語ることによって、歴史を語りつぎ、継承し、歴史の忘却から脱すのだろう。
◆マンチェフスキーは、この映画を作るのに7年(資金集めに6年)かかったと言っているが、明らかに、1991年に旧ユーゴーら独立分離して、マケドニア共和国が成立したこと、その後の旧ユーゴー内での戦乱に触発されて、この映画を作ったことはまちがいない。時代と場所は、現代のニューヨークから20世紀初頭のアメリカ西部へ、そしてマケドニアへ飛び、それから頻繁に現代のニューヨーク/過去のマケドニアとの間をシュールレアリスム的に往復するが、20世紀初頭のマケドニアの状況は、確実にサラエボ、ボスニア、コソボで起こったことと重ねあわされている。
◆現代のニューヨーク。マンハッタンの安アパートの窓を映しながらカメラが移動する。どこかでジミヘンの音楽が聞こえる。黒人のチンピラ(エイドリアン・レスター)があまり高級とは見えないアパートにこそ泥に入り、金目のものを物色している。大したものが見つからないうちに、後ろから高齢の老婆(ローズマリー・マーフィー)がピストルを突きつける。殴りつけて、逃げようとするが、この老婆、相当したたか。ついにこそ泥は、鼻血を出しながら、老婆の強制的な語りを聞かされるはめになる。老婆=アンジェラは、語りの途中で発作を起こして倒れるが、黒人=エッジは、救急車を呼んで、病院に連れていく。そして、次第に親子のような関係が生まれていく。
◆アンジェラの過去が、直接語られのではなく、アンジェラの部屋に飾られている黄ばんだ写真に映っている人物について話が進む。観客は、最後にアンジェラが何者であるかを知るが、この映画の「主役」は、その写真の人物たちでも、アンジェラでもなく、彼や彼女らが生きた歴史である。
◆20世紀初頭のアメリカ西部の町オクラホマ。ルーク(デヴィッド・ウェンハム)が弟イライジャ(ジョセフ・ファインズ)を連れて、売春宿に行く。そこでイライジャは、一目でフランス系の売春婦リリス(アンヌ・ブロシェ)に惹かれ、夫婦になる。が、ルークとの関係もあり、イライジャは兄を憎むようになる。ルークは、節操のない、非情で暴力的な男という設定。時がたち、食いつめたルークは、たまたら入った飲み屋のようなところで、映画(むろん無声映画)を見、世界の各地のことを映したクリップで、マケドニアでオスマントルコからの独立運動が起こっており、革命派のリーダー「教師」(ウラード・ヨハノフスキー)の首に懸賞がかけられていることを知り、マケドニア行きの船に乗る。
◆マケドニアでは、オスマントルコ軍が、独立派を追いつめ、残虐なリンチを加えている。ルークは、たちまち独立派とまちがえられて捕まってしまうが、混乱(アメリカにいるはずの弟の出現)のなかで重傷を負うが、ドイツ語を話す嫌みな独裁者を殺し、逃げる。森に逃げ、倒れた彼は、リリスに似た女ネダ(ニコリーナ・クジャカ)に助けられる。彼女は、しかし、「教師」の愛人で、彼の子供を身ごもっていることがわかる。匿われた家は、「教師」の両親の家。夜な夜な「教師」がネダのもとに通ってくる。「教師」暗殺をねらっいたはずのルークとしては、複雑。
◆教師が殺され、ネダの家にもオスマントルコ軍の手が迫る。ネダは撃たれるが、瀕死のなかで子供を生む。「教師」の父親は、ルークにその子を託し、隠していた金貨を渡す。この金貨が、現代のニューヨークとをつなぐ小道具になる。
◆ルークと関係を持ったことで自分を責め、入水自殺してしまったリリスのことで、弟のイライジャは、兄を復讐しようとしてマケドニアにやってきた。だが、結局は殺せない。そして、ルークが預かった子を引き受けることになる。映画では示唆されるだけだが、この子が、冒頭のニューヨークシーンの老婆アンジェラである。
◆レスターが老婆にピストルで殴られて鼻血を出すところとか、バーでゲロをする男とか、撃たれた男が小便を流すとか、撃たれて苦しむ同志を「教師」が撃つシーンとか、「リアル」をあおる映像が目立つ。が、これは、ストーリー・テリングの基本。「リアル」であればあるほど「物語」になるのだ。
◆21世紀の開始とともに起こり、ますます拡大しつつある動向は、多言語国家の解体と多言語・多文化環境の破壊ではないか? アメリカは、ますます「イスラエル」化している。少しでも多言語・多文化的要素を持った国・組織・エンティティは、すべて、「パレスチナ」化される。おそらく、このディレンマからの脱出は、多様性の回復ではなく、地球規模で新たな統合化(それは「グローバリゼーション」と呼べるのだろうか?)しかないかもしれない。が、それは、恐ろしい代償を生む過程だろう。
(松竹試写室)



2002-05-16

●スコーピオン・キング (The Scorpion king/2002/Chuck Russell)(チャック・ラッセル)

◆予想以上の長蛇の列。やっと入場したら、席がない。後ろの方に一つあいていたが、足を横に出して座っている男の隣。それで空いていたのだろう。「空いてます?」と訊いたら、うれしそうな調子て、「空いてるよ」と応えたが、ちょっとイントネーションが変だった。やがて、後ろの人が知り合いと話をはじめた。すると、わたしの隣の男が、その話に反応して「そうだよ、日本だからね」といように相づちをうちはじめる。「フォックスから試写状を切られましてね」→「日本なんだよ」。「日本人は許すからね」。
◆久しぶりにクロの司会に遭遇。あいかわらず(本当はそうではないのに)インテリジェンスのない下品なキャバレー屋風の司会。プロレス会場じゃねぇんですぜ。これに対し、ザ・ロックは、レスラーなのに、彼女の感じと対照的に、実にインテリジェンスあふれる感じで対応。なかなかのやり手。とにかく頭がいい。いずれ、政界にでも進出するのではないか?
◆テンポはいい。ザ・ロックはたしかに魅力がある。彼自身、インタヴューで、「ファン・ムービーを作ろうとした」と言っていた。それは、十分実現されている。だが、問題は、こういう映画が「ファン」(楽しみ)であるという意識の構造である。善と悪とが整然とわかれているのは、まずおくとしよう。が、悪なら、ゲームのなかの反対勢力/敵と同等に、片っ端からなぎ倒し、殺し尽くしてもいいのだろうか? すでにパターンなのだが、敵の陣地を襲うときに、警備の兵士をもの陰から襲い、あっさり殺してしまう。
◆エジプトのピラミッドよりまえの時代の話ということになっているが、時代の古さにかこつけて、野蛮な殺し合いがあたりまえのような描き方は気になる。こういうものが面白いとしたら、それを見て喜ぶ観客たちが構成する社会(アメリカではこの映画が3600万ドルの興業収益を上げ、歴代第1位だという)はおかしいのではないか?
◆ザ・ロックは、シュワルツネガーやスタローンのようなある種の「人種差別主義」の臭いはない。が、マチズモのキャラクターを演じていることは確かだ。ただ、部族を片端から殺し尽くす暴君メムノーン(スティーヴン・ブランド)を殺し、王になるマサイアス(ザ・ロック)は、そういう感じはしない。それが新しさといえが新しさであり、それは、サモア人といくつかのマルチなルーツを持っているからではないか?
◆メムノーンは、預言者カサンドラ(ハワイ出身の元ミスアメリカのケリー・ヒュー)の予言にしたがって侵略と他部族抹殺を遂行する。一つの運命主義者。カサンドラは、「血の河に平和はない」ということを知っている。マサイアスは、最初、誰も引き受けない殺し屋として預言者カサンドラを追う。彼は、「運命は自分で切り開く」と言う。カサンドラは、男を愛してしまえばその予言能力がなくなることを知っていたが、彼女は、マサイアスを愛してしまう。彼女がまだ予言能力を持っていたとき、マサイアスの死を「見る」。が、マサイアスは、メムノーンを倒し、王(スコピオン・キング)になる。カサンドラは、王女になったのだろう。マサイアスは、言う、「この平和はいつまで続くだろう?」。彼女は応える、「王国に永遠はないのが運命」。彼女は、まだ運命論者なのか?
◆レーガン以後のアメリカは、完全に「王国」気取りではないだろうか?
(東京国際フォーラムC)



2002-05-14

●きれいなおかあさん (Breaking the Silence/1999/Sun Zhou)(スン・ジョウ)

◆月島の隅田川のまさに「湾岸」の倉庫を改造して作ったオフィース・スペースのなかの試写室。東京にもようやくこういう場所が定着してきた。試写室はゆったりしたスペースで、椅子もなかなかよかったが、客は、わたしをふくめてたったの4、5人。ムービーテレビジョンさん、がんばってね。
◆北京の市内を舞台にしたドラマ。ちょっとしたショットが、絵になるのは、都市そのものの変化と、それを映す中国映画の映画技術的蓄積のため。夜の空が青い。笠の下の裸電球。遠方の建物の屋根にそびえるテレビアンテナ。これが、浮世絵のような美しさではっとさせる。
◆耳の聞こえない息子(ガオ・シン)を教育し、普通の学校に入れようとする母親スン・リーイン(コン・リー)。風貌が、メリル・ストリープに似ている感じなのも手伝って、(特にストリープにイメージが)『クレイマー、クレイマー』などのやはり社会的変化に対応して作られた70年代~80年代のアメリカ映画を思い出した。
◆冒頭は、母親が、息子の手を取り、そこに息をふきかけながら言葉の音を教えるシーン。手を使うというのは効果的なのか。
◆夫は、息子の障害を避け、逃げ出し、タクシーの運転手をしながら他の女と暮しているという設定。中国の制度がどうなっているかわからないが、その夫は慰謝料のようなものを持ってときどき現れる。が、あっりと事故で死んでしまう。映画は、そのシーンは映さず、息子が、どうしてもその死(というより死そのもの)が理解できなくて、母親は困惑するという方を映す。
◆ある種の現代中国の女の自立の物語でもある。少子化と離婚が進む中国の女性を励ますという意識がこの映画のなかではたらいている。彼女が新聞配達をしながら自転車に乗っているシーンなど、かっこいい。中国の都市自体がそうなのだが、街を変えているのは、「アメリカン・カルチャー」である。マクドナルドにせよ、子供が他の子供から「にせものだ」と言ってからかわられる赤いトレーナーにせよ、みなアメリカの産物だ。中国は、1999年にはそういう時期に入っていた。二人は、ダブルベッドで寝ている。室内は、土足で上がる西欧式。学校で父兄が先生に挨拶するとき、握手であって、礼ではなかった。
◆近年の中国の経済的飛躍は猛烈なものがあるが、それは、安い人的労働力を提供できるといういまの中国社会の状況がある。が、すでに中国は「一人っ子政策」を遂行しており、この分で行くと、2、30年後には、「先進産業国」と同様の高年齢化が起きる。つまり安い労働力依存は時間の問題だということである。今日の変化は、時間とともに「工業化」→「脱工業化」というように算術級数的に進むのではなく、同じ時代・時間のなかに「工業化」的なものと「脱工業化」的なものとが入れ子状に共存するような形、内部の複雑化の進行という形で進む。この映画は、中国のそうした変化を思わせる一篇でもある。
◆ハグする身ぶりとか、ぜんぜんアメリカ的。が、逃げた父と子供が、スンが作った弁当を食べるシーンで、息子が先に父親に食べさせる。このへん、礼とか遠慮とか、「伝統」を維持しながら、対人関係で全然ダメな日本と、そういうことはしないが「礼」は残っている中国を感じさせる。
◆補聴器の店には、ジーメンス Siemens (ドイツの有名なメーカー)の看板がかかっている。「開放」政策の進んだ中国の風景。そこで、補聴器は、5000元もする。
◆口と耳が不自由な子供のために、子供と多くの時間を過ごせるようにと、スンは、フリーター的な仕事をあえて選ぶ。家政婦もその一つだが、案の定、ある独身男の家で、彼が前夜マージャンに負け、むしゃくしゃしながらテレビでアエロビックスの女の足や股などのシーンを見ていて、掃除をしているスンに向かって、「ここに座れ」と言う。こういうシーンは、来たなという感じ。が、映画は、ソファーの上で抵抗して暴れるスンと強引に迫る男の姿を少し映したあと、涙を流し、一点を見つめながら自転車を走らせているスンの映像にかわる。彼女は、補聴器の店に直行すると、ウィンドウの上に札をたたきつけ、補聴器を下さいと言う。ああ、彼女は、体を売ったのだな、と誰でもた思う。ところが、終わり近くになって、早いフラッシュバックで、彼女があの男と争ったあと、近くにあった包丁をふりあげ、脅し、男が金を渡したことが示される。
◆一説では、監督は、このシーンで彼女が殺人を犯すという案も考えたという。ただし、この映画、後ろの方で意味不明なショットがいくつかあり、明らかに、カットしたということが推察できる。息子が、反抗し、街に飛び出し、母親がそれを追い、再会するシーンで、「あの晩彼はわたしより勇気があることを教えてくれた」というナレーションが語られる。が、そこでは、何で彼が「わたしより勇気」があったのかが、全く示されない。このへんが、どこかアンバランス。彼女に同情的な教師との関係も、もう少したちいった描き方がされていたはずだが、それが、カットされているような気がした。1999年の段階では、まだ難しかったのだろうか?
◆ありがちなパターンにすぎないとしても、教師とスンとの関係が深まっていくプロセスは悪くない。ある日、彼女が、いきなり教師の独り暮らしの家にやってきて、「補聴器を買うのにいまは何でも仕事をしなければならないです」と仕事にかこつけて、彼の部屋に上がり込み、片付けを始める姿がいい。鈴木志郎康氏の話では、昔の下町(彼は、亀戸で生まれ育った)では、いきなり隣のおばさんが上がり込んできて、ものを片付けたりしたという。そういうのは、「下町の人情」なんてもんじゃないですよ、と言っていた。そんなことをふと思い出した。
(ムービーテレビジョン)



2002-05-11_2

●鏡の女たち (Femmes en Miroir/2002/Kiju Yoshida(吉田喜重)

◆『マジェスティック』のかえり、TCCをのぞいてみたら、この映画の特別試写会だった。非公開だったらしく、客は数名。入って、後悔した。
◆広島を描きたいのか、「女」の問題を描きたいのか、はたまた岡田茉莉子を出したかったのか、ふんぎりのつかない作品。
◆冒頭、岡田がかなりの豪邸から出てきて、バス停まで歩いていくあいだ車が彼女をつけるシーンがある。それは、結局、テレビ局で番組(広島で被災したアメリカ人がいたということを追う)を企画しているプロデューサー(山本未来)であることがわかるが、なぜそんなに意味ありげなスタイルでこのシーンを見せなければならないのか疑問。
◆彼女は、最初、岡田の夫(広島で医師をしており、被爆したアメリカ人を診た)について取材したいと言ってくるが、そのとき岡田は嫌悪の表情をし、取材を断るが、ここでわたしは、プライベートなことに介入するマスコミを批判する意味でこういう役柄を作ったのかと思った。が、プロデューサーは、そういう役どころではないし、途中から大した意味を持たなくなる。
◆岡田は、広島に原爆が落ちたとき、避難した場所で例のアメリカ人の通訳をしていた人物と不倫関係に入ったらしいこと、そしてその後、彼と再婚したことが示唆されるが、それでは前の夫はどうしたのかは不明。
◆2番目の夫は、岡田たちを防空壕に残して外に出、放射能を浴び、やがて病院生活ののち、死んだらしい。そして、そのときの不安、夫を失った孤立感のなかで、彼との間に生まれた娘を捨てそうになったらしい。「らしい」と書くのは、すべてがあいまいに、岡田の回想とも幻想ともつかぬディスクールのなかで描かれるからだ。
◆岡田の娘は、このときの経験がもとで、母のやったことをくり返す。彼女は、結婚するが、自分の娘を捨てて、失踪する。
◆映画の冒頭で、岡田があたふたと外へ出かけたのは、区役所の元戸籍係で岡田の娘を探しつづけてきた郷田(室田日出男)から連絡があり、区役所に行くためだった(なぜ、悠長に走るバスなのか? 彼女をつける車を活かすためだとしたら、映画のためにドラマを殺している)。岡田の娘は、さほど遠くない場所に住んでいるが、幼児誘拐の常習犯であり、しかも記憶喪失に陥っているという。この映画は、その娘(田中好子)が、失われた自分の過去を発見していくというドラマでもある。
◆岡田は、娘が捨てた娘つまり孫(一色紗英)を育ててきた。彼女は、岡田を「ママ」と呼ぶ。彼女は、アメリカ留学をしていたが、いまは帰国している。このへんも、彼女がアメリカで愛していた男の話がからみ、しかもそれが、あまり本筋と関係がないので、話をやっかいにする。
◆これ以上、ストーリを追うのはやめよう。DNA鑑定だとか、養子縁組の話とか色々出てくるが、みなそれきりの感じがする。
◆最初に原爆投下があった。それによって人生が狂ってしまった女たちがいた。それをどう回収するのかという展望なしにドラマにしても、問題提起にすらならない。「わたしを返して!」と絶叫するだけでは、説得力がない。一体、吉田は、何を描きたかったのか? 独り言のように発声する台詞まわしも古い。
(TCC試写室)



2002-05-11_1

●マジェスティック (The Majestic/2001/Frank Darabont)(フランク・ダラボン)

◆早めに行き、好きな席に座ったが、やはりすぐに満席になった。わたしとしては好きな作品だった。映画が終わって、外でTさんに遭ったので、「なかなかいいですね」と言ったら、「あれはキャプラのリメイクですよ」とやや軽蔑的な応えだった。ネット上の批評でも、この映画とフランク・キャプラとの類似がよく書かれているが、ダラボンは、意識的に「キャプラ」風に撮ったわけであり、多くの映画への言及・引用も意識的であり、そういうことを云々して、「リメイク」だとするのは、映画オタクのダメなところだと思う。それよりも、この映画は、9.11以後のおアメリカに対するダラボンの回答だという点をこをしかと見るべきではないか?
◆基本のプロット:時代は1951年。やっとB級からA級の仕事へ飛躍しようとしていた矢先なのに、つまらぬ嫌疑で赤狩のブラックリストに載せられ、仕事が出来なくなった新進の脚本家ピーター・アブルトン(ジム・キャリー)が、やけ酒を飲んで(バーのシーンの老バーテンダーがいい感じを出している)、海岸線を行けるだけ行こうと思って車を運転しているうちに、海に落ち、気づいてみると、見知らぬ田舎町の海岸に打ち上げられている。助けてくれた老人に連れられて町のスナックに行くと、みなが懐かしそうにして近づいてくる。涙を流して抱きついて来た老人ハリー(マーティン・ランドー)は、彼が、ヨーロッパ戦線で死んだことになっている自分の息子が戻ってきたと言って、狂喜する。が、ピータには、事故のためか、自分が誰であるかという記憶がない。彼は、その日から、自分が、ハリーの息子ルークだと思って生活をはじめる。ルークのかつての恋人アデル(ローリー・ホールデン)は、彼を思い出の場所に連れて行き、記憶をとりもどさせようとする。
◆観客は、彼がルークではないことを最初から知っている。だから、息子の死報以来失意の毎日を送り、それまでやっていた映画館も廃墟になるにまかせていたハリーが、「ルーク」の帰還で元気を取り戻し、さらには、世界大戦で62人の若者を失い、活気を失っていた町全体が、次第に活気を取り戻してくるのを見るのは、心地よい。ハリーと「ルーク」=ピーターと、かつてモギリをやっていた黒人の老人とが、映画館「マジェスティック」を再興するプロセスは感動的。このへんのプロセスは、9.11以後のニューヨークとどうしても重なる。
◆逃げたから、相当なワルなのではないかと疑い、全力を上げてピーターを追跡しはじめるFBIは、風刺の対象になっているが、もともと非政治的なピータが、発見され、逮捕され、ローソンの町の人々に失望をあたえ、石もて追われるような形でニューヨークは帰るとき、アデルの父親が彼女のことづけを駅に持ってくる。それは、ルークが戦地から送ってきた手紙と米国憲法の1冊だった。
◆査問委員会に立つピータとその態度は、どこか、マーティン・リット『ザ・フロント』の最後のシーンと似ている。これも、引用と見るべきだ。
◆ダラボンは、この映画で、アメリカのラディカル民主主義者がとる、定石を採用している。憲法修正条項第1条の堅持である。ピータは、言う、「ぼくらが必死で守るべきアメリカはこんなアメリカじゃない」。
◆田舎町の人々の親切さは、「古きよき時代」へのノスタルジアであると同時に、ダラボンの、アメリカは小単位であるべきだという主張の表現。ローソンという町は62人の若者を失ったが、それは、国家=パン・アメリカのためではなく、小都市の自由のためだという発想。そういう「自由を守らなければ、彼らは犬死にだ」、と。
◆いくつものアナロジー:戦死者の多いローソン→←9.11のニューヨーク、赤狩り→←アラブ狩り、ピータの記憶喪失→←今のアメリカ人の記憶喪失、映画館の再興→←破壊されたもの/放置されたものの再興。
◆B級映画作家のピーターは、『サハラの海賊』(Sand Pirates)などという、アラブ人を悪人に見立てた作品を作っていた。それに対する自己反省のシーンはないが、ローソンで過ごした日々のあとでは、彼は、決してそういう作品は作らないだとろう。だが、この映画には、妙な気張りがないところがいい。ピーターは、聴聞会で「英雄」になるが、この映画は、ハリウッドの脚本家が、このドラマを書いているという設定で展開されていることが、最後にわかる。これも、ダラボンのフランス的教養(プルーストの『失われた日々』的円環構造)だが、批判も、所詮は、ハリウッド映画のなかでなされているということを観客は知るべきだし、批判とは、その程度のものだということだ。
◆マーティン・ランドー(1925~)の息の長さには、感銘をおぼえる。わたしは、昔、テレビシリーズの『スパパイ大作戦』でファンになり、そのあとで、彼がデヴュー作の『北北西に進路を取れ』で怪優ぶりを発揮しているのを知った。
◆1951年に封切られ、ヒットしたロバート・ワイズの『地球の静止する日』(The Day the Earth Stood Still)を見るシーンが出てくるが、この宇宙人とピータは、当然、相関関係にある。
◆フランス生まれのダラボンらしく、ゾラとドリュフィス事件の話を引き合いに出す。ピーターは、映画の記憶だけはあり、アデルとウィリアム・ディターレの『ゾラの生涯』(1937)の名台詞の話でもりあがる。が、彼の映画の記憶が、彼を再びもとの世界に連れ戻しもする。
(ワーナー試写室)


2002-05-07

●海辺の家 (Life as A House/2001/Irvin Winkler)(アーウィン・ウインクラー)

◆先が読める古いタイプの映画だが、アメリカ人がいま、過去の清算、とりわけ家族/家庭の「再建」への意識を高めているのだなということを感じさせる映画。映画と社会とを短絡させるつもりはないが。
◆ヘラルドの試写室は、日本でも有数の設備と環境を誇る。が、入ったとたんラーメンの臭い。なぜ? エレベータで出会いがしらに水野晴郎とすれちがった(ちょっと目礼)が、彼が食ったわけではあるまい。映画がはじまったら、となりでポッと光が見えた。見ると、電気のつくペンライトでメモをとっているひとがいる。こりゃマズイよ。この会場は100%暗転するから、上映中にケータイなんかのチェックをされると、えらく気になってしまう。昔、じいさんの評論家で、そういうのを持っている人がいたが、まだこういう装置でメモをとっているひとがいるんだ。そんな歳のひとではなかったけれど。ちなみに上映中にわたしがメモを取るときはボールペンの「ブラインド・タッチ」ですね。
◆音楽が全体に好みではない。RadioHeadの"How to completely disappear"なんかもあったが。
◆コンピュータに「モデリング」という言葉があるが、建物を建築する場合、設計図を引くと同時に「模型」(モデル)を作る習慣があったらしい。それが、いまは、コンピュータ内に3次元のモデルを作る「モデリング」にとってかわられつつある。
◆ジョー・モンロー(ケビン・クライン)は、離婚したが、同じ敷地内に元の妻ロビン(クリスティン・スコット=トーマス)と息子サム(ヘイデン・クリステンセン)が、金持ちの男と一家をかまえている。ジョー自身は、親からもらったいまや廃墟寸前の家に住み、近所から顰蹙を買っている。アイシャドウを入れ、ゲバラのTシャツを着てパンクに入れ込んでいるらしい息子は親父を嫌い、離婚契約の父親面会日にもふてくされている。部屋に閉じこもり、ことごとく反抗的で、義理の父親とも折り合いが悪い。「I am nothing. 」と信じている。
◆明らかに、ジョーは、DIYカルチャーの申し子のようだ。服装には頓着しないし、しぶしぶ面会する息子の面前で、浜の危険な絶壁からダイビングして見せたりする。その感覚が、息子の世代にはわからない。最近の映画には、60年代世代の「悔い改め」/再構築のようなテーマが目立つような気がするが、この映画も、ある意味で、その流れを組む。
◆ジョーは、まだ42歳だというのに、人生の終末を実感しなければならなくなる。会社で、コンピュータを使わない(使えない)彼のやり方を「古い」とする上司と合わず、クビを切られる。20年勤めた彼の退職金は、20週給だが、「特別に26週分出してやる」と上司は言う。怒りを抑えながら、彼は、自分がこれまでに作った模型を下さいと頼む。「模型は会社のものだから、それは無理だが、1つだけならいいだろう。だが、どれを選んだか見せてくれたまえ」と最後までイヤ味な上司。事務所にもどり、あちこちに置かれた模型を見ているうちに、彼は怒りを爆発させ、模型を片端からたたき壊す。そして、壊さなかった一つを手にして外へ出るが、ビルを出たところで、急に発作に襲われ、倒れてしまう。手にしていた模型も、彼の倒れた体の下敷きになって、くだけてしまう。が、病院に担ぎ込まれた彼は、不治の病に侵されていることがわかる。
◆死を予感した彼が決意したことは、親からもらった家を解体し、別の家(親をのりこえる家?)を建てることだった。こうなると、その後の展開はだいたい読める。家が立ち上がるにつれて、息子は父親の生き方(たとえば自分で何でもやろうとすることなど)を理解していくだろう。前妻も彼を見直すかもしれない。そして、二人の間に再び愛がよみがえるかもしれない。が、その一方で、ジョーの病魔は彼を衰弱させるはずだ。そのとき、息子は父親に代わってその仕事をやりとげるはずだ。このへんが非常に予定調和的なのが、つまらない。「家」(古い家の解体・再建→←過去の清算と回復)がメタファーになっているのも古い気がする。
◆最初の方で、病院にかつぎこまれたジョーを診る看護婦が、彼の頬にやさしく触れたとき、彼が「他人からやさしく触れられるなんて何年ぶりだろう」と涙ぐむシーンがある。そのときの看護婦役の役者(サンドラ・ネルソン)が端役とは思えない妙に存在感があり、ここから別のドラマが展開するのかとも思わせた。あとで知ったのだが、このひとは、アーウィン・ウィンクラーの娘なのであった。テレビ出演が多く、まだ主演作はないようだが、今後が楽しみな女優。
(ヘラルド試写室)



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